其の弐
翌日は快晴だった。
抜けるような青空というのはこういう物なのかと思う程に雲一つない晴天。まだまだ夏の暑さが残り、蒸し暑さは拭えないが、気持ちの良い一日になりそうな天気であった。
ただ一点、今日が2学期の始業式であるという点だけはやはり不満が残る。本来は8月一杯は夏休みという感覚なのだが、夏前のあの事件のお陰で、私達の夏休みは極端に短くなり、8月に入ってから入った夏休みは、8月が終わる前に終了を迎えた。
有威が通う小学校は8月一杯が休みである事を考えると、カリキュラムの違いがあるとはいえ、不公平感が否めない。小学生達に嫉妬するというのも馬鹿らしいが、この気持ちをひてする事は出来なかった。
「おはよう」
ただ、そんな気持ちは、私が高校の校門に辿り着いた時に霧散した。周囲から聞こえる他の生徒達が発する挨拶がとても虚しく聞こえて来るが、私の耳には届かない。それ程にこの高校は澱んでいた。
この澱みは、以前よりも強く感じる。あの殺人鬼が来た日もこの高校は澱んでおり、私が息を詰まらせる程の瘴気によって覆われていた。だが、これはその比ではない。最早、前さえも見えないのではないかと思う程に暗く、気を抜くと今朝食べた物を嘔吐してしまいそうになる程の澱みであった。
『けらけらけら』
「こりゃまた酷いな」
私がこの澱みに苦しみを感じていると、昨日も聞いたあの笑い声が聞こえて来る。すぐ左横にアレの気配を感じて背筋に冷たい何かが流れていくのを感じると同時に、それを吹き飛ばしてくれる声が聞こえた。
視線を上げると、アレの気配がある反対側である右側に丑門君が立っている。目を細め、不快そうに眉を顰めながら校舎を見上げる顔には、若干の緊張が見て取れた。
「丑門君、おはようございます」
「ああ、おはよう」
朝の挨拶の声を掛けると、しっかりと私の方へ顔を向けた彼が挨拶の言葉を返して来る。先程まで見えていた緊張はなく、小さな笑みを浮かべていたが、再び校舎へと目を移すと、目に鋭さが戻った。
「これは何でしょう……」
「あの通り魔が来た日よりも酷いな。もう既に良くない『者』がこの場所に入っているのか、それとも何か良くない『物』が導入されたのか。いずれにせよ、神山は気をつけろよ」
正直、毎回彼は私に向かって『気を付けろよ』と気遣いの言葉を掛けてくれるのだが、私からすれば、何をどう気を付ければ良いのかが解らない。流石に彼が私を気遣い、心配してくれていると解っている為、『どうしろというのだ』などと詰め寄るつもりはないが、それでも何に対して気を付ければ良いのか、気付いた時にどう対処をすれば良いのかを教えて欲しいと思ってしまうのは仕方がない事だと思うのだ。
釈然としない思いを抱えたままに丑門君と二人並んで校舎へと入る。未だに丑門君を忌避する傾向は変わらず、またそこに私も加わっている為、まるでモーゼの十戒の海のように人が左右へと割れていく中、教室へと向かった。
正直、私には彼が何故ここまで周囲から忌避されるのかが解らない。というのも、私の周囲の親しい人間は皆、彼に好意的な目を向けているからだ。私の祖父母、特に祖母は彼を『虎ちゃん』と呼び、近所の男の子というような接し方をしているし、最早妹と言っても過言ではない有威も彼の実の妹とは異なり、彼を正義の味方のような目で見ていた。彼の両親も、私の以前からの予想とは異なり、彼を心から愛しているのが解る。
ただ一人、彼の実の妹だけが彼を忌避していた。いや、正確に言えば、忌避しているというよりも単純に怯えていると言った方が良いのかもしれない。あの姿は実親から虐待を受けていた有威よりも酷い物であるが、それは肉体的な暴力に怯えるというよりは、その存在自体に恐れ、或いは畏れを抱いているようにも見えた。
「はい、皆さん席について下さい」
教室に入り、色々な物思いに耽っていると、担任の女性教員が教室に入って来た。
朝特有の教室内で自席に着いていない生徒へ視線を送り、軽く手を叩く事によって自身の存在をアピールした教員は、速やかに席に着くように促し、自らも教卓の前に立つ。席に各々が着いても、暫く喧騒が収まらない中でも女性教員は出席確認を目視で行い、再度軽く手を叩いた。
「今日は皆さんに臨時の講師の方を紹介致します。では、お入り下さい」
生徒達の喧騒が止んだ事を確認した女性教員は、満足そうに頷き、そして教室の入口へと声を掛ける。その声に反応するように扉が開き始めた。
「きゃぁぁぁぁぁ」
開いた扉から教室へと入って来た者の姿に、教室にいた女子生徒が黄色い悲鳴を上げる。教壇に立っていた担任の女性教員が場所を譲り、そこへ立った者がゆっくりと教室全体を見渡していた。その間も女子生徒達は黄色い声援なのか悲鳴なのか解らない声を上げ、男子生徒達からうんざりしたような不満の呻きが聞こえる。
教壇に立った者は男性の姿形をしており、癖のない滑らかな金髪に、青い瞳。背丈は日本人の成人男性の平均よりも高く、無駄な贅肉など付いていないが、スーツの上からでも解るしなやかな筋肉で覆われた身体は、モデル体型と言えば良いのだろうか。教室にいるうら若き女子生徒達の目が釘付けになるのも頷ける見た目であった。
「Good morning everyone. My name is Penny Varney.」
突然教室内に響き渡った言語に、教室内の喧騒がピタリと止む。明らかに日本語ではない言語なのに、何故か響くように耳に入ってきたそれは、教壇に立つ異国の人間が発した自己紹介であった。
日本の高校生にも聞き取れるほどにゆっくりと話された言語は英語で間違いはないのだろう。だが、名前らしき部分は発音が難しく、日本的には「ペニー・ヴァーニー」としか聞えなかった。日本的に言えば、ヴァーニーが姓で、ペニーが名なのだろうか。であれば、私達は「ヴァーニー先生」と呼ぶべきなのか。
「ヴァーニー先生は、臨時の講師として皆さんに英語での日常会話を教えて頂きます」
「難しい言葉は分かりませんが、日本語も少し分かります。楽しくEnglishで話しましょう」
いつの間にか隣に移動していた女性担任がこの異国の男性の仕事内容を話し、それに被せるように柔らかな笑顔を浮かべたヴァーニー先生は、女性受けするような声で生徒達に語り掛ける。
その姿に女子生徒達は黄色い声を上げ、男子生徒からは舌打ちが微かに聞こえた。この教室にいる女子生徒の大半が目の前で微笑を浮かべる金髪の男性に夢中になっており、漫画的に目がハートの形になっているのではないかと思う程に彼を凝視している。この教室の全てが今、この異国の男性によって掌握されたようにさえ思えた。
「気持ちわる……」
一部の例外はいるが。
彼がこの教室に入って来てから、私はずっと悪寒のような物を感じていた。黄泉醜女に遭遇した時のような、背中に氷柱を差し込まれたのではと感じるほどの寒気。彼から発せられる全てが私にとって不快な物以外何物でもなかったのだ。
特に彼が教室に入って来てからずっと漂っている血生臭い臭いが吐き気さえも引き起こしている。何故これ程の臭いに誰も気づかないのか。何故その臭いを発する異質な存在に対して何も言わないのかが私には理解出来なかった。
「神山、大丈夫か?」
口を手で押さえた私に、左隣から心配そうな声がかかる。嘔吐感を抑えながら視線を動かすと、眉を顰めた丑門君の顔が見えた。その表情から私を心配してくれているのが明確に解り、何故かそれが嬉しく思える。
「具合が悪いなら保健室に行くか?」
再度私の問いかけて来た彼の言葉に何処か違和感を覚える。それが何かわからないまま、私は頷きを返した。正直、既に限界に近かったのだ。吐き気は強まる一方で、胃液が逆流しかけている。言葉を口にする余裕もなく、額からは脂汗が滲み出て来ていた。
教壇では未だに得体の知れない生物が何かを話している。朝のホームルームの時間にそこまで話す時間があるのだろうか。もしかしたら、長く感じているのは私だけで、実際には1、2分しか経過していないのかもしれないし、そのまま1時間目の授業に入ってしまっているのかもしれない。
「保健室へ行ってきます」
得体の知らない何かの話を遮るように立ち上がった丑門君は、それに対しての女性担任の返答を聞く気もなく、そのまま肩を貸すようにして私を立ち上がらせた。急な動きに嘔吐感が増した私は、込み上げて来る物を抑えるために丑門君の腕を力いっぱい握ってしまった。爪が食い込む程に握ったにも拘わらず、丑門君は顔色一つ変えることなく、私を廊下へと誘ってくれた。
教室の後ろの扉を抜けて廊下に出る瞬間、私は教壇に立つ得体も知れない何かと目が合う。その目は私の胸の奥にある何かをざわつかせる物を宿し、私に嘔吐感とは別の不快感を覚えさせた。
廊下から階段を降り、1階にある保健室へと向かう。教室を出たあたりから私の体調も改善して来ていたが、それでも少しふらつくため、丑門君の袖口を掴んで先導してもらっていた。教室から離れるほどに、あれほど感じていた嘔吐感が消えていくのが解る。扉の上部に掛かっている札の『保健室』の文字がはっきり見えて来た頃には、支えがなくとも歩ける程には体調が回復していた。
「あ、あら……神山さん?」
保健室の扉を開けると、そこには養護教諭である女性が机に座って日誌のような何かを記している最中であったが、突然入って来た私達の方へ視線を向けると、その表情は一瞬で強張った。何気ない様子を繕っているが、明らかに私は歓迎されていない。また、その後ろから顔を出した丑門君を見た後は、強張った表情が完全に固まってしまっていた。
「すみません、授業中に急に体調を崩しまして。丑門君には付き添って頂きました」
「そ、そう。だったら、そっちのベッドで少し休むといいわ。せ、先生は少し職員室に用があるから出るけれども、具合がよくなったら授業に戻るのよ」
よくよく思い出せば、この養護教諭である女性は丑門君には忌避感を持っていたが、私に対しては心配をしてくれていたような気がする。今も表情とその会話内容はあれだが、目の奥には若干の心配の色が見え隠れしている。『この学校の教員も捨てたものではないのだな』などという傲慢な考えが私の頭に浮かんだ。
いそいそと日誌などを片付けて、そそくさと保健室を出て行く養護教諭の背中を眺めながら私はベッドに横になる。スカートが乱れないように掛け布団の中に入った私は、丑門君への礼もそこそこに瞼を閉じた。
自分で考えているよりもずっと、私の体力も気力も削り取られていたのだろう。まるで奈落の底へと引き込まれるように、私は意識を手放してしまう。




