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日本書鬼  作者: 久慈川 京
第一章 鬼気迫る
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其の弐



 『甘かった』

 そう昨夜の自分に告げたくなる程、翌朝からの教室の雰囲気は一変していた。

 翌朝、普通の学生のように、皆と共に登校した私であったが、私が教室に入る頃には既にクラスの生徒の半数は登校を終えており、そして私の席は完全に孤立していたのだ。

 左隣の窓側に座る彼の席のように、前の席も右隣の席も遠く離れた場所にあり、まるで離れ小島に私と彼の席があるようにさえ見える。その席の周りには、昨日まであれ程押し寄せていたクラスメイトの影もなく、窓から差し込む陽の光を受けて机と椅子の影だけが床に映っていた。


「……聞いた? 神山さんって、丑門と付き合ってるらしいよ」


「え? だからか……。近寄らない方が良いね。触らぬ神に何とやらだ」


 私を避けるように出来て行くクラスメイトの道を歩いている最中に、全く身に覚えのない会話が耳に入って来る。本人達は意図的に私に聞かせようとしている訳ではないのだろうが、このような狭い教室の中で周りが静まれば、嫌でも聞こえる物だろう。私が教室に入った途端に止んでいた喧騒が、そんな噂話を皮切りに再び鳴り出していた。

 ゆっくりと席に着くと、昨日と全く同じその机と椅子に多少の違和感を覚える。私の記憶が正しければ、俗に言う『いじめ』という問題では、大抵、その対象者の机や椅子に陰湿な嫌がらせが施されている物であった。

 だが、そんな想像とは裏腹に、椅子に何かが塗られている訳でもなく、机に落書きや彫刻が施されている訳でもない。一瞬不安になって恐る恐る手を入れていた机の中にも何も入っていなかった。拍子抜けする程に何もない事に首を傾げながらも、未だに鳴り止まない噂話の喧騒に耳を傾ける。


「でも、転校して来たばかりで凄いね」


「丑門に脅されてるんじゃないの?」


 馬鹿馬鹿し過ぎる。最早十六にも届こうという人生経験を経て、何故、そこまで思考回路が育っていないのかを私は疑問に思った。

 私が転校して来て、まだ三日目である。このクラスにいる人間の名前さえも覚えていない状態で、何をどうすれば男女の関係になるというのか。しかも、それを疑問に思って辿り着いた答えが、脅迫されてという物。TVドラマのような演出が、日常にも起こり得る物だと信じて止まないその思考が、馬鹿さ加減を増大させていた。

 しかし、この状況を改めて考えて見ると、私にとってはとても良い物ではないだろうか。何度も言うが、私は人間が好きではない。他者との拘わりを煩わしいものと感じても、好ましいと感じた事はないのだ。他者がいなければ自分が生きて行けない事は理解していても、出来得るならば、交流など持つ事がない方が好ましい。


「でも、ちょうど良かったよね。神山さんが丑門の隣で」


「あの部分だけ別次元だけど」


 他者の不幸で笑うクラスメイトの会話を聞きながら、思わず笑ってしまいそうになる。彼女達にとっては、私は不幸に映るのだろう。だが、私にとっては幸福以外の何物でもない。今後は他者からの干渉は全く無いだろう。それこそ、休み時間に声を掛けて来る者も居ないに違いない。

 余談だが、僅か十分程度の休憩時間で、周囲の人間の席近くまで移動して日常会話をしようとする人間の考えが私には理解出来ない。しかも、その会話にも何も意味は無く、今しなければならない物ではないのだ。以前の高校でも休み時間の度に私の席の近くに来る女生徒は何人かいたが、終ぞ私には理解出来なかった。

 だが、これで私は孤立し、この席はある意味で絶対不可侵の安全地帯となった。机に余計な落書きや彫刻がされていたり、机の中にゴミなど入れられていたりという事が無いのであれば、それこそ天国に等しい。昼休みにでも読もうと持って来ていた、昨日購入したばかりの本をゆっくりと読む事にしよう。

 私と噂になってしまった隣の席の男子生徒には申し訳ないが、否定も肯定もしなければ、この状態は長く続くだろうし、このまま放置させて貰おうと思う。少しだけ自分勝手な考えだというのは自覚しているが、お仲間が一人増えたというように考えて貰うとしようと考えた。


「はい、皆さん席に着いて」


 周囲の喧騒は担任の女性教員が入って来るまで続いたが、三十半ばのその教員が教壇に着くと共に収まる。一瞬、私の方の席を見て驚いた表情を浮かべたが、見なかった事にするつもりか、即座に出席簿へと目を落とした。

 この女性教員も良い性格をしているようだ。今の教育現場では、出来るだけ事を荒立てない事が求められているとはいえ、ここまであからさまな状態を目にしても、そんな状況は見えていないと出来る精神が素晴らしい。考えれば、私が転校して来た時には既に隣の彼の席があの状態だったのだから、ずっとこういう問題は無かった事になっていたのだろう。暴力事件や盗難事件が起きれば別だが、存在自体を無かった事にする、所謂『無視』という行為は学校社会的には問題ないのかもしれない。

 私自身、この状態を長く続けたいと思っている事もあり、目を逸らす教員を責めるつもりもなく、むしろ小さな笑みを浮かべていた。


「この部分は、再来週のテストに出しますので、憶えておいて下さい」


 その後も授業は続き、再来週末に控えた試験の出題傾向を話す教員の話を聞きながら、真新しい教科書に線を引いて行く。黄色のマーカーで軽く線を引いてはいるが、既にこの部分は以前の学校で習っている部分でもあり、復習さえしておけば問題ない箇所でもあった。

 以前の学校がこの学校よりも都会にあった事からか、ほぼ全ての授業の進行速度よりも前を行っている。私自身、塾などには通ってはいなかったが、学校の授業程度であれば、授業の内容を聞き、少し復習すれば試験の点数ぐらいなら上位を取れる頭脳は持っているつもりだ。

 この分であれば、試験対策として無理に勉強をする必要もなさそうであり、比較的のんびりと過ごせそうである。そんな考えに浸っている内に、午前中最後の授業の終了を告げるチャイムが鳴った。


「食堂行く?」


「ああ、今日はお弁当だから。いらないって言ってるのに作るんだよね、うちのお母さん」


 教員が教室から出たのと同時に、周囲に開放感溢れる喧騒が生まれる。私の近く(今はそうでもないが)に居た女生徒が友人を食堂に誘うが、声を掛けられた女生徒は不服そうにカバンからカラフルな柄の布で包まれた弁当箱を机の上に乗せていた。そんな机の横を『丑門』と呼ばれる男子生徒がすり抜けて行くのが見える。

 彼女は母親が娘の為に弁当を作る苦労を知らないのだろう。私の幼い頃の家庭は、共働きであった為、母親が弁当を作ってくれたという記憶がほとんど無い。運動会のようなイベントでも市販の弁当であった記憶さえあった。

 中学校では給食が無くなり、弁当持参が基本であった為、最初の内は買っておいた菓子パンを摘んでいたのだが、二年生辺りから自分で弁当を用意するようになった。朝の八時には家を出なければならず、弁当箱の蓋を閉める前に、入ったご飯やおかずを冷ます為には、少なくとも六時ぐらいから作り始めなければならない。一日二日であれば別だが、これが毎日となれば本当に重労働であった。

 彼女の言葉を聞く限り、娘に持たす時には、『節約の為』などという理由を口にしているのだろう。だが、その程度の理由の為だけに、毎日娘一人の弁当を用意する事など出来はしない。それは母親の方便なのだと彼女が気付く頃には、弁当を持参する時期は過ぎている筈だ。


「あっ、ごめんなさい」


 その女生徒の言葉に気を取られていたのが悪かったのだろう。カバンから取り出し、蓋を開けたばかりの私の弁当が、そんな侮蔑の笑いを含めた声と共に払い除けられた。

 そう、『払い除けられた』のである。明らかに横から出て来た手によって、私の机の上に乗っていた弁当箱は床へと落とされ、その中身が教室の汚い床へとばら撒かれた。

 一瞬、何が起きたのかが解らなかった。色とりどりに盛り付けられていたおかずは、床の上で全てが交じり合い、その姿を変えている。湧き上がる悲しみと、行き場の無い混乱のまま、私の頭の上から掛かる笑い声に気付き、顔を上げた。

 そこにあったのは、下衆な笑みを浮かべる女生徒の顔。それは間違いなく昨日駅前で会った女生徒の片割れであった。もう一人もまた、このクラスの一員であり、その女生徒の後ろから生理的に嫌悪出来るような笑みを浮かべている。それが解った瞬間、思考よりも早くに私の身体は動いた。


「え?」


 教室に響き渡る大きな乾いた音。その大きな音に比例するだけの力で真横に吹き飛ぶ女生徒と、崩れる机と椅子。私は振り抜いた左手に残る、痺れるような痛みを無視して、床に倒れ伏した、その醜い獣を睨み付けた。

 おそらく、この女生徒が噂を広めた主犯であり、この一連の流れを考えた策士なのだろう。だが、予想に反して、その対象者はうろたえる素振りも見せず、飄々と授業を受け、休み時間も一人本を読んでいた。

 そんな姿に焦りを感じた彼女は、この昼休みに実力行使に出てしまったのだ。これが愚かな行動である事を理解出来ないという事が、この女生徒が『策士』ではない事を示している。転校生という右も左も解らず、誰も味方が居ないとう状況下で、強気に出る筈がないという浅慮が生み出した結果がこれであった。


「このお弁当は、祖母が私の為に早起きして作ってくれた物です! どんな献立にすれば健康に良いのか、どんな色彩にすれば私が喜ぶのかなど、本当に懸命に考えて作ってくれた物です! 貴女のような下衆な馬鹿が手で払い落として良い物ではないわ!」


 私の平手打ちを真っ直ぐに受けた女生徒は混乱から立ち直る事も出来ず、怯えた目で私を見ながら、懸命に立ち上がろうとするが、掌底が頬から顎に掛けて当たった彼女の三半規管は麻痺し、足に力が入らず、立ち上がる事も出来ない。

 そういう私も沸き上がって来た哀しみを覆い尽くす程の怒りで興奮してしまっていた。今思えば恥ずかしい限りだが、あの時は本当に何か頭の中の糸が数本切れてしまっていたのだろう。

 だが、それも彼女の自業自得であろう。あのお弁当は、私の大好きな祖母が一生懸命に作ってくれた物である。転校初日から、『誰かの為にお弁当を作るなんて何時以来かしら』などと微笑みながら、毎日早起きをし、私が起きる頃には作り終えていた。

 それが私にとってどれ程の喜びを齎した事だろう。そのお弁当は冷めても美味しく食べられる工夫が色々と施されており、見た目も味も、涙が出る程に美味しかった。おかずの一つ一つに、祖母が私を愛してくれているという好意が詰め込められており、それがとても幸せであった。

 そんな祖母の優しい笑みを思い出し、そんな祖母が愛情込めて作ってくれた弁当を口にする事もなく無駄にしてしまった自分の不甲斐なさに悲しみ、そしてそれを未然に防ごうとしなかった自分に苛立つ。その苛立ちは怒りとなって私の口から止め処なく飛び出した。


「そもそも、昨日の事を恨みに思っているなら、筋違いにも程がある! 私は貴女の名前も知らなければ、知ろうとも思わない。昨日言ったとおり、私の邪魔をしなければ、興味さえも持たないわ! でも、これは明確な敵対行為ね。敵になるなら容赦はしないわ」


 未だに立ち上がる事も出来ない女生徒に興奮したまま全てを言い切った時、私の怒りの熱も一気に下がる。そして、今の教室の状況を見て、完全に自分が浮いてしまった事に気付いた。

 恥ずかしい事だが、本当に見境がなくなるぐらい怒りに心を奪われていたのだろう。冷静になれば、私が彼女に与えたのは完全に暴力であり、傷害である。ここが学校という狭い社会でなければ、即座に通報され、刑事告訴をされても仕方のない事であった。

 それに気付いた私は、逃げるようにしゃがみ込み、床にばら撒かれた弁当の中身を拾い集め始める。味付けを凝らしたおかずの調味料が拾うハンカチに染み込み、その色を変えて行くのが何とも哀しく、無性に泣きたくなって来た。

 そんな私の姿を見て、先程まで気圧されていた女生徒がようやく立ち直る。後方で唖然としていた片割れに腕を借り、震える足で立ち上がったその女は、勝ち誇ったような表情を取り繕い、屈み込む私を見下ろして口を開いた。


「暴力に訴えるなんて、流石はあの有名な丑門とお付き合いするだけはあるわね」


 既に腫れ始めている右頬が、彼女が歪める口元を尚更に醜く見せる。敢えて言っておくが、世間的に見れば、彼女の容姿は不細工という物ではないだろう。世に言うアイドルという物になれる程の物でもないが、それでも狭い学校という社会の中では、良い容姿といえるかもしれない。だが、私から見れば、その表情は昨日以上に醜く歪んでいた。

 人間というのは、ここまで醜い表情を浮かべられる物なのだろうか。以前の学校でも『いじめ』というのは存在していたし、私はそれに対し無関心を貫いていた為、いじめられている側の顔も、いじめている側の顔も気にした事はなかった。だが、今、目の前に見える顔は、とても同じ人間とは思えない程に醜い。その内に秘めた感情が溢れ出しているように見えていた。


「……馬鹿もここまで来ると、哀れね。先程も言ったとおり、私はまだ転校して三日目なの。貴女の名前さえも知らないし、このクラスにいる半分の方々の名前さえも覚えていないわ。そんな私が、どうやって名も知らぬ男性とお付き合い出来るというの? 何もかもを貴女のような軽薄な人種と一緒にしないで欲しいわね」


「なっ!?」


 弁当箱を包んでいた大きなハンカチで中身を集め終えた私は、そんな名も知らぬ醜い女生徒に向かって、思いの丈を吐き出す。冷静になったと思っていても、やはり心の何処かに怒りの炎の種火は残り続けていたのだろう。自分で考えてもかなりの棘と毒が混じった言葉だったと思う。だが、自分の本意でこの学校に来た訳でもなければ、この状況になった訳でもないという想いがあった私にはそれを止める事は出来なかった。

 周囲で息を飲んで静観していたクラスメイト達も雰囲気も変化して行くのが解る。私の意見に同意するような気配もあるが、『言い過ぎだろ』というような私への非難の空気も漂い始めていた。


「まず、貴女がしなければならないのは、私の祖母が愛情込めて作ってくれたお弁当を破壊した事への謝罪ではないの? それこそ、私の家に行って、土下座をして祖母に謝って欲しいところだけど、一言の謝罪もなく、発した言葉がそれでは、人間ではなく、馬や鹿と同じでしょう? 『馬鹿』そのものじゃない」


「なっ……な」


 発する言葉も見つからず、言葉が詰まってしまったように口の開閉だけをする女生徒に私は溜息を吐き出す。我が事ながら、嫌な性格をしていると思うが、そんな表情を見ても尚、私の中にある怒りは一向に収まらなかった。

 床に落ち、口にする事はもう出来なくなったお弁当の中身を捨てる事が出来ず、そのまま空になったお弁当箱と共にハンカチで包み込んだ。悔しさと悲しみで涙が出そうになるが、こんな場所で泣く事が嫌で、鼻の奥に響く痛みのような感覚を抑えながらも、勉強道具を全てカバンに納め、椅子を引いた。


「貴女がどのような噂を流しているか知りませんが、全く持って事実無根です。名誉毀損で訴えたいぐらいですが、私も貴女の頬を叩いてしまったので、相殺ですね。もう、学校にいる気分でもないので、これで早退します。教員の方には上手く言っておいて下さい」


「ちょっ……ちょっと待ちなさいよ!」


 自分で自分の頭を冷やさなければ駄目だと痛烈に感じた。彼女の頬を力一杯張ったという暴力の言い訳としては、余りにもお粗末過ぎるその文句を口にしている事自体、私自身も馬鹿と一緒であろう。

 後方で何やら喚き散らしている声が聞こえるが、もうそれが言語だと認識する事さえ出来ない。悔しさと哀しさと怒りを感じているのだろうが、そんな想いは既に私も感じているし、彼女のその感情を受けてやる義理もないのだ。

 そんな私が教室の後方の扉へ近づくと、そこにはあの男子生徒が立っていた。何処か悲しそうに眉を下げ、頭一つ分私より高い位置から見下ろす彼の横を通り過ぎる時、小さな呟きが聴こえる。


「……やり過ぎだ」


 それは、忌み嫌われているかのように学校全体からその存在を消されている男性が口にする内容ではない。あの女生徒を擁護するようなその言葉に、驚きに似た感情を覚えるが、それでも振り返る事なく、私は教室を出て行った。

 その後の教室内の事は解らない。ある程度は予想出来るが、それを知る由もなければ、知ったところでどうしようもないだろう。そのまま家に戻る訳にも行かず、私はふらふらと町を彷徨い歩いた。

 あの女生徒の取り巻きであった他校の男子生徒の襲撃などの可能性も考えられたが、それこそ、そんなドラマのようなイベントは発生しないだろうとも思うし、何より昼食を無にされた育ち盛りの女性徒としては、何かを腹に入れたいと思っていた。


「はぁ、本当に面倒くさい」


 この時間帯で、制服を着た女子高生が食堂などに入る訳にも行かず、仕方なしにこの田舎町にもある24時間営業のコンビニエンスストアに入り、パンを二つとオレンジジュースを購入し、近くにあった公園のベンチに座って食べ始めた。

 幸い天気は良く、太陽は空の中央に位置取って、大地に向かって強烈な紫外線を降り注いでいる。既に五月も半ばに入り、あと一ヶ月もすれば梅雨前線の影響を受けて隠れてしまう事を知っているのかもしれないと思う程に、太陽は自己主張をしていた。

 ベンチから見える小さな公園の遊具には、これまた小さな子供達が集まり、その周囲には母親と思われる数人の若い女性の姿がある。私が幼い頃には、親同伴で公園というのは余り少なかったような気もするが、これもまた時代なのかもしれない。


「この世で生きている限り、こんな面倒くさい事ばかりなのかしら」


 一つ目のパンをオレンジジュースで流し込むように飲み込んだ後、燦燦と降り注ぐ陽光を見上げて、大きな溜息を吐き出した。

 先程から、井戸端会議に夢中になっていた筈の母親連中が、私の方をチラチラ見ながら小声で何かを話しているのが見える。この時間に、学校ではない場所で食事をしている女子高生など、都会では別段珍しくはないが、この町では奇異の目に映るのだろう。そんな母親達の姿に、もう一度溜息が零れた。そして、再び先程までの学校でのやり取りに思いを馳せる。

 流石に、怒りを感じたとはいえ、いきなりの平手打ちはやり過ぎたかもしれない。それだけの事をあの女生徒がしたのだという思いもあるが、暴力を振るったという事実は消えず、また、利き腕である左手を振るったのが久方ぶりであった事も、そんな思いに拍車を掛けていた。


「……帰ろう」


 もう、誤魔化す為に町を彷徨う事さえも馬鹿らしくなり、二つ目のパンをカバンの中に入れて、立ち上がる。おかずの染みが濃くなった、お弁当箱を包むハンカチを持ち上げ、私はそのまま公園を出て行った。

 下校時間まで時間がある事からも、警戒など微塵もなく歩き続けた私は、自宅となる神社へと続く階段の麓で足を止めざるを得ない状況に陥る。

 百四十九段ある階段の麓、『始終苦』を払う為の第一段を踏み出すその場所には、見た事のある人物が立ち、そこからでは見える筈のない神社の社を見上げていたのだ。

 『丑門』という苗字を持つその男子生徒が、未だ下校時間には程遠いこの時間帯に、私の家である神社の麓にいるのかが理解出来ない。昨日私を救ってくれた彼が、あの女生徒側の人間であり、私に報復をしに来たとは考え難いが、あのすれ違いざまの言葉を思い出せば、その可能性も捨て切れなかった。


「……何か御用ですか?」


「あっ」


 南天の木々に隠れて見える筈のない鳥居を見上げていた彼は、私が近付くのに気付く事なく、決死の覚悟で出した声に盛大に驚く。驚愕の表情で私を見た後、何か気味の悪い物を見るような瞳に変わった事に私は不満を持った。

 『気味が悪いのはこっちの方だ』と口にしたい気持ちをぐっと抑え、訝しげな視線をこの男子生徒に向けながら、もう一度先程の問いかけを私は口にする。その問いかけを聞いた彼は、少し首を傾げて眉を顰めてから、私へ真剣な眼差しを向けた。

 首を傾げられた事に不満が増大した私であったが、予想以上に真剣な眼差しを向けられた事で、不満が不安へと変わって行く。そして、その不安は彼の発した次の言葉で更に増大するのであった。


「……気を付けろよ」


「は?」


 一瞬、何を言われたのか解らない程に短い言葉を発した彼は、私が問い質す時間を与える事なく、そのまま一度も振り向かずに歩いて行く。遠ざかる彼の背中を呆然と見ていた私がようやく我に返った頃には、その背中は遠くに見え、声も届かない程に小さくなっていた。

 『何に気を付けろというのか』、『誰に気を付ければ良いのか』など、必要事項を全く語る事なく、不安だけを煽って去って行ってしまった彼に徐々に怒りが湧き上がって来た時、私は不意に大きな影に飲み込まれたような感覚に陥る。後方から襲い掛かって来る闇のような影は、未だに燦々と輝く太陽の光によって生み出されていた私の影を全て飲み込み、神社へと続く階段の両端に植えられている木々の葉を大きく揺らした。

 風など全く吹いていないこの状況で、木々が揺れるなどという事は有り得ない。それでも確かに大きく枝は揺れ、葉が擦れる音が私の耳に入って来たのだ。


「なによ、もう。本当に気味が悪い」


 寒気のような嫌な感覚が背中から首筋に抜け、身震いが起こる。『丑門』という男子生徒の言葉の意味も、先程の私を飲み込むような影の正体も解らず、八つ当たり気味に言葉を吐き捨てた私は、神社へ向かう階段を上り始めた。

 ただ、階段を上り始めても、私の背中に何かが張り付いているような感覚は消えず、知らず知らずに額から頬へ汗が伝い始める。徐々に圧迫されるように息苦しくなり、視界までもが狭まって行くようであった。

 一歩一歩踏みしめるように足を出さなければ、身体自体が動かなくなりそうな恐怖を感じながらも、細かく呼吸を行いながら、私は階段を上り続ける。この時ほど、この階段の数の多さを恨んだ事はない。幾ら懸命に足を動かそうとも、一向に頂上にある筈の鳥居が見えて来ない事に胸が締め付けられて行くようであった。

 それでもあの家こそが私を護ってくれる唯一の場所であるという不確かな想いが私の中には存在しており、頬を伝い落ちる汗が増えて行く中、懸命に頂上を目指して足を踏み出した。

 あと百段があと五十段になり、あと二十段を切った辺りから、私の胸を締め付ける力が強くなったようにも感じ始める。最早、呼吸によって肺に入って来る酸素も少なくなり、それによって陥った酸素欠乏症によって、視界が暗転して行った。


「あら、深雪ちゃん。こんなに早くに、どうしたの?」


 不意に掛けられたその声が、私の全てを救ってくれる。

 今まで胸を締め付けるように私を襲っていた力が一瞬で消え失せ、大きく吸い込んだ酸素が一気に肺に入り込んで来た。過呼吸になったかのように息を吐いたり吸ったりを繰り返す私に心配そうに近寄って来た祖母が、優しく背中を撫でてくれる。本当にそれだけの事で私の呼吸は落ち着きを見せ、暗転していた視界が急速に戻っていった。

 境内を掃き掃除していたのだろう。箒を片手に心配そうに眉を下げている祖母の顔を見た時、それまでの恐怖と、昼の学校での出来事が甦り、不覚にもじんわりと涙が溢れ始めた。


「もう、こんなに汗を掻いて……。もしかして、階段を駆け上がって来たの?」


「お祖母ちゃん」


 皺の多くなって来た掌で私の額の汗を拭ってくれる祖母の顔を見ていたら、次々と涙が溢れて来て、そのまま祖母に抱きついてしまう。今まで、母親にさえそのような事をした事がない私ではあったが、祖母のその手の暖かさと、そこから伝わって来る確かな愛情に感情が爆発してしまった。

 突然泣きながら抱きついて来た孫に驚いたのだろうが、それでも箒を手放し、優しく私を抱き締めてくれる。その暖かさが尚更私の涙を誘った。

 学校での悔しさと、祖母に対しての申し訳無さ、そして階段下で味わった困惑と、階段途中で襲われた感じた事のない恐怖。僅か一日で味わった多くの感情が溢れ出し、暫くの間、私は祖母の胸で泣き続けた。


「落ち着いた?」


「……ごめんなさい」


 何時の間にか高かった陽が傾き始めている。どれだけ泣いていたのかと自問したくなる程に時間が経過していた事に恥ずかしくなった私は、優しい笑みを浮かべて問いかけて来る祖母の顔が見る事が出来なかった。

 私よりも少し背の高い祖母の『くすくす』という忍び笑いが聞こえて来ても、顔を上げられない。十六にもなった女子高生が、祖母に抱きついて大泣きしたなど、誰にも言えない程の恥部となるだろう。そんな気恥ずかしさから、最後には眉を顰めて祖母を睨みつけてしまった。


「ふふふ。ごめんごめん」


 そんな私の鋭い瞳にも怯む事もなく、祖母は笑い続ける。それでも、箒を拾い上げた祖母は、それ以上は何も聞かなかった。

 『どうしてこんなに早くに帰って来たのか』、『どうして突然泣き出したのか』など、多くの疑問を持った筈である。それでも柔らかく微笑んだままの祖母は、私に何も問いかける事なく、箒を持った手とは逆の手を私へと差し出した。

 幼子に向けるように手を差し伸ばして来た祖母に虚を突かれた私であったが、その温もりをもう一度と願っていた事も事実であり、ゆっくりとその手を取る。しっかり繋がれた手はとても温かく、先程感じていた恐怖によって冷え切った身体を温めて行った。


「今日はね、深雪ちゃんの好きなコロッケよ。作るのを手伝ってくれる?」


「……うん」


 私がコロッケを好きだったなんて、私自身初耳である。だが、昔を思い返せば、遊びに来た私の為に祖母が作ってくれる温かな料理は全て美味しかった。共働きであった母親が残したお金で買ったお弁当を一人で食べるよりも、祖母と祖父と共に湯気の立つ料理を食べる方が、何百倍も美味しかったのだ。

 何の遠慮も、お世辞も知らない子供だった私は、その気持ちを正直に何度も何度も祖母に伝えていたと思う。子供が好きな料理という事で祖母が作ってくれたコロッケは、何も特別の物が入っていない、ジャガイモと牛挽肉のコロッケだった。だが、そんな当たり前のコロッケが、温かいというだけでこれ程に美味しいのだと初めて知った瞬間でもある。

 優しい笑みを浮かべたまま、そんなコロッケを作る手伝いを願う祖母に対し、先程の気恥ずかしさと、手を引かれて歩く今の恥ずかしさが混じり、私は小さく頷く事しか出来なかった。

 その後、調味料の染みで汚れたハンカチに包まれたお弁当箱を差し出し、『お弁当を出す時に慌てて引っ繰り返してしまった』と伝えた時の祖母の顔は、私の罪悪感と後悔を誘ったが、すぐに『明日もお弁当作って大丈夫?』と優しく問いかけて来る祖母の姿に、静かに涙が溢れてしまったのは、別の話である。



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