後日談①
前半の1000文字ほどが漏れておりましたので、再投稿いたします。
事の結末を語ろう。まずは、有威と幸音の事。
あの扉が開かれ、中から遠慮がちに出て来た少女の瞳は真っ赤に充血し、瞼は腫れていた。余程の時間を泣き暮れていたのだろう。今でも気を抜けば涙が溢れて来そうな程に瞳は濡れ、しゃくりあげながらも何とかこちらへと視線を向けていた。
その瞳が私を捉え、まず誰なのか、そしてどうしてここにいるのかという疑問を表情に浮かべる。だが、そのまま引かれた扉によって私の足元に居る少女が視界に入った瞬間、溜まっていた涙が零れ落ちた。
どうして良いのか解らず、瞳をせわしなく動かす為に、溜まっていた涙は次々と床へと零れて行く。部屋の中には絨毯が引かれているが、私と有威が立っている廊下はフローリングであった為、零れ落ちた涙は絨毯に吸い取られる事なく、フローリングにぶつかり小さな小さな飛沫を上げた。
「……ごめんなさい」
私が口を開く訳にもいかず、短くも長い沈黙の時間が経過して行く中、唐突に小さな呟きが私の足元から聞こえて来る。それはこの沈黙の場だからこそ聞こえる程に小さく、何かを恐れるように、何かに怯えるようにか細い物であった。
だが、それでもその声は魂が込められている言霊であり、その短い言葉にそれを発した者の様々な感情が込められている事が解る。その言霊はしっかりと相手の心へと振動を伝え、揺さぶって行った。
「……有威ちゃん!」
その行動は、私がこの丑門幸音という少女を侮っていた事を痛感する物であった。彼女は、何を言うよりも早く、有威という少女の身体に抱き着いたのだ。
今の有威の身体から発する臭いは、酷い物である。昨日私の家で風呂に入ったにも拘らず、あの後で全身に汚水を掛けられたように汚れ、その臭いもまた、顔を顰めざるを得ない物になっていた。
それでも、幸音はその身体に躊躇なく抱き着き、そのまま顔を埋めるように泣き続けている。私は当初、丑門統虎の妹という立場によって、同じようにとは行かないまでも周囲から避けられているであろう幸音が、自分よりも下の立場にいる有威という可哀そうな者に声を掛け、優越感を感じているのではないかと邪推していた。
「……本当に醜いのは、私の心ね」
本当に心からそう感じた。基本的に私は人間が好きではない。だからこそ、何かがあっても人間が持つ醜い部分を想定して考えを進めてしまうのだが、そう考える事こそ、私自身が醜い人間である事を証明しており、私が嫌悪する人間の代表的な者である事を示していた。
だからこそ、この時、私は気づいてしまったのだ。
私は、私が嫌いだったのだと。
「二人とも、一緒にお風呂に入って来て」
私の声に顔を上げた幸音が、その時初めて私の存在に気付いたかのように目を見開いている。そんな純粋な彼女の心に苦笑しながら、私は二人の背中を押して階段を下って行った。私の前には手を繋いだ二人の少女。ぎこちない小さな笑みを浮かべながらも、相手がそこに居る事を心から喜んでいるその姿が、とても眩しく、尊い物のように感じた。
二つ目の結末は、有威の両親と有威自身の処遇。
有威を丑門君の家に連れて行ったその日は、夜に迎えに来た祖母と共に私は家に帰った。だが、その3日後に再び私は、あの不愉快なアパートに行く事になる。
あの翌々日に南天神社に掛かって来た一本の電話の受話器から聞こえた男性の声は、自らを『丑門』と名乗った。私の知る『丑門』という名字を持つ人間は『丑門統虎』と『丑門幸音』の兄妹とその母親だけである。ただ、当然であるが、父親もいる事は知っており、この電話の相手がその父親であるという事は容易に想像出来た。
だが、休日であった事もあり、電話を廊下で取った私は、突然聞いたその名字に慌ててしまう。正直、あの時にどんな受け応えをしたかすら定かではなく、どうやって祖父母に受話器を渡したかも定かではない。そして、私が呆然としている間に、何故か翌日に例のアパートへ行く事が決まっていたのだ。
「本日はお忙しい中、お時間を頂く形なってしまい、申し訳ありません」
電話の後で聞かされた予定通りに翌日の9時半過ぎに一人の男性が我が家の玄関に立っていた。その姿を見ると、『ああ、丑門君のお父さんだな』と納得してしまう雰囲気がある。目鼻立ちがそっくりという訳でもないし、髪型が似ているという訳でもない。ただ、何というか、目が似ているのだと思う。少し吊り目がちではあるが、優し気な光を持ち、それでいて何事にも対応出来るだろうと思える程の強さも持っている目であった。
だが、しっかりと髪を整え、綺麗なスーツを着こなしているこの父親と丑門君を比べると、何故か笑ってしまいそうになる。私が今一番頼りになると思っているあの男子生徒が無理に背伸びをしている子供に思えてしまうからだ。
日曜日にも拘らず、スーツで決め、これから仕事に向かうような姿の父親と、何処か悪ぶろうとしている息子。自分でも的外れな想像だとは思うけれども、笑いが止まらなかった。
「こら、深雪ちゃん」
「どこか可笑しかったでしょうか?」
玄関先で私の奇行を窘める祖母と、私が笑い出した理由が自分の姿にあると考えた丑門君の父親。自分の身体の周りに何か付いているのではないかと見渡す姿が丑門君と重なってしまい、ますます私は笑いを止められなくなる。そんな私を止めたのは祖母の小さな拳骨だった。
「ふふふ……申し訳ございません。当たり前の事なのですが、丑門君に似ているなと。あっ、逆ですね。丑門君がお父様に似ているのですね」
必死に笑いを堪えながら、自分が思った事を口にする。そんな私を見ていた目の前の男性は、柔らかな笑みを浮かべて小さく頷いた。私のような小娘に笑われたにも拘らず、それを不快に思う様子もなく、柔和な雰囲気を出す男性に対し、私は好感を持つ。やはり雰囲気は丑門君に似ていると思う。だからだろう、私の警戒感は皆無となっていた。
「そうですか。統虎は私に似ていますか……。いやぁ、改めてそう言われると、嬉しいものですね」
しかも、私の感想に対して、これ程に嬉しそうな様子を見せられてしまうと、私まで嬉しくなってしまうものだ。この父親もまた、心から丑門君を愛しているのだと理解出来る故に、私は何故か幸せな気持ちになる。それ程に、目の前の男性が浮かべた照れ笑いは優しい物であった。
だが、この父親の姿を見ると、ますます分からなくなるのは、周囲の丑門君を見る目や態度と彼の妹である丑門幸音の態度である。この町の人間は彼の何を恐れており、彼の妹は何を畏れているのか。その疑問がどんどん膨れ上がっていくのだった。
あの事件から数日経過したが、今、私の家、つまりは南天神社に有威は居る。一時的な保護という名目ではあるが、何故か私の傍から離れようとしない彼女の心を優先し、丑門君の家ではなく、私の家で保護する事になったのだ。
まだまだ心の全てを許した訳ではない彼女は私の行く所全てに付いて回り、他全てを警戒する日々を送っていたが、2日目になって食事を与えてくれる祖母にも心を許し始めたのか、食事中は私が離れても祖母の横で行儀良く食事をとるようになる。まだまだ食事作法や食事の仕方は綺麗ではないが、あの時、祖母に『餓鬼』と称された程の醜態を晒す事はなく、箸の持ち方に四苦八苦している姿はとても微笑ましい物であり、気難しい祖父もまた柔和な笑みを浮かべるようになっていた。
だが、まだまだあの家に慣れていない有威を祖父と二人きりで残す事は出来ず、今回あのアパートへ向かうのは、祖父と私の二人となる。玄関先で寂しそうに私を見つめる有威の姿に少し心が痛むが、今では綺麗に切り揃えられたショートヘアを撫でる祖母に見送られた私達は神社の石段を下りて行った。
丑門君の父親、祖父、私の三人は、神社の階段を降りた所に停めてあったタクシーに乗り込み、あの忌まわしきアパートへ向かう。基本は歩いて行ける距離である。だが、丑門君の父親が、私の祖父を気遣って車を手配してくれていたのだ。
「短い距離でしたけど、すみませんでしたね」
「いえいえ、ありがとうございました」
正直一区間。ワンメーターで辿り着ける距離であり、時間にしてものの3分程の時間。車内でする会話もなく、私は只、窓の外の景色を眺めているだけで到着してしまう。
助手席で支払いを済ませ、運転手に声をかけると、初老を超えた年齢の男性が柔和な笑みを浮かべてお金を受け取る。先に降りていた祖父と私は、これから向かうことになる戦場を見上げた。
数日前に起きた行動は今でも脳裏に焼き付いている。あの時スマホで撮影した動画は、丑門君の母親経由で今タクシーから降りて来た丑門君の父親へも渡されていた。
「では、行きましょうか」
今、このアパートを見上げても、あの時感じた憤りは明確に思い出せるし、あの時同様に胸の中に黒い霧が広がっていくように感じる。だが、それでも私の耳にあの笑い声が聞こえて来る事はないし、その存在を感じる事もない。それは私の隣に祖父が居るからなのか、既に私の傍からアレが消えてしまったのか、それとも既に私とアレは一体化してしまったからなのかは解らない。最後のだけはそうであって欲しくないと思うのだが。
日曜日という事もあってか、この日は一階に住んでいるのであろうあの老婆の姿もない。あの老婆の証言などは、有威という少女にとって有利になる物だと思うのだが、そのような事を気に留める様子もなく、先頭を歩く丑門君の父親は古ぼけて朽ちかけた階段を昇って行った。
「すみません」
ベニヤ板で出来た扉の一つの前に立った彼は、その声色と言葉遣いとは異なり、かなり乱暴に扉を叩く。ドンドンという激しい音と共に、薄い板のドアが軋む音を立てた。何度叩いても中からは物音一つしない。留守なのではないかと思う程に静かにも拘らず、まるで絶対に中にいると確信しているかのように扉を叩き続ける彼に、私は少し引き気味だった。
だが、私の隣に立つ祖父は全く動揺しておらず、静かに薄いドアへ視線を向けている。いや、正確に言えば底冷えするほどに冷たい視線をぶつけていた。
「澱んでいるのぉ」
小さく呟かれた祖父の言葉が空気に溶けて行く。祖母程ではないが、この祖父にしても長年神社の神主を務めて来た人間であり、この町で起こる出来事の多くを見続けて来た人間だ。もしかすると、この場所に黄泉醜女の残痕を感じ取ったのかもしれない。
だが、黄泉醜女の事がなくとも、この場所の空気は澱んでいるように感じる。まるで少し前の学校のように、黒い靄が掛かっているように見えた。
「高天原へ悪意を向けるような魂では、碌な末路を迎えぬだろうな」
鳴り止まぬノックというには激しい打撃音の中にも拘わらず、祖父の小さな呟きは何故か私の耳に響いてくる。この場所が澱んでいるのか、それともここに居る人間自体が澱んでいる為に場所が穢れてしまっているのか。それは祖父の言葉から自ずと理解出来た。
そんな事を考えていると、もう何度目かわからないドアの殴打を遮るようにべニア板の扉が勢い良く開けられた。
「うるせぇな! 家賃を払う金はねぇよ!」
出て来たのは昨日の男。その言葉を聞く限り、この場所の家賃すらも払っていないのだろう。昨日と同様のくたびれ、薄汚れたジャージを身に纏い、寝起きなのか目ヤニの付いた眼を吊り上げたその男は丑門さん(ここからは丑門君との区別の為にさん付けで呼ぶ事にする)に掴み掛かる勢いで飛び出して来た。
だが、そんな相手の剣幕にも動じず、丑門さんは軽く頭を下げ、自身の名前を口にすると共に懐から名刺を取り出した。
「丑門弁護士事務所の丑門と申します」
驚くなかれ。あの丑門君のお父さんは弁護士だったのだ。私は既にあの電話があった日に祖母から聞いていたのだが、あの時は声を出して驚いた。正直、自分の身近に弁護士という職業があるという事に現実感はまるでなく、何処か物語の中にでも入り込んでしまったような感覚を持ってしまう。だが、丑門君と弁護士の息子というイメージは笑ってしまう程に結びつかないが、丑門さん=弁護士という構図は言われれば納得してしまう物であった。
弁護士という肩書は強い。普通に生活をしていれば、一生涯関係する事がない人もいるであろう職業は、日常で目にする警察官などよりもよっぽど脅威に映るのだろう。現にドアを開けたまま放心状態の男の顔色は元々の悪さよりも更に悪くなっている。
「こちらで立ち話をしても、貴方にとって有益ではないでしょう。中に入らせて頂いても?」
言葉は丁寧だが、有無も言わさぬ迫力を持つ丑門さんに男は言葉を詰まらせる。男を押し退けるような事はないものの、全く後ろに退く気のない丑門さんの姿に男は観念したように部屋の奥へと移動した。
移動したと言っても、外観から見た姿と相違ない安アパートであり、玄関の奥には6畳ほどの一部屋があるのみ。玄関横に台所があり、反対側にはトイレであろうドアがある。今の今まで寝ていたのか、汚い煎餅布団がまだ片付けられておらず、起きたばかりであろう不機嫌そうな女性の姿があった。
「いったい何のようなの!?」
その女性がヒステリックな声を上げる。目を背けたくなる卑猥な恰好をしてはいるが、丑門さんも祖父もそんな女性を一瞥した後は男が座るのを待って対面に腰を下ろした。それに倣うように私も腰を下ろす。湿気を帯び、元の色が解らない程に変色した絨毯に腰を下ろす事に不快感を覚えるが、そんな事を言っている場合ではないだろう。
部屋はお世辞にも綺麗とは言えない。いや、正確に言えばとてつもなく汚い。しかも何の臭いか解らない不快な臭いがする。他人の家でなければ今すぐにでも窓を全開にしたい。よくこのような部屋で生活が出来るものだと、別の意味で目の前に座った一組の男女を凄いと思った。
「今日は、こちらにお住まいであった有威さんについてお話をさせて頂きたく、お伺いさせて頂きました」
「はぁ? あんた何なの!?」
丑門さんが弁護士だと名乗った事が聞こえていなかったのか、女が必要以上に大声を上げる。これもまた人間の処世術の一つなのだろう。彼女にとって丑門さんは未知の存在であり、即ち恐怖の対象と成り得る存在。故にこそ、彼女は威嚇の態勢に入ったのだ。
だが、ヒステリックな女性の威嚇など、弁護士として生きている丑門さんは勿論の事、神職として長い人生を歩んで来た祖父にとってもそよ風に等しい。私でさえも、彼女の金切り声やその横で憎々しげに睨みつける男の姿など、何かを感じる程の物でもなかった。
黄泉醜女の気配に比べれば塵芥に等しく、我を忘れた丑門君に比べればそよ風のようなものである。逆に虚勢を張っている事が明確であり、その姿は滑稽にすら映る物であった。
「ご主人の方にはお渡し致しましたが、こういう者です」
「弁護士!?」
埒が明かないと感じたのか、丑門さんは再び名刺を差し出すと、その名刺の肩書を見た女は素っ頓狂な声を上げ、名刺と丑門さんの顔を交互に見比べていた。
ようやく話が出来る環境が整ったと感じたのか、丑門さんは持っていた鞄の中からクリアファイルに入った書類と、分厚いファイルを取り出す。私たち三人と薄汚い男女の間には、折り畳み式の小さなテーブルが置かれており、その上には吸い殻で満杯になった灰皿や缶ビールの空き缶などが乗せられていた。
それら一つ一つをテーブルの下へと移動した丑門さんは、同じように鞄の中から取り出した除菌シートのような物で綺麗にテーブルを拭き、その上にファイルなどを置く。そして小さく息を吐きだした後に、呟くように言葉を紡ぎ出した。
「では、こちらのお嬢様である有威さんについて、いくつかお聞きしたいと思います。また、有威さんの今後についてもいくつかご提案がございますので」
未だに口の開閉をしたまま声を出せない女を無視し、静かに語り始めた丑門さんの声は、この安アパートの部屋に響き渡る。大きな声ではないにも拘らず、この部屋の音全てを抑え込むような声は、何処か威圧感さえも感じた。
それは、相対している男も同様であったようで、顔を強張らせていたのだが、このまま黙っていても自分が不利になるばかりだと感じたのか、声を絞り出すように口を開く。
「そ、その前に、そっちのガキに俺は暴力を受けたんだ。それについて賠償してもらいたい!」
だが、意を決して開いた口から出た言葉は、彼の言うガキである私から見ても稚拙な物であり、歯牙にもかける必要のない程の戯言であった。
彼のような人間の足りない頭では、弁護士=賠償のような構図が成り立っているのだろうか。自分よりも一回り近く下の年齢の、しかも女子に暴力を振るわれたという何とも悲しい物言いに、私は無意識に溜息を吐き出すが、私の隣に座る祖父の纏う雰囲気が変わっていくのが分かった。そんな明らかな怒気を纏い始めた祖父を制するように丑門さんは一つ息を吐き出した後で立ち上がる。突然立ち上がった丑門さん警戒心を剥き出しにする男女の横を通った丑門さんはその先にある窓の鍵を外した。
「ああ、話をする前に少し換気をして良いですか? ここはどうも空気が良くないようで……ん、立て付けが悪いのかな?」
他人の家に突然上がり込んで、その家の空気が悪いと口にするなど、完全な嫌味か誹謗中傷である。それを薄い笑みを浮かべながら語る丑門さんの姿に気圧されたように男女が頷いた。
ガタガタと音を出して開けた窓に網戸を動かし、少し外の空気を吸った丑門さんは再び先程と同じ場所に座り直す。その姿を見ていた私は、丑門さんが座るまで浮かべていた薄い笑みが、腰を下ろした途端に消え失せた事を感じた。
「何か勘違いをされておりませんか? 私は貴方達の為にここにお伺いした訳ではないのですよ。それに暴力を振るわれていたとおっしゃいましたが、既に周囲の住民の方々からはその時の様子、状況を聞き及んでおります」
テーブルの上で両手を合わせて握りこんだ丑門さんは、その顔を上げ、真っ直ぐに前に座る男へ目を向ける。その視線は威圧的な物ではないが、それでも疚しい心がある者は目を背けずにはいられない圧があった。
それでも何とかしようと足掻くように口を開き掛けた男は、上げられた丑門さんの手によって行動を止められる。
「今回お伺いした理由である有威さんは、貴方達お二人の実の娘さんですよね。出生届などを出されていない可能性も考えていたのですが、そちらの方はされていた事に安心致しましたよ。正直、貴方達のような人種は、子供が生まれたのに出生届も出さず、子供を無国籍にしてしまうような人間も多いですからね」
丑門さんの言葉はとても丁寧ではあるが、その言葉の内容は相手への侮蔑に染まっていた。同じ日本人であるのに『人種』という言葉を用いており、その意味は肌の色で区別する人種とは異なる分別である事は明確である。明確に言葉で表さないが、そこには正常者と異常者という区別があるように感じた。
親が実の娘を虐待し、殺してしまう程に追い込む。野生の動物であれば、厳しい環境で生きて行く事が出来ない程の欠陥を抱えた我が子を殺すという行動がある事にはあるが、人間という種族では、それは異常であろう。
「有威さんが生まれた事で仕方なく行った事なのか、それともその頃のお二人は夢や希望を持っていたのかは解りません。ですが、出生届の手続きをしていたという一点が、貴方達お二人を救った事だけは確かでしょう」
静かにテーブルに目を落とした丑門さんは、そのまま分厚いファイルを持ち上げ、その中から何枚かの書類などを取り出した。その書類を何枚かテーブルの上に広げる内に、目の前に座っている男女の顔色が悪くなって行く。
「既に2度の児童相談所と有威さんとの面談、1度の立入調査がありますね。その上で保護が出来なかったのは行政の方にも問題があるかもしれませんし、彼女の通う小学校からは一度も通告がない事も問題なのですが……。まぁ、既に貴方達の行動は問題視されていたという事です」
淡々と書類を一枚一枚確認するように語る丑門さんの声はとても冷たく、私に向けられた訳でもないのに、背筋に冷や水を垂らされたように寒気を感じた。隣に座る祖父が、私の背中に手を置き、ゆっくりを叩くように落ち着かせてくれなければ、私の身体は小刻みに震えていたかもしれない。
ましてや、そんな冷たい視線をまともに受けている男女に至っては、身動き一つ出来ないだろうと思い視線を向けたが、この男女は私が考えている以上にまともな人間としての機能が低下しているのかもしれなかった。
「有威は私達の娘よ! 他人にとやかく言われる筋合いはないわ!」
「そ、そうだ! 弁護士かなんか知らねえが、他人の家庭に口を出しやがって、何様のつもりだ!」
阿呆だ。
いや、それは阿呆に失礼かもしれない。気が狂っているとしか言いようがない。屑だ、ゴミだと思ってはいたが、ここまで来ると、同じ知的生命体だとも思えない。最早、人間ではない何かが憑いているのではないかと疑いたくなる程であった。
そう、私が初めて黄泉醜女に遭遇した時の八瀬紅葉という女生徒のように。
「家庭? 家庭と仰いましたか? 貴方達は家庭という言葉を辞書で引いた事がおありですか? 家族が生活を共有する場を家庭というのです。有威さんは家族としてこの場所に居場所があったのですか? そもそも貴方達は彼女を家族として見ていたのですか? 食事も与えない、暴力を振るい、清潔な環境も与えない。それでも家族? 家族だから何をしても良い? ああ、貴方達二人も法律上で私と家族になりますか? 貴方達の法則で言えば、その後、私が貴方達に何をしても家族だから良いという事ですよね?」
何が丑門さんの逆鱗に触れたのだろう。その顔は能面のように表情がなくなり、纏う雰囲気は先程までとは一変する。まるで怒っている時の丑門君のようであり、それは正しく『鬼』のような物であった。
言葉は丁寧だが、言っている事は正直滅茶苦茶である。法律上で家族になるという事自体その方法も、その中身も解らないが、その後の行動を示す内容が恐ろしい。
「ああ、話が逸れましたね。最初に言っておくべきでした。私は本日ここに交渉や嘆願、ましてや謝罪のような目的で来ている訳ではないのです。もし、貴方達が別の弁護人などをお雇いになられても、それを一蹴出来るだけの証拠と証明を持って来ていますので、事実報告と要求に来ているとお考え下さい」
その時の丑門さんの表情を、その言葉の冷たさを、私は生涯忘れる事はないだろう。
丑門君の母親も、私の祖母も、何処か逆らえない雰囲気を持っている。それは私の身体の中にある本能がそう理解している類の物であるのだが、丑門さんのそれは違った。
この人と敵対してはいけないと、私の理性が物語っているのだ。この人にはそれを遂行するだけの地位と知識があり、それは間違いなく履行される。それを否が応でも理解させられてしまった。




