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日本書鬼  作者: 久慈川 京
第三章 餓鬼
28/35

其の漆



 ボロアパートの姿が全く視界から消え、私も見慣れた通学路へと戻った頃、足元から聞こえていた嗚咽が止む。足を止め、屈み込んで問いかける私に対し、小さく頷きを返した少女の頭に手を乗せた。

 この子は感情を捨ててしまった訳ではないのだ。常に耐え、常に抑え込み、心や身体から溢れ出さないように必死だったのだろう。私の半分ほどしか生きていないこの小さな身体で、世の大人達よりも強い精神を持っているのだ。


「しかし、神山は本当に格闘技を習っていないのか? あんな蹴り、素人じゃ出来ないと思うんだが……」


「毎回毎回、本当に失礼な人ですね。あの時も咄嗟の事に身体が反応してしまっただけです。そもそも、丑門君が散々に痛めつけた後なのですから、私のような女子高生のキックでもなんとかなったのでしょうね」


 泣き止んだ有威の手を再び握った私に対し、失礼な事を口にする男を睨み付け、再び歩き出す。後ろからは『キックなんていうレベルじゃないだろ』とか、『決定打は神山の蹴りだろ』とか聞こえて来るが、そんな物は無視するに限る。


「それで、これからどうするんだ? 何をどうしようと、その子があの屑共の子供である事に変わりはないし、これは俺が悪いんだが、暴力を振るって攫ってきたような物だからな」


「……そうですね。どうしましょう」


 しかし、改めて口を開いた丑門君の言葉に、私の足が止まる。確かに考え無しの行動をしてしまったのかもしれない。今から思えば、何故あの時、私は動いたのだろう。後悔はないが、疑問は消えない。自分で言うのもなんだが、私という人間は基本的に他人の為に動く事はなかった。そこまで他人に感情移入をする事自体がなかったというのもあるが、何かの行動をする時には、その行動によって引き起こされる事などを考えてから行っていたのだ。

 だが、今回だけでなく、今の私は感情で行動を起こす事が少なくない。よくよく考えてみれば、それはこの町に入ってからではないかと思うのだ。この町に越して来て、あの神社で寝泊まりし、この彼に出会ってからのような気がしてならない。

 ふと視線を落とすと、先程の私の言葉によって不安を駆り立てられたのか、有威が眉を下げ、不安そうに私を見上げていた。


「大丈夫、私が何とかするから」


「……神山だけじゃ限界があるだろう。とりあえず、俺の家に行こう」


 この子に弱気を見せてはいけないという想いだけで口にした言葉は、とても無責任な物だっただろう。私自身が絶対に大丈夫だとは思っていないのだ。ただただ、大丈夫にしなければならないという想いだけで口から発した言葉は、後方から近づいて来た丑門君によって、内に秘めた不安を暴露される。その上で、彼は何故か自宅へと私達を招いた。

 男の一人暮らしの家に呼ばれるのならば流石に丑門君相手でも警戒はする。だが、彼は当たり前だが実家暮らしであり、ご両親と妹と一緒に暮らしている筈だ。まかり間違っても、両親が海外で暮らしていて、妹と二人暮らしという事はないだろう。それは彼の母親に会っている事、そしてその母親が家に彼が居る事を口にしていた事からも間違いないだろう。


「多分、母さんもいるし、幸音もいるだろうから」


「……ご迷惑ではないかしら」


 私の微妙な不安が顔に出ていたのか、丑門君が隣を歩きながら家に人がいる事を口にする。そうなると、逆に迷惑ではないかと感じてしまうのだ。感情的に行動を起こしてしまったが、このまま丑門君の家に行っても私の我儘を聞き入れるメリットなど何もなく、むしろ厄介事と考えられても仕方がない内容だと思う。

 故にこそ、言葉として漏れ出してしまったのだが、それを聞いた丑門君は何故か小さな笑みを溢した。


「その子は、幸音の友達だろう? 迷惑どころか、放っておいたら俺が怒られるよ、きっと」


 私を追い抜き際にそんな言葉を口にした彼の顔はとても優しい表情を浮かべていた。学校で誰からも忌避され、存在自体を消去されているような人間が浮かべる表情には見えない。彼にとって家族はとても暖かく、とても優しい物なのだろうと想像出来る表情であった。

 私と有威を先導するように歩き始めた丑門君の背中を見ながら、未だに不安の表情を浮かべている有威の手を取って私もゆっくりと歩き出す。陽が長い夏の一日もようやく終局へ向かい、西の空が赤く染まり始めていた。




 私の家である南天神社へ向かう方ではない道を通り、住宅街へと入って行く。夕方に近づいた住宅街は人通りがそれなりにあった。夏休みという事もあるが、この周辺の学校は全て夏季休暇を返上しての補修授業がある為、制服姿の学生なども見受けられる。それでも私と丑門君、そして有威の近くには人はほとんどいなかった。

 黙々と歩く丑門君の後に続く私と有威もまた、言葉を発する事はなく、その背中をひたすらに付いて行く。先程まで不安そうに私を見上げていた有威は、何かを諦めてしまったのか顔を下げ、アスファルトの道を見たまま歩いていた。その姿は本当に胸が痛くなる程の物で、私は彼女の手を握る力を少し強める。必ず、この子を守ろうという誓いを込めて。

 ようやく丑門君の足が止まり、私達の顔も自然に上がる。そこには二階建ての大きな家が建っていた。薄いクリーム色の壁、木目調の大きなドア、大きく綺麗な窓。分譲でも建売でもない事が一目で理解出来るような佇まいの建物であり、広い庭には人工ではない青い芝生が生い茂り、主のいない大きなガレージが入り口近くにあった。家を囲むようなブロック塀などはなく、低い木目調の白い柵で囲われている。


「大きな家……」


「すごい……」


 そんな家を見上げた私と有威は感嘆の声を上げてしまう。それを聞く限り、有威もまたこの家に来た事は無いのだろう。彼女が断っていたのか、そもそも誘われた事がなかったのかは解らないが、有威と幸音の友達付き合いは校内だけの関係であった事が解る。

 呆けたように家を見上げていた私達に困ったような表情を浮かべた丑門君は、敷地に入る為の小さな戸を開けた。まるでTVでみるようなアメリカの一軒家のような庭へと私も恐る恐る入って行く。そんな私の態度が移ってしまったのか、有威もまた何故か忍び足のような形で私に手を引かれていた。


「……ただいま」


「お帰りなさい」


 ガチャンという独特の音を立てて玄関の戸が開き、広い玄関に入ると、その音に気付いた彼の母親が玄関まで出て来る。パタパタという音がしていた事や、手を拭きながらである事から、彼女は台所からわざわざ出て来たのだろう。基本的に日本では見知らぬ来訪者が勝手にドアを開けて入って来る事はなく、それを確認する為ではないと考えると、家に帰って来た人間を出迎える為だけに出て来た事になる。

 夕食の支度をしている最中にも拘わらず、息子の出迎えの為だけに出て来るその姿に、私はしっかりとした愛情を感じた。何度も思っていた事だが、この母親が彼の為に弁当を作らないなどという事は絶対にあり得ない。そう確信出来る程、目の前に現れた母親の表情は柔らかく、優しかった。


「あら、深雪ちゃんと……」


「こんにちは。この子は、幸音ちゃんのお友達の有威ちゃんです」


 丑門君の後ろから現れた私と有威の姿に、若干の驚きの表情を浮かべた彼の母親に私は頭を下げる。息子が突然同い年の女子と幼い少女を連れて帰ってくれば、大抵の母親は驚く事だろう。だが、流石と言ったところか、彼女は即座に柔和な笑みを浮かべて私を見つめ、その足元に居る少女の姿を見て、若干顔を顰めた。

 その表情の変化に、有威は身を強張らせる。彼女にとって他者からの悪意は日常茶飯事なのだろう。だが、幼い為に、他者の表情しか分からず、その表情の内にある感情までは汲み取る事が出来ない。丑門君の母親が浮かべる表情は侮蔑や嫌悪ではなく、あの顔は有威の姿の後ろにある何かに対する疑問、憤りといった物だと私は思っていた。


「虎……何があったの?」


 それは、静かに紡ぎ出された言葉の声色に表れている。その瞳は厳しく細められ、表情は硬い。その言葉の意味と声色が一致していないと感じる程に冷たい物であった。

 私の足元に居る有威は、私の手を強く握る事で何とか恐怖を抑え込んでいるように見える。その私もまた、彼の母親が醸し出す雰囲気に気圧されており、口を開く事も出来なかった。

 そんな中、丑門君がゆっくりとその事情を話始める。有威という少女を数日前に見かけ、妹である幸音と一緒にいる所を何度か見ていた事。風呂に入っている様子もなく、食事をしている様子もなかった事で心配になり、幸音と喧嘩のような物をして飛び出して行った後を付いて行くと、親だと思われる存在に暴行を加えられていた為、助け出した事まで伝えた時、それまで静かに聞いていた母親が口を開いた。


「有威ちゃんを助け出した方法は?」


「彼女を蹴り続けていた男を強引に離した」


 静かでありながら嘘を許さない言葉の強さ。その言霊に乗せられた思いの強さに、私は口が開けず、丑門君でさえも若干言い澱んでいた。だが、それでも話さないという選択肢はなく、小さな声でそれを告げる。

 だが、彼が口にした内容は嘘ではないが正確でもない。何処か誤魔化すように話す彼の姿が普段の物とは異なる事に違和感を覚えながらも、私はそれに口を挟む事が出来なかった。


「……虎、その離した方法を聞いているのよ?」


「……男を蹴り飛ばした」


 丑門君がその口を開き、答えを口にした瞬間、静寂だった丑門家の玄関に大きな破裂音が響き渡る。音と同時に彼の顔が私と有威のいる方向へと向けられた。

 その行動は、私の足元に居る幼い少女の心の奥底にある恐怖を呼び覚ます物であり、私の腹部に顔を埋め、小刻みに震え出してしまう。先程まで本当に慈愛に満ちた優しい笑みを浮かべていた人間が起こした行動であるが故に、反動は大きく、少女の心に深い恐怖を刻み込んだ。

 私でさえも身の竦む思いをしているのだ。既に顔を母親へと戻した彼の頬が徐々に赤みを帯びて行くのを見る限り、相当な力で腕を振り抜いた事が解る。それが愛の鞭なのか、それとも衝動的な一種のヒステリック行動なのかが判別出来ず、間に入る事が出来ない。丑門君の言い訳も聞かずに暴力を振るっているようにも見えるが、逆に何かに耐えるように表情を歪ませているのも分かってしまった。


「……そんなにも、虎の周りにいる大人は頼りないの?」


 そんな母親の想いは、絞り出すように吐き出された言葉に乗せられていた。だが、何かに耐えるように顔を歪めたのは一瞬で、その後は引き締まった表情に戻して丑門君を睨み付ける。その表情を見た丑門君は蛇に睨まれた蛙のように身動きが出来ずにいた。

 私にとっては、物語や漫画に出て来るヒーローのような存在である彼が、身動き一つ出来ずに佇んでいる。大勢の不良に囲まれても揺るがずに叩きのめし、刃物を持ち、人を殺す事にも躊躇をしない殺人鬼にも素手で立ち向かった彼が、布製のエプロンを掛けた女性には反論さえも出来ずに佇むしかないのだ。それは、私にとって信じられない光景のようで、何処か納得出来る当然の景色でもあった。


「有威ちゃんを助けた事は褒めます。流石、私とあの人の息子ね。良い事をしました。だけど、虎の『護る』、『助ける』という想いは、暴力なしでは成し得ないものなの? 虎は、有威ちゃんを助ける時に、『助ける』という行為を免罪符に自分の黒い感情を誤魔化したのではないの?」


「……」


 母親のその言葉は、間違いなく丑門君に向けられていた。だが、何故か私は、その言葉が自分に向けられているように感じてしまう。私はあの時、とても大きく深い闇のような感情に塗り潰されそうになっていた。黒く深すぎた闇は、他者の生命さえも軽んじる程の物であり、あの時の私は本気で有威の父親らしき人間を殺そうと思っていたのだ。本気で殺しても良いと思ったし、死んで当然だとも思った。死より辛い苦しみでのたうち回れば良いとも思ったし、死後も苦しみ続ければ良いとも思った。今から思えば、あれは本当に『私』の想いだったのだろうか。

 あの時、私は確かにあの存在を感じていた。私のすぐ傍で笑みを浮かべ、奇声のような笑い声を上げる女。何に愉悦を感じているのか、何に歓喜しているのかは解らなかったが、それでもその高揚感が私に伝わる程だった。私自身の胸には怒りと憎悪が真っ黒な闇となって蠢いていたのに、何故かその高揚感までも感じてしまうという奇妙な状況であったのだ。


「それは、私が……私が行動を起こしてしまったからです! この子に暴行を加えている男を見た瞬間に、どうしても怒りを抑えることが出来なくて……。丑門君は私を助けてくれたんです。結果的にあの男に怪我を負わせてしまったのは私です」


 だが、どれだけ奇妙な物であろうと、あの状況を生み出してしまったのは私であり、丑門君ではない。有威という少女を助けたいと願ったのも私であり、彼の言葉も振り払って学校を出たのも私である。彼女の後を追ったのも私であるし、彼女に暴力を振るう男に対して憤怒の感情を剥き出しにし、あまつさえ死を与えてやろうとしたのも私であった。

 故にこそ、この母親から叱責を受けるべき人間は私であり、丑門君ではない。彼は私の我儘に付き合ってくれたのであって、率先して有威という少女に肩入れをしていた訳ではないのだ。一人で何とかしようと先走る私を窘め、大人を頼るように苦言を呈してくれたが、それでも突っ走る私に仕方なく同行してくれていた。


「……深雪ちゃん、ありがとう。それと、有威ちゃん、驚かせてしまってごめんなさいね。幸音は帰って来てからずっと部屋に閉じ籠っちゃってるから、一緒にお風呂にでも入ってあげて頂戴」


 そんな私の横槍に、丑門君の母親は驚いたように目を見開くが、その目元は瞬時に柔らかく優しさに満ちた物へと変わって行く。そして、その優しい目が私の足元で怯える有威へと移り、そこで初めて自分の行動が少女に与えた影響に気付いたようであった。

 一つ息を吐き出し、私に向かって笑顔を浮かべる。そして、私の服を掴んだまま怯える有威の頭に手をゆっくりと置いた。怯えている筈の彼女がその手をすんなりと受け入れたのは、丑門君の母親が浮かべる笑みが優しく温かい事、そして害意を欠片も感じない事があったのだろうが、私は足元に感じていた小さな震えが少なくなった事に安堵した。


「深雪ちゃんも上がって行ってね。虎はお風呂の準備。あとの事は私達大人に任せなさい」


 そう言った母親は、そのままエプロンのポケットに入っていたスマートフォンを取り出し、何処かに電話を掛け始める。然して時間を置かずに話し始めた口ぶりからすると、親しい間柄なのだろう。時折『あなた』という文言が聞こえる事から、もしかすると丑門君の父親なのかもしれない。

 固まって動けない私の背を誰かが押す。振り返ると、何かに諦めたような顔をした丑門君が私を誘うように玄関で靴を脱いでいた。急かされるように靴を脱いだ私は、未だに呆けたような有威の手を引いて靴を脱がせ、その時に玄関先で有威の服に付いた埃や砂を叩き落とす事を忘れずに家に上がる。


「……深雪ちゃん、階段を上がって目の前の部屋が幸音の部屋だから、有威ちゃんと一緒に呼びに行って貰えるかしら」


 スマートフォンから耳を話し、私に向かって声を掛けるその顔には優しい笑みが浮かんでおり、先程、誰もが恐れる男子生徒の頬を力一杯に叩いた人間とは思えなかった。だが、直ぐに電話に戻った時の顔を見て、その声を聞くと、やはりこの人は丑門統虎の母親なのだと納得してしまう。

 その上で、この人が話をしている相手が誰であるのかが気になった。おそらく、口ぶりやその内容から考えて丑門君の父親に当たる人間である事は間違いないのだろうが、それでも今回の事情が事情なだけに、普通の大人では対処が難しい気がするのだが、彼の父親は特殊なお仕事でもされているのだろうか。


「……そうね。お願いするわ。神山さんの方には私の方からも少し話をしてみますから。今日の夜にでも詳しい話が出来るようにお願い。……あら、自分の息子の事よりも大事な案件があるの?」


 私の足は何故だかその場から動く事が出来ず、私に背を向けて電話をしている彼の母親に視線が釘付けになっていた。柔らかく優しい声にも拘らず、何処か強制力と凄みを感じる声。それは何処か私の祖母の声にも似通っているように感じる。祖母程の力はないし、祖母程の安心感もない。それでも、逆らってはいけないと思える何かを持っていた。

 特に電話の向こう側にいる人間に対して後半に口にした言葉は、絶対に反論をしてはいけないと寒気すら覚える程の物で、その後に発した『冗談ですよ』という文言が虚しく聞こえる程であった。


「……神山、まだこんな所にいたのか? お湯が張れるまで少し時間が掛かるけど、それまで幸音の部屋で待っていて貰って良いから」


「え? あ、うん」


 後方から再び現れた丑門君の声で我に返った私は曖昧に頷きを返し、不安そうに見上げる有威の手を引いて階段を上がり始める。有威は抗う素振りは見せないが、その足取りがとても重いのが見て取れた。彼女なりに、幸音に対して発した言動に対する罪悪感や後悔の念を持っているのだろう。それでも、無理やり向き合わせようとするのが果たして是なのか、それは私にも解らない。もし、有威という少女が本心から幸音を嫌っているのであれば、私のしている行動は虐待と同じなのではないだろうか。そんな考えさえも浮かんで来た。

 階段を上り切った場所の正面に、部屋へ続く扉がある。可愛らしい木目調のボードに『ゆきね』というひらがなでその部屋の主の名が刻まれていた。

 私の手を握る小さな手が震えている。しかし、彼女の眼は私に向けられている訳ではなく、しっかりとネームプレートへと向いていた。本当にこの娘は強い。あのような実親からの虐待を毎日受け、そして今日もまたそれを受けていた上で、再び自分にとって苦痛となり得る場面へと向かおうとしているのだ。


「有威ちゃん、嫌だったらちゃんと言ってね。私は貴女が嫌がる事をさせるつもりはないから」


 その健気な姿勢に、私は扉を叩く前に一呼吸を入れる事にする。そんな私を見上げた彼女は、ゆっくりと首を横に振った。それは何を意味するのかが解り辛く、私は少し首を傾げる。だが、彼女は全てを伝え終えたかのように、再び視線をネームプレートへと向けていた。


「大丈夫なのね?」


 私の言葉に、志を決めた少女が小さく頷く。この頃の少女にとって友人との確執の修繕というのは一大事なのだろう。彼女にとっても丑門幸音という少女はとても大きな存在だったのかもしれない。『大嫌い』という言葉で反射的な拒絶を示してしまったとしても、心では彼女をとても頼りにしていたのだ。

 親からの虐待により、彼女は校内で明らかに浮いていたであろう事は推測出来る。それが浮いていただけであれば何ともないのだろうが、いじめへと発展しかねない程に彼女の境遇は酷かった。

 異臭を放つ程に身体は汚れ、衣服も元の色が判別出来ない程に汚れ、栄養を取っていない為に全てが虚ろであった。それは最早『人』とは呼べない存在であったと云える。そんな彼女に対して、どんな思惑があったのか解らないが、手を伸ばしたのは幸音だけであったのだろう。学校の教員さえも有威という少女の存在を避ける中、幸音だけは彼女に話しかけ、笑いかけ、触れていた。それがどれ程に有威の心に影響を与えたのかは私では想像も出来ない。煩わしいと感じたのか、嬉しいと感じていたのかも分からない。ただ一つ、有威にとって幸音という少女の存在は、私が思っている以上に大きな物であったという事だけは理解が出来た。


「じゃあ、行こうか」


 私は有威の手をしっかりと握ったまま、目の前の扉をノックした。この扉の先にあるのは、有威の心を救う物なのか、それとも壊す物なのか。当事者ではない私でさえも、何故か動悸が激しくなって行った。

 中から小さく細い声が聞こえ、扉に向かって来る人の気配を感じる。ドアノブが下がる音が響き、ゆっくりと扉が開いた。



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