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日本書鬼  作者: 久慈川 京
第三章 餓鬼
27/35

其の陸



 正午を過ぎ、益々太陽の熱が上がって来るこの時間に、私と丑門君の二人は通学路を逆に歩いて行く。心が逸っているのか、歩く速度は通常よりも速くなっており、お互いに会話をする余裕すらなかった。

 私の胸は焦りや恐怖、そして何よりも身勝手な使命感に満たされている。『彼女を救わなければならない』『それが出来るのは自分だけだ』というような、後に考えれば余りの身勝手さに自分でも恥ずかしくなる程の物であろう。


「きっと有威ちゃんはあそこにいる筈だから」


「そこまで急ぐ必要はないぞ。小学校も今日は給食らしいから」


 ようやく絞り出した私の言葉に丑門君が律義に返してくれる。だが、その言葉の内容を理解しながらも、私は素直に受け入れる事は出来なかった。例え全員が給食を食べていたとしても、彼女もまた食べる事が出来ているとは限らない。あの身体の様子からしても、彼女が満足な食事をしているとは思えないのだ。

 小学校の場合、給食費という物が存在する。現在の日本に於いて、公立の小学校、中学校の給食の無償化という事が進んでいるが、それでも全ての県の全ての学校が無償化にしている訳ではない。少なくとも私の通っていた小学校は給食費が必要であった。

 給食費を払えなければ、その日から給食を食べられないという訳ではない。ガスや水道のように、支払わなければ強制的に止められる訳でない。だが、教員は感情的に苦しくとも、その親や子供本人に給食費の事を話さなければならないだろうし、人の口に戸は建てられない為、そのような悪しき噂は即座に広まる。そして、子供はある意味では大人よりも残酷なのだ。

 有威という少女を見る限り、そんな周囲の視線や陰口を無視して給食を食せる程に図太いとは思えないし、あの狂気染みた姿を見る限り、空腹に耐えたまま給食を食す人間を眺めている事も出来ないのではないかと思う。

 もしかしたら、昼休みの時間もまた、あの子はあの場所にいるのではないかと私は考えていた。


「……やっぱり」


 そしてそんな私の予想は的中する。未だに遠目からではあるが、あの小さな公園にそれよりも小さな少女の影が見えて来た。小さくぽつんと座るその影は、何処を見るでもなく、ぼんやりとそこにあったのだ。

 慌てて駆け寄ろうと足を速めた時、私は腕を強引に掴まれた。少なくない痛みを肩に受けた私は、痛みによる怒りと逸る気持ちの苛立ちとで、腕を掴んでいる人物を睨み付ける。一刻を争う状況である事は彼も分かっている筈だ。それにも拘らず、私の行動を阻止するのであれば、彼もまた私の敵という事になる。


「何故止めるの!?」


 声を荒げる私に目線を送る丑門君の顔には申し訳なさそうな色が浮かんでいるが、それでも私の腕から手を離さない様子を見ると、何があろうと私を行かせる気がない事が解った。

 それが何故なのかも彼の視線を辿れば答えが出る。それは、有威という少女が座る小さな公園に駆け寄る一人の少女が原因であった。

 それは以前にも私が隠される原因となった少女であり、私の腕を掴んでいる彼の妹でもある。『丑門幸音』という名を持ち、『丑門統虎』という兄を持ちながら、その兄を誰よりも恐れ、忌避しているようにさえ見える少女であった。


「有威ちゃん、帰らないの?」


 腕を掴まれた私が動けない間に、彼女は小さな公園に入り、そのまま有威に近づいて行く。そのままベンチの前に立った彼女は、静かに座る少女に声を掛けた。

 遠目ではあるが、幸音の表情を見る限り、彼女は心から有威という少女に出会えた事を喜んでいるように見える。正直、見た目も臭いも尋常ではない少女に出会えた事を喜ぶという状況が異常ではあるのだが、彼女達の間には私が解らない何かがあるのかもしれない。少なくとも、丑門幸音という少女からは有威という少女への好意しか見受けられなかった。


「こんなところに座っていたら暑いよ? 帰ろうよ」


 しかし、そんな彼女の好意的な物言いとは裏腹に、有威という少女の対応はとても冷ややかであり、その声の主に視線を移す事も、その言葉に声を返す事もない。ただ、先程と同じように虚空を見つめ、時間が過ぎて行くのを待っていた。

 自分の言葉を無視されているのだから、通常の人間であれば怒りを覚えたりするのだろうが、丑門幸音という少女は少し特殊なのか、人形のような有威に向かって再び声を掛け始める。それはもしかすると自己満足の一人遊びのような物なのかもしれない。有威という少女の姿に何かを気負った様子はないし、それを幸音が気にした様子もない事から、これが彼女達にとっては素の行動なのだろう。つまり、学校などでも彼女はこのような態度をしているに違いなかった。


「丑門君、いい加減に離して」


「……わかった」


 既に、二人のやり取りが聞こえる程の距離に近づいているのだ。今更私を止めたところで、彼女達が私達の存在に気付くのも時間の問題であろう。彼が何故にそこまで妹の存在に遠慮をしているのかは分からないが、乱暴な物言いをすれば、私には関係のない事である。今の私には、有威という少女の方が一大事であり、彼や彼の妹の感情を優先させる程の余裕はなかった。

 腕から彼の手を確認すると、私は彼女達二人の方へと歩き出すために足を踏み出す。だが、その足は、先程から一言も口を開いていなかった少女の発した言葉に制止された。


「……放っておいて」


 小さく呟かれた言葉なのに、その言葉は空気の層を突き抜く程の何かを纏っており、少し離れた場所に居た私や丑門君の耳にもしっかりと届く。それは明らかな敵意が含まれた声であり、明確な嫌悪が刻まれた言霊であった。

 好意を前面に出している幸音とは正反対の物であり、自分に好意を向けている相手に対して放つ物ではない。だが、それを向けられた当の本人である幸音は、その感情に気付いていないのか、それとも向けられた感情さえも意に介していないのか、微笑を浮かべたままであった。


「そんな事出来ないよ。だって、幸音は有威ちゃんと友達だもん」


 それはとても無邪気な宣言。私も小さな子供の頃は、何度も遊んだ事のある人間は皆が友達だと思っていた事もあった。だが、小学校を出て、中学に入り、高校へと進むと、友人だと思える人間は多くなく、その多くが顔見知り程度の人間である事を思い知るのだ。

 友人だと思っていた人間の事をほとんど知らない。その人間の家庭環境や交友関係、趣味趣向や嫌悪する物。表面上の付き合いだけではそれらを理解する事など出来ず、結局は物理的な距離が離れれば、その関係性も疎遠になってしまうのだ。もし、中学や高校で友人だと思っていた人間と、大人になってからもう一度会う事があれば、その時に本当の友人になれるのかもしれないが、今の私にはそれを理解する術はなかった。

 子供の頃の友達宣言は、相互の理解の物ではない。片方が友達だと思っていても、もう片方はそう思っていないなんて事は良くある話だ。そして、そんな私の考えは見事に的中する。


「友達じゃない!」


「え?」


 その声は何処から出て来たのかと疑問に思う程、その声は広く響き渡った。今までの呟くような敵意ではなく、はっきりとした嫌悪であり、拒絶。それは最早憎悪に近しい物であったかもしれない。

 そして、その感情が込められた言霊は、今までの敵意を風のように流していた幸音の心にもしっかりと届いてしまう。一瞬、何を言われたのか、それがどのような意味を持つ物なのかを理解出来ていなかった彼女だったが、今では自分の目をしっかりと睨み付けている友人の目を見て、その全てを悟る事となる。

 幸音の表情を見る限り、彼女は本心から有威という少女の事を友達だと思っていたのだろうし、心から彼女の境遇を心配していたのだろう。だが、哀しいかな、幸音のような幼い身では出来る事が限られている。学校でも、外でも、彼女に声を掛ける事しか出来ず、それでも何とかしたいと考えていたのかもしれない。

 しかし、そんな彼女の想いは、有威という少女の閉じられた心には届いていなかった。


「……な、なんでそんな事言うの?」


「……幸音ちゃんが嫌いだから」


 そしてそれは最悪な形で告げられる。嫌悪感というのは、空気に等しい。『ああ、この人は私の事が苦手なんだな』という空気感が漂うのが嫌悪感なのだが、はっきりと告げている訳ではない。だが、それを言葉にしてしまえば、決定的な物となり、揺るがない事実となる。空気感だけならば、いくらでも誤魔化しようはあるのだが、それを口にしてしまえば、明確な意思となり、想いとなる。

 子供にとって、好き嫌いは簡単に口に出来る言葉である反面、とても単純に心へと届いてしまう言葉でもあった。私ぐらいの年齢になれば、他人からの好き嫌いの言葉など歯牙にもかけない。好きな人もいれば、嫌いな人もいるだろう。そしてその比率は2対8で嫌いの方が多いだろうと考える事も出来るのだが、小学生ぐらいであれば、その小さな世界の中が全てであり、その世界で生きる人達が全てなのだ。だからこそ、簡単に口にする好き嫌いが心に大きな傷をつける一撃となり得るのだ。

 その証拠に、今の幸音の顔は、絶望という文字に塗り潰されていた。


「……でも、でも、私は有威ちゃんが好きだよ」


「……私は大嫌い」


 何とか反論をしようとする幸音の言葉に被せるように、有威は最終通告を口にする。それは、彼女達の間にあった僅かな絆を打ち壊す楔となった。

 傍目に見ても音を立てて崩れて行く関係性をこのまま見守るつもりはない。意を決したように足を踏み出した私の存在に、彼女達二人もようやく気付く事になる。そして、二人の目には私以外の人物の存在も映り込んで行った。

 振り返らなくても私には解る。きっと彼は、心配そうに、そして申し訳なさそうに佇んでいるだろう。何か声を掛けてやりたいが、それが出来ないもどかしさと、それが出来ない自分を許せないという行き場のない憤りが混雑したような表情を浮かべているに違いない。


「ひっ!」


 そして、そんな彼の姿を見た彼女だけが、恐怖に身体を竦ませた。この中で唯一の血縁であり、彼が最も心を砕いている少女だけが、彼に対して過剰なまでの反応を見せたのだ。

 震える足が後ずさる。恐怖に硬直して尚、彼女は自分の身を守る為にこの場から逃亡する準備を始めていた。その姿は、私から見れば不快感を覚える者であり、丑門統虎という人間性を多少なりとも理解した私にとって、彼女の行動は眉を顰めるに値する物であったが、私以上に不快感を覚える者がこの場にいるとは思っていなかった。


「……護ってくれる人を怖がる幸音ちゃんなんて、大嫌いなの!」


 いつの間にか立ち上がっていた有威は、目に涙を溢れさせ、逃げる準備を始めていた幸音に向かって力一杯に叫んでいた。その言葉も、その声量も、この場にいる者達全てを硬直させるに値する威力を持つ。彼女の名が表すように、彼女が発した物にも威力が込められていた。

 驚いたように有威を見た幸音は、そのまま全てから逃げるように公園を飛び出して行く。最早振り返る事もなく消えて行く小さな後ろ姿を呆然と見つめていた私達の横を、有威もまた駆け抜けて行った。


「待って!」


 慌てて伸ばした私の手は、彼女の腕も服も掴む事は出来ず、その小さな背中もまた、坂の向こうへと消えて行ってしまう。思わず膝を着いてしまいそうな程の絶望感を覚えた私の視界が大きな影に覆われた。

 見上げる私の目に、二つの影が映る。それは対照的な表情を浮かべながら、何処か似通った空気を醸し出しており、一つは苦悶の表情を浮かべた最近私の傍にいてくれる男子生徒、もう一つは、光悦として笑みを浮かべる常に私を苦しめて来た女性の影であった。


「神山はまだ諦めないんだろう? 行こう」


 だが、黄泉醜女の影の笑みは、すぐに陰る。

 私でさえも予想していなかった彼の声が、私の心の奥に広がり始めた諦めを吹き飛ばし、希望を湧き上がらせた。同時に見えていた黒い影は霧散するように消えて行き、私の視界がクリアになる。

 勇気を貰った。希望を貰った。あとは私が動くだけである。私はほんの少し前に彼に向って大声で宣言しているのだ。『私はあの子を見捨てない』と。それをこの程度で挫ける訳にはいかない。

 あの子は最後に自分の心の内を叫んでいた。その意味までは分からない。『護ってくれる人がいるのに!』というのは、彼女が望み続け、そして諦め続けて来た事なのだろう。いつでもこの公園で、自分を助けてくれる人を求め、自分を護ってくれる人を求め、そして諦める。それでも願い続けて来た唯一の想いなのかもしれない。

 彼女を私が救えるとは思わない。私は自己中心的な人間だと思う。そんな私でも、彼女を救えると思える程傲慢でないのだ。だが、助けたいと思う。見捨てたくないと思う。全ての物に餓えた子供にしてはいけないと思う。あの子を『餓鬼』にしてはいけないと私はあの場所で、あの時に、天照大御神様に誓ったのだ。


「うん」


 私が走り出すのを待ってくれていたのだろう。有威の背中が消えて行った方向へ駆け出した私の後ろを彼もまた付いて来てくれる。彼と出会って数か月、祖母や祖父以外の人間をこれ程に頼もしく思うようになるとは思いもしなかった。それがとても嬉しく、そして少し気恥ずかしい。だが、この後に待っているであろう、予想出来る最悪な状況を考えて再度気を引き締めた。


「神山、たぶんこっちだ」


「うん」


 私が駆け出すまでそこまで時間が経っていたとは思えない。まして、あの小さな女の子の足が私達よりも早いとはとても思えないのだ。それでも走ってもあの子の背中はいつまでも見えては来ない。私も丑門君もあの子の自宅は知らない為、一度見失えば解らない筈なのだ。

 だが、彼は何か確信を持っているかのように淀みなく私に目的地への行き先を告げて来る。もしかして、彼は妹の行動をストーキングして友達である有威という少女の自宅を突き止めているのかもしれないと馬鹿な考えが浮かんで来るが、今はその言葉を信じるしか方法なく、一心不乱に掛け続けた。


「ぎゃっ」


 そんな私達の耳に、小さな子の悲痛な叫びが入って来たのは、走り始めて5分ほどが経過した頃だった。聞く者の身体の奥に眠る潜在的な何かを揺さぶり、不快感を覚えるその声に、私の足が急停止する。

 私の右手にある古ぼけたアパート。今時、このようなアパートがまだ存在するのかと思う程の佇まいは、時代で言えば昭和感の強い物であった。罅の入った壁、錆が浮き、真っ茶色に変色した金属の階段。見た限り、風呂などないであろう部屋が3つずつある二階建てのアパートの二階からその声は聞こえて来ていた。


「神山!」


 後ろからの制止の声も聞かず、私はアパートの敷地へと入る。茶色く変色した金属の階段の手すりの一部は腐食が進んで取れていた。その先にある二階部分からの落下を防ぐ為にあるであろう柵もまた、所々が腐食によって歯抜けになっており、そこに探し求めた少女が横たわっている。それを見た瞬間、私の視界が真っ赤に染まって行った。

 横たわる少女の身体は、歯抜けなった柵の間にあり、必死になって残る柵にしがみ付いている。そして、その少女の身体を容赦なく踏みつけ、蹴り落そうとする足。その足の持ち主は、吐き気がする程に歪んだ笑みを顔に張り付け、私では理解出来ない言語を発しながら何度も何度も足を振り下ろしていた。


『……不浄の者め、黄泉國すら行けぬ不浄の魂を持つ者め。鬼に食われ消え失せる魂如きが』


 私の頭の中に響く言霊が、私の中に燻っていた怒りを増幅させて行く。今も尚、奇声を発しながら嬉々として少女を蹴り落そうとする醜い何かをこの現世から消し去りたい。黄泉にも常世にも、幽世にも行かぬように、あの醜い何かの存在自体を無に還したい。そんな想いが増幅して行き、私の横に立つ黒い影さえも気にならなくなる。

 私の横に立つ黒い影は、いつの間にか着物を纏っていた。あの時ほど煌びやかではないが、それでも裸婦ではない。妖艶で狂おしい笑い声が聞こえて来る。私の胸に湧き上がる殺意が増幅され、怒りが憎しみとなり、黒い何かが吹き出しそうになった時、私の肩が叩かれた。


「……神山? もう、アレ、殺して良いよな?」


「え?」


 真っ赤に染め上げていた私の視界に色が戻って行く。それと同時に先程から聞こえなくなっていた少女の苦悶の声が刺さるように耳に入り、醜い何かが発していた理解不能であった奇声が、明確な言語として頭の中に入って来た。

 未だに私の横では着物を纏った女が笑みを浮かべて立っており、その視線の先にはとても不穏な闇を纏った彼が立っている。不思議と今の私は、この黄泉醜女であろう影に恐怖心はなかった。それ以上に、ゆっくりと歩き出した彼の姿の方が余程に恐ろしかったのだ。


「……貴方達、悪い事を言わないから、関わらない方が良いわよ」


 彼の姿に硬直してしまった私の横に、老婆が現れたのはその時であった。このアパートの1階の住人なのだろう。それ程裕福そうには見えない格好をした老婆が、若い私達に危害が加わるのを心配して声を掛けてくれたのだ。

 本当に私達の身への心配からなのか、それともその後に来る自分達の危険性への心配からなのかは解らないが、それでもここで声を掛けて来たという事は、この光景を彼女は何度も目にして来たのであろう。最初は止めに入ったのかもしれない。だが、それは無駄に終わり、その反動が他人へ向けられた事もあったのだろう。だからこそ、この老婆は私達の行動に釘を刺したのだった。


「丑門君! 殺しては駄目!」


 そんな老婆の忠告など聞こえないかのように歩き出した丑門君に叫んだ私は、咄嗟に購入したばかりのスマホを取り出す。そのまま震える手で動画機能をONにし、階段の上で行われている行為を収めた。

 僅か数秒の撮影ではあったが、必ず役に立つ筈だという自信がある。この世は大人が力を持っており、子供と呼ばれる未成年には力がない。それは発言力も、権力も、説得力もであるが、行動力だけは若い私達の方が上なのだ。

 丑門君を追って、錆びた金属の階段を上った私は、そこで再び殺人鬼と相対した時のような彼を見る事になる。


「こんな時間に帰ってきや……ぶひゃ!」


 未だに幼い少女を蹴り続ける男が何かを言いかけるが、その言葉は最後まで発する事が出来なかった。不思議な事ではあるが、私はこの場所まで来て初めて、それが男性である事に気付く。やせ型の不健康そうな体系に、染めているのか、それとも地毛なのかが解らない手入れもされていない色の抜けた髪。私の中にある敵意も多分に含まれているとは思うが、見るだけでも不快感を覚える風貌の男が、丑門君の前蹴りを腹部に受け、古いアパートのべニア板の張ってあるドアにぶつかって崩れ落ちた。

 崩れ落ちた男をそのまま丑門君が踏みつける。踏みつけているのか蹴っているのか解らないが、丑門君が足を動かす度に、男の悲鳴と薄いドアの軋む音が響いた。その間に私は廊下の柵にしがみ付き丸くなり、『ごめんなさい』という言葉を繰り返し唱え続ける少女の身体を起こす。何も抵抗するつもりもない少女は素直に身体を起こすが、全てを拒絶するように、何も見たくないと目を瞑ったまま、腕で頭を守って『ごめんなさい』を繰り返し続けていた。


「有威ちゃん、もう大丈夫だから、大丈夫だから」


 私の声が彼女に届くように、しっかりと抱き締め、何度も何度も耳元で『大丈夫』を繰り返す。震える小さな身体は、自分を守るように更に小さくなっており、私の抱擁を拒絶する様子はないが、それでも強張ったまま謝罪を繰り返していた。

 有威の姿を見る内に、先程まで感じていた黒い闇が再び私の心を覆い始める。このような幼い少女が己の感情さえも潰し、ひたすらに謝る事しか出来ない状況に追い込む事が親のする事なのか。この子は何故自分が謝罪をしなければならないのかという理由さえも理解していないだろう。そもそも謝罪する必要などないのだ。

 この子をここまで追い詰めた人間に同じ苦しみを味わせてやりたい。いや、それ以上の苦しみ、痛みを与えてやりたい。そう思ってしまう。


「いつまでやってんのよ!」


 私の心から黒い何かが溢れ出し始めた頃になって、丑門君に蹴り続けられていた男が凭れ掛かっていたドアが勢い良く開いた。そのドアの勢いが幸いし、男は廊下を転がる事で丑門君の攻撃から逃れる事となる。

 ドアから出て来たのは女。若いと言われれば若く、歳を重ねていると言われれば納得する容貌をしている。くたびれた長めのTシャツを着ているが、下は下着以外着けていないのだろう。だが、正直、私が見た黄泉醜女よりも魅力を感じない姿は、この女の性根を物語っているようであった。


「痛い!」


 ドアから出て来た女も、そこに広がっている光景が予想外の物だったのか、絶句するように驚愕の表情を浮かべており、私も丑門君も突然の登場人物に呆然としてしまい、その行動に気付かなかった。男が転がって来たのは、私の傍であり、それは必然的に有威という少女の近く。そしてそれは手を伸ばせば届く距離であった。

 助けを求めてという訳ではないのだろう。男は無遠慮に乱雑に切られた有威の髪を掴んだ。それを見た瞬間、私の中に燻っていた何かが一気に燃え上がる。掴んだ男の腕の手首の内側を左足で思い切り蹴り付け、有威の髪から手を離した男の顔面を右足で思い切り蹴り抜いた。


「ぎゃっ」


 吹き飛んだ男が再びドア付近へと転がると、その姿と私達を見比べた女が、ヒステリックな声を上げる。その声を聞いた為か、丑門君に先程までのような鬼気はなく、一度大きな溜息を吐き出した後、私の方へと歩み寄って来た。

 だが、落ち着いたのは、一方的に攻撃を繰り出した私達だけであり、逆の立場にあった二人の男女にとって、暴漢に襲われたと同じであろう。一息付いてからは火が付いたように喚き始める。気が狂ったように喚く女と、鼻血を出しながら喚く男。丑門君は敢えてなのか、顔面への攻撃はしていなかった為、あの鼻血は私の仕業なのだろう。


「てめぇら、ぶっ殺してやるからな! 有威、てめぇもだ!」


 何語なのか解らない声を発していた為、男の声も女の声も右から左へ聞き流していたのだが、最後の言葉が、落ち着いた筈の私の心に再び火をつける。耳元では黄泉醜女が相変わらず不快な笑い声を上げている。何がそれ程に嬉しいのか、何がそれ程に楽しいかは解らない。だが、黄泉醜女にとって、この状況が好ましい物である事だけは分かった。

 そんな現世に存在しない者の事など気にも留めていられない程に、私の中の黒い炎は燃え上がっており、しがみ付く様に私に縋りつく有威の身体をしっかりと抱き留めながらも、ゆっくりと立ち上がった。


「……殺す? 殺すって言ったのですか? 貴方達は、まだこの世に居られるつもりですか? 黄泉にも行けず、天にも還れない者達に何が出来ると? 塵にも劣る魂など、どうなっても良いですけど、まだこの世で生きていけると考える貴方達が不愉快です。この現世で生きて行く事が出来ないように追い込んで差し上げますよ。自ら殺して欲しいと訴え、無に還りたいと請う程の苦しみに落ちなさい」


 私の言葉を聞いた男女は、最初の内は何かを喚こうと怒りを露にしていたが、徐々にその顔に怯えのような物を明確に浮かべ、顔色を青白く変色させて行く。うら若い女子高生に対して随分な態度だが、私の横にいる丑門君の表情もどことなく引き攣っているように見えた。

 先程まであの男に向けていたような鬼気は存在せず、何処か呆れたような表情で私を見る丑門君に対して、何故か私は安心する。そんな彼の様子の何処に安心する要素があるのかは分からない。むしろ、私に対して引き攣った笑みを浮かべる失礼な態度に腹立たしくなる筈だが、何故か『これなら大丈夫だ』という安心感の方が大きかったのだ。


「……行きましょう」


「あ、ああ」


 しがみ付く有威の手を取った私は、呆気にとられたままの男女に背を向け、錆びた階段を下りて行く。有威の方は抵抗する気もないのか、素直に立ち上がり、私を見上げるようにしながら付いて来た。

 階段を降りると、そこには先程いた老婆以外にも数人の人間が奇異と怯えの目を私達に向けており、このボロアパートの住人であろうその人間達は、私達が通る為の道を空けようと身体を動かしている。それは、あの学校内での丑門君や私への接し方と同じような物で、それが可笑しく、思わず笑みを零してしまう。その私の姿がより一層不気味に映ったのか、全ての者達の顔が歪んだ。


「後日、今までにこの子が受けて来た事の証言をお願いする事になるかもしれませんが、よろしくお願いしますね」


「……は、はい」


 私はにこやかな笑みを浮かべたまま、最初に会った老婆に頭を下げるが、返って来たのは躊躇いと恐怖が入り混じったような失礼な反応。こんなにも柔らかな笑みを浮かべているというのに、何故そのように怯えられなければならないのか。私が笑みを濃くすれば、尚更に恐怖を顔に張り付ける人達の姿を一瞥し、私は有威の手を引き歩き始めた。

 後ろから聞こえた大きな溜息が誰の物なのかは分かっているが、ボロアパートから距離が離れ始めた事で私の足元から聞こえて来たすすり泣きの方が胸に刺さり、無言で私は歩き続けたのだった。



長くなりすぎましたので、二話に分けさせて頂きます。

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