其の伍
あの後の夕食に出て来た唐揚げを私は美味しく食べる事は出来なかった。
口に運ぼうとする度に、有威という少女の変貌した姿がチラつくのだ。血走った目で全てを飲み込むように口へ運んでいく姿。味わうなどとは程遠いその姿は、『食』に困った事のない私にとっては異常そのものであった。
世界中には飢餓で苦しんでいる子供達は数多くいるだろう。その飢餓は自業自得の物ではなく、そういう状況にならざるを得なかった人がほとんどだと思う。その子供達の前に、私達が普段食べている物を並べたとしたら、もしかすると先程見たような光景が広がるのかもしれない。
だが、ここは日本という国であり、私はその豊かな国で生まれ、育った。故にこそ、あの姿を『人』の物ではないと感じてしまったのだ。
「有威ちゃん、大丈夫かな」
「……そうね、大丈夫ではないかもしれないわね」
箸を止めながら呟いた私の言葉は、祖母によって否定される。私としても自分で呟いておきながら、心ではその言葉を否定していたのだが、改めて祖母から言われると、それが如何に希望的観測だったのかを強く感じさせられた。
おそらくあの子は帰宅予定時間を大幅に過ぎてしまったのだろう。それが何の為の門限なのかは解らないが、それでも彼女があれ程に怯える理由となり得る内容だったのだ。それこそ、傍にいた人間の存在さえも頭の中から消え失せてしまう程に。
「また、連れていらっしゃい」
「……うん」
箸の進まない私に、祖母は眉を下げながら小さな溜息を吐く。そして告げられた言葉は一時しのぎの対応でしかない事を祖母も理解しているのであろう事は、その表情から読み取る事が出来た。
最早、有威という名の少女の身に起きている事は明白である。それは祖母も私も理解しているのだ。哀しい事ではあるし、許せない事ではあるが、この世の中では何処かで必ずある出来事でもあった。
実親による虐待。
自分達の血を分けた子供に対し、精神的、肉体的な虐待を日常的に繰り返す。抵抗も出来ず、反撃も出来ない者に対しての一方的な暴力。本来であれば、自分の絶対的な保護者である筈の者達から受ける理不尽な暴力は、子供達の心を容易に壊してしまうのだ。
「昔から、少なからずあったな」
「ええ、でも、昔は近所の大人達が護っていたから……」
今日の出来事を食事前に聞いていた祖父が珍しく口を開く。その言葉に同意しながらも、祖母は現代との違いを口にした。
祖父母が口にする『昔』というのがどのくらい昔の事かは解らない。祖父母の年齢を考えても昭和初期という事ではないだろう。少なくとも、昭和の中期から後期であるとは思うし、二人が子供を持つ大人になった頃と考えれば平成の初期となる。
私の知る国民的アニメの中でも、昭和中期から後期の頃には、まだ近所に『カミナリ親父』と呼ばれる怖いおじさんがいたらしい。近所の子供達が悪さをしていると、誰の子であろうと叱りつける大人がそれだ。だが、そんな怖い大人達も、悪さをしなければ優しい大人で、いつも子供達を見守っていたのだそうだ。それこそ、怪我をしている子供がいれば、例え知らない子供だとしても自宅へ連れて行って手当をし、時には相談などに乗ってくれる大人もいたらしい。
現代では、自宅へ連れて行った時点で、いかがわしい目的で子供を連れ込んだというような噂が広がってしまうだろう。昔もそういう目的を持った大人もいたかもしれないし、そのような大人が野放しになっていた可能性も否定出来ない。だが、逆に言えば、本当の善意で行う大人も噂や醜聞を恐れて、子供達に手を差し伸べなくなったというのも事実だろう。
「なんにせよ、哀しい世だな」
「人は、物の豊かさと引き換えに、心の豊かさを失ったのかもしれないわね。心が貧しいから、他人を害する事でその隙間を優越感で埋めようとする。何も優れてはいないのに、自分が優れているのだと思い込む事で逃げているのね、色々な事から……」
祖母の口調は悲しみに満ちていた。まるで期待を裏切られたような瞳。誰に期待し、誰に裏切られたのかは分からない。有威という少女の両親を祖母が知らない以上、その両親に期待を向けていたという事はないだろう。ならば、誰に。
その疑問が私の中で表面化していく中、私の頭の片隅では、その答えが既に浮かび上がっていた。祖母は『人』という種族に期待し、『人』という種族に裏切られたのではないだろうかと。
「……私達が出来る事は多くない。助けを求められてからしか動けないだろう。今日はもう寝なさい」
溜息を洩らし、それ以上口を開かない祖母の様子を見ていた祖父から、食事が一向に進まない私は休むように言われる。昼食を抜いているにも拘らず、自分でも驚く程に食欲がなく、せっかく作ってくれた祖母に申し訳ないと思いながらも、祖父の言葉に甘える事にした。
祖母に謝罪を口にすると、いつものような優しい笑みを浮かべながら、『大丈夫』と返してくれる。この暑い夏場では、夕飯の残りを翌日の弁当に入れる訳にもいかない。それでも笑みを浮かべて許してくれる祖母に、本当に申し訳ない気持ちで一杯だった。
『有威という少女を私が強引に連れて来なければ』という考えが頭を過るが、それをすぐさま振り払う。絶対に彼女が悪い訳ではない。彼女に悪い点など微塵もない。食欲がないのも、夕食を残したのも、全て私が悪いのだ。強いて言うとすれば、有威という少女の両親が悪いのかもしれない。それこそ、許し得ぬ程に。
「駄目ね。疲れているんだわ」
自室に戻り、布団を敷きながら小さく溜息を吐き出す。その溜息はこれまで私が吐き出したどんな溜息よりも重い吐息だったように思う。まるで私の心の内に生まれた黒い闇を吐き出しているかのようであった。
目を瞑れば、瞼の裏で黒い何かが渦巻いているような感覚に陥る。まだアルコールを摂取した事はないが、アルコールを過剰に摂取した後などはまるで天井が回っているような感覚に陥ると聞いた事がある。それに似たような感覚ではないだろうか。天井が回るのではなく、私の身体の内で闇が蠢いているような感覚であった。
そのまま私は眠りに落ちて行く。深い谷底に落ちるように、深く深く、奥底へと導かれるように。
「……不穏な気配を感じて来てみたけど、これはアレの仕業ではないのね。アレが抗っているのではなく、深雪ちゃんの想いか……」
深い眠りから意識だけが戻る。だが、目も開ける事は出来ず、身体も動かす事は出来ない。まるで金縛りにあってしまったように意識だけが現実に引き戻されている。聞こえて来るのは祖母の声。だがそれも少し遠くから聞こえて来るようであった。
何か黒い靄のような物に身体全体を覆われているような感覚。そしてそれによって身体が縛り付けられているような感覚。そのような感覚だけが全てを覆っていた。
「深雪ちゃんは優し過ぎるね。なんでも内に抱えちゃう。呼び込んじゃっているのかな。高天原に最も近く、最も遠い、そんな深雪ちゃんだから仕方がないのかな」
そんな不思議な単語が聞こえて来たと同時に、私の額に冷たく温かい手が乗せられる。それと同時に何やら音が聞こえて来た。それは言葉なのかもしれないが、私の耳に入って来る時には音へと変わっている。聞き取れないのではなく、理解出来ないのだろう。
声というか、音というか、それは祖母が発している物である事は分かるが、その意味や内容などは全く理解できない物であった。言霊が紡ぐ音は、私の周囲を覆う黒い闇を徐々に払って行く。それと共に、私の意識も深い眠りへと誘われ始めた。
「吐普加美依身多女……」
意識が完全に途切れる手前の僅かな時間、私の耳に入って来た言葉は、はっきりと理解出来る日本語であり、祖母の優し気な声であった。
私の意識が再び戻り、自然と瞼が開いた時には、カーテンの隙間から眩いばかりの朝日が差し込んでいた。意識が覚醒するまでに暫しの時間を要し、ゆっくりと身体を起こした私は、昨夜に感じた身体の重みが一切ない事に気付く。あの夜中の出来事は夢であったのかと思う程に朧気でありながら、それでも確かな感触が私の額に残っていた。
また祖母に救われたのだろう。この町に越して来てから、私は何度も祖母に救われているような気がする。ここまでの十数年の人生の中、私は霊的な恐怖体験などに遭遇した事はない。ましてや不可思議な現象や事象に遭遇した事もなかった。だが、この町に来て数か月の間だけで、私は何度も自身の身に『死』という恐怖を感じている。その度に、祖母や丑門君に救われているのだ。実質的に私は何もしていない。
「……学校に行かなきゃ」
頭も身体も軽いが、何故か心が重い。心が痛いというか、感情が苦しいというか、何とも表現し辛い状況であったが、それでも日々の生活は送らなければならない。布団から出た私は、着替えをする為にパジャマを脱ぎ、制服へと着替える為に鏡の前に向かった。
祖父母の家に用意された私の部屋は、基本的に必要最低限の物しか置いていない。勉強机に本。それが私が持って来た全てである。年頃の女の子なら持っているようなぬいぐるみなどはないし、流行りの物などもない。正直、音楽を聴く機器さえもないのは自分でもどうかと思うが、そんな簡素な部屋の中で唯一、姿見の鏡があった。
スタンドミラーとでも呼ぶのだろうか。自立式の姿見。基本的に化粧もしなければ、着飾りもしない私には不釣り合いの鏡。それは、本来であれば私の母の物であった。
両親が離婚し、母が家を出て行った時に残して行った鏡である。もう必要なくなったのか、新しい物を買うつもりだったのか、そもそも存在を忘れていたのかは解らないが、年代物という訳でもなく、汚れてもいなければ割れてもいないその鏡が、今は私の手元にあるというのも不思議な物である。
「……」
鏡の前に立つ。そこに映った私は歪んでいた。
何が歪んでいたのか言葉で明確に表せない。だが、確かにそこに映っている私は歪んでいたのだ。顔が歪んでいる訳でもない。目元が歪んでいる訳でもない。身体が歪んでいる訳でもない。性根が歪んでいる訳でもないと思いたい。それでも私自身の全てが歪んでいるように見えた。
黒い闇に包まれているようでありながら、黒い闇を吐き出しているようである。そんな闇が纏わりついている私は、鏡の中で歪んでいるのだ。
だが、いつものような苦しさはない。胸を締め付けられるような痛みもなく、冷たい汗が流れる程の恐怖もない。『死』という物を身近に感じる訳でもない。いや、これは間違いだろう。『死』という物を以前よりも間近に感じているからこそ、以前よりも恐怖を感じていないのかもしれない。
「……行ってきます」
セーラー服のスカーフを締め終え、玄関へ向かい靴を履いて引き戸を開ける。カラカラという乾いた音と共に、外の熱気が私の全身を覆った。遠く台所の方から祖母の声が聞こえ、その声を背中に受けた私は、意を決して一歩外へと足を踏み出す。
今日も一日暑い日になる事は、この熱気と上から降り注ぐ陽光が物語っていた。即座にじわりと滲む汗。最早、家に帰りたくなる想いを堪えて石段を下りて行く。
今日も早めに家を出ている為、通学路に学生の姿はない。既に乾いたアスファルトにはゆらゆらと陽炎が見える程の熱気に噎せ返る中、少し前に白いワイシャツ姿の背中を見つけた。
「丑門君!」
「ん? ああ、おはよう」
私はその背中を見つけた瞬間、何故か駆け出してしまう。この異常な程の暑さの中で走るという事は本当に愚かな行動であるが、逸る気持ちを抑える事が出来なかった。
私の声に振り返った丑門君は、少し驚いた顔をした後で、小さく朝の挨拶を返して来る。何とも気怠そうな挨拶に少し気分を害するが、そんなやり取りもまた、私と彼の関係が気安い物になったからだと思う事にした。
「丑門君は、携帯を買いましたか?」
「ああ、昨日買って来た」
彼の隣に並んだと同時に、私は昨日に購入した携帯の話題を振る。それに対して、彼は小さく頷いた後で、鞄の中からスマートフォンを取り出した。
前から思っていたのだが、スマートフォンの略称がスマホというのは何故なのだろう。スマフォがスマホになったのだろうか。確かに聞こえはスマフォもスマホも日本語では変わらないが、文字に起こすと少し不思議だ。
そんなくだらない事が頭を過って行く中、私も鞄から同じような型のスマートフォンを取り出す。同じ店で同じように見積もりを出して貰ったのだから、基本的に私と彼は同じ機種になっている。丑門君の勧めで写真の画素数が大きい物を選んだが、それを見た彼もまた、私と同じ機種を選んだようであった。
「では、電話番号の交換をしましょう。ついでに無料通話アプリのQRコードも」
「電話番号の交換は良いけど、QRコードって何だ?」
「え?」
勢いに乗って提案を口にした私だが、彼から続いた答えに間抜けな声が出てしまう。彼はいつの時代を生きているのだろう。まさか遥か上の年齢なのに、留年を重ねて私と同じ学校に通っているのだろうか。いや、今、ある程度の年齢になっている人間であっても、その位の知識はあるだろう。そうすると、彼は既にこの世の存在ではないのかもしれない。
私のそんな遠慮のない表情と視線に気付いたのだろう。彼は『むっ』と眉を顰め、スマホを鞄の中に戻してしまった。
「もういい」
「あ、ごめんなさい。説明するから!」
拗ねたように視線を前に戻してしまった彼の姿が何とも言えない可笑しさがあり、私は謝罪の言葉を口にしながらも、どうしても笑みが零れてしまう。その私の姿が尚更彼の癇に障ったのか、不貞腐れたまま歩みを進めて行くのだった。
そんな他愛もないやり取りを続けながら歩いていた私であったが、浮かべていた笑みは瞬時に消え去る事になる。前方で揺らめく陽炎の先に見えた、揺らめく人影を見た瞬間に。
「あっ」
「!!」
その姿を私が認識したと同時に、相手もまた私の姿を認識したのだろう。陽炎と共に揺らめく彼女の表情が驚きから怯えに変わるのに時間を要する事はなかった。
私が声を掛けようと行動するよりも早く、彼女の身体は動き出す。駆け出した速度はそこまでの速さではなかったかもしれないが、戸惑った私に反応が出来る訳もなく、その小さな影は私の横を通り過ぎて行った。通り過ぎる時に彼女が発した臭いは、昨日私の家で漂っていた石鹸やシャンプーの香りではなく、生ゴミを更に腐らせたような不快な臭いであり、その姿もまた、昨日の物とは掛け離れたものであった。
そして、その姿を見た私の胸の中に今まで感じた事のない想いが広がって行く。その中身が私には解らない。感じた事もなければ、考えた事もない想い。
「……神山、何があったんだ?」
「……許さない。断じて許さない」
彼女が着ていた服は、私の家から出た時の物であったのだろう。だが、その色もその姿も何もかもが変わっていた。上に着せていた水色のシャツの色は、元が水色であったという事さえも分からない程に濁っており、茶色く、そして灰色に変化しており、それはまるで汚水でも掛けられたかのように斑に変色していたのだ。
更に、紺のスカートも同じように汚れていたが、こちらは元々が紺色である為、そこまで変色が目立っていない。それと引き換えに、その形状は醜く変化していた。まるでハサミで切り刻まれたように短くなっており、所々はその切れ端が垂れ下がっている。それは明らかに故意的に切られた証であった。
「神山、落ち着け」
「アレをしたのが、丑門君の妹さんの同級生ならば、厳重注意と少しの体罰で許しましょう。ですが、そうでなければ、許しを乞うても、死を願っても、決して許しはしない」
私の視界が黒く濁って行く。耳元であの女の甲高い笑い声が聞こえて来る。だが、それも気にならない。むしろ、その甲高い笑いが心地良く感じる程であった。
昨日の夕方に彼女が自分の家への帰路の途中で同級生と会い、あの状況になった可能性は否定出来ない。彼女の姿は、小学校という小さな箱庭の中では異分子として扱われてもおかしくはなく、小学生という年齢を考えるとそれは高校などよりも酷い扱いになってしまっている可能性は高いだろう。
だが、それを考慮に入れても、僅か一日で服があのような姿になる事は有り得ない。アレは小学生のような児童の悪戯というレベルの話ではなく、もっと大きな悪意の元で行われたものの筈だ。そしてそれを行える人間となれば、私の予想は十中八九外れてはいないだろう。
「痛いっ!」
私の胸の中が何かに支配されそうな程に黒く染まり始めた時、突如頭部に衝撃を受ける。思わず前のめりになる程の衝撃を受けた私は、突発的に言葉が出てしまい、その衝撃を生み出したであろう相手を睨み付けた。
そこには呆れたような、それでいて少し怒っているような表情を浮かべた丑門君が立っており、私の予想が間違っていない事の証明に彼の掌は振り切ったままの姿で固定されていた。
「いい加減にしろ。気持ちは分かるが、神山は結論を急ぎ過ぎだ」
「そんな悠長な場合じゃないでしょ! あの子の姿を丑門君は見てないの!? 誰も彼もが何も言わずに、何もせずに、時間だけが過ぎてしまったら手遅れになるわ! 死んでしまってから何をしようとしても無駄なの! 黄泉へと旅立った者は何をどうしようと戻って来られない。それは伊邪那岐命と伊邪那美命が交わした決め事なの!」
この日本という国に古来からある信仰の中に存在する神は、それこそ八百万の神々と云われるほど多くいるが、国生みと呼ばれるのは、伊邪那岐命と伊邪那美命の夫婦神であろう。高天原にいる数多くの神々が下界に国を作ろうと話し合い、白羽の矢が立ったのが、伊邪那岐命と伊邪那美命という二柱の神であった。最初に創った淤能碁呂島で結婚した二柱の神が日本という国を創ったと云われている。だが、この二人は最後に生と死の象徴として分かれてしまうのだ。
「解っているさ。今日は早退する。あの子を放ってはおかないよ。だから、一先ず落ち着け。今の神山は『人』としての考え方が出来てないぞ」
「私も早退する!」
死んでしまった人間は生き返らない。それは当たり前の事ではあるが、それを望む者は星の数ほどに存在する。先の伊邪那岐命と云われる神様もまた、人と同じように最愛の妻である伊邪那美命の再生を望んだのだ。
火之迦具土神(加具土命)という火の神様を生んだ伊邪那美命は火傷を負い、それが原因で命を落としてしまう。命を落とした者が例外なく行く場所が『黄泉國』なのだ。それでも諦めきれない伊邪那岐命は黄泉國まで迎えに行くのだが、結局それは叶わずに終わる。
私が暮らす南天神社が祀っている神様である天照大御神は、その後に黄泉國の穢れを落とすために行った禊によって生まれている。
「神山まで早退する必要はないだろう?」
「何故!? それこそ、丑門君が早退する理由がない! あの子が着ていた服は元々私の服なの! 昨日、あの子を私の家に連れて行って、お風呂に一緒に入って、ご飯も食べた! 私はあの子を見捨てたくない!」
太陽神であり、皇祖神でもある天照大御神を祀る神社の娘として、私はあの子を見捨てるつもりはない。昨日、祖母が口にした『深雪ちゃんのお願いは届きました』という言葉を信じるのならば、『あの子を見捨てない』という私の想いが天照大御神様に届いたという事になる。
それならば尚更に私は、自分の想いを裏切る事は出来ない。神様の領域である境内に入れる許可を頂いた者を、私が切り捨てる事など許される事ではないのだ。
「あの姿を見て、許せないと思ったのは俺も同じだ」
「あっ……」
その声を聴き、その表情を見て、その言葉の意味を理解した時、それまで燃え上がるように私の心を支配し始めていた黒い炎が鎮火した。
丑門君は本当に心から怒っている。それが明確に理解出来た。表情が怒りに燃えている訳ではない。怒声を上げている訳でもない。ただ、静かに小さく呟いたその声は細かく震えており、それが彼の抑えきれない感情の表れである事を証明していた。
「俺は午後に入ってすぐに早退する。俺が教室を出ても誰も何も言わないだろう。神山はどうする?」
「……私はお弁当の時間に学校を出ます。午前中に担任には、調子が悪い事を伝えておきます。女性の日が重いとでも言えば通じると思いますから」
私と同じような感情を彼も持ってくれているという事が嬉しく、余計な事を言ってしまう。言ってしまってから、自分でも言う必要のない事ではあったなと感じたが、言ってしまったからには仕方がない。少し恥ずかしい気持ちもない訳ではないが、開き直るしかなかった。例え目の前にある丑門君の顔が驚きの色に満ち、徐々に赤みが差して来ているとしてもだ。
私自身の顔が赤くなってくる前に、学校へ向かって歩き出す。恥ずかしさと気まずさによって、先程まで感じていた強く黒い怒りが霧散して行くのを感じる。怒りが消える訳ではない。それでもそれに深く囚われ、自分を見失う事はないだろう。
「行きますよ!」
「はいはい」
気恥ずかしさから少し声量が大きくなるが、我に返った丑門君は、少し顔が赤いままでおざなりの返事を返すのであった。
あの子は家に帰る前に、きっとあの場所にいる筈。またいつものように、遊具も何もない小さな公園のベンチに座り、ただ時間が過ぎるのを待っているだろう。自分の何が悪いのか、どうすれば良いのか、どうしたら優しい言葉を掛けてくれるのか、どうすれば愛してくれるのかをあの場所で同じ景色を見つめながら考えているのだ。もしかすると、そのような時期は既に過ぎ去り、『何故、このような苦しみの中で生きなければならないのだろう』という極論にまで達しているのかもしれない。
そうであれば、本当に残された時間は僅かなのだ。『自分は必要なのだろうか』、『自分は何故生まれて来たのだろうか』と考え始めた人間が最終結論に辿り着くまでの時間は、正常な人間が考えているよりも圧倒的に短い。
私のような恵まれた環境に居た人間でさえ、その最終結論へ辿り着こうとしていたのだから。
いつものように登校し、噎せ返るような暑さの中で、窓から入って来る風だけを頼りに授業をこなす。生徒達だけでなく、このような環境で声を張って授業を続ける教員にとっても、ここは生き地獄のような場所だと思う。私と丑門君の周りは、いつも通りの空間である為、他の人間よりは密ではなく、風通しが良いのかもしれないが、それでも暑い事には変わりがない。
私は自身の言葉通り、登校後に担任を訪ねて職員室に向かった。突然現れた私への反応は、職員室一同が同じものであり、私が体調の不調を話した際に向けられた表情もまた、『ならば家に帰って貰った方が良い』という物で一致していた。
あからさまな表情と雰囲気に、私自身もこのまま帰ろうかとも考えたが、万が一にも祖父母へ連絡が言っては嫌なので、午前中で早退させて貰うように話を進めて行く。担任の、『無理をしなくても良い』という何度目か解らない言葉を聞き流し、職員室から出た私は、四限目の授業も終了まであと5分というところまで、少し体調の悪い少女を演じていたのだが、この蒸し暑さに本当に調子が悪くなりそうになっていた。
「では、今日はここまで」
終業のチャイムが響き、教員が終了を告げて教室を出て行くと皆が昼食の準備を始める。机を移動し、弁当を広げる者。気怠そうな顔のまま教室を出て食堂へ向かおうとする者。そんな何人かに紛れるように、私は鞄を取って教室を出た。
食堂や購買に向かう生徒の波から外れ、昇降口へ出る。靴箱から靴を取りだして履き替えていると、不意に影が差す。顔を上げると、そこには既に靴を履き替えた少し不機嫌そうな表をした丑門君が立っていた。
「丑門君も、もう帰るの?」
「本当に、今日の神山は感情的だな」
彼は確か午後の授業に入ってから早退すると言っていた筈。それが何故ここにいるのかというのがすぐには理解出来ず、私は首を傾げる。そんな私に対して溜息を吐き出した彼は例の如くに失礼な事を口にした。
私自身はとても理性的な人間だと思っているが、彼にとってはそうではないのだろうか。確かに思い返してみると、彼の近くにいる時の私は感情で動いている事が多い気がする。い色々と考えると、この町に来てから私の感情の抑制が上手く機能していないような気もするのだ。
あながち失礼だと言い切れない彼の物言いに、私は自然と口を噤んでしまう。私の苦しい表情を見た丑門君は先程よりも大きな溜息を吐き出した。
「まぁ、仕方がないか。あの子の状況を見て平気な訳がないよな。俺も行くよ。神山にはあの子がいる場所の心当たりがあるんだろう?」
「う、うん」
呆れ顔に優しさを滲ませたその表情に、私は素直に頷きを返す。何故かは解らない温かな気持ちが胸を覆う。深く頷く私を見た彼の表情が、自惚れでなければ私への優しさと、有威という少女への優しさを物語っているようで嬉しさが込み上げた。
昼休みに入ったばかりの喧騒に包まれた校舎を背中に、私達はまだ見ぬ敵に向けて校門を後にするのだ。




