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日本書鬼  作者: 久慈川 京
第三章 餓鬼
25/35

其の肆




 翌朝、目が覚めた私は、いつかと同じような頭の重みを感じていた。頭がキリキリと痛み、身体が鉛のように重い。掛け布団が水を含んでいるのではないかと思う程に重く、起き上がるのも億劫であった。

 意識がはっきりしてくると、自分の身体の状況が夏風邪なのかとも考えたのだが、風邪の時のような熱っぽさがまるでない。ここまでの変調がある場合、身体の中にある抗体が必死に戦ってくれている筈であり、熱が上がると思うが、そういう様子は微塵もなかった。

 逆に手足の指先が凍傷になるのではないかと思う程に冷たい。まるで自分の身体の所有権が自分ではない者へ移ろうとしているかのように、感覚が狂って行った。


「ぐっ……ふぅ」


 自分を圧迫する程に重い掛け布団を何とか跳ね上げ、身体を傾けた上で両手を使って身体を起こす。上半身が起きた状態になってようやく一息吐くと、ずきずきと頭の奥に痛みが走る事を無視して何とか立ち上がった。

 無意識にふらつく身体。重度の風邪を引いた時のように、身体の支配権が何かに奪われている。だが、相変わらず、身体の中の抗体がウイルスなどと戦っている様子はなく、熱によって意識が薄れている訳でもないし、ぼんやりとしている訳でもない。只々、自分の手足が自分の思うように動かないというだけであった。


「あっ……」


 何とか居間までという想いだけが私を動かし、部屋の襖を開けたところで、身体が縺れる。そのまま手を掛けていた襖諸共に廊下に倒れ伏す。襖が外れ、受け身も取れずに倒れる私の身体が、板間の廊下に盛大な音を立てた。

 居間の方から何かの叫び声が聞こえ、こちらに駆けて来る音が聞こえる。意識だけがはっきりした状態の私の目に駆けて来る足が映った。その足を見た私は、最早何があっても大丈夫だという安心感に包まれる。


「深雪ちゃん! 深雪ちゃん!」


 私の視界に入った足が予想通りの、そして期待通りの人間のものであった事に安堵する。抱き抱えられるように上半身を支えられた私の額に祖母の手が翳された。風邪などを引いた時には、人の手の温もりが冷たく感じる程心地良いのだが、今回はそのような事はない。祖母も私に熱がない事を理解したようで、何かに納得したような表情になった。

 祖母が私の身体を起こそうとするので、力が入らないながらも、自身の力で何とか身体を支える。座り立ちをするような形になった私ではあるが、両腕に力が入らず上がらない。そんな私の瞳をじっと見つめていた祖母が小さく溜息を吐き出した。


「ここで抗っても、消滅するだけだというのに……。依り代無くては立ち行かぬ分際で……」


 私の目を見る祖母の顔が、依然見た事のあるような若々しい物に変わったように見える。その瞳はとても厳しく、何かに憤り、何かを蔑んでいるようにも見えた。私の大好きな祖母のする表情としては珍しく、似つかわしくないものではあるが、何処か本質のような部分でもあるように感じる。だが、それも一瞬の出来事であった。

 私が無意識に瞬きをしたのだろう。再び目を開くその僅か一瞬の間に、祖母はいつもの祖母に戻っており、その姿も、その表情も、そしてその瞳もいつもと変わらない優しい物になっていた。

 その表情のまま、祖母は私を優しく包み込み、背中まで回した両手を交差させ、そしてその両手の掌で優しく背中を叩く。『とんとん』という静かな音は、私の頭を痛めつけている『ずきずき』というリズムと交差し、痛みそのものを沈めて行った。


「大丈夫。深雪ちゃんなら大丈夫」


 祖母が背中を叩くリズムは、私の鼓動にぴたりと合い、心臓の脈動と共に前進へと響いて行く。その波動は、支配権を失いかけていた私の脳へと届き、全身への支配権を奪還させた。意識的に数度瞬きを繰り返した私は、だらりと下がっていた腕に力を籠める。私の脳から発信された指令は澱みなく全身を駆け巡り、即座に両腕の筋肉を稼働させた。

 先程までの猛烈な頭痛は消え失せ、全身のだるさもなくなっている。足先から指先までに私の指令が行き届く感覚が戻り、全身が自分の物である事を改めて認識した。


「……おばあちゃん?」


「うん、もう大丈夫だね。今日は一緒に携帯電話という物を買いに行くんでしょう? 朝ご飯を食べましょう。おばあちゃんがお皿を洗っている間に、深雪ちゃんが境内をお掃除してくれると助かるんだけどね」


 これは、今の状況を私に話すつもりはない態度であり、こうなった祖母はいくら聞いてもはぐらかすだけである事は幼い頃から知っていた。何をどのように聞いても、いつの間にか話題が変わってしまうのだ。要は、諦めるしかないという事だろう。

 何故、朝起きた時にあのような感覚に私が陥ったのか、先程の祖母の言葉にどのような意味が込められていたのか。そして、何故、急に治まったのかなど、聞きたい事は山ほどあるのだが、そのどれ一つとっても、祖母は答えてくれないだろう。私は小さく溜息を吐き出して、境内の掃除に関して了承する旨を伝えた。


「深雪ちゃんは優しいから……少し優しすぎるのだけどね。まだ抑えきれないみたいだから、おばあちゃんが手伝ってあげたの」


「……何、それ? またおばあちゃんは私が解らないように話すし」


「ふふふ。大丈夫、深雪ちゃんはおばあちゃんの孫だから」


 何故か祖母は、この町に来てから私の身に起こっている出来事の原因や理由を知っているような気がする。だが、それを私に伝えないという理由が解らない。私は何度か命の危機を感じていたし、実際に命の危機だったと思う。私の中の祖母は、私に命の危機が迫っている状態でも尚、その事を告げないという人ではない。ならば、それを告げない事に理由があるのだろう。

 本来なら何か知っている様子でありながら、私が命の危機に瀕してもそれを教えない祖母に対して悪感情を抱くのかもしれないが、何故か私はそうならない。『洗脳』なのかと勘繰ってしまうが、それでも良いかと思うし、祖母が大丈夫だと口にするのならば、何があろうと最終的に私は大丈夫なのだろうと思った。


「……朝ご飯を食べて、境内のお掃除をして、シャワーを浴びてから買い物に行く」


「うん。じゃあ、それまでにおばあちゃんもする事を終えておくわね」


 祖母がにこやかに微笑み、そのまま居間の方へと戻って行く。祖母の後ろ姿が遠くなっても、私の身体の自由は私のものであった。一つ大きな溜息を吐き出し、部屋に戻って着替える。出かける前にシャワーを浴びるつもりではある為、軽装に着替え、朝食を取りに居間へと向かった。

 居間でいつも通り美味しい朝ご飯を食べるが、今日は私一人での朝食であった。私が完全な寝坊をしてしまった為、祖父は既に食事を終えて寄合に行っており、祖母は祖母で洗濯などの家事に入っている。

 私は一人での食事は嫌いだ。幼い頃の想いがあるからなのかもしれないが、一人での食事は切なくなって来る。寂しいという歳でもないのだが、やはり一人で食事をしていると、その速度も遅くなり、味もいつもより美味しくない気がするのだ。


「……ご馳走様でした」


「はい、お粗末様。食器は流しに下げておいてくれれば良いからね」


「うん」


 返って来るとは思っていなかった食後の挨拶に突然居間に入って来た祖母が応えてくれる。驚きはしたが、それよりも嬉しさが込み上げ、笑顔で頷いた私は、食器を一纏めにして台所の流し台へ運んで行った。

 居間に戻ると既に祖母の姿はなかったが、先程のやり取りで元気が出た私は、そのまま箒と塵取りを持って境内へと向かう。サンダルを履き、玄関の引き戸を開けると息が詰まるような熱気に噎せ返った。

 境内に出ると、即座に額から汗が噴き出て来る。肌に服が張り付くような不快な感覚が襲う中、境内の参道の掃き掃除を始める。夏真っただ中の為、落ち葉が落ちているという事もなく、この町に境内にたばこの吸い殻を捨てるような不敬な輩もいない為、参道は綺麗な物だ。境内の小さな砂利や砂などが多少参道の石畳に掛か、ってはいるが、数回竹箒を動かすだけで綺麗になる。

 秋口などは周囲の木々の落ち葉が多くなる為、熊手などを使っての落ち葉清掃から始めなければいけない。私が幼い頃、祖母のお手伝いという名目で落ち葉集めをしていた。その後で落ち葉で焚火をしたのも良い思い出であるが、最近は落ち葉を袋に入れてゴミとして出しているらしい。


「ふぅ……本当に暑い」


 まずは参道となる正中(せいちゅう)を清める。神様の正面となる場所を真っ先に清めるのが作法と祖父に教わった。幼い頃は、そんな作法や礼儀を知らない為、祖母が熊手でかき集める落ち葉をわざと参道に戻したりして、祖父に叱られた事もある。叱られて泣いてしまった私に向かって、『一緒に神様にごめんなさいをしましょう』という祖母に連れられて、何度も神様に謝罪をしたのも今となっては良い思い出だ。

 正中の掃き掃除が終わる頃、私は案の定汗だくとなっていた。周囲の南天の木が幾らか気温を抑えてくれているとはいえ、正午前の太陽は容赦なく境内を照らし、地面の温度を上げて行く。広い境内を一人で掃除するのは、かなりの時間を要する。だが、私が寝坊したとはいえ、それでも7時過ぎであり、午前中一杯を使えば境内の掃除も終わる事だろう。


「ふぅ」


 実際に境内を一通りする頃には、9時半を過ぎていた。額の汗を手で拭った私は、打ち水をする為の準備を開始する。その際に自分への水分補給も忘れない。このまま外で清掃を続ければ、水分不足で倒れてしまいかねなかった。それぐらいに日差しは強くなって来ている。じりじりと照り付ける太陽と、気が狂ったように鳴き続けるアブラゼミの音が心に荒波を立てた。

 苛立つ心を静めるように大きく深呼吸をして、木桶に入れた井戸水を持って境内へと戻り、最早陽炎さえ立ち上り始めた境内の地面に柄杓で水を撒いて行く。即座に蒸発したのではないのかと疑う程の音を立てて地面へと吸い込まれた水が、太陽に照らし続けて来た熱を奪って消えて行った。


「……ヒグラシの音であれば、少しは涼しい気持ちになれるのに」


 個人的な好みになるが、蝉の音の中でもヒグラシの音は好きだ。どことなく夕暮れ時を思わせるあの音は、物悲しい雰囲気も醸し出すが、それと同時に夜に向かった涼しさと、一日の終わりを感じさせる安らぎがあるように思う。アブラゼミやツクツクボウシのような暑さを増長させる効果を持つ音よりもずっと心地良い。

 ここ最近は、この夕暮れ時が恐怖の対象であり、黄昏時に対して本能的な恐怖を持ってしまった私が、その時を知らせる蝉の音を心地良いと感じる事自体が奇妙な話であり、自然と苦笑に近い自嘲の笑みを浮かべてしまった。


「おしまい!」


 ある程度に打ち水を終えた私は、空になった木桶に柄杓を入れ、大きく背伸びをする。一仕事を終えた私は、自然と祖母の言葉を真似て口にしていた。

 相変わらず蝉の音は喧しく、耳を塞いでも脳まで届くのではという程ではあったが、汗を流した後の祖母との外出が楽しみであった私にとっては、既に些事に等しい物である。玄関を開け、居間の横の廊下を通ると、縁側を通して干された洗濯物が見えた。既に祖母は洗濯物も終えたのだろう。居間の方に向かってシャワーを浴びる事を告げると、それに対する祖母の返答が聞こえて来た。


「とりあえずは、携帯電話を買って、その後は夕飯のおかずを買おう」


 少し温めのお湯を頭から被り、髪の毛を丁寧に洗いながら、今日の夕飯の献立を考える。何を作っても美味しく出来上がる人に料理を頼むのであり、レパートリーは余程小洒落た西洋食でない限りは大抵何とでもなるのだ。その日の店頭に並ぶお勧め食材を見て、食べたい物を言えば作って貰える。それが何と素晴らしい事なのかを理解出来る同年代はいないだろう。

 鼻歌を歌いながら髪を洗い終え、身体の隅々まで洗い終えた私は、楽しい気持ちのまま浴場を出て、外出着に着替える。以前にも話したが、外出着と言っても大袈裟な物ではない。それでもしっかりと洗濯がされ、太陽で乾かされた衣服はとても良い匂いがしていた。


「深雪ちゃん、もう大丈夫?」


「うん」


 髪を乾かし終えた私は、自分の財布などの小物を入れる肩掛け鞄を手に持って居間へと入る。そこでは既に準備を終えていた祖母と、休憩に入っていた祖父が二人でお茶を飲んでいた。

 入って来た私に気付いた祖母が立ち上がる。それに合わせて、祖父の顔も私の方に向いた。柔和な笑みを浮かべた祖父もまた、仕事に戻ろうと立ち上がる。


「お昼は台所に置いてありますからね」


「わかっているよ。ゆっくりして来ると良い。それと、深雪、境内の掃除をありがとう。ご苦労様」


 既に10時を過ぎており、駅前まで行って帰って来るだけでも昼近くになるだろう。用事を済ませてしまえば、午後1時を過ぎる事になる為、昼は外で食べる事になる。必然的にここに残る祖父は一人で昼食を取る事になるのだ。

 少し申し訳ない気持ちになって表情の曇った私に気付いた祖父は、柔らかな笑みを浮かべ、朝の手伝いに対する礼を述べてくれる。

 この南天神社の社格は高くはない。故にこそ、この神社に祖父母以外の人間はいない。この場合、祖父が宮司で、祖母は権禰宜とでもなるのだろう。私も詳しい訳ではないが、今の私の立場から考えれば、私は出仕という役職にでもなるのかもしれない。所謂、神職の見習いのような役職だ。仕事は境内の掃除、参拝者の対応などになる。

 話は逸れたが、神社を空ける事は出来ないので、家族全員での外出は有り得ない。それは私の父が子供の頃からそうであったようであり、それはそれで父も寂しい思いがあっただろう。旅行などもなかっただろうから、父がこの町を出たいと考えた理由も全く解らない訳ではなかった。

 現代では、この南天神社のような形態は皆無に等しいだろう。宮司のみの専業は、大きな神社では当然であるが、小さな神社になると難しい。神社と共に宮司の家屋がある場所となるとかなり限られてくるのではないだろうか。


「行ってきます」


 玄関先でにこやかに手を振る祖父に声を掛けた私は、参拝の為に石段を上がって来ている人達に挨拶をしながら祖母と歩く。参拝に来る人達はそれ相応の年齢になっている方がほとんどであるが、若い頃からこの神社を参拝する為に石段を登っていたからなのか、足腰はしっかりしており、息切れをしている様子もなく、私の挨拶に笑顔を返してくれていた。

 石段を上る事で苦を祓っているのだろう。神社に参拝に来る人達全員の苦が祓われ、幸せが訪れると良いと思う。参拝に来る人達は皆、良い笑顔でこの石段を下りる事が出来れば良いと思う。それ以外の人達は知らない。


「じゃあ、深雪ちゃんの電話を買ってしまいましょう」


 一の鳥居を潜り、祖母はそう口にすると軽快に駅前へと歩き始める。私としてもこの外出の優先順位は携帯購入よりも夕食の献立購入の方が上である為、祖母の発言に否はなかった。

 その後、駅前の携帯ショップに着き、順番が巡って来てからカウンターへと誘われる。当初からプランや機種などは決めていた為、かなりスムーズに進む事となった。私が選んだ機種は型落ちした物で、それ程機能などが付いていない。何故かカメラの画素数は良いが、それ以外は最新の物に比べるとかなり落ちてしまう物であった。

 カメラの画素に関しては、先日丑門君と訪れた際に、彼の勧めもあって選んだものだ。彼曰く、私が何かに巻き込まれた時、周囲の写真を撮って送れば、その場所を特定出来るだろうという事なのだが、そもそも何かに巻き込まれた時にその余裕があるのか、それ以前に携帯を持っている事が出来るのかという疑問が私の中に湧き上がったが、それは敢えて口にせず、彼の善意からの忠告を有難く受け取る事にした。


「それを持っていると、何処にいても電話が掛かって来るの?」


「そうだよ」


 無事、全ての手続きを終えた私達は店を出るが、出てすぐに私の手元にある携帯を見ながら祖母が頬に手を当てる。そんな祖母の口から出た疑問は、私にとっては何故疑問に思うのかと聞きたくなる内容なのだが、祖母にとっては本当に不思議な事のようであった。

 確かに、生まれてからずっと固定電話しか知らなければ、有線の回線と繋がっている電話機が鳴るというのは理解出来ても、小さな携帯が突然鳴り出し、そこから声が聞こえるというのは不思議な事なのかもしれない。

 暫く私の手元にある携帯電話を不思議そうに見ていた祖母だが、すぐに興味を失ったようで、商店街の方へと歩き始めた。私も携帯電話を肩掛け鞄の中へと納めると、祖母について商店街のアーケードを潜る。駅前とは異なった喧騒が、何故か心地良い。魚屋や八百屋の元気の良い声が聞こえて来ると、不思議と心が浮き立った。


「今日は何にしようかしらね」


「ふむふむ」


 魚屋に並ぶ数多くの魚達。定番の品揃えから、本日の目玉となる品。よく『死んだ魚のような目』という悪い意味の言葉があるが、魚屋の店先でかごに乗せられて並んでいる魚達は、とても輝いていると私は思うのだ。

 魚も良いが、お肉も良い。お肉屋さんは少し人が並んでいた。何故だろうと見てみると、今日は鶏肉が少し安くなっているようである。流石に、祖父も祖母も若く見えてもそれなりの年齢であり、なかなかハンバーグのような食べ物は食べない為、必然的に食卓の比率は魚系統が多くなるのだが、鶏肉となれば別であった。


「鳥の唐揚げとか良いと思います」


「そうね……。解りました、深雪ちゃんの意見を採用しましょう。ただ、おじいちゃん用にお魚の唐揚げも作りましょう」


 私の意見は即時採用され、それに付随するように祖父の献立も祖母の頭の中で完成されたようだ。魚屋で唐揚げに適した白身魚をいくらか購入する。祖母の作る白身魚の唐揚げに餡を絡めた物の味は絶品と言っても過言ではない。想像しただけで唾液が口の中に充満しそうになる。私自身も少しそれが食べたい事を祖母に伝えると、笑顔で了承された。

 肉屋に入ると確かに鶏肉は安くなっており、皆が鶏肉を購入している事が解る。こういった個人の商店では、新聞の折り込みチラシなどは発行していない為、鶏肉を購入している客全てが、この商店街に来て購入を決めたのだろう。ある意味、衝動買いに近い行動である。そういった点でも、商店街の買い物はわくわくするのかもしれない。


「ありがとうございました!」


 肉屋のおばさんから鶏肉の入った袋を受け取ると、それなりの量を購入した為か、ずしりとした重みが腕に伝わる。そのまま八百屋に寄り、お茶屋さんで煎茶と海苔を購入した後、私と祖母は商店街を後にした。


「深雪ちゃん、お昼ご飯はどうする? 何処かで食べて行く?」


 時刻を見ると、既に午後1時を回っている。だが、夕飯の献立を知っているだけに、それが楽しみで余計な物を腹に入れたくはない。今、しっかりとした昼食を食べてしまえば、それを夕飯までに消化出来ない可能性が高かった。

 祖父母がいる為、あの家での夕飯の時刻は早い。学校がある時や家にいる時はしっかりと決まった時間に昼食を取る為、多少早めの夕飯でも消化は済んでいるのだが、これから店を探し、メニューを決め、注文した物が出て来るとなると2時を過ぎるだろう。そうなれば、確実に消化は不可能だった。


「家に帰ろう? お昼はいらない。残っているご飯でお茶漬けにする」


「そう? じゃあそうしましょう」


 私の言葉に祖母も頷きを返し、そのまま神社までの道のりを二人で歩き始める。他愛のない会話をしながら祖母と歩く道は、いつも歩いている道でも何処となく平和な空気が支配していた。

 頂点に達した太陽から降り注ぐ太陽からの光は強く、じりじりとした暑さを齎しているが、祖母の周囲だけは何故か静かな空気が満たしている。涼しくはない、だが何故か不快な暑さも感じないのだ。

 それを不思議に思う事もなく、何処か『そういうものなのだろう』と受け入れる事が出来る。私のとっての祖母とは、そういう不思議な存在であった。


「……あっ」


 そして、そんな祖母との会話を楽しみながら歩いて行く中で、あの小さな公園が見えて来る。私の中でそれは確定事項であった。あの公園の、あの場所に今日もあの娘は必ずいるだろうと。

 そんな私の確信は裏切られる事はなく、彼女はいつものようにそこに存在していた。小さな公園を囲む木々から何重にも聞こえて来る蝉の声にも微動だにせず、じわりと滲む汗を拭う事も、流れ出した水分を補う事もせずに、ただベンチに座って正面を見ている小さな背中。

 私は駆け出していた。


「……うちに行こう?」


「!!」


 公園の中に入り、その娘の前に立った私は言葉を発するよりも前に彼女の手を握っていた。その腕は力を入れれば折れてしまいそうな程に細い。汗と油でぬめりさえも感じる肌には、痛々しい青痣が残っている。反射的に上げられた顔には驚愕の表情が張り付き、目は哀しいほどに泳いでいた。

 私は善人ではない。自己犠牲を好む人間でもない。でも、この娘を放っておく事は出来なかった。偽善なのかもしれない。一時凌ぎなのかもしれない。自己満足なのだろう。それでも、私は彼女を見捨てる事が出来なかったのだ。


「おばあちゃん、良いでしょう?」


「……そうね、うちへいらっしゃい」


 逃げられないように腕を握ったまま振り返ると、すぐ傍に祖母が立っていた。その顔は厳しく、眉を顰める程に目を細めて祖母は少女を見つめている。そんな祖母の瞳が怖くなった私は、早口で許可を求めるのだが、祖母はそれにも暫し答えず、表情を緩めなかった。だが、一つ息を吐き出すと、いつもの優しい笑顔に戻り、大きく頷きを返してくれたのだ。

 少女は私の腕を拒絶する気力さえもないのか、何かを諦めているかのように力なく立ち上がる。私にはその姿さえも哀しい物に映った。

 私に手を引かれるまま俯いて歩く少女からは、何度も嗅いだことのあるあの臭いがしている。鼻が曲がりそうな程の不快な臭い。汗と垢と油の腐敗した臭いは生理的な拒絶を感じてしまう。だが、それ以上に彼女からは猛烈な臭気が漂っていた。

 ここ最近で私が何度も感じた臭い。それは瘴気と言っても良いのかもしれない。『生』を諦めた者から漂い、この世から離れて行く者が纏うあの臭いだ。

 『死』の臭い。


「深雪ちゃん、鳥居を潜ってから家の中の入るまで、その子の手を離したら駄目よ」


「え? う、うん」


 ようやく一の鳥居の前まで辿り着いた時、祖母は振り返って厳しい表情を私に向ける。そこから発せられた言葉の内容とは別に、語気は厳しい物であった。有無も言わさずとはこの事だと感じる程に厳しい語気に、私は頷く外ない。元々、彼女の腕を離す気もなかったが、祖母の言葉からは、何かの拍子で手が離れてしまうという事故も許されない様子であった。

 しっかりと握り込まれた私の手に、少女の表情が僅かに歪む。私が力を入れ過ぎてしまった為に痛みを感じたのかもしれない。だが、祖母があのような言い方をする以上、万に一つも過ちは許されない筈だ。


「ごめんね。もうすぐだから、少しだけ我慢してね」


 謝罪を口にする私を見ていた少女だが、謝罪を口にしても力を緩める気はない事を悟ったのか、黙って一つ頷きを返して来る。

 祖母に続いて一の鳥居を潜った時、久しく感じていなかった圧力を感じた。それは、以前に胸を苦しめたような感覚でもなく、黄泉醜女に追われた時のような圧迫感でもない。私が幼い頃に感じていた優しい圧力である。

 まるで私を守る為に私の周囲の物を排除するような圧力の掛け方。私自身に圧迫感はないのだが、私の周囲を弾く様に掛けられた圧力。それは私の左腕に向けられているようであった。現に、私の横にいる少女の顔は、先程よりも強く歪んでいる。彼女自身に圧力が掛かっているのか、私が握っている腕に強い力が掛かっているのかは解らないが、まるで私からこの少女を排除しようとしているようにさえ感じた。


「もうちょっとこっちに来て」


 私は彼女の腕を握るのを止め、手を繋ぎ、腕を組むような形に変える。必然的に身体が密着し、強い臭いが私の鼻を突くが、ここで彼女を離しては駄目だという強迫観念の元、私は彼女の腕を組んだまま石段を登り続けた。

 百四十九段の石段が遠い。黄泉醜女との出来事の時ほどではないが、それでも果てしない距離のように感じる。私でさえもそう感じるのだ。私の横にいる少女は尚一層の事だろう。その証拠に、先程まで私に握られるだけであった彼女の手に力が入っている。離さない、離れないとでも言わんばかりの力が、彼女の生命力のようにも感じた。


「二の鳥居を過ぎれば、少しは和らぐから」


「うん」


 前を歩く祖母からの言葉に私は頷きを返し、残り数段となった石段を上る。目の前に二の鳥居が見え、安堵によって心が緩んだ私の右足がその鳥居を潜った時、突如強い風のような圧力が境内の方から私に向けて吹き付けられた。

 気が緩んでいたとなど良い訳にもならない。組んでいた腕が外れ、私の手が少女の手から離れそうになる。その時、私の視界に少女の目が映り込んだ。その瞳はあの時と同じ色を湛えていた。

 何かを諦め、そしてそれでも僅かな望みを捨て切れずに、救いを求めている瞳。その手が離されて当然と考えているのだが、離して欲しくないという想いを微かに宿す光。


「駄目!」


 その瞳を見た瞬間、私の中の何かが弾けた。

 総毛立つと言えば良いのか、身体中から何かが湧き出るような感覚であり、私の中に流れる血液が沸騰したような感覚がある。離れそうだった少女の手を握り締め、その小さく細い身体を強引に引っ張り上げた。

 想像以上に細く軽いその身体は、勢い良く引いた私の身体と共に二の鳥居の内側へと倒れ込む。地面に身体が叩きつけられると目を瞑るが、その衝撃と痛みは一向に襲って来ず、私と少女の身体はふわりと包み込まれた。


「深雪ちゃん、ご苦労様。深雪ちゃんのお願いは神様に届きました。もう大丈夫よ」


「え?」


 私と少女の身体を支えた祖母が笑顔でそう口にする。だが、私は今、神様へお願いをした記憶はない。そもそも、私のような人間の小娘の願いが神様に届く事などないだろう。星の数ほどいる人間の一人一人の願いを聞き届けるような暇はないと思う。

 それでも祖母の笑顔を見ていると、私自身も解らない何かの願いは叶ったように思ってしまうのだ。あの時、私は何を願ったのだろう。『この子の手を離してはいけない』、『この子にこんな目をさせてはいけない』という想いだけだったような気がする。

 そんな当の本人である少女は、私の腕の中で不安そうに私を見上げていた。自分から身体を動かして抜け出そうとする訳でもなく、只々相手の行動に沿うように、逆らわぬように伺っているというような姿。その姿の向こう側に見え隠れする存在に、私は憤りを感じるのであった。


「さぁ、家に入りましょう。まずは、二人でお風呂に入りなさい。その間に何か作っておくから」


 私と少女を立たせると、私のスカートに着いた砂を手で払った祖母が、そのまま家に向かって歩いて行く。どうしたら良いのかを伺うように見上げて来る少女の手を引いて、私も祖母の後を追った。

 家に入り、既に掃除が住んでいる風呂に湯を溜める為に蛇口を捻ると、もうもうと上がる湯気と共に湯が浴槽へと流れ落ちて行く。その間も、少女は私の手を離す事なく風呂をじっと見つめているが、心なしかその手が小刻みに震えているように感じた。


「深雪ちゃん、オムライスにしようと思うのだけれど良いかしら? 深雪ちゃんも小さい頃大好きだったし……でも、少し消化に良い物の方が良いかな?」


 お湯が溜まるまでの間に祖母が脱衣所に顔を出す。今から作る食べ物について尋ねたのだろうが、既に上着を脱がせていた少女の身体を見た祖母の言葉が尻すぼみに小さくなって行った。

 彼女の服を脱がそうとした時、彼女は逆らう事はなかった。変わらぬ生気を感じない瞳を私に向けたまま、只々されるがままになっている。夏場である事もあり、僅か一枚の薄汚れたシャツを脱がしたその下を見た私は、言葉通りに絶句したのだ。

 骨と皮。それ以外に何もない。彼女が丑門君の妹と同級生だというのであれば、第二次性徴は始まっている筈。それにも拘らず、彼女の身体は小さく、女性へと変化している様子は欠片も見えなかった。

 そして、その身体のあちこちにある痣、傷、火傷痕。目を塞ぎたくなる程のその姿に、私は堪え切れずに涙を溢してしまった時、祖母が顔を出したのだ。


「お湯は少し温めの方が良いわよ。入浴剤も入れない方が良いかもしれないわね。ゆっくりはいってらっしゃい」


 自分でもよくわからない悔しさと哀しみで溢れて来る涙を抑え切れずに少女に抱き着いた私に向かって、祖母は優しく声を掛けてくれる。その言葉に頷く事しか出来なかった。その間も、感情の解らない表情のまま私を見ていた少女の服を脱がし、私も全裸になって風呂場へと入って行く。

 湯気が立ち込めた浴室にある浴槽にはまだ半分ほどしかお湯は溜まっていない。それでもある程度まで溜まれば水を入れて薄めるつもりであった為、お湯が溜まる間に身体を洗おうとシャワーを外した。


「有威ちゃんで良かったよね?」


「……はい」


 シャワー用の蛇口を捻ると、浴槽に流れるお湯もある為にそれ程勢いはなかったが、シャワーからお湯が出て来て浴室の床に落ちて行く。水が落ちて行くその音に、有威がびくりと身体を震わせたのがわかった。

 それは、恐怖、怯え、諦めの動きなのだろう。もしかすると、こういったシャワーから熱湯を掛けられた事があるのかもしれない。逆に冷水を掛けられた事があるのかもしれない。それでも名前を問う私に対して懸命に答えようと声を出した彼女を見て、私は再度唇を噛み締めてしまった。


「……大丈夫、熱くないから。まずは身体を軽く流しましょう?」


「……はい」


 私の手にシャワーを掛け、そのお湯を軽く彼女の肌に付ける。びくりと震えた彼女にまた私の顔が歪む。まるで自分が虐めているように感じてしまう程に彼女は全てに怯え、全てに恐怖していた。

 ゆっくり小さく細い身体にお湯を掛けて行く。恐怖に震えていた身体が、湯の温かさを肌で感じる事で徐々に治まって行った。身体から浴室の床に落ちて行く湯は泥のように黒く濁り、粘り気さえも持っているかのように排水溝へと流れて行く。お湯を掛けながら手で身体を撫でつけるように洗うと、ぽろぽろと身体から剥がれるように垢が落ちた。

 時間をかけて身体にお湯を掛けて行く。流れ落ちる湯の色はいつまで経っても濁ったままであり、私は視界が涙で歪むのを理解しながらも、傷跡の残る肌を優しく撫で付け続けた。


「……はい、今度は髪を洗うから、ここに座って」


「はい」


 石鹸を付けて身体を洗うよりも先に、髪の毛の汚れを落とそうと浴室に置いてある椅子に座らせる。長い時間を掛けて身体の汚れを落とした為なのか、先程のような何かに怯え、諦めた返事ではなく、少し意志の籠った返事が返って来た。

 両目を自分の両手で押さえさせ、ゆっくりと頭頂部分から湯を掛けて行く。身体の時以上に黒く濁った湯が滴り落ちて来る。髪の毛は指が通らない程に油脂に塗れており、束になった毛を解しながら湯を通して行った。

 ゆっくりゆっくり髪の毛を解し、湯の色が通常になる頃には浴槽から湯が溢れて来るまでに時間が掛かっていた。慌てて蛇口を捻ってお湯を止め、湯をかき混ぜるが少し熱い。蛇口を捻って水を足し、溢れる湯を桶で掬いながら温めて行く。桶で掬った湯に水を足し、熱くならないようにした湯を再び彼女の頭に少しずつ掛けて行った。

 ある程度油脂が落ちれば、シャンプーを付けて洗う事が出来る。だが、最初に付けたシャンプーは量を使ったにも拘わらずほとんど泡立たなかった。彼女の短く、乱雑に切られた髪の毛を洗って行く。その間も言い付けを守り、必死に両手で目を抑えている少女の健気さがいじらしく哀しかった。


「目に泡は入ってない? 目、痛くない?」


「はい」


 3回目のシャンプーになってようやくしっかりと泡立ち、小さな頭に白くきめ細やかな泡が立つ。流す前に私の手を桶で洗い、タオルをお湯に入れてきつく絞った。両手を抑える手をゆっくりと外させ、顔を少し強めに拭いてやる。身体と同様に汚れが付着していた為、拭く毎にタオルが真っ黒になって行った。

 二、三度タオルを洗い直して顔を拭き、ようやくタオルに汚れが移らない事を確認してから声を掛けた。


「少しずつ目を開けて良いよ。ほら、鏡を見て、白いキノコになっているよ?」


「……わぁ」


 私の声に恐る恐る目を開けた彼女は、目の前にある鏡で自分の姿を確認する。私が髪を洗いながら意図的に作った白い泡の傘は、まるでキノコの傘のように彼女の頭の上に乗っていた。

 最初はそれが自分の姿だと認識出来なかったのだろう。不思議そうに鏡を見つめていたその瞳が、徐々に輝きを放ち出す。本当に小さく、僅かな口元の動き。それは彼女が無意識に出した本来の感情なのだろう。笑みの浮かべ方さえも知らない。そんな少女の姿に、私は顔を伏せた。


「……はい、キノコの時間はおしまい。洗い流すからまた目を押さえてね」


「……はい」


 泡を洗い流す事を伝えると、小さな返事が聞こえて来る。私は顔を伏せている為、彼女の表情は分からなかったが、声には残念な気持ちが宿っているように聞こえた。

 綺麗に泡を流し終え、頭皮に付いた泡もゆっくりと流して行く。全てを流し終えて再びタオルで顔を拭いてから、今度は身体を洗い始めた。

 骨と皮しかないその身体は、力を込めてしまえば折れてしまうのではないかと不安になる程に儚い。タオルで擦りながら垢を落とし、黒くなったタオルを洗って再び擦るの繰り返し。火傷によって歪んだ皮膚は痛々しく、ミミズ腫れのような赤い筋は不自然に盛り上っていた。

 鼻を啜り、小さな嗚咽を溢しながら、私は小さな身体を何度も何度も擦り続ける。垢を取り切った肌は、炎天下の中で外に居たにも拘らず、病的なまでに白かった。


「はい、おしまい。じゃあ、湯船に入ろうか」


 先程までは私の言葉に小さくはあるが返事をしていたのだが、その言葉への返答は幾ら待っても返って来ない。不思議に思い彼女を見ると、唇を震わせ、身体も小刻みに震わせていた。

 再び現れた恐怖による震え。浴槽にどんな心傷が残っているのかは解らないが、浴室に入る時よりも更に強い怯えに、私は顔を伏せる。湯の張った浴槽に怯える理由など、そう多くはないだろう。ここまで来ると、この幼い子供にここまでの恐怖を刷り込んだ相手に対して殺意に近い感情を持ってしまう。その相手にも同じような苦しみを与えてやりたいとさえ思った。


「私が洗い終わるまでそこに座って待っていて。寒くなったら、お湯を少しずつ身体に掛けて良いからね」


「はい」


 彼女を椅子に座らせたまま、私は素早く身体を洗う。髪を洗う前に彼女の身体に湯を掛けてやる。温かそうに目を細めた彼女に安心して、私は髪を洗い始めた。

 彼女を洗ったタオルはビニール袋に入れ、浴室の外へ出す。立ち上がった私にびくりと身体を震わせる彼女を誘って、ゆっくりと湯船の中に足を入れた。私が入って行くのを見つめたまま立ち尽くす彼女の手を取って、湯船へと誘ってみるが、その足は浴室の床に張り付いたように動きはしない。強要する事ではないと思い直し、再び桶からゆっくりとお湯を身体に掛けてやった。


「じゃあ、上がろうか」


 浴室から出てバスタオルで身体を拭く。彼女の身体もしっかりと拭き、髪の毛もしっかりと拭き取った。祖母が用意をしてくれたのだろう。既に脱衣所には私の着替えと、彼女の着替えが置いてある。

 だが、その着替えは、彼女が着ていた衣服ではなかった。それは何処か遠い記憶の中に微かに残っている衣服と下着。小さなクマのプリントがされた下着と水色のシャツと紺のスカート。それは私が子供の頃に気に入っていた服であった。


「この服、ここにあったんだ」


 いつの間にかなくなってしまい、身体が大きくなった為に親が捨てたのだろうと諦めていた衣服の登場に、自然と気分が高揚する。不思議そうに見つめる少女に衣服を着せ、自分も着替えて居間へと移動して行った。

 居間には美味しそうな臭いが満ちており、昼を食べていない私の身体は空腹を訴えるように小さな鳴き声を発する。それに呼応するように隣の小さな小さなお腹からも叫び声が聞こえて来た。

 台所から祖母が出て来るまでにドライヤーで彼女の髪を乾かす。私の髪は長い為、タオルを巻いたままにしてある。短い髪の毛が乾いて行く頃、祖母がお盆に色々と乗せて居間へと顔を出して来た。


「お待たせ」


 食卓に料理が並べられて行く。卵粥と温めた牛乳。少女の身体を考慮した消化に優れたラインナップ。温かな湯気と共に微かな醤油の香りが食欲を誘った。

 件の少女も、先程からドライヤーを当てられているにも拘らず、視線はテーブルと祖母の手の行ったり来たりを繰り返している。卵粥の量はそこまで多くはなく、小さな土鍋の横にある小さなお椀に二回掬えばなくなるという程度。それでも少女の目は怪しい輝きを放ち、獲物を見つめるように鋭かった。

 そんな瞳も、最後に祖母が持って来た物に全てを持っていかれる。今まで帯びていた鋭く怪しい光は鳴りを潜め、年相応の子供らしい期待に満ちた輝きへと変化していった。


「少しだけだけど、食べられるようならね」


 最後に出て来た物はオムライス。子供の頃に祖母が作ってくれた私の好きな料理の一つである。洋食店のようなトロトロ半熟卵が乗っている訳でもない。デミグラスソースが掛かっている訳でもない。ケチャップを入れたチキンライスを薄焼き卵で包み、その上にケチャップで波を描いた本当に昔ながらの純日本風オムライスである。

 私が子供の頃はこれこそがオムライスであった。ケチャップの酸っぱさと、薄焼き卵を突き破った時にチキンライスから香る酸っぱい香りが、口の中に唾液を溢れさせる。この味が好きで、自分で作ろうと挑戦した事もあった。母親の仕事が忙しくなり始めた時、私が母親の分も含めて初めて作ったオムライスは決して美味しい物ではなかったが、それでも母親は笑顔で食べてくれた。それは私の中にある数少ない優しい思い出でもあった。


「髪の毛をちゃんと乾かしてからね」


 今まで大人しく、何に対しても抵抗する気さえなかった少女の身体が前のめりに動く。それを強引に制してしまっては、髪の毛を引っ張られる形になってしまうため、私も少女と共に動きながら、行動を制する言葉を発した。

 残念そうに首を垂れる少女の姿に苦笑しながら手早く髪の毛を乾かして行く。元々短い彼女の髪の毛はそれほど時間を要する事無く乾き、ブラシで丁寧に梳いた後、ドライヤーのスイッチを切った。


「はい、おしまい。私の髪も乾かして来るね」


「はいはい」


 祖母に洗面所に行く事を伝えると、既に皿に顔を付けそうな勢いの少女に苦笑した祖母の答えが聞こえて来る。その姿を視界に入れる事なく、私は洗面所へと向かった。

 洗面所のコンセントにドライヤーを繋ぎ、スイッチを入れると周囲の音をかき消す風音が鳴り出す。ゆっくりと時間を掛けて乾かしながら鏡を見ていると、不意に私の顔が歪んだ。

 鏡に映っているのは私自身で間違いはない。それはいつも見慣れた目であり鼻。だが、何故か口元だけが醜く歪んでいる。付けている筈のない口紅を塗ったような真っ赤な唇。その唇の端が上がり、何かの愉悦を感じているように歪んでいた。


「ひっ」


 突如として襲ってくる恐怖に、危うくドライヤーを落としそうになる。それを証明するように、今の私の顔は恐怖に歪んでいる筈。だが、目の前の鏡に映るその顔は、そんな私自身に愉悦を感じているかの如く歪んでいた。

 ドライヤーのスイッチを切り、慌てて洗面所を飛び出す。祖母のいる居間へ行けば安全という私の感覚を信じ、先程出たばかりの居間へと急いだ。

 だが、居間へ続く障子を開けた私の視界に映った物は、絶対安全区域ではなく、地獄そのものであった。


「な、なにが……」


 あれだけ綺麗に並べられていた料理の数々は全て消え失せ、食器が乱雑に散らばっている。床には少量の食べかすが零れており、それもまた即座に消え失せて行く。僅かに残る料理も横から伸びた小さな手に掴まれ、食卓から消えて行った。

 その小さな手の出どころは、小さく細い背中。私に向けられた小さな背中から伸びる手が食卓から全てを奪っていた。

 騒がしい、食器と食器が重なる音と、料理を消して行く咀嚼音だけが居間に響いている。その地獄絵図のような光景を時が止まったように見つめていた私は、慌てて祖母の姿を探すが、祖母はその光景をすぐ傍で見つめていた。


「我が子を餓鬼憑きにまで堕とすとは……穢れ多き不浄の者共め」


「……おばあちゃん?」


 狂ったように、自我を失ったように食卓の食材を口に放り込み続ける少女を見つめる祖母の瞳はとても厳しく、冷たい。その表情はここ最近になって何度か見る機会のあった、私の祖母ではない誰かの物であった。

 祖母の姿に私は黄泉醜女に感じた物とは異なる恐れを抱く。いや、正確には『恐れ』ではなく、『畏れ』なのだろう。恐怖ではなく畏怖。逃げ出したくなるものではなく、その場に跪きたくなるものであった。


「深雪ちゃんは凄いね。みんな深雪ちゃんを頼りにして来る。やっぱりおばあちゃんの孫は凄い」


 そんな畏れも極僅かな時間の物であった。

 私の存在には気付いていた筈なのに、今気付いたような装いで、柔らかな笑みを祖母が浮かべる。そんな笑顔の横では、食卓に乗る物は皿でさえ食べるのではないかと思える程の勢いで未だに少女が料理を口に運んでいた。

 祖母の傍に移動した私は彼女の姿をしっかりと見てしまった。その目は大きく見開かれ、瞬き一つせずに真っ赤に充血した目を血走らせている。食物を口に運び、咀嚼する暇もなく喉を通している為、口端からは涎と共に食べかすが零れ、着せたばかりの服を汚していた。

 もしこの少女の姿を見る前に、『畏怖』を感じていなければ、私は間違いなくこの少女に『恐怖』を感じただろう。それ程に、この少女の姿は人間という種族からは掛け離れていた。


「……餓鬼」


 祖母が口にしたその言葉を私は反芻する。十年以上生きてれば、何処かで必ず耳にする単語だろう。幼い子供を指す汚い言葉として使う事もあれば、子供達の集団の上にいる人間を『ガキ大将』と親しみを込めて呼ぶ事もある。

 だが、祖母が口にした『餓鬼』はそれらとは根本的に異なる物だろう。それは仏教の世界観の中にある六道の一つである『餓鬼道』で生まれ落ちた者を指す。常に飢えと渇きに苦しみ、飲食物を手に取ると全てが炎に変わり、何も口にする事は出来ず満たされる事はない者。それが『餓鬼』という存在と云われていた。

 経典によっては、36種の餓鬼が存在するという説もあり、そこには細かく分類された餓鬼が存在している。だが、そもそも仏教と日本古来の神祇信仰とは異なる物である為、餓鬼という存在自体が古来の日本に有った訳ではなく、ましてや神社などにその概念があるものでもなかった。

 しかし、仏教は日本に浸透していく中で、日本の神仏習合が続き、民間信仰も加えて様々な事が日本国民に浸透して行く。餓鬼もその一つであろう。


「はい、もうご馳走様にしましょう」


「っ!」


 思考の海に私が溺れている間に、少女は全ての食べ物を食べ尽くし、オムライスの乗っていた皿までをも舐め続けていた。流石にその光景は見るに堪えず、祖母が動き出す。

 彼女の手から皿を回収し、食卓に乗っていた他の皿も回収した祖母は、驚きと哀しみを湛えて見上げる少女の顔を見る事なく、そのまま台所へと消えて行った。

 残された私を見上げる少女の瞳が私の顔を通り過ぎて、その上にある掛け時計へと動く。そして、掛け時計で止まった瞳が大きく見開かれ、徐々に怯えと哀しみの色が広がって行った。


「あ…あ…!」


 突然立ち上がった少女の服から食べ溢しのカスが落ちて行く。私のお気に入りだった服は涎と食べかすで若干汚れてしまってはいるが、それでも洗えば取れる程度の物。せめて着替えてからにと伝えようと口を開きかけた私の横を、少女は駆け抜けて行った。

 流石にこれには私も気分を害す。見返りを求めた訳ではないが、風呂に入れ、食事まで出してくれた祖母に礼の一つもせずに出て行こうとする少女を叱りつけようと廊下に出て玄関まで走り出す。だが、あの痩せ細った身体の何処にそんな力があるのかと問いたくなるほどに彼女の走りは早かったのだ。

 私が玄関に辿り着く前に、戸の閉まる音が響き、外を走る小さな足音が消えて行くのが解る。玄関には小さく靴底さえも外れそうな程に汚れた靴だけが残されていた。


「……有威ちゃん」


 私の呟きは黄昏時へ消えて行く。陽が落ち始め薄暗くなった玄関は赤く染まり、私の影とは別に黒く伸びる影が覆って行った。




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