其の参
ようやく土曜日という、日本国民にとっての安息の曜日が訪れた。
いや、土曜日が安息の曜日というのは、最早三十年以上前の話かもしれない。世の中に週休二日制度という物が確立し、どの企業も、学校もその制度が当たり前になってからそのぐらいの時間は経過しているだろう。私も、この数カ月の間に起きた事件がなければ、もしかすると土曜日に登校、出勤という事をする事は生涯に渡ってなかったかもしれない。
昔は、土曜日の学校は午前授業だったと聞く、それを言ったのは私の母親だったか、父親だったかはもう覚えていないが、それが当たり前であったようだ。職業によっては、『半ドン』と呼ばれ、午前中で仕事を終了する物もあったという。その時代の人達も、今日の私のような何とも言えない高揚感に包まれていたのだろうか。
週休二日制度が確立してからは、金曜日は週末であっても通常の日と変わりはない。明日が休みというだけで、授業や仕事が早く終わる事もなく、今の私のように何処かウキウキと浮ついた気分になる事もなかった。
「ふぅ……早く、家を出過ぎた気がするわ」
『今日は早く帰れる』という喜びが私の心を浮き立てている。決して、今日の放課後の予定に浮足立っている訳ではない。
昔は皆、土曜日はこのような気持ちでいた筈だ。1限目『音楽』、2限目『体育』3限目『図工』で終わるような小学校の土曜日であれば、土曜日など有って無きに等しい曜日だろう。わたしはたぶん、そのような小学生達と同じ心持なのだと思う。
しかし、一の鳥居を潜った先にある公道を見ると、人影もない程に閑散としていると、流石に自分が先走りし過ぎている感は否めない。腕時計を見ればまだ6時半。週休二日が定着している土曜日の朝に人通りなどある訳がないのだ。日頃、家族の為、自分の為と身を削る思いで働く人達も、今日ばかりはと身体を休めている事だろう。
「……まぁ、早く着く分には問題ないでしょう」
6時半とはいえ、既に梅雨も明けた夏真っ盛りの今、既にその存在感を大いに出している太陽から降り注ぐ熱は、アスファルトをじりじりと焼いており、動かずに立っていれば、汗が噴き出て来る。私が暮らす家である南天神社は石段を上がった場所にあるため、一般の住宅街で生活をしている人達に比べれば随分と過ごし易いと思う。朝晩は涼しい風が室内に入って来るし、隣の家の室外機から出る熱風に曝される事もない。正直、この時代にエアコンがない部屋で寝るという行為自体が自殺行為だとは思うが、それでも何とか生活が出来ているのは、あの神社を覆うように茂る南天の木々や、その他の植物達のお陰であろう。
噴き出して来た汗によって肌がじっとりと覆われ、癖のない前髪が額に張り付く。夏は嫌いではないが、私は昔から汗で肌に張り付く髪の毛がとても嫌いであった。
「髪を切ろうかしら。一層の事、丸坊主にした方がすっきりするかも……」
私の髪は癖のない直毛であり、髪の毛自体はかなり細い。後ろは肩甲骨辺りまであるが、髪をゴムなどで纏める事も好きではないので、そのままに流している。風呂やシャワーの後などで乾かす事は非常に億劫ではあるが、毎朝しっかりと手入れをしている為、自分で言うのもなんだが、とても綺麗な髪の毛だとは思っていた。
それでも、この真夏の時期は、毎年髪をばっさりと切り落としたくなる。おかっぱ頭では生温い。ベリーショートと呼ばれるような髪型でも良いような気がするし、本当に坊主頭もありのような気さえしてくるのだ。
「……朝からバカな事を言うなよ」
「え?」
前髪を避けて額の汗をハンカチで拭っていると、後方から突然声が掛かる。そのタイミングの良さに、私は思わず声を上げてしまった。
この町で私に声を掛ける人間など、私が知る限りは一人しかいない。そして、こんな早朝にこの道を歩く人間も一人しかいないだろう。だが、いくら彼が早朝に登校しているとはいえ、ピンポイントで私の登校と重なるだろうか。
私の胸に、以前に何度か上がって来た疑惑が再び込み上がって来た。
「……私をストーキングしているんですか?」
「何でだよ!?」
恐る恐る振り返ると、予想通りの人物が立っており、私は湧き上がった疑問をそのまま口にしてしまう。それに対して間髪入れずに返って来た反応は相当な声量の物であった。
だが、家から出て数分の場所で、後方から声を掛けられれば、通常の女の子であれば恐怖を感じても仕方がないと思う。丑門統虎という男子生徒を少なからず知っている私であっても、そういう恐怖を感じるのは、自意識過剰とは言い切れない筈だ。
「でも、朝早くから登校時に待ち伏せするなんて、ストーカーとしか……」
「通学路の途中の日陰で立ち止まっているのを見かけたら、具合が悪いのかと心配するだろう、普通は……」
確かに、通学路を歩いている途中で、汗を拭く為に木陰に入っていた。正直、一度も休憩をする事なく学校に辿り着く事は実質不可能に等しい。立ち止まっていた時間はそれほど長くはないとはいえ、後方から来た人間が追い付く事は不可能ではないのかもしれない。だが、それも、彼が私を心配して駆け寄って来なければ有り得ないことだろう。
ストーカー疑惑は拭えないが、それでも彼が私を心配してくれたという事には、何故か優越感にも似た嬉しさがあった。『むっ』と顰めた顔は、うっすらと汗が滲んでおり、急いで近づいてくれた事は間違いないだろう。
「ごめんなさい。余りの暑さに少し汗を拭っていました」
「確かに暑いからな……。水分補給はしておけよ」
汗を拭いながら頭頂部分に手を翳すと、熱を帯びている事が分る。もし、髪の毛が金髪であれば、ここまで熱を持たないのかもしれないと考えながらも、彼の忠告を受け入れてカバンに入れておいた水筒を取り出して水分を口に含む。冷えた麦茶が喉を通り、自分の胃へ落ちて行くのがはっきりと解る程に自分の身体が熱を持っていた事を改めて認識した。
朝の七時前からこの暑さなのだ。陽が完全に昇り、日昼ともなれば、これ以上の気温と蒸し暑さになる事は間違いないだろう。果たして、私達人間は今日という日を生き延びる事が出来るのだろうか。
「また、馬鹿みたいな事を考えているのか? いくら何でも、坊主にするとかは止めておいた方が良いと思うぞ」
「馬鹿みたいとは失礼な。私は効率と効果を考えて、検証の必要があると思ったから口にしたの。それでなければ、この気温の中、生きて行く事など出来ません」
彼が再び学校に向かって歩き出したのを見て、私も決死の思いで木陰から灼熱の太陽の下へ身体を曝け出す。瞬時にして焼き焦げるような暑さを肌に感じ、決めた覚悟も即座に萎んで行くのを感じた。
寒い冬も好きではないが、これ程に暑い夏も嫌いだ。全てのやる気というやる気を根こそぎ奪って行く。歩く事も嫌になれば、立ち止まる事さえも嫌になる。もう、嫌だ。家に帰りたい。家に帰って扇風機の前で『あぁぁ』って言いたい。祖母が出してくれる冷たい麦茶を飲みながら、縁側に座っていたい。
「あれ? あの子……」
怠惰な欲望と、その映像を頭に浮かべて現実逃避をしていると、通学途中にある小さな空き地で一人の少女を見かけた。
正確に言えば空き地ではないのだろう。住宅地と住宅地の間の小さな敷地に、遊具を設置した簡易的な公園があるのだ。滑り台やブランコのような大型遊具はなく、小さな木馬と砂場がある程度の本当に些細な広場である。そこに設置されている小さなベンチにその少女はちょこんと座っていた。
自分の気配を消すように、それでいて誰かに見つけて貰いたそうな小さな背中は、見つけた私の涙腺を滲ませる程に切ない。先日見かけた時と同じ薄汚れたよれよれのシャツの袖口から見える病的に細い腕には、遠目からでもはっきりと解る程の青痣が見えた。
ギリッ
不意に横から歯を食いしばるような音が聞こえて来る。振り向くと、そこには予想通りの人物が、予想通りの表情を浮かべていた。
何かを悔やむような、そしてそれ以上の憤りを抱えている表情。許す事など出来ないと言わんばかりの怒りを示す彼が、目の前の少女の内情を全て理解しているとは思えないが、それでもその怒りが正当な物であると私自身も思った。何故なら、私は知らぬ間に拳を強く握りしめ、掌に爪が食い込む痛みすらも感じない程に感情が高ぶっていたからだ。
子供の頃、私も常に一人だった。父は仕事が忙しく、家にいる事をほとんど見た事がなく、母もまた仕事で帰りは遅かった。幼稚園ぐらいまでは、そんな忙しい中でもなんとか子供の為に時間を作ろうとしてくれていたのだろう。それはアルバムに収まっている写真の数が証明していたが、それも小学校に上がってからは難しくなり、必然的に私は一人になった。
表面上の友達はいたが、それでも夕方になれば必ず一人になる。そんな時、私もまた、小さな公園のブランコに座っていた記憶があった。だが、それでも私は恵まれていたのだろう。私は一度として、親に暴力を振るわれた事はなかったし、学校で暴力を振るわれた事もなかった。
こんな朝早くから公園で一人時間を潰さなければならないという生活を送った事はない。その悲しさ、その悔しさ、その虚無感、全てを想像するだけで、胸が苦しくなる。
「……大丈夫か?」
「!!」
私が自分勝手な思いを抱えて固まっている間に、丑門君はその公園に近づいていた。そして後方から彼は、少女へと声を掛ける。だが、そんな彼の優しさは、最悪の形で裏切られる事となった。
突然掛かった声に驚き振り向いた彼女は、彼の顔を見た途端に恐怖を顔に張り付け、脱兎の如く駆け出したのだ。彼から逃げるとなれば、必然的に私の前を通り抜ける事となり、その時に、あの時の臭いが私の鼻を突く。だが、この暑さの中であの時以上に強烈になった臭いであっても、今の私はそれを不快だと思う事はなかった。
「……幼い子まで怖がらせるなんて、駄目でしょう?」
走り去る少女の背中を見つめていた私は、後方で彼がどんな表情をして、どんな感情を抱いているかが手に取るように解り、努めて明るい声色で軽口を叩く。だが、その声は自分が考えていたよりも明るい声ではなかったかもしれない。絞り出すようにして出した声はかすかに震えてしまっていた。
彼の優しさは伝わり難い。それはきっと彼が悪いのではなく、この町全体が悪いのだと思う。何故か彼は忌み嫌われる。その理由もその度合いも解らないが、彼の人間性を全面否定するように恐れられ、彼自身の全てを拒絶される。それはとても悲しい事であり、とても不可思議な事でもあった。
「そうだな……不用意に声を掛けるべきじゃなかった」
「声を掛けた事は間違いではないわ。そんなに自分を卑下しないで!」
私の声掛けは失敗したようだ。彼はそのままの意味で受け取り、私が彼を責めているように感じてしまっていた。だが、私が言いたかったのはそんな事ではないし、彼が間違った事をしているとは微塵も思ってはいない。むしろ、私が出来なかった事を、自分が拒絶される可能性を知っていて尚、行動に移す事の出来る彼に尊敬の念すら持っていた。
だからこそ、彼の言動が悔しく、悲しい。彼は一つも間違っていない。世の中に居ると云われている幼女趣味の変態でない事は分かっているし、そんな変態的な目的の為に彼が行動した訳でもない事も理解している。だからこそ、彼には胸を張っていて欲しかった。
「あの娘には、今度会った時に私がちゃんと話をしておきます。本当は個人的な事、他人の家庭の事に口を挿むのは駄目なんでしょうけど、あの痣の事も聞いてみるわ」
「……ありがとう」
今度いつ会えるか解らない。でも、何故か必ず会えるという自信が私にはあった。それが根拠のない自信ではないという理由もある。その理由はおそらく私にしか理解出来ないし、それが理解出来ない原因は、今も尚、私の背筋を凍らせていた。
私の視界の端に移る影。輪郭しか解らないその影を私は何度も感じて来たし、見ても来た。そして、その度に恐怖し、怯え、竦んで来たのだ。だが、もうそれだけではいられないのかもしれない。あの影が何であれ、私の道を塞ぐのであれば、対峙しなければならないだろう。
といっても、実際に影ではなく、しっかりと視認した時に、私の意志も意地も全て吹き飛ばす程の恐怖と死の臭いを運んで来る事は確実であり、その時にも同じ事を言えるかどうかは解らない。
「それでも……あんな小さな子を巻き込もうとするなら、負けられない」
「……神山は強いな」
思わず口から出てしまった言葉を捉えた丑門君が何故か失礼な言葉を口にするが、その表情から侮りやからかいの感情がない事が解る。時間が経過した事により、気温も益々上昇してはいるのだろうが、私の足は真っ直ぐ、前へと踏み出していた。
何故なら、私の周囲だけは、先程まで感じていた熱気を消し去る程の冷気が支配していたのだから。寒気と言えば良いのだろうか。それとも死の予感とでも言うのだろうか。私の肌は総じて鳥肌が立っていた。
おそらくだが、丑門君もこの空気を感じていたのだろう。あの少女の身体に痣を見つけたというのも理由の一つなのだろうが、彼女自身がこの空気の近くにいたという事が、彼が声を掛けた最大の理由なのだと思う。
「相変わらず失礼ですね」
「……そういう意味で言った訳ではないんだけどな」
暑さも感じなくなった私は、速足で通学路を歩いて行く。丑門君への皮肉も忘れずに口にするが、それに対応する彼の困ったような顔がおかしく、先程まで感じていた恐怖への寒気も収まって行った。
何故、あのような幼い少女に黄泉醜女が付いているのか。あの少女もまた、黄泉國の淵に足を踏み入れてしまっているのかもしれない。それは、彼女が興味本位で覗き込んでしまったのか、それとも本意ではなくその場所に立たされているのかは解らないが、あの身体に残る痣の理由を考えれば、後者である事は間違いないと思う。
八瀬紅葉という女生徒のように、自分本位な考えの基に呼び寄せてしまった物でもなく、この町を騒がせた殺人鬼のように、自分から飛び込んで行った訳でもないだろう。自分の身体に痣を作った相手の『死』をあの少女が望んだとすれば話は別になるが、何故かその可能性はないと私は思っていた。
「……とりあえず、学校に行きましょう」
「そうだな」
冷え切った背筋に体温が戻り始め、自然と歩行速度も上がって行く。
この町に来てから様々な出来事があった。この現世に生きている人間にとっては、信じ難い現象にも遭遇したし、本来ならば視認する事さえ不可能な存在を感じた。だが、その全ての元を辿れば、行きつく先は『人』であった。
『人』が持つ様々な感情。『嫉妬』、『羨望』が歪み、『嫌悪』、『憎悪』になる。それが厄災へと結びつき、黄泉醜女のような存在を呼び込んでしまっていた。
だが、あの少女……確か、名前は『有威』といっただろうか、あの娘はまだ誰かを憎む、恨むという感情がないように感じたのだ。いや、それは私の希望なのかもしれない。まだ、彼女の中には羨む想いまでしかないと信じたいのだろう。
その私の願望が崩れるのも時間の問題なのかもしれない。彼女の近くにあの女の姿が見え始めてしまっているのだから。
学校に到着すると、再び暑さを感じ始める。昨日の夜から誰も居なかった校舎内の空気は少し冷えているが、それも時間と共に集まって来る生徒達の体温と共に消え失せ、残るのは強い湿気を帯びた熱気だけとなった。
あの殺人鬼騒ぎの後は、この学校内は比較的平和である。特に事件という物もなく、事故のような物もない。相も変わらず、私と丑門君の席は離れ小島となってはいるが、相互共に当たらず、触らずを貫いている為、問題が生じる事もなかった。
強いて言うならば、丑門君曰く『校内の澱みが消えた訳ではない』という事だろう。正直、私にはこの校内の細かな澱みを感じる事は出来ない。だが、以前感じたような不快感はないように思える。時折、あの黄泉からの使者の気配を感じる事はあるものの、迫り来る『死』を意識する程のものは感じなかった。
祖父が行った柏手の影響なのか、それとも他に原因があるのかは解らない。だが、今の校内はとても平和で、何の変哲もない普通の高校のように感じる。それが当たり前の事であるという事実に今更ながら気が付き、私は自嘲気味に笑ってしまった。
「……交換しよう」
「いいよ」
明日が休日で、今日も昼過ぎには授業が終わるとなれば、生徒達の気持ちは自然と浮ついた物となる。休み時間になる度に、既に携帯の購入を終えている者達はそれぞれの連絡先を交換し合い、席に戻ってはそのツールによって連絡を取り合っていた。正直、この場に居るのだから普通に話せば良いのではないかと私などは思ってしまうのだが、何が楽しいのか、授業中も携帯を眺めている者達が多く見受けられる。
今でこそ、あの事件から月日が経過したわけではない為、教員達も見て見ぬ振りをしているが、時間が経過し、あの事件が風化してしまえば、この状況は許されず、彼らの手からそれらは没収されてしまう事だろう。まぁ、私自身も退屈な授業を1時間近く聞いているのは苦痛である為、先程から持って来ていた小説を読み始めているのだが。
「……はぁ」
案の定、教壇に立っている教員は深い溜息を吐き出していた。私の両親の年代が学校に通っていた頃の教員であれば、烈火の如くに怒り狂い、生徒に対して手を上げる者もいただろう。だが今は、基本的に私達生徒は色々な物に守られている。果たして守られているのか、飼われているのか判別し辛くはあるが、私達のような未成年を相手にしている教員達は様々な制約に縛られているのだ。何処か哀れにすら感じる程に。
時折ドラマなどで再放送が流される熱血教師など、正直私には理解が出来ない。頭でも理解出来ないのだ。何故、このように生徒に対して感情移入するのか、それは仕事としての領分を超えているのではないかと。それが『教育』という物という考えはあるのだろうが、自分の決められた授業内容を毎日行い、全ての工程を全うするという仕事だけに従事していた方が楽に思えるのだ。
その授業内容が理解し易いように、伝わるように工夫するのは仕事の義務になるのかもしれないが、それを聞く聞かない、受ける受けないは、義務教育課程ではない高校などであれば、生徒個人の責任である。一定の水準に達しないのであれば、退学になるのも責任であるし、何か問題を起こして、停学、退学になるのも自己責任であろう。高校経営という資金問題に関係しないのであれば、その行動に対して教員が懸命に手を差し伸べる必要など皆無であるように私は思う。
「……なんだかモルモットみたいね」
「なんだ突然?」
私の呟きに反応した隣の席の住人へ静かに首を振った私は、再び手元の文庫本に目を落とした。
『右へ倣え』を強要していた頃の教育もまた、生徒を監視し、誘導するような部分はあったのかもしれないが、『放任』という言葉を隠れ蓑にした現代もまた、その後にどういう行動をするのかを実験されているようだ。
私達のような年代が歳を重ね、社会の中心となる頃にはどういう社会になっているのか。それを誰が観察しているのかは知らないが、地球という星のモルモットのようだと思ってしまった。
「……今日はここまでとします。休みに入る前に、一度学力テストがありますので、各自復習を怠らないように」
私が手元の文庫に意識を向けてから十数分経過した頃、教室のスピーカーからチャイムが響いた。
教壇に立っていた教員は、教科書と出席簿を纏め、何の未練もなく教室を出て行く。思いついた事を思いついたままに書き殴られた黒板の字は、ノートに書き写す必要もない物であり、日直を担う生徒によって即座に消し去られていった。
綺麗に理路整然と黒板を使用する教員の授業というのは、理解し易く、受け易い。逆に板書をしない教員の授業は、どんなに話す内容が面白くとも私は好きになれない。退屈しない授業というのは重要なのかもしれないが、その本質は授業の内容を理解し、復習し易い事だと考えている私にとって、ノートに取る必要のない授業は、受ける必要のない授業でもあった。
社会に出れば、話す内容を自分なりに消化してメモを取るという行動も必要なのだとは思うが、私は学生であり、彼らが教員である以上、授業を静かに聞き、話す内容を理解する努力をすると共にノートを取る事が生徒の義務であるならば、授業の内容をどれだけ理解し易く出来るかを考え、その内容を話しながらも理解を深める為の板書をして行くのも教員という仕事の義務だと思うのだ。
故にこそ、私は先程の教員の授業は好きではなかった。
「土曜日の登校、ご苦労様でした。疲れるとは思うけれども、皆の未来の為にも今年は少し頑張ってね」
最後の授業が終わり、ホームルームというか終礼の為に教室に来た女性教員は、生徒達に労いの言葉を掛ける。転校して来てから数か月、この女性教員のヒステリックな面ばかりを見て来た気もするが、今、生徒達に向けられている笑顔は、自身の疲れを隠し切れていないものの、優しさを宿した柔らかな笑みであった。
丑門君の境遇に関しての詳細は解らないが、私の現状に於いては、自業自得の割合の方が大きい。故にこそ、私の自己責任という部分を考えると、この女性教員が私に手を差し伸べる義務はないのだ。だが、この教室にいる生徒達にとっては、多少ヒステリックな部分は有っても、この女性教員は接し易く、親しみ易い人間なのかもしれない。
「どっかに寄って行く?」
「最近は親もうるさいから、今日は帰るわ」
その女性教員も教室を出て行くと、生徒達は各自の鞄を持ってバラバラと帰路に着き始める。通常であれば休みである曜日である為、だらだらと教室に残って居る者もおらず、僅か数分で教室から全ての生徒が退出していた。
残って居るのは、鞄に教科書などを詰め終えた私と、隣で窓の外を見ている丑門君だけである。午後2時である為、まだまだ陽は高く、気温も高い。じりじりとした暑さが身を焦がす外へ出るのを躊躇いたくたるような陽炎が窓の外に見えていた。
「では行きましょう」
「……俺としては必要ないんだけどな」
鞄を持って私が立ち上がると、盛大な溜息を吐き出した丑門君が、何かを諦めるように立ち上がった。
彼の言葉通り、正直に言えば、私としても全く必要がないと言えば、ないだろう。だが、先日、この話を祖母にしたところ、私の予想通りの言葉が返って来た。それこそ、一言一句違わず、予想通りの物であったのだ。
だからこそ、私の緊急連絡先として、祖母にも持ってみないかどうかを聞いてはみたのだが、それに対しての返答が、『虎ちゃんも持つのでしょう? なら、おばあちゃんには必要ないかな』というものである。聞きようによっては、孫の身が心配ではないのかと問いたくなる物ではあるのだが、買い物以外には家を空けない祖母と、祖母が居ない時には絶対に家にいる祖父である為、自宅の電話番号を登録しておけば良いと考えると、当然の回答なのだと思う。
「お母様には話していないのですか?」
「お母様って……。話したよ。話したら、諸手を上げて賛成されたよ。妹の分も見積もりを貰って来いって言われた。どちらかというと、俺の方がついでだな」
対する丑門君の場合、未だに携帯電話に関して両親に話していないのではないかと感じ、それを問いかけてみるが、それに対する返答は予想の斜め上の物であった。
ここ最近の事件があった事を考えると、小学生とはいえ簡易的な連絡手段を持っていた方が良い事は確かであろう。だが、私が出会った丑門君の母親は、大事な息子をついでとして扱うような人ではない。おそらくではあるが、そうでも言わなければ、彼が自分の分を欲しないと思ったのではないだろうか。憶測ではあるが、間違いないと思った。
だからこそ、母親の掌の上で転がっている彼が、それに気づいていない様子が何処か滑稽で、思わず笑みが零れてしまう。訝し気に私を見る彼の表情が尚更面白く、最後には吹き出してしまった。
「……何も面白い事は言ってない筈だけど」
「ふふふ。いえいえ、妹さんのついでなのですね、丑門君は。確かに可愛らしい妹さんでしたからね」
少しからかいも込めた返答をする。だが、私の予想に反して、彼の表情はとても柔らかな物になった。普通であれば、私のからかいに対して不愉快に思ったり、憤りを感じたりするのではないだろうか。自分をついでと揶揄されて、しかも、歳の離れた妹の分まで見積もりを貰うという使い走りにされたのだ。不快に思っていても仕方がない事だと思う。それでも、それに対して不快に思うどころか、当然と思えるのがとても彼らしいように思えた。
「では、早速ですが、丑門君の妹さんの携帯を見に行きましょう」
「……神山のがメインだろう?」
「正直言うと、私も特に希望はないの。色も機能も何でも良いし。だから、妹さんには可愛らしいのを選びましょう」
私の言葉に偽りはない。本当に何色でも良いのだ。ピンクや赤でも良ければ、それこそ黒でも良い。機能は、『通話が出来る事』、『メール、もしくはメッセージが使える事』、『多少なりともアプリ系がダウンロード出来る事』だろうか。アプリゲームなどは必要ないのだが、無料通話アプリは使用したいと思う。メールなどよりも楽ではあるし、わざわざ電話を掛ける手間を削る事が出来て、相手が見たか見てないかも解るのであれば、とても使い勝手が良い。ただし、それを共有出来る人間がいればの話だが。
隣で他人事のような顔をして校門を潜る男の子は強制参加にしよう。私とは『ともだち』確定であり、ブロックは禁止だ。『ブロックは禁止』という言葉は何処か違和感を覚えるが、それでも禁止である。
意気揚々と駅前の携帯ショップへ入った私達であるが、その中に置いてある様々な機種の多さに目を回す事となる。私は携帯を持っていた経験があるとはいえ、自分で機種や機能を理解して選んだ訳ではない。基本的に親に持たせてもらったという言い方が正しい。そんな私が前準備として少しカタログを見た程度で、機種のメーカーの特色や、機種によって異なる機能や容量の違いなどを正確に把握出来る訳がないのだ。
私がこうなのだから、丑門君などが理解出来る訳もない。『へぇ』、『ほぅ』とよく分からない呟きを口にしながらサンプルとして置かれている物を手に取っているものの、何がどう違うのかなど解っている様子には見えなかった。
「どのようなご用件ですか?」
「あっ、はい。実は携帯を新規で購入したいのですが、よくわからなくて……。今日は見積もりだけのつもりです」
私達が入店したのは携帯会社の直営ショップであり、私達を見兼ねてなのか、それともそういうシステムなのか、女性の店員が声を掛けて来た。
この駅前には、田舎とはいえ数店の携帯会社直営ショップがある。私としては何処の会社の物でも構わない為、以前に所有していた携帯の会社のショップに入ったのだ。
女性の店員は私の話を細かく聞いて、傍で困惑顔をしている丑門君を一度見た後に小さく微笑んだ。その顔は何か微笑ましい物を愛でるような、何か甘い嫉妬が混じっているような感じがした。
「こちらの方もご一緒ですね。では、この番号札を持ってお待ちください」
手元の機械から番号が記載された紙を取った女性店員は、私達にそれを渡した後、別の客へと声を掛けに行く。このまま店内をうろうろしていても一向に進展する様子もなかっただろう。それに関しては、感謝の気持ちしかない。
丑門君と一緒に、再び『へぇ』、『ほぅ』の言葉を呟きながら店内を巡回して十数分、ようやく私の手にある番号が呼び出され、一つのカウンター席へ誘導された。
そこからはとても速かった。自分達の希望、通話の量などのカウンセリングをしながらプランを考え、それに合わせて機種も紹介して貰う。私達の担当となった女性に売上ノルマなどがないのか、それとも最初から見込んでいなかったのかは解らないが、彼女の言葉を信じるのならば可能な限り安価で済むような形での提案をしてくれていたように思う。
勿論、丑門君の妹の携帯の見積もりも出して貰った。小学生である事、女の子である事を伝えると、現状ある機種の中でも小中学生などに人気の機種や機能なども丁寧に教えてくれ、細かな見積もりと保護者への説明が必要な部分なども教えてくれた。
この会社のマニュアルなのか、それともこの女性店員のスキルなのかは解らないが、私自身、とても良い気分で話を聞く事が出来たと思う。
「では、ご来店をお待ちしております」
「ありがとうございました」
社会人となれば、明らかに高校生だと解る相手に対しても客として扱わなければならず、それはそれで大変な事だと思いながらも、丁寧に説明してくれた女性店員にお礼を告げて店を出た。
私は1枚、丑門君は2枚の見積書を持って店を出て、既に陽が落ちかけた駅前通りを歩く。詳しい説明を聞く内に時間は予想以上に経過しており、既に時刻は18時を回っていた。既に夕暮れ時は過ぎており、赤く燃えたような太陽の色も、徐々に夜の帳へと変化している。
『黄昏時』。
私は少し前に遭遇したあの出来事以来、この時間帯が何処か苦手となっていた。前からこちらに向かって歩いて来る人の顔の判別が難しくなる薄暗さ。伸び切っていた自身の影が薄れ、支配の進む闇に取り込まれて行くような感覚に陥る。
「神社の鳥居までは送って行くよ」
「……ありがとうございます」
だから、何の気負いもなく、ごく当然の事としてそれを口にする彼が横にいる事がとても心強く、有難い。横にいる彼の顔さえも、隠されて行くような薄暗さが不安を煽るが、彼がいれば大丈夫だという根拠ない安心感が私の中にはあった。
彼との帰り道は、大層な会話などはあまりない。時々お互いが無言の時もあるが、それでも無理をして何かを話そうという気持ちは私にはなかった。それでも良いと思えたし、私の歩くペースに合わせて歩いてくれる彼の横を歩いているだけで、胸の内が温かくなるような気がする。願わくば、彼もそう想ってくれていればとさえ思っていた。
彼と出会ってから数か月という短い期間ではあったが、私の中で『丑門統虎』という人間の存在が大きくなっているのだと改めて感じながら、歩き続けた。
「あれ?」
他愛のない会話を挿みながら歩き続け、高校を超えて馴染みの景色が見えて来た頃、今朝方にも通った小さな公園が見えて来る。そして、その小さなベンチに、今朝と同じ小さな影が見えた。
先に気づいたのは私だった。何故かは解らないが、気付いたと同時に、私は公園の中に入って行き、彼女の前に屈み込む。そこには想像通りの表情をした、予想通りの人物が座っていた。
「……どうしたの? 大丈夫?」
「!?」
感情を失くしていた顔に小さな驚きが映る。そして急に動き出した私を追い掛けて来てくれた丑門君へと視線を移した時、その小さな瞳の奥が更に変化した。
それは、私がここまで見て来た丑門君への感情の数々とは違う物。怯え、恐怖、忌避のような物とは違う、何とも形容し難い物であった。その色が何のか、この時の私には説明も出来なければ、理解も出来なかった。だが、それは後に明確に解るのだ。その瞳の中にある物の意味を。
「あ、待って!」
私が立ち上がる暇を与えずに、小さな姿は公園を駆け出して行く。私の横を通り過ぎる時、あの強烈な臭いが鼻を突いた。何日も風呂に入っていないのだろう。十分な栄養も与えられていないのだろう。
その小さな背中を追おうと立ち上がった私の前に、揺らぐ影が立ちはだかった。先程とは異なる臭いが鼻を突く。潜在的な恐怖を湧き上がらせる死臭。黄昏時に人を迷わせる者の持つ臭い。私の足が、その場に根を生やしたように地面に張り付いてしまった。
「神山!」
しかし、その影は一瞬で霧散する。まるで夏の蚊や蠅を追い払うように振るわれたその腕が、私の前で揺らいでいた影を消滅させたのだ。
急激に戻って来る視界に酔いが回る。ぐらりと揺れた私の身体を彼が支えた。じわりと滲んで来た汗が私の前髪を額に張り付かせ、夏の暑さから来る汗とは異なる不快な冷たい汗が私の体力も気力も根こそぎ奪っていた。
意識が飛びそうになるのを懸命に堪え、震える手で彼の腕を握り締めて身体を支える。何とか足を踏ん張り、立ち事が出来るようになった頃には、あの小さな少女の背中は坂の向こうへ消えてしまっていた。
「……お願い。あの子を黄泉へ連れて行かないで」
「……神山」
あの子が下った坂が、『黄泉比良坂』でない事を、そして先程見えた影が黄泉醜女でない事を。何より、あの小さな女の子の幼い命が黄泉へ連れて行かれない事を願う。誰に願う訳でもない。強いて言えば、私の祖母に助けを求めたい。
あの子を見かけてから僅か数日ではあるが、あの子の瞳は遠い昔の私の目に似ている。置かれた境遇、味わった苦痛は、あの子に比べれば私など比較にならない程に幸せであろう。でも、あの何かを諦めた瞳をあのような少女にさせてはいけないと思ってしまった。
そして、ようやく気付いたのだ。あの子が丑門君へ向けた瞳の奥底に見えた感情は、私が祖母に向ける瞳と同じだという事に。自分の瞳の色などを私が見る事は出来ない。だが、あの感情は解る。あれは、僅かな可能性を信じ、僅かな希望へ手を伸ばそうとする想い。救いを求める手なのだ。
何故彼女が丑門君へその瞳を向けるのか解らない。私へ向けた彼女の瞳にはなかった想いが彼には向けられた。だが、それはただ単純に男という性別に向けられた物ではなく、『丑門統虎』という個人へ向けられた物だというのは漠然とではあるが、私には解った。
「……お願い」
私の呟きは、黄昏時の闇へと消えて行く。
あの小さな女の子の傍に見えていた影が黄泉醜女だとすれば、あの子が誰かの『死』を望んでいるのではなく、あの子こそ『死』を望まれている存在だという現実を残して。




