其の壱
無差別殺人未遂事件から3週間が経過した。
あの事件から3週間という期間、あの学校は休校となり、私達生徒は皆、自宅での学習となっていた。3週間という期間を長いと感じるか、短いと感じるかは人それぞれだとは思うが、私自身としては『よくその短い期間で再開出来たな』と感心している。
殺人鬼が校内に入り、生徒達に刃物を振って怪我を負わせた影響は多大であり、この3週間の時間で、様々な変化があった。
まず、不審者であった殺人鬼の侵入を白昼堂々と許してしまった事によって、私立の高校としてのセキュリティが問題となり、昼間は校門を閉じ、そこに監視カメラ及び警報器が設置される事になる。その際に、学校敷地を囲うブロック塀の上にも有刺鉄線を設置するべきだという意見がPTAの一部から出たらしいが、それは同じPTAの大部分から、『刑務所のようにして、生徒を囚人と同じ扱いにするのか』という反対があり、実施される事はなかった。
何日にも渡り、何回かの教育委員会同席の上でのPTAと学校側の対談が行われ、様々な対策が行われていたが、それでも転校を希望する生徒や保護者はある一定数はおり、それを引き留める手段のない学校側は、転校を希望する生徒達に推薦状を配布し、他校への転入を斡旋する事となった。
殺人など無縁のような小さな田舎町で起こった大事件は、一人の女性の尊い命を奪い、数多くの青少年、少女達の心に大きな傷痕を残している。学校が再開されたとして、一体どれ程の生徒があの学校に再び通おうと考えるだろう。良くても六割、最悪半数以下になる可能性もあった。
「今日から学校か……。気を付けなさい」
朝食時に私に向かった口を開いた祖父の言葉は、あの学校に通う生徒の保護者の大半が考えている事であろう。
私は結局転校する事はなかった。それは、私自身の希望でもあったし、この町にある他の高校の情報などがなかったという理由もある。この町の教育機関の情報などには疎いし、部活動などもしていない私は他校との交流などある筈もない。そして、父親が高校を卒業してからは、そういった方面の情報など仕入れる必要がなかった祖父母は、私以上に疎かった。
様々な要因があった事は確かだが、結論を言えば、転校などを考える余裕もない程の日常を送っていたとも言えなくもない。実は、あの事件以降、この南天神社への参拝者が増えたのだ。
元々、境内へと続く石段を上る事で苦を払い、厄除け、魔除けの南天が茂る境内にて神様へと参拝する神社である。それ故に、今まで静かであった町を突如として襲った殺人事件のような恐怖を払う為に、町中の人間が参拝しに来ているのではないかと思う程に人が押し寄せて来たのだ。
その為、お守りの販売などで私も巫女装束を身に纏う事になり、何かを考える余裕も時間もないまま、登校の日を迎える事になった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
玄関で祖母に見送られ、私は石段を下りて行く。既に7月に入り、『むわっ』とする熱気が朝から立ち込めていた。初夏とはいえ、その熱気は即座に汗を吹き出させる程で、じっとりした汗が首筋へと伝って行く。熱気によって生み出される蜃気楼が揺らめく石段の先に見える一の鳥居の向こうには、多くの小学生や高校生の姿が見えていた。
その事件を経て、この町の学生の投稿時間帯はある程度定められるようになっていた。小学生、中学生、高校生の通学時間を絞る事で、その時間帯に多くの人間が道を歩き、不審者などの襲来を防ぐという目的からである。その為、朝早くからの登校なども禁止されており、部活動の朝練なども自粛という流れになっていた。
石段を下り終えた私は、一の鳥居付近を見回してみるが、予想通り、そこに人影はない。予測通りではあるが、それでも何故か私は少し寂しく感じていた。これだけの人通りがあれば、私が一人で登校しても危険はないだろう。だが、それでも私の心は何処か晴れない想いで曇っていた。
「……しかし、ものの見事に誰一人話し掛けて来ないわね」
私が一の鳥居を潜り、道路に出ると、見た事のある顔がちらほらと見えるが、皆が私の顔を見ると、目を合わせないように瞬時に顔を背けて行く。腫れ物に触れるような仕草というよりは、『触らぬ神に祟りなし』という言葉の方がしっくりと来る態度であった。
最早、この町にとって、私という人間もまた、忌避すべき存在なのかもしれない。確かに、名前も神山だし、神社の孫娘だし、神々しいまでの容姿という程ではないが美人だし、仕方がない事なのかもしれない。
ただ、ここまであからさまな態度を取られると、呆れるというか、一周回って面白くさえ感じてしまう。私が鳥居を潜って出て来た途端、前後に居た同じ高校の生徒達が瞬時に距離を空けて行く。数歩歩く頃には私の周囲にぽっかりと空間が空いたような形になり、昔に流行したアニメの絶対領域を自分が持っているのではないかとさえ思ってしまう。ただ、この領域は私の心の壁ではなく、私の周りの人間達の心の壁なのだと思うが。
「ん?」
周囲の人間の心の壁が全開になっている中で歩を進める私の視界に、私と同じような領域を保持する少女が入って来た。私の目の前から歩いて来る少女の背中には、ランドセルであろう物があり、小学生である事が解る。
ランドセルであろうと評したのは、その色も姿も、とてもランドセルだと思えない外見をしていたからだ。男の子が黒、女の子が赤というのが常識であったのは昭和の時代までであり、私が小学生時代でも、色とりどりのランドセルが存在していたし、今では紫やオレンジは勿論、白や銀まで存在する。だが、この少女が背負っている物は、灰色と呼べば良いのか、茶と呼べば良いのかを迷うような、私の知識の中には存在しない色彩をしていたのだ。
「……酷い」
遠目に見えていたその少女の姿が鮮明になって行くと、私は絶句し、思わず小さな呟きが漏れてしまう。それ程までにその少女の姿は酷い物であった。
顔は痩せこけ、唇に潤いはなく、色もまた抜けている。髪の毛は短いが、それは切り揃えられているというような物ではなく、不格好に刈られたような物。短い所もあれば長い所もあり、とても整髪をしたとは思えないそれは、人間の心の奥にある生理的な不安を掻き立てた。
特に目を引いたのは、その身体であった。小学一年生でさえも、もう少しまともな体格をしていると思う程に痩せ細り、腕は枯れ木のように細く、足も骨と皮だけではないかと思う程に細い。ただ、胃や内臓のある腹部だけがポッコリと出ており、それは彼女が着ているみすぼらしい衣服の上からでもはっきりと解る程であった。
「うっ」
正面からとぼとぼと歩いて来る彼女が近づくにつれ、私から距離を空けていた学生達が更に道の端へと寄って行く。いよいよ、その目鼻立ちさえもしっかりと認識できる距離になった時、私の鼻を不快な刺激臭が襲った。
それは、前の学校に通っていた頃に、たまに駅前などで遭遇した浮浪者が放っていた臭い。何週間も、何カ月も身体を洗う事をせず、汗と垢の溜まった人間が発する異臭であった。その臭気が夏の熱気も合わさり、周囲へ不快な空気を醸し出している。
以前に見た黄泉醜女の姿よりも酷いその姿を、横を通り過ぎ、小学校への道へと消えて行くまで、私は見続けてしまう。そしてその姿は、暫くの間、私の瞼の裏に焼き付く事になった。
「おはようございます」
「おはよう」
その後、何事もなく学校へと辿り着いた私は、教室に入り、いつものように離れ小島となっている席へ着く。隣には既に彼が着席しており、挨拶をすると、即座に挨拶が返って来た。
以前と同じように周囲のクラスメイト達には聞こえない程の小さな声ではあったが、それでも私の耳にはしっかりと届く。この1カ月の間、会う事も声を聞く事もなかったのだが、あの時の怪我の後遺症もなく、元気でいてくれたのだと分かっただけでも、とても嬉しくなる自分が居た。
以前と同じように、挨拶を返した後は素っ気なく窓の外へ視線を向けているが、ここ数カ月を彼と過ごした私としては、無理をして悪ぶっているようにしか見えず、自然と笑みがこぼれる。
「元気だったぁ?」
「外にも出られないし、無茶苦茶に暇だったわ」
席に座り、鞄を机の横に掛けていると、徐々に教室に入って来る人間が増えて来る。登校時間が決められているだけに、皆が同じ時間帯に登校しているのだから当然であるが、私が着席して5分も経過せずに、教室内は騒がしくなっていた。
教室に入り、見知った顔を見れば挨拶を交わし、ここ1カ月の出来事をお互いに確認しては愚痴を言う。あの事件が遠い昔に起こった災害かのように話す姿は、『人』という種族の逞しさを物語っているようであった。幸いにも、この学校に死者はおらず、怪我をした人間もこの1か月で完治している。それらの顔色はあの事件以前よりも良いようにさえ見える。変わらないのは、私とその隣の席に座る丑門君への距離だけかもしれない。いや、それも以前よりも開いているように感じた。
「丑門君は、もう身体の方は大丈夫なの?」
「ん? ああ、抜糸も済んでいるし、傷跡も残らない形での縫合をしてくれたおかげで、見た目は以前と変わらないな」
『いや、そういう事を聞きたかった訳ではない』と突っ込みたくなる回答を貰った。
確かに、身体は大丈夫かと問いかけたが、傷跡は残るのかと心配した訳ではない。いや、決して、あの傷の深さを軽んじた訳でもないし、それに対して罪悪感が皆無な訳でもない。だが、私としてはそういう事を聞きたかった訳ではないのだ。むしろ、切られた傷跡が残らない彼の綺麗な胸板を想像してしまい、頬が熱くなってしまった。
縫合した場所の抜糸も済み、学校に登校出来る程度まで体力も回復しているのであれば問題はないのだろう。激しい運動をして傷口が開くというような事もなさそうだが、身体を動かす時に何処かが突っ張るというような事がなければと願うばかりだ。
「身体の一部分が動かし難いとか、そういう事もない?」
「大丈夫だよ、神山。何も不自由な所なんてないから」
しつこく問いかける私に対して微かに微笑んだ彼は、その微笑を浮かべたままで私に向かって頷きを返す。その顔は嘘を言っているようにも見えず、虚勢を張っているようにも見えない。あの傷による弊害が彼にはないという事だけは確かのようである。それを見て、ようやく私も『ほっ』と胸を撫で下ろした。
そんな私達だけの会話に聞き耳を立てているような奇特なクラスメイトはおらず、徐々に喧騒を増した教室内に掻き消されて行く。そうこうしている内に、ホームルーム開始のチャイムが鳴り、同時に担任の女性教員が教室に入って来た事で、ようやく長かった休学期間が明けたのだった。
「本日の一限目は、これからの注意事項などのお話をします」
教室に入って来た担任の女性教員は、出席簿を教壇に置くと、教室内全域に視線を送り、小さな溜息を吐き出してから話し出す。既にホームルーム開始のチャイムが鳴ってはいるが、この教室にある数席が開いたままであった。それはつまり、このクラスからも数人の転校生が居たという事なのだろう。
私立高校にとって、悪い言い方をすれば、生徒は金の生る木である。生徒数が減れば授業料などの収入も減り、学校運営の経費や学校自体の利益もまた減って行く。それは死活問題と言っても過言でないだろう。ましてや、先日の事件は全国ニュースで取り上げられる程の問題であり、来年の新入生獲得にも多大な影響が出る事は間違いない。この女性教員の立場からすれば、己の給与にも直結する事であり、この教室をみて現実を直視する事になったという所だろう。
「まず、当面の間は、今朝と同じように登校する時間帯を限定します。朝早くからの登校は原則厳禁です。また、部活動なども当面は短縮され、終了時間を統一します」
「えぇぇぇぇぇぇ」
私の意見を正直に言うと、今更登校時間を限定したところで何が変わる訳ではないと思う。既に事件が終了してしまっている以上、意味がないとまでは言わないが、その効果は表れないだろう。つまり、これは保護者達や教育委員会へ向けてのアピールに他ならないのだ。
それは放課後も同様だが、こちらはまだ理解出来る。この学校は近隣では進学校とされているが、部活動にも力を入れていた。特に運動部の中には、この地域では強豪と呼ばれる部も存在しており、そのような部は遅くまで練習をしている事が多い。体育館競技などの部活であれば、陽が落ちても練習は可能であり、夜の9時、10時近くまで練習をしているという事も多くあるようであった。
そういう部活に所属している生徒達は、練習という物は嫌な物ではなく、むしろ自分の技術などが向上する時間と考えている者も多く、今回の学校の決定に不服であっても何ら不思議ではない。現に、担任の女性教員が発した通達に不満の声を上げている生徒達の大半は、運動部に所属している男女であった。
「はいはい、静かに。部活動の終了時間については、各部活動の顧問の先生から話を聞いてください」
女性教員が手を鳴らして教室内を締める。ふと、ここ数カ月で、この担任は随分変わったように思った。ここ数カ月で色々と出来事、事件があり、そういう事に慣れたのか、それとも単純に図太くなったのかは解らないが、騒ぎ始めた教室を窘める術を身に着けたようである。窘められた生徒達は、隣の席の人間に不満を溢してはいるが、教室内で騒ぎ立てるような真似はしなかったのだ。
まぁ、以前のような本当に不測の事態に陥った時は、またヒステリックを発動してしまう危険性は否定出来ないが、現段階において、この女性教員は担任としてのスキルアップを果たしたと言っても良いのかもしれない。
「それと、これは強制ではありませんが、各自に携帯電話の保持が推奨されます。校内への携帯電話の持ち込みも許可されるようになるでしょう。但し、授業中などの使用に関しては厳禁です」
「おおぉぉぉぉ」
今度は先程とは異なったどよめきが教室内に起こる。これには私も少し驚いた。だが、おそらく私の驚きは、この教室にいる生徒達と逆であろう。
『今までは駄目だったの?』というのが、私の驚きだ。今日日、携帯電話というか、スマホやiPhoneを所有していない高校生が居る事の方が珍しい。その通話料金などの出所が何処かは別にしても、持ち歩いていない訳がないだろうと思っていた。だが、この教室のどよめきから考えると、もしかすると、半数近くの生徒が所有していないのではないかとさえ思ってしまう。
以前、私が通っていた学校では、勿論授業中での使用は厳禁であったし、音も鳴らしてはいけなかったが、それでも校内への持ち込みに規制が掛けられる事はなかった。私自身も所有していたし、使用頻度は少なかったが、鞄の中に入れて登校していたのだ。
「静かに! 携帯電話の所持や購入に関しては、親御さんと相談の上で行ってください。あくまでも『推奨』であって、『強制』ではありません。所持しなければならないという訳ではないという事を理解してください」
担任の女性教員の薄皮は剥がれ、剥がれた奥からヒステリックな色が見え隠れする。それでも教室のざわめきは収まらず、見るからに浮き立つ心を抑えきれない生徒達が周囲の級友に声を掛けていた。
私個人の意見を述べるのであれば、この話題は朝一番ではなく、一日の終わりに通達するべきであっただろう。それであれば、帰り道にて同級生同士で話を弾ませる事が出来ただろうし、今日一日の授業にも集中が出来た筈だ。ただ、その場合、帰り道で携帯ショップなどに寄って行く生徒達も多くなり、学生の身の安全を第一に考える学校としては、本末転倒になってしまう可能性も否めない。
「もし、購入する事になったとしても、必ず親御さんと一緒に休日を利用して行動してください」
「ええぇぇぇぇ」
やはりというか、当然の事であるが、注意が入った。
お金もない、車もないという自由な時間だけが有り余っている高校生にとって、携帯電話の購入など、飛付きたくなる娯楽であろう。私が以前に通っていた高校の同級生などは、既に携帯電話は所持していて当然という物であった為、それ程有難味もなく、珍しくもないのだが、先程までの反応から見れば、この近辺では携帯やスマホを持っている高校生の方が珍しいのだろう。そんな若者にとって、この話題は心が浮き立つ物であった筈だ。
このホームルームの話題に興味を示していないのは、この教室内ではおそらく私と、私の隣で窓の外を見ている男子生徒だけかもしれない。
「丑門君は持っているの?」
「……いや」
小さく問いかけた私の声に顔を動かした彼は、一瞬何を聞かれているのかが解らなかったのか、暫く考えた後、静かに首を横に振る。そしてまた、騒がしい教室内に興味を示さず、窓の外へと視線を向けた。窓の外にそれ程までに彼の興味をそそる物があるのかと疑問に思うが、私から見える外の景色は、いつもと変わらない物である。私の顔を見て話をするよりも、何の変哲もない外の景色の方が魅力的であるというような行動に若干『むっ』とするが、それもまた、この歪な小さな世界での彼の処世術なのだろう。
私自身も今は携帯電話を所持していない。大きな理由としては、第一にこの町では必要性を感じなかったからである。以前は、両親が共働きであり、夜遅くまで自宅で一人という事も日常であり、何かしらの緊急事態に備えて、母親が買い与えてくれた物であった。基本的に両親の携帯番号と、祖父母の家の電話番号、それと強制的に登録をさせられた数人のクラスメイトの番号しか入っていなかったが、それでも常に携帯していたし、登校時も持っていた。
「私としては、必要ないんだけどな……」
両親の離婚と共に、父親に引き取られるようになった為、母親名義での支払いを行っていた携帯電話は解約されている。それは当然のことであるし、解約を行った母親に対して思う物もない。私自身がその後も父親に携帯電話について要求していない為、そのままになっていた。
高校から祖父母の家である南天神社は近いし、家に帰れば必ず祖母はいる。祖父はお付き合いで出かける事があるが、それも頻繁ではない。私一人での外出時に何か緊急事態が発生する可能性はないと言い切れないが、それでもわざわざ料金を払って携帯電話を所持する必要性を感じはしなかった。
携帯電話でのやり取りが必要な相手もいなければ、私自身がそれを煩わしいと思う以上、仕事でも始めない限りは神山深雪に携帯電話は必要ないと思っている。
「いや、神山は持っていなければ駄目だろう? むしろ、持っていなかった事に驚くよ」
そんな私の呟きは、窓の外へ向かって吹く風に乗って丑門君の耳にも届いていたようだ。驚愕というような表情で私の方へ顔を向けた彼は、『こいつは何を言っているんだ』とでも言いたげに言葉を返して来る。私としては、彼が『駄目だ』という事に納得は出来ないが、何となく理解は出来た。
だが、この町に来てから様々な出来事に遭遇した中で、携帯電話を持っていれば何とかなったという物は皆無である。この町に来てすぐに遭遇した黄泉醜女。あの時に携帯電話を持っていれば何とかなったかと言えば、即時に『否』と答えるだろう。そもそもあの黄昏時に携帯電話が使用出来たかどうかも怪しいし、呑気に電話が出来た状態でもなかった。
また、殺人鬼が校内に侵入してきた時も、携帯電話も持っていても、連絡先が警察しかなく、それも既に校舎内に居た教員が行っていただろう。つまり、緊急時の備えとして持っていても、私には使用が出来なかったのだ。
「意味ないよ?」
「ある。一度、家に帰って相談してみろ」
私は自分の考えている通りに言葉を口にするが、彼に即時否定された。納得が行かず、表情を『むっ』とした物に変えるが、それを意にも介さず、彼は祖父母へ話す事を提案して来る。ここ数カ月の間の付き合いの中で、彼がここまで強く忠告のような形で言葉を発する事が少なかった為、何故かその言葉はすんなりと私の中に入り、家に帰ったら祖母に相談してみようと考えた。
だが、それでも元来の天邪鬼であり、捻くれ者である私は、素直にその忠告を受け入れる事を良しと出来ず、憎まれ口を漏らしてしまう。
「それなら、丑門君にも必要です」
「は? 何でだよ」
一限目は通常の授業ではなく、細かな注意事項を一つ一つ担任が話しているが、先程の携帯の話で教室は浮足立っている為、私と丑門君の小声など周囲には全く届いていない。本当に離れ小島なのか、私達二人は、この教室に存在していないようにさえ感じる。
周囲の喧騒、担任のヒステリックな注意の声を他所に、私の憎まれ口に対して怪訝な表情を浮かべた丑門君は、不機嫌そうに問いかけて来た。
「私が携帯を持っていても、助けを呼べる相手は祖父母と警察だけ。丑門君も持っていたら、電話が出来るでしょう?」
「警察で良いだろう?」
正直、携帯電話を購入したところで、今の私はアドレス帳に祖父母の家の電話番号しか入れないだろう。正確に言うと、それ以外は入れられない。この高校に転入してから既に数カ月が経過しているが、友達どころか、話すような知り合いすらいない。生活する上では、困る事はないのだが、流石にこういう場面では、我が事ながら少し恥ずかしく思ってしまった。
唯一の知り合いである丑門君のアドレスを入れれば良いが、彼もまた携帯を持っていない。それならば、彼も同時に購入すれば全てが丸く収まるだろう。私のアドレスの一号が彼で、彼のアドレス一号が私であれば、それは少し素敵な事ではないだろうか。少し乙女チックな考えで恥ずかしくはあるが、この時の私はとても凄い名案だと思っていた。
「いや、丑門君も持っていなければ駄目だろう? むしろ、持たなくても良いと思っている事に驚くよ」
「真似するな」
先程、彼が発した私への忠告の文言を引用した言葉は、彼に不評であった。『むっ』としたような表情を浮かべた彼は、少し強めの語気を込めている。流石に戯れが過ぎたかと謝罪すれば、『別にいいよ』と即座に許してくれた。傍から見れば、どうにもくだらないやり取りであろう。だが、何故かこのようなやり取りが私の心を温かくさせるのだ。
教室内では携帯電話所持許可の話題で盛り上がり、ヒステリックな女性教員も流石に溜息を吐き出して達観し始めている。かなり騒がしいであろう教室内の騒音も、今の私の耳には届かず、だからこそ、私はこんな軽口を丑門君にしてしまう。
「丑門君のご忠告通り、帰ったら祖父母に相談してみるわ。だから、丑門君もご両親に相談して。そして、一緒に買いに行きましょう」
「は?」
呆気にとられ、内容が理解出来ていない事がはっきりと解る。そんな彼の表情が面白く、悪戯が成功した事で私が笑うと、途端に彼は表情を険しくさせた。そういう何処か子供のような仕草も、この町で私だけが知る彼の一部だと思うと、何故だか少し嬉しくなる。
本来、通常の高校であれば、あと半月もすれば夏休みという長期休暇に入るのだが、この高校に至っては、今年の長期休暇がほぼない。先日の事件によって、1カ月近い期間の休校時期があり、補修という名目も含めて、盆に入るまでは登校期間という事になったのだ。当初、これには生徒達の不満が爆発するのだが、長期休暇の間に旅行などの予定を組んでいる親以外は、学校のこの判断に対し、概ね賛成の意を貰っている。
急遽出来た長い休校期間では、外出も出来ず、常に子供が家にいる状態だった為、休校が明けて半月もしない間に再び長期休みとなって子供達が家にいる事を良しとしなかったのかもしれない。
「例え許可が貰えたとしても、購入は保護者が必要だと言っていただろう?」
「確かにそうだけど、私の祖父母は携帯電話の事など解らないから、一緒に来てくれないかもしれません」
私の祖父母は携帯電話を所持していない。現代では、祖父母の年齢の人間でも所持しているのが当たり前の世の中になってはいるが、この町である事、そして神社の管理者であり、常に神社に居る祖父母には必要性が皆無である事などから話題に上った事もなかった。自分達に興味の欠片もない為、孫の私に必要な物だという考えも及ばないのだろう。それは、自分達に不必要な物だから、孫も必要ない筈だという物ではなく、単純に考慮する物の中に存在がないというだけであって、私が学校で必要だと言われたと伝えれば、『そういう物が必要なのね』と考慮してくれる筈だ。
ただ、一緒にお店へ行ってくれるかとなると、難しいかもしれない。祖母は機械類に関し、興味が薄い。家電製品の利便性には驚き、それを楽しむ余裕を持っているものの、それが趣向品となると格段に興味が落ちる。TVなども朝の情報収集の為に使用しても、基本的に電源は切られているし、ラジオの音楽などを聴いているのも余り見た事がなかった。ましてや、家の電話などは、この世の中にまだ存在していたのかと感心する黒電話である。そのような生活をする祖母である為、『深雪ちゃんが決めてらっしゃい。そしてお見積りを貰って来て』と言いそうな気がするのだ。いや、間違いなく、一言一句そのままだろう。
「まずは、機種を決めて、プランなどの見積もりを出して貰ってから祖母と一緒に行こうと思います。ですので、見積もりを出して貰うのには丑門君が付き合ってください」
「いや、毎回思うけど、何故に自分が考えた案が最善な物であると信じて疑わない言動が出来るんだ?」
私が以前所有していた物は型落ちのスマートフォンであった。私自身、それ程必要とはしていなかった事や、母親も高校一年の娘に高級な機種を購入するつもりがなかったからであろう。今も機種の良し悪しに興味がない事に変わりはないが、私は何故か少しだけ楽しみになっていた。
どのような機種があるのか、どのような機能があるのか、どんな色が良いだろうかなどなど、自分らしくはないと思いながらも、色々と想像を巡らせ、正直に言うと、丑門君の返答は聞いていなかったかもしれない。
「まぁ、この学校に俺達の行動を咎める人間もいなそうだけどな……」
上の空になっていた私の耳に、彼の小さな呟きが聞こえて来る。確かに、転校して2カ月程で私のこの学校での立ち位置は確定していた。この教室だけではなく、校内を歩いていても、私と目を合わせる人間は皆無であり、廊下では私を避けるように道が開けて行く。そういう光景に気持ちが昂る人間もいるかもしれないが、私はそれが気持ち悪く感じてしまっていた。
話しかけられないのも、避けられるのも構わないし、干渉されずに存在しない者として扱われるのも苦痛ではない。ただ、モーゼのように道が開けるとなれば、少し話は異なって来る。あれでは、腫れ物どころか、毒物扱いだ。
「私は別に危険物ではないのですけどね」
「いや、十分に危険物だと思うぞ」
溜息交じりの独り言に対して即座に返って来る肯定。それには温厚な私も『むっ』とする。これ程に可憐で繊細な女性を、導火線に火の付いたダイナマイトのような扱いをするとは何事であろう。しかも、どこからどう見ても危険物に違いない人物が口にしたとなれば尚更だ。
そんな爆発物の傍に居れば、可憐で繊細な女性も危険物扱いされてしまうのかもしれないが、そうであれば、全ての元凶は私の隣の席に座る男子生徒という事になる。彼こそが一番の危険物であり、劇物であり、爆発物なのだ。
「丑門君という爆発物の取り扱いには、高度な資格が必要なようなので、私が一緒に携帯ショップに付き添ってあげます。ちなみに、先程の言動により、丑門君の拒否権は消滅致しました」
「……はぁ、わかったよ」
何かを諦めたような失礼な溜息を吐き出した彼は、渋々という表情で頷きを返す。それ以降は再び窓の外へと視線を向けてしまったが、約束を取り付けた私は、未だにヒステリックな声を上げている女性教員へと視線を戻した。
登校時に遭遇した不快な光景を忘れてしまう程に上機嫌になった私ではあったが、そんな私を咎めるように、物語は始まっていたのだった。




