後日談②
着替え終わり、カーテンを開けて尋ねた私を見る祖母は、何処か不思議そうな顔をしていた。逆に私の方が、祖母のその表情の意味が解らない。何故、私ではなく、祖母がその表情をするのか。
祖母が明確に何かを口にしないのは、それに神山深雪という個人が関わっているからだと確信している。となれば、私の何があの学校に影響を及ぼしているのかという事を私が今、問いかけたのだ。それなのに、何故祖母が疑問のような顔をしているのかが理解出来ない。本当に理解出来ない。
「何でおばあちゃんがそんな顔をするの?」
「え? 深雪ちゃんこそ、何を言っているの?」
会話が噛み合わない。まるで、先程の発言自体を忘れてしまったかのような祖母の返答に私は少し苛立ちを覚える。だが、祖母の表情を見る限り、祖母が冗談を言っているようにも思えない。私も空耳だったと言うのだろうか。
それこそ、有り得ない。空耳だとすれば、私自身が幻聴を耳にしてしまう程に錯乱していると考えてしまう程にはっきりとした言葉だったのだ。断言出来るが、私は違法薬物の類は一切手を出していない。昨今、中学生でも手に入れようと思えば、割と簡単に手に入る覚醒剤を始めとする違法薬物であるが、私はその入手方法さえも知らない。故に幻聴や幻覚に悩まされるという事はない筈だ。
「おばあちゃんが今、『揃ってしまったから』って言ったでしょう?」
「え? おばあちゃん、そんな事言った? う~ん、言ってないよ?」
駄目だ。これは駄目な傾向だ。こうなってしまった祖母は、例え自分の口から出た言葉であっても、それを絶対に認めない。要するに、その真偽は永遠に闇の中に葬り去られてしまうのだ。もしかすると、祖母は本当に言っておらず、私の幻聴だったという可能性さえも残ってしまうという後味の悪い物ではあるが、諦める他ないだろう。
うんうんと私が唸っている間に、祖母は退院の準備を終わらせてしまう。私が着替え終えた時には、小さなバックに私の生活用品が全て詰め込まれていた。
元々、長期の入院を想定している訳ではない為、余計な用品は何一つない。その為、本当に小さなボストンバッグ一つに全てが収まっていた。
「私が持つよ」
「そう? ありがとう」
祖母からボストンバッグを受け取り、靴に履き替えた私は、先程まで履いていたスリッパをビニール袋に入れて、ボストンバッグの中に押し込んだ。先程の祖母の言葉は気にはなるが、それでも祖母が明確な言葉を口にしない以上、それ程大きな影響はないのだろうと思う事にする。例え私が関係する事であっても、私自身に害のある事、私の命が脅かされる事であれば、祖母は必ず私に話してくれると思うのだ。
そんな事を考えていると、不意に祖母が私の身体を抱き締めた。祖母との身長差はない為、私の顎が祖母の肩に乗る。そして祖母は、私の髪の毛を撫でながら、小さな呟きを溢した。
「おじいちゃんも、おばあちゃんも歳を取ってしまったわ。あの神社の御力も弱って行く。それもまた、時代の流れなのかもしれない。でもね、おばあちゃんは嬉しいの。新しい風と光がこの町に生まれようとしているから」
「どうしたの?」
祖母の声は、私が不安になる程、弱々しい。私はこんな祖母を今まで見た事はなかった。いつでも優しく微笑み、その微笑は全てを包み込み、どんなに困難な事でも他愛もない事のように思える程の温かさを持っていたのだ。それが、今の祖母の表情には欠片も見えない。それは私の心の不安を大きくして行った。
祖母が居る限り、私は安全だという想いが私の心の何処かにあったのだと思う。私にとって祖父母は絶対的な保護者であり、庇護者である。この二人が居れば、私が心配する事など何もないと想える程に強力な存在であった。
そんな強固で絶対的な壁に小さな罅が入った瞬間。私は生涯、この日を忘れる事はないだろう。自分も一人の人間として、女性として、己の道を歩まなければならないのだと、認識を始めたのもこの日だったのだ。
「深雪ちゃんは、おばあちゃんの自慢の孫だから大丈夫。何があっても、どんな事があっても、深雪ちゃんなら大丈夫」
私を抱き締めながら耳元で囁かれた言葉は、自然と私の身体の中に浸透し、力になって行く。この言葉が、私を生涯に渡って支え続ける物となるのだが、この時の私には気づきもしなかった。
祖母が私の身体を抱く力が想像以上に強く、祖母の身体の温もりが直接浸透して来る。それは不快な物ではなく、むしろ私の原点となる物へ何かを訴えかけているように感じる程、身体の奥が熱くなっていた。
「さぁ、準備も出来たし、虎ちゃんの所へお見舞いに行きましょうか」
「ふふふ。変なおばあちゃん」
暫く私を抱き締めたままであった祖母であるが、勢い良く身体を離すと、そのまま病室の扉へと向かって行く。その行動が、祖母の中でこれまでの話は終了した事を告げていた。こうなってしまうと、最早話題を戻すのが不可能である事は、幼い頃からの経験で理解している。だからこそ、私も笑みを浮かべて、祖母の後を追うのであった。
私の前を歩く祖母の背中は、いつも通りの朗らかな物。先程感じたような弱々しさは微塵もなく、私の絶対的な保護者である事に変わりがない事を示していた。
祖母は既に丑門君を見舞った事があるのか、迷いなく廊下を歩いて行く。健康優良児として育って来た私は、入院どころか、通院も皆無に近い為、入院施設のある病院内という物珍しい光景が目新しく、すれ違うパジャマ姿の患者さんや、医療器具の入った配膳版のような物を押す職員の姿などへ視線を向けながら歩いていた。
病院内に足を踏み入れた回数も少なく、ましてや入院をした事など皆無である私には解らないが、すれ違う患者全員の表情に生気がないように感じる。誰も彼もが生きる希望を失っているかのような暗い表情を浮かべていたのだ。病院とはそういう場所だと言われれば納得するかもしれないが、それでも患者が皆死病に侵されている訳ではないだろう。それにも拘らず、何故かこの病院には笑顔が見えない。患者だけでなく、職員にも見えないのだ。
私の中の勝手なイメージではあるのだが、ナースと呼ばれる女性の看護師は、白衣の天使という別名を持つ程の存在。患者に優しい笑顔を向け、生きる希望を持たせるという技を持っている筈である。だが、この病院に居る女性看護師達も何処か影の差す表情を浮かべているのだ。
『……ここは、生まれ出る者はなく、死に逝く者の集う場所』
「え!?」
それは何処かから聞こえて来たものではなく、私の脳内で響くような声であった。現に周囲を見回しても、私の傍に誰かが立っている訳でもなく、離れている場所を歩く者達の中にも私へ視線を向けている人間はいない。だが、あの声は確かに私の脳に届いていた。しっかりと言語として認識し、その内容さえも把握出来ている。それは、私の幻聴という曖昧な物で済ます事は出来ない程の物であった。
急激に下がっていく自分の体温が肌で感じる。唇が紫色へと変色して行くかのように自分の周囲の気温さえも下がっているようであった。
「203号室だった患者さん、今朝亡くなっていたそうよ」
「え!? 結構元気そうだったのに……。まぁ、ご年齢も高かったしね」
私の周囲の空気が冷え切った頃、それを感じていないのではないかとさえ思える女性看護師の二人が私の前を通り過ぎて行く。そのすれ違いざまに放った言葉を何気なく聞いた私は、ふとした違和感を覚えた。それは徐々に私の脳へと達し、そして全身に恐怖という縛りを施して行く。
私が先程祖母と出て来た病室は203号室。私があの病室に入った事によって別の病室へ移った患者さんの中に、今朝亡くなった人がいるという事。それは私が意識を失い、この病院に連れてこられた事が原因なのだろうか。直接的に私が手を下した訳ではないが、間接的にせよ、私が元凶になってしまったのではないかと考えてしまう。
「ひっ!?」
無意識に私は自分が歩いて来た廊下を振り返る。廊下の突き当りのT字路になっている部分にある病室が203号室であり、僅か数時間前には私が一人で眠っていた場所でもある。その場所にあの女が立っていた。
正確には、黒い影にしか見えないのだろうが、私にはその口元までがはっきりと見えたような気がした。水分のない髪、ひび割れたような皮膚、そしてそれらとは対照的に真っ赤に染まった唇。その全てがはっきりと私には見えている。
硬直する私に身体。指先や足先の方から徐々に感覚が薄れて行く。痺れているのか、痛いのかさえもう解らない。しかし視線だけはその黒い影から離せないのだ。震え出した身体を抑える事は出来ず、徐々に強まる震えが口元まで及ぶと、噛み合わない歯がカチカチと音を立て出す。
「……深雪ちゃん、行こう?」
その恐怖は私の背中を軽く叩いた手によって払われた。その瞬間、私を縛り付けていた恐怖が霧散する。視界に色が戻り、それと同時にあの病室の前に居た黒い影もまた、跡形もなく消えていた。
私の目の前に移る顔は、私がこの世で一番信頼し、一番頼りにしているあの笑顔。先程見た陰りはなく、いつものような自信と優しさに満ちた、私の大好きな祖母の笑顔があった。
笑顔と共に差し出された手をしっかりと握った私は、祖母に手を引かれながらその場を後にする。その手を握っている限り、後ろを振り返る必要もなく、この病院の暗い空気を気にする必要もない。
「もっと自信を持ちなさい。深雪ちゃんは、おばあちゃんの自慢の孫です。さっきも言ったでしょう? 何も恐れる必要もないわ。どんな物でも、どんな事でも、深雪ちゃんなら乗り越えていけるから」
祖母の言葉は魔法かもしれない。その声を、その言霊を聞くだけで、萎み掛けていた自信と勇気が湧き上がって来る。大きく頷きを返した私に微笑む祖母の顔を見ながら、動き出した私の思考は様々な事象を繋ぎ合わせて行った。
この病院には、産科は無いようだ。つまり、この病院で生まれる赤子はいない。逆に、それ以外はとても充実している病院である。循環器科や消化器科を含む総合的な内科、小児系を除外した外科、皮膚科や泌尿器科まであるのだ。
だが、産科だけがない。探せば婦人科はあるのかもしれないが、お産が出来る環境ではない事は確かである。出産が出来ない場所である以上、この場所で新たな命が誕生する事はない。対照的に、内科や外科がある以上、手術などの後で入院する人間も多く、末期患者ではない者であっても、病室で命を落とす人間は少なからず存在するだろう。『死に逝く者の集う場所』というのは、正解ではないが、間違いでもないのだ。
『死』という物への考えは、人によっても、宗教によっても異なるが、一般的に考えれば、前向きに捉える者は少ないだろう。とすれば、それは負の感情となる。だが、入院施設のある病院には、大なり小なり、そういった怪談話は転がっているが、それら全てが負の感情とはならない。本来、大きな病気や怪我を克服し、元気になって退院する人間も多くいるのだから、そういう人間達の放つ正の感情が負の感情を中和する筈なのだ。
「この病院もまた、何処か澱んでいる気がする」
私の人生など十数年と短い物ではあるが、その短い人生の中でも、『澱み』という言葉を使用した事などなかった。この町に来て、丑門君や祖父の言葉を聞いた時、そういう日本語がある事を思い出した程である。
だが、水もまた、循環する箇所がなければ澱んで行くのは事実。この病院もまた、負の感情の行き場がなく、病院内で澱みを作っているように感じた。
仮定の話ではあるが、この病院の経営者側も、そういった澱みを本能で感じているからこそ、私のような健康である患者を一刻も早く退院させ、負の感情を循環させようとしていたのかもしれない。そう考えて行くと、あれ程に不思議であった事柄全てに何処か納得が行った。
「深雪ちゃん、ここよ」
私が思考の海に落ちている間に、いつの間にか目的の病室に辿り着いていた。病室の扉の斜め上に存在するネームプレートには、『丑門統虎』という名前がしっかりと書かれている。病室の扉を祖母が開き、中を覗き込むように見てみると、私の予想通りの光景が広がっていた。
広い病室の中には、ベッドが8台程ある。だが、1台を除いたベッドには誰もいない。私の居た病室のようにベッドメイキングをされたままのベッドはあるが、その周囲に私物はなく、誰も使用していない事が解る。それが、昨日までは使われていたものなのか、それとも最近は使用されていないものだったのかは解らないが、今現在、この病室を使用している人間が一人である事だけは理解出来た。
「こんにちは」
「!! 神山さん、わざわざすみません」
窓側のベッドへ歩いて行くと、ベッドの傍の椅子に座っていた丑門君の母親が立ち上がって祖母に挨拶をする。立ち上がる際に目元を拭う仕草は、祖母も私も敢えて見ていなかったようにして、にこやかに挨拶を返した。
やはり、この人は、私が考えている通りの母親なのだと思う。丑門君を息子として愛し、心を砕きながら育てて来たのだろう。私に語ったように、息子に対して絶対の信頼と自信がある分、傷つき、意識を失った姿で帰って来れば、涙が溢れる程に心配をするのだ。
私達が声を掛けるまで、ベッドの脇にある丸椅子に腰かけたまま、愛おしそうに丑門君の頬に手を当てていた姿は、私の想像の中にある母親の姿そのものであった。
「虎ちゃんはまだ目が覚めない?」
「……はい。医師の方は、傷も化膿はせず、脳波にも異常はない為、時機に目覚めるだろうとはおっしゃっているのですが……」
祖母の問いかけに頼りない笑みを浮かべた丑門君の母親は、ベッドで眠る我が子に視線を向け、そして視線を落とす。
医学的に、表面上では異常はないのだろう。深々と切られた傷の縫合は済んでおり、その傷口が化膿する事はなく、熱なども出ていない事を考えれば、縫合時などの麻酔さえ抜ければ目覚めると考えるのは当然の事である。彼が意識的に覚醒を拒んでいなければ、いつ目覚めても可笑しくないのだ。
だが、逆に言えば、いつ目覚めても可笑しくはないのに目覚めないという事は、このまま目覚めない可能性もあるという事。目覚めない理由が解らない以上、手の施しようもないという事だろう。
「丑門さんもお疲れでしょう。少し外の空気を吸いに行きましょう? 温かいコーヒーでも飲んでね。 深雪ちゃん、お願いね」
「……うん」
病室というのは自然と気分が滅入って行くものだ。しかも、目を覚ましても良い筈の息子が目覚めないとなれば尚更だろう。気分が滅入った時は、同じ場所に居ても気分が上昇する事はない。加速するように気持ちは沈んで行き、悪い事ばかり考えるようになって行く。私も家に一人でいる事が多かった為、幼い頃はこの悪循環によく陥ったものだ。
私も幼い頃は母親の事や父親の事でよく自分を責めていた。私は母親から嫌われているのではないかとか、父親から嫌われているのではないかと。その考えは一人で考え続けると、最終的にはそのまま捨てられてしまうのではないかという恐怖に行き着く。今から考えれば、なんと馬鹿げた考えに陥っていたのかと一蹴出来るのし、中学に上がる頃には両親に対する興味も失い、どうでも良いと考えられるようになったが、誰に相談出来る事もなかったあの頃の私は、毎日のようにそういう恐怖を持っていた。
「丑門君……私が言うのも可笑しいけれども、お母様に余り心配かけては駄目だと思うわよ」
ベッドの脇に置いてある丸椅子に座った私は、規則正しい寝息を立てる丑門君を見下ろして言葉を掛ける。当然のように返事が返って来る事はなく、私の言葉は開けられている窓から入って来る風に乗って消えて行った。
姿勢も変えずベッドに納まっている丑門君の寝顔をじっと見続ける事しかないのだが、よくよく考えてみると、彼の顔をここまでまじまじと見つめた事は一度もなかったように思う。なので、改めてよく観察してみようと思う。
うん。普通だ。
TVなどに登場するような某アイドル養成事務所に所属するような顔立ちではない。かと言って、不細工という顔ではない。整っていると言えば整っているだろう。格好良いと言えば、格好良いと言えるかもしれない。だが、学校内にファンクラブが出来るとか、登校時にその姿を見るために他校の女子生徒が集まるとか、そういう事がある程ではないと思う。
失礼な話だが、普通というのが最も合っているような気がする。中の上、上の下という感じかな。うん、我ながら本当に失礼な話だ。ごめんなさい、丑門君。
丑門君の髪の毛は綺麗な黒髪。癖は少なく、私と同様に細くサラサラとした黒髪。学校でしか会った事がなかったために気づかなかったが、彼は何か整髪料を着けていたのだろう。入院中に髪を洗われたのか、短く刈り揃えられた髪が彼の額を隠していた。
「こうやって見ると、私よりも年下に見えるわ」
窓から入って来た風が、丑門君の前髪を揺らし、そして私の髪の毛を撫でる。先程までこの病院に感じていた違和感さえも洗い流すような風が心地良い。前髪を下した彼の顔は、寝顔という事もあるのか、何処か幼く見える。いつも何か重く、暗い物を背負っているような彼は、険しい表情をしている訳ではないのだが、そのようなイメージが残っていた。それは、彼が何度か見せた豹変ぶりの印象が強いからかもしれない。
まるで何かに取り憑かれたような、何かを取り入れたような豹変ぶりは、周囲全てを恐怖の海に叩き込む。同じ場所に立っているだけで感じる明確な『死』の臭いは、『死』を体験した事のない者でさえも自らの生を手放してしまいそうになる程の物であった。
私もまた同様に、身体が震え、一歩も動く事の出来ない恐怖に縛られた。あの状態が何であったのか、そして何故なのかという事に関しては全く解らないが、今、こうしてベッドで眠っている丑門君にはその片鱗が微塵もない。何処か幼さを残したその寝顔に思わず笑みが零れ、悪戯心がムクムクと湧き出して来た。
「私にあんなに怖い想いをさせた事は許されざる行為です。よって、丑門君を『ほっぺムニムニの刑』に処します」
湧き上がって来た悪戯心を抑える事が出来ず、眠っている丑門君の頬を指で摘み、ぐりぐりと動かす。だが、私が思っていた以上にムニムニの感触ではなく、どちらかというとガチガチな感触であった。
不思議に思い、自分の頬を片手で摘まんでみるが、それは何度も触れた事のある感触で、マシュマロとは言わないまでも、ムニムニと柔らかな感触である。これが女性と男性の差なのか、もう一度彼の頬を摘まんでみた時、不意に目が合ってしまった。
「ひやぁ!」
眠っていて、今の今まで何時目覚めるか解らないと思われていた人間の目が開いていたら、誰であろうと驚くだろう。何の予兆もなく、身動ぎも呻き声も上げずに目だけが開かれたとなれば、それは最早ホラーである。思わず声を上げてしまった私を誰が責められようか。
瞬時に彼の頬から手を離した私であったが、彼は目を開けて周囲を呆けたように見渡しているだけ。それを見る限り、彼が自分の行動に気づいているという事はないだろう。それを見て、私は何事もなかったかのように、彼に微笑みかけた。
「丑門君、目が覚めた?」
「……ん?」
彼を見下ろすように話しかけた私に視線を合わせた彼は、そこでようやく近くに私が居る事に気付き、驚いたように目を見開く。その表情が面白く、私は噴き出すように笑ってしまった。その笑いが彼の何かに触れたのであろう。虚ろだった目に光が戻り、朧気だった意識が一気に覚醒して行くのが解った。
再度見開かれた瞳の中には、驚きと小さな安堵の光が見える。それがくすぐったい気持ちになる程に優しい光であり、思わず私も微笑んでしまった。
「神山は怪我無かったか?」
「丑門君……。そこは自分の心配をしなさい。私は貴方のお陰で擦り傷一つありません。本当に、本当にありがとう。丑門君も無事で良かった」
開口一番に彼の口から出た言葉は、本当に彼らしい物だと思う。短い期間の付き合いではあるが、それが私の素直な感想であった。だが、彼らしいと思う反面、その言葉に呆れてしまう。数日も意識が戻らない程の重傷を受け、今でも多少なりとも痛むであろうに、他人の怪我の心配をする彼の言葉はとても優しかった。
だが、その言葉に甘えるのは私の矜持が許さず、まず、彼に対し、誠心誠意の感謝を口にする。それは私の偽らざる本心であり、心からの謝罪と感謝の気持ちであった。
「あっ! 丑門君のお母様が本当に心配していたの。目が覚めた事をお伝えしないと」
私の感謝の言葉に対して、丑門君が返事をする前に、私は重要な事に気付く。あれ程に思い詰めた表情をしていた母親に、彼が無事に目を覚ました事を伝えてあげなければという物である。何か私へ言いたげに口を開きかけた彼を置いて、私は病室の出口へと駆け出すのだが、それは彼に対して真摯に告げた感謝の言葉の返答を聞くのが恥ずかしかったからではないとだけは言っておこうと思う。
病室の外に出て、歓談室のような場所に向かう。飲み物の自動販売機や机や椅子などが置かれており、私の予想通り、一つのテーブルに祖母と丑門君の母親が座っていた。その顔を見る限り、幾分か気分は和らいだのだろう。思い詰めたような暗い影はなく、小さな笑みさえも浮かんでいる。その表情に私は胸を撫で下ろした。
「丑門君が目を覚ましました」
「え!?」
近くに私が近づいて来た事で向けられた顔は、私の言葉を聞いた瞬間に喜色に満ちた物へ変貌し、その後の言葉を交わす暇もなく、病室へと駆け出して行く。その姿は本当に私の理想の母親の物であり、彼が如何に愛されているのかを物語っていた。
その背中を見送っていると、私の肩を祖母が軽く叩く。暫しの時間、親子の時間とする為に、私は自動販売機でミルクティーを購入し、先程まで丑門君の母親が座っていた席に腰を下ろす。缶のプルタブを開けて口を付けると、そんな私の顔を祖母がにこにこと微笑みながら見ている事に気付いた。
「どうしたの?」
「ん? ふふふ。深雪ちゃん、ありがとう」
祖母が浮かべる笑みの理由が解らない私は、缶を机に置いた後で問いかけるが、それに対する返答もまた、全く理解出来ないお礼であった。祖母の言葉の意味が理解出来ない事は多々あるのだが、今のこれもその一つであろう。全く説明する気がないのか、にこにこと微笑んだままの祖母に対し、私は頬を軽く膨らませる事しか出来なかった。
「何の事? どうしておばあちゃんが私にお礼を言うの?」
「ふふふ。虎ちゃんを呼び戻してくれたから。だから、ありがとう」
ますます意味が解らない。
確かに丑門君の意識はまだ戻っていなかったが、生死を彷徨っていた訳でもないし、医師が植物人間状態であると診断した訳でもない。つまり、いつ意識が戻っても可笑しくはなかったのだ。別に私が特別な事をした訳でもないし、物語の世界のように、彼の深層心理の中に入り込んで手を引っ張って来た訳でもない。ただ、横に座って、その顔を眺めていただけである。
それに対して礼を言われても、困惑こそすれ、理解など出来よう筈がない。混乱に陥った私の表情が面白かったのか、祖母がくすくすと笑い声を漏らした。それが悔しいやら、悲しいやら、私の表情は徐々に憮然とした物へと変化して行く。それがまた面白いのか、祖母の笑い声が止む事はなかった。
「ふざけている訳ではないのよ。本当に、深雪ちゃんが虎ちゃんを戻してくれた。それはおばあちゃんにしか解らないかもしれないけれど、本当の事なの。だから、皆に代わって、おばあちゃんが深雪ちゃんにお礼を言いました」
「むぅ。全然意味が解りません! おばあちゃんの話は時々理解出来ないよ」
不貞腐れたように缶のミルクティーを飲み干した私は、祖母の前に置いてあった紙コップを取って、そのままゴミ箱へと捨てに行く。このまま祖母と話していても、絶対に答えを口にしてくれる事はないだろうし、永遠に謎が解ける事はないと思ったのだ。
私が立ち上がった事で、祖母も一緒に立ち上がり、ゆっくりと談話室を出て行く。丑門君と母親の感動的な再会も終わっているだろうし、起きている丑門君にもう一度正式なお礼を述べて家に帰ろうと考えながら、私も談話室の出口へと向かった。
「深雪ちゃんは、おばあちゃんの自慢の孫です。深雪ちゃんは凄いのです。おばあちゃんでも出来ない事が出来る子なのよ」
「ん?」
談話室を出て、丑門君の病室へと続く廊下を歩いている時、ふと溢した祖母の言葉は、とても優しく、それでいて何処か寂しげな音色を奏でていた。




