後日談①
私が目を覚ましたのは、病院のベッドの上であった。
ぼんやりとした視界の中に映った天井は、見知らぬ物であり、意識もはっきりしないまま首を動かせば、白い壁に簡素なベッドが数個見える。近くには窓があり、差し込む光の量を見る限り、昼に近い午前である事が窺えた。
入り込んでくる陽射しは強く、梅雨時期の終わりを思わせる暑さを感じ、白いカーテンを揺らす風は、心地良く私の肌を撫でて行く。徐々にはっきりして来る意識と共に、掛け布団から出した手は、いつものような肌色をしていた。
「あっ!」
白雪のような白い手をぼんやりと眺めている内に、私はようやくこの場所に何故自分がいるのかという事を思い出す。どす黒い朱色に染まっていた私の手であったが、今は爪の先にもその名残さえ残ってはいない。布団を挙げてみれば、あれ程の血液で染まっていた制服ではなく、いつも着ている花柄模様のピンクのパジャマであった。
あのまま救急車の中で気を失った私は、家に帰るのではなく、そのまま入院という事になったのかもしれない。本人である私が気を失っていた為、あの学校で起こった出来事によって私が受けた物がどの程度の物なのか判断が出来なかったのだろう。外傷はなくとも、色々と検査を行っていたのかもしれない。
「あ……あ……」
意識がはっきりとしてくれば、記憶も鮮明に甦って来るのは必然である。あの時感じた恐怖、絶望が再び私の心と身体を縛り付けた。
しかも、今回は、黄泉比良坂を前にした時のような不可思議な現象による命の危機ではなく、人間による、現実的で実質的な暴力による命の危機であっただけに、その恐怖も異なる物である。私の手に纏わりつく命の源というべき真っ赤な液体の色が、空気に触れる事によってどす黒く変化して行く様。そして熱いとさえ感じる程の温かさ。一つ一つピースが嵌まるように、私の記憶が甦って行く。身体は小刻みに震え始め、歯が噛み合わずに音を鳴らした。
一瞬見えた黄泉醜女の姿。それが浮かべた歓喜の笑み。同じ人間だと思えない程の彼の変化。対峙した殺人鬼の血走った目と、口から零れる泡と涎。それらの記憶全てが私の身体を震わせたのだ。
「深雪ちゃん、起きたのね」
上半身を起こし、身体を抱き抱えるように震えていた私は、いつぞやと同じような柔らかな声によって救われる。窓側から入る爽やかな夏が近い匂いとは異なり、消毒液の臭いが強い風が入り込んで来ると同時に、私のベッドへ近づいて来る人物の顔を見た瞬間、私の身体の震えは治まり始めた。
いつもと同じ優しい笑み。まるでここが病院ではないと錯覚してしまう程に日常的なその笑みを見ただけでも、自分自身が日常へ戻って来たのだと実感出来る。そっとベッド脇にある椅子に座った祖母は、私の額に手を当て、再び微笑を浮かべた。
「無事でよかった。本当に良かった」
「おばあちゃん……」
祖母の顔は微笑を浮かべたまま。だが、その目の端から一筋の雫が零れ落ちる。それを見た瞬間、私の双眸から視界が歪むほどの涙が零れ落ちた。
あの時、校舎内で祖父の顔を見た時も涙が溢れ出したが、それと同じぐらい、いや、それ以上に次々と涙が溢れ出して来る。祖父と会えた時はそれまでの恐怖からの開放と安堵であったが、今は祖母と祖父の愛情と、自分がここに居る事の出来る幸せを感じての涙であった。
抱き締めてくれる祖母に泣き付き、あの時とは違い、咽び泣く。声を押し殺すように、それでいて息が詰まりそうな程に泣き続ける私の背を、祖母が優しく撫でてくれた。
「落ち着いた?」
どれぐらいの時間が経過しただろう。ゆっくりと私の身体を離して微笑む祖母には、窓から強い陽光が差していた。祖母は窓側に座っている為、その陽射しを背中に受けており、私から見れば、まるで後光が差しているようにも見える。梅雨の晴れ間の陽射しは強く、祖母の顔を見る為には目を細めなければならない程であった。
何処か神々しく、それでいて神秘的なその姿に見惚れていると、六十を過ぎた人間とは思えない程に可愛らしく、祖母は首を傾げる。その姿がまた何処か浮世離れしていて、自然と笑いが漏れて来た。
「大丈夫そうね」
「……うん」
確認の為に頭に乗せられた祖母の手の暖かさと、気恥ずかしさから、私はこくりとうなずく事しか出来なかった。それでも嬉しそうに微笑む祖母の笑顔は、私の心を穏やかにしてくれる。やはり、私の祖母は魔法使いなのだろう。
祖母が手渡してくれた温かい手拭いで顔を拭いた私は、もう一度窓の外へと顔を向ける。梅雨時期にしては珍しい程の晴れ間から差し込む陽射しがなんとも心地良い。蒸し暑くもなく、吹き抜ける風が手拭いで吹いたばかりの顔を冷やして行った。
先程まで恐怖によって速まっていた鼓動は落ち着き、ゆっくりと病室を見渡すと、四人ほど入れる筈の病室のベッドには私以外の誰も居ない。どこの病院だか解らないが、四人用の病室が貸し切りになることなど有り得るのだろうか。
「深雪ちゃんがお寝坊さんだから、皆退院しちゃったわよ」
「そんなに寝ていたの!?」
そんな私の疑問を察した祖母から驚きの事実が告げられる。あの学校の事件の中で、大小問わず、怪我人はそれなりにいた事だろう。切り付けられた人間は縫合しなければならない者もいただろうし、殴りつけられた者であれば、骨折した者もいたかもしれない。祖母の言葉を信じるのであれば、この病室には数人の人間が入院していたらしいが、その全てが退院する程の日数が経過していた事に驚いた。
しかも、この病室にいた人間全てが、あの学校での事件関係者であればそれも有り得るのだろうが、一般の入院者が誰も居ないとなれば、私は何日間、何週間、いや何ヶ月眠っていたのだと驚かざるを得ない。
「えぇ、丸二日間も眠っていたわよ」
「二日間……?」
二日間で傷は完治するのだろうか。あの時の事件では死者はいなかったようだが、それでも縫合などを行った場合は二日間でどうにかなる物ではないだろう。手などであれば、抜糸まで入院している必要はないが、腹部や足であった場合は入院が必要な事もある筈だ。
僅か二日間で私以外の入院患者がいなくなるという事は有り得ない。私達の学校関係者でない人間が誰一人病室にいないというのもおかしい。この病院に元々入院患者が少ないのか、それとも何か別の理由があるのかは解らないが、異常と言える内容であった。
だが、私が救急車に乗り込んだ際の出来事を思い出せば、この状況にも何処か納得の行く節もある。要は、私もまた、この町の中での忌むべき者に羅列されたという事なのだろう。
「おばあちゃん、ごめんなさい」
それに気付いた私は、祖母に謝罪した。私という人間を受け入れたばかりに、祖父母もまたこの町から忌避される存在になってしまう可能性に重い罪悪感を覚えた為である。
祖父母がいる南天神社は、古くからこの土地に根付く神社である。そして、この町自体を鬼門から護る場所に立てられており、特殊な見方をすれば、この町を護る役割を持っている人達にも拘らず、私という存在の為に、忌避されるような扱いになる事が本当に嫌であった。
私自身が何処か遠くで一人暮らしをするか、父に付いて行けば良いのかも知れないが、感情的に祖父母と離れたくないという自分勝手な想いを抱く自分自身にも嫌悪を抱いてしまう。
「ん? なんで?」
そんな私の謝罪に対し、心底意味が解らないというような表情をする祖母に、罪悪感が増して行くのが解かる。無意識に溢れ出る涙が、祖母の顔を歪ませて行った。
困ったように私の頭を撫でる祖母の行動が、私の涙のダムを決壊させ、先程以上に瞳から放流される。泣き声は上げないが、溢れ出て来る涙は止まらない。泣き止まない駄々っ子に困り果てた祖母は、もう一度私を優しく抱きしめてくれた。
「深雪ちゃんは、こんなに泣き虫さんだったかな?」
祖母の体温が私の身体に浸透するように温かく、それがまた安心感と罪悪感を増幅させ、涙を加速させる。このままでは駄目だと思えば思う程、自分でもどうしようもない程に涙が溢れて来るのだ。
祖母の問いかけは、私自身の問いかけでもある。私自身、物心ついてからこの町に来るまでの十数年間よりも、この町に来てからの短い時間の方が流した涙の量が多いのではないかと思う程に泣いていた。
私自身、これ程に弱い人間であった事に驚きを隠せない。自分が考えていたよりも、私は誰かを必要としていたのかも知れなかった。幼い頃から近くに両親は居らず、仕事の忙しい両親に気を遣い、極力邪魔にならないように過ごしていた日々。それは想像以上に私の心に暗い影を落としていたのかも知れない。
「ぐずっ……」
「深雪ちゃんの身体には何処にも怪我はなかったけど、心には大きな傷が出来てしまったのかもしれないわね。でも大丈夫。何と言っても、深雪ちゃんはおばあちゃんの孫だから」
ようやく涙の洪水の勢いも弱まり、顔を上げた私を見た祖母が優しく微笑む。その言葉には何の根拠も無く、意味も解らない。だが、不思議とその信憑性だけは高かった。
祖母が言うのであれば、大丈夫なのだろう。この祖母の血が流れている私ならば、大丈夫な筈だと思える程、私の中で祖母の地位は高い。それこそ、全世界の人間全てが「1」だと言っても、祖母が「2」だと言えば、私は「2」だと信じるだろう。そんな地位に祖母はいるのだ。
「お祖父ちゃんは?」
「お仕事。深雪ちゃんが心配でずっと病室にいようとするから、追い返しちゃった」
そんな祖母と同じぐらいの地位にいるのが、私の祖父である。だが、その祖父はこの病室には居なかった。不思議に思って聞いてみると、祖母は何処か茶化したような答えを口にする。だが、その答えは、その時の状況と風景を容易に想像出来る物であった。
祖母に追い立てられ、それでも不機嫌そうに顔を顰めて病室を出て行く祖父の姿が見えたような気がして、私は思わず笑ってしまう。先程までの罪悪感が消えた訳ではないが、この祖父母と一緒であれば、町中から忌避されようと、笑顔の耐えない生活を送る事が出来ると思えた。
「あっ……丑門君は!?」
「やっと虎ちゃんの事を思い出せる余裕が出来たのね。でも、深雪ちゃんにとっては恩人なのだから、真っ先に思い出さなければ駄目でしょ」
心に余裕が出来た私の中に、突然弾けたように一人の人物の顔が思い出される。あの恐怖と絶望の中、唯一の希望となり、唯一の光となった青年。唯一の光であったにも拘らず、絶望を齎した殺人鬼よりも濃い闇と『死』を振り撒いた青年。その顔を思い出した私は、その青年の安否を祖母に尋ねた。
返って来たのは叱責。半ば呆れ気味な声色で祖母は私の額を軽く小突いた。確かに、あの学校で彼がいなければ、私は殺人鬼によって殺されていただろう。命を取り留めたとしても、命の危機に瀕する程の怪我を負っていただろうし、それは生涯身体に残る傷であったかもしれない。祖母の言葉通り、彼は私の恩人なのだ。
前回も今回も、彼は私を救ってくれた。絶望の淵に立たされた私を豊かな平原に連れ戻してくれたのだ。私の命を二度も救ってくれた恩人に対し、やはり礼を尽くさなければなるまい。
「丑門君は大丈夫なの?」
「ええ。大怪我だったけど、命に別状はないそうよ。でもまだ意識は戻っていないみたい」
私の問いかけに、今度は少し眉を下げた祖母は、小さく言葉を漏らす。それは、重体者への気遣いに似た姿であった為、私は集中治療室のような場所で眠り続ける彼の姿を想像したのだが、詳しく聞くと、切られた箇所の縫合も終わり、流した血液分の輸血も終わり、今は個室の病室のベッドの上で横になっているようであった。
私が見た限り、彼の傷は浅い物ではなかった。着ていた白いワイシャツが真っ赤に染まる程に出血していたし、気を失う程に大量の血液を失っていた筈である。救急隊員も処置は急を要するような発言をしていたし、私自身、彼が死んでしまうかもしれないと考えた程であった。
「後でお見舞いに行く?」
「うん」
彼もまたこの病院に入院しており、私が歩く事の出来る状態である以上、祖母の提案を断る理由はない。反射的に頷いた私を見て、祖母は柔らかな笑顔を作った。
私自身の身体に怪我などはなく、意識が戻り次第退院が可能であったらしく、祖母はそのまま退院の手続きへと向かう。その間、ぼんやりと外を眺めていたが、一人になれば、やはりあの時の恐怖が胸に甦って来た。
だが、その恐怖は、目の前まで迫った殺人鬼に対しての物ではなく、もう何度も目にする事になったあの女性に対しての物である。私自身が黄泉醜女と認識しているあの女性は、二の鳥居を無理やり通ろうとした際に消滅したように見えた。それにも拘わらず、アレは再び私の前に姿を現したのだ。
「何故、また黄泉醜女が……」
あの事件は、二の鳥居での出来事と、八瀬紅葉という女子生徒が転向した事で終結した筈である。だが、それは私が勝手に終結させただけで、実は何一つ解決していないのかも知れない。再び現れたあの黄泉醜女は、あの時と同じ者であり、二の鳥居で消滅しなかったと考え始めれば、未だに私は『死』の世界に囚われ続けている事になる。それは身体を硬直させ、強く目を閉じてしまう程の恐怖であった。
私自身、黄泉比良坂から一歩も離れておらず、今も尚、一歩踏み出せば坂を転げるように黄泉の国へ入ってしまう。あの時、目の前に広がったこの世ではない世界が瞼の裏に甦り、恐怖から目を瞑ってしまった事を後悔した。
「あの殺人鬼も……」
黄泉醜女に魅入られた為に、私を黄泉へと導こうとしているならば、学校内に殺人鬼を呼び込んだのもまた黄泉醜女であるという考えに結び付く。祖父があの学校を『黄泉國に近い』と口にした。死の国に近いという事は、それ程に負の瘴気が濃いという事でもある。殺人鬼がその瘴気に誘われて踏み入った可能性もあるが、私は何故か黄泉醜女が関与していると確信していた。
女子トイレの鏡に映り込んだ黄泉醜女は私に囁いた言葉は、今でもはっきりと思い出せる。あれは、殺人鬼が校舎内に入って来る事を前もって確信していた者の発する言葉であった。そして、階下で誰の命も奪う事なく、真っ直ぐに私がいる階層へ殺人鬼が来たのも、当初から私が目的であったとすれば、全て辻褄が合うのである。
「あの時、黄泉醜女は何処かに消えたけど、あの表情は……」
何かに駆られるように狂気を表に出し、全ての力を殺人鬼へと振り抜こうとしていた丑門君を見ていた黄泉醜女は、祖父が発した柏手の波紋を受けてあの場から消滅するように消えて行った。
だが、あの表情を見る限り、黄泉醜女を突き動かしている何かが消え失せたようには見えない。どこに消えたのかは解らないが、私とアレの関係は終わってはいないのだろう。再び何処かでアレは必ず私の前に現れる。それは確信に近い物であった。
思考が先走り、私は独り言を発し続ける。その言葉は片言の日本語のようであり、傍から見れば、とても奇妙な人間に見えていた事だろう。だが、祖母が退院の手続きに出て行ってから、この病室には誰一人近寄って来ていなかった。
それは、奇人に見られていたかもしれない私にとっては僥倖であったが、病院としては異常であろう。四人の患者が入れる相部屋にも拘わらず、私一人が窓側のベッドに配置されている事、そして他の三つのベッドに全て真っ白なシーツが掛けられている事。それら全てがこの部屋の異常性を際立たせていた。
「入院患者が居ない時も、ベッドメイクってされるのかしら?」
私も看護師志望という訳ではない為、詳しい事は分からないが、通常は患者が退院した場合や、病室で亡くなられた場合は、そのベッドからシーツなどは取り払われるのではないだろうか。即座に入院患者が入る予定がなければ、シーツを掛け、布団をセットする意味がないように思う。それにも拘わらず、この病室は今も誰かが入院しているように全てが整えられていた。
私以外のこの病室で入院している患者が、皆同時に何処かの談笑室などに集まっているのであれば理解も出来るが、病室全体を見渡す限り、そのような可能性は皆無に思える。何故なら、各ベッドの近くには私物らしき物など何一つないのだから。
「丑門君も、きっと大部屋に一人きりね」
奇妙ではあるが、不快ではない。大きな部屋を一人で使用出来るというのは、私の感性からすれば快適に近かった。何気に空けた窓から入り込む風がとても心地良い。先程まで感じていた不安や不穏な空気は窓から入り込む風によって洗い流されたようであった。
きっと未だに意識が戻らない丑門君も、私と同様か、それ以上に広い病室に一人きりで寝ている事だろう。それは容易に想像が出来るし、間違いないと確信を持てる。もしかすると、私が今いる、この病室とは異なり、全てのベッドからシーツなどが取り払われた状態の病室にいるのかもしれない。意識が戻らないとはいえ、集中治療室にいる訳でもない為、個室を用意される可能性も低いだろうと私は考えていた。
「深雪ちゃん、手続きは終わったわよ」
そんな想像に自然と頬を緩めていた私は、病室に入って来た祖母の声で振り向くのだが、そこにあった祖母の表情に首を傾げた。いつも笑顔の祖母が、何処か困惑したような、その上、若干怒っているような表情をしていたのだ。
祖母にしては非常に珍しい表情であり、その表情を見るだけでも少し不安が心に滲み出して来る。どうしたものかと逡巡していると、祖母はベッド傍にある私の私物を纏め出した。
「え?」
「もう一日入院してから、明日退院するつもりだったのだけれど、病院側が『意識が戻ったのならば、本日中に退院して欲しい』の一点張りなのよ」
祖母の行動を不審に思った私は思わず声を漏らす。それを聞いた祖母は、先程と同様に若干の怒りを滲ませながら口を開いた。
私自身、大きな怪我や病気とは無縁の生活を送って来ていた事から、入院経験などあろう筈がない。それ故に、入院や退院の常識などの知識は全く持っていないのだが、身体に異常がなかったとはいえ、意識が戻ったばかりの人間を放り出すものなのだろうか。入院費を払わないと言っている訳ではないのだ。
これがこの病院としての方針というならば、百歩譲って受け入れるしかないのだろうが、神山深雪という人間だからという個人への特殊な理由であるのならば、もしかすると、大怪我をしていた丑門君でさえも、意識が戻った瞬間に強制退院という可能性さえもあるだろう。
「そんなに病室が不足しているようには思えないけど……」
「そうね。この部屋なんて深雪ちゃん一人だものね」
四人部屋に一人だけしか配置されない状況から考えれば、入院費を支払ってくれる患者を無理やり追い出すメリットが見当たらない。やはり、私の頭の片隅に浮かんだ理由である、私個人という物しか当て嵌まらないだろう。学校から救急車へ乗り込んだ時に、誰しもが私の乗った救急車を避けていたように、この病室を避けられているとすれば、本来入っている筈であった残りの三人の患者は何処かの病室に押し込まれているという事になる。それでは病室が不足していたとしても仕方がないだろう。
個室の病室はやはり金額的にも高いのだろうし、大きな病気でもなく、深い怪我をしている訳でもない私に対し、そのような部屋が用意される訳がない。祖父母もわざわざ高い金額を支払ってまで個室を依頼しようとは思わない筈だ。
「ごめんね。意識がはっきりしたら、身支度を整えてね」
「うん。もう大丈夫。顔を洗って来たら着替えるね」
祖母の事だから、強硬的な病院側の申し出に喚き散らしたりはしないだろう。釈然としない想いを胸に納めながらも、色々な可能性を考えて、それを受け入れたのだと思う。だからこそ、私に対して申し訳なさそうな表情を浮かべているのだ。
私は即座に頷きを返し、病室の入り口付近にある共同の洗面台へと向かう。病室の入り口近くへ行くと、今まで気づかなかった消毒液の臭いが鼻を衝く。病院に居るという事を嫌でも意識させられるその空気は、点滴台を引きながら廊下を歩く入院患者が濃くして行った。
洗面台は共同とはいえ、四人部屋の物である以上、大きい物ではない。一人用の洗面台である為、二人や三人が同時に使用出来る物ではなかった。洗面台には大きくはないが、鏡が取り付けられており、それに気付いた私は、学校のトイレで起きた出来事を思い出して躊躇してしまう。
もし再び私の後ろに黄泉醜女が見えたら、もしこの病院へも何かを呼び込まれてしまったら。そう思うと、洗面台に取り付けられた鏡に映り込まない位置で立ち竦む事しか出来なかった。
パチーン、パチーン
洗面台の傍で立ち竦む私の背中から、小さな拍手が響く。世間一般に保育士の方々が園児の注目を集める為に行うような物に近い音であったが、その間隔が少し長い。意図的に伸ばされた間である事が理解出来た時、私の身体を縛り付けていた恐怖が霧散していた。
無意識に止めていた呼吸を再開し、ゆっくりと息を吐き出した私は、ようやく自由が戻った身体を動かして振り返る。そこには柔らかな微笑を浮かべた祖母が立っていた。
「ほらほら、いつまでも立ってないで、顔を洗って」
「う、うん」
祖母の微笑を見た為なのか、それとも祖母が行った拍手が原因なのかは解らないが、不思議と先程まで感じていた不安は消えていた。自然に洗面台の前に立ち、そこに取り付けられている鏡を見る。鏡の中には小さな寝癖が付いた髪の毛と、見慣れた顔が映っていた。
私の後ろには誰も居らず、その後ろのベッドにも誰も居ない。極当たり前の事でありながらも、私はその事に心から安堵する。安堵の為に捻り過ぎた蛇口から出て来た冷たい水は、勢い良く洗面台に辺り、水飛沫を上げた。不思議な事であるが、この水に触れた時、本当の意味で私は現実に戻って来たような気がしている。夏が近いにも拘らず、手が痺れる程に冷たい水であった事も理由の一つだろうが、掬う為に出した掌から溢れ出す流動的な水の流れが私の中から不浄な物を洗い流してくれているようにも感じたのだ。
「お祖母ちゃん? 昨日、お祖父ちゃんは何故学校に居たの?」
顔を洗い、祖母が渡してくれた歯ブラシで歯を磨いた後、タオルで顔を拭いながら、私は祖母に問いかける。冷たい水で顔を洗い、ようやく意識も気持ちもはっきりとした段階になって、昨日は思いもしなかった疑問が頭の中に湧いて来ていた。
祖父は、寄合などがない限りは基本的に南天神社から出る事はない。あの南天神社の神主は今では珍しい部類にも入る世襲での引継ぎになっている。祖父以外に神職の人間が勤めているという事もなく、基本的に神社の仕事は祖父と祖母で行っている。故に、厄払いなどの祈祷も祖父のみで行うしかなく、その祈祷数も必然的に限られているのだ。
私は祖父と祖母の孫娘ではあるが、神職の資格を当然ながら有してはいないため、その仕事に関わる事はない。以前、子供の頃に年末帰省した際には、初詣に来る町の人々に甘酒を、お守りを販売するのを手伝った記憶もあるが、私が関われるのはその程度の物であった。
そんな祖父が何故か、あの日、あの時間に、よりにもよって私の通う高校に居たのだ。それは決して偶然ではないだろう。何か特別な理由がある筈だと、私の中の何かが確信していた。
「昨日じゃなくて、三日前だけどね。あの日、おじいちゃんは寄合があったの。だからね、おばあちゃんが深雪ちゃんの学校を見て来てってお願いしたのよ」
「……どうして?」
寄合が定期的に開かれる事はある。しかもその寄合は、会議とは名ばかりの親睦会である為、既に一線を退いた人間が集まる事が多く、時間的にも早くから始まるのだ。丁度、この町も大きな騒ぎが収束に向かいつつあった頃である為、その事を含めての話し合いだったのかもしれない。
ただ、そうすると、新たな疑問が浮かんで来る。それは、祖母が何故、祖父にそのような願いを口にしたかという事だ。自惚れになるかもしれないが、私は祖父に溺愛されていると思っている。そんな祖父だからこそ、寄合に行く途中なのか、帰る途中なのかは分からないが、私の通う学校に寄る程度の事を苦だとは思わないだろう。ましてや、祖母の願いとなれば尚更だと思う。私と祖父の共通の認識として、祖母は不思議な何かを持っているという点があると思っている。だからこそ、祖父が私の学校を見に来る事に対して抵抗を感じる事はないだろう。
だが、そもそも何故祖母はそのような事を頼んだのかとなると、理解が追い付かない。それが表情に出て、続いて声にも出てしまった。
「う~ん。少し心配だったからかな。深雪ちゃんはおばあちゃんの孫だけれど、まだまだだからね」
「……何それ」
声に出して尋ねてみて、答えを聞いたにも拘らず、私の疑問は一ミリも解けなかった。むしろ困惑が増えたと言っても過言ではないと思う。確かに私は祖母の孫ではある。私の母親は不貞を働いていなければ間違いないだろう。私は母親との関係を失敗してしまっているが、あの人の人間性は信じている。あの人はそのような事をするぐらいならば、即座に離婚し、その相手の元へ行っていた筈だ。時々、私の元となっている性格はあの人譲りである気もするので嫌になるのだが、そう思う程度にはあの母親を信じているのだろう。
話が逸れてしまったが、祖母の言う『まだまだ』の意味が解らない。『まだまだ子供』と言いたいのか、それとも他に何か『まだまだ』な物があるのか。祖母を見る限り、その詳細を話す気はないように見える。それがまた、私の胸の中をモヤモヤとさせていた。
「でも、本当におじいちゃんに頼んで良かった」
「そう言えば、学校を出る時、お祖父ちゃんが『あの学校に入れるべきじゃなかった』って言っていたけど、あの高校って、昔何かあったの?」
そんな私の心情を察しているであろうに、にこやかに笑う祖母に対し、私はもう一つの疑問を口にする。祖父が私を起こして校舎を出ようとする時に呟いた言葉は、今も耳の中にこびり付いたように残っていた。私をあの高校に入れた事を後悔するようなその言葉が、聞いた時から不思議に思っていたのだが、それを口にする程の余裕は残っていなかったのだ。
あの高校の編入試験は、私が希望して受けた訳ではない。この地域へ来る事が決まった時に、編入試験を受験出来る高校を前の高校側に探してもらった結果であった。この町にも高校はいくつかあるが、南天神社から歩いて通える高校はあの学校しかなく、また、この界隈では学力もそれなりにある高校であった為、迷わずここを受験したのだ。
だが、祖父の口ぶりでは、あの学校自体に何か曰く付きであるかのようであり、過去何らかの事件、事故があったかのようでもあった。ありがちな、『戦時中は野戦病院だった』とか、『学校が建立される以前は墓地だった』とか。そういう理由があるのではと勘繰ってしまう。
「おじいちゃんがそう言ったの? 何もないわよ。学校が立つ前は只の野原だったと云うし、それ以前は解らないけど、そう考えたら、日本全国どこも戦場だったわよ?」
うむ。確かに祖母の言う通りでもある。おそらく、戦国時代と呼ばれる室町後期となれば、日本全国ほぼ全ての地域が戦場であっただろう。関東、関西問わず、東北や九州、四国に至るまで武士達の領土争いが勃発していたのだから、人が死んでいなかった場所などない筈である。
だが、それは極論であり、怨霊とでもならない限り、何百年もその憎しみと恨みがその土地に宿るとは考え難く、となれば、近年の出来事なのか、それともあの土地自体に何か曰くがある以外考えられないのだ。
「でも、おじいちゃんは、『黄泉國に近い』って」
「そんな事を言ったの!? ……後で叱っておきます」
何か、私は余計な事を口にしてしまったらしい。地雷を踏んでしまったと言えば良いのか、何であれ、祖母の逆鱗に触れるような言葉を口にしてしまったようだ。祖母の顔は珍しく明確な怒りを表しており、こういう時は余計な言葉を重ねない方が得策である事を経験上知っていた。
これ以上、あの学校の話題を続けるのは良くない。そう理解した私は、祖母が用意した私服に着替え始める。ベッドを覆うようにカーテンを動かし、その中に隠れるように入り込んだ後、パジャマを脱ぎ始めた。
「深雪ちゃんが心配するような事は何もないわよ。あの学校やあの土地が悪い訳ではないの。強いて言うならば、あの土地の方角ね……。それも通常では何もないのだけど、今は揃ってしまったから……」
「……揃った?」
カーテンの向こう側で私が脱いだパジャマをカバンに仕舞いながら、祖母が口にした言葉は、私を再び困惑に引き摺り込む。そもそも、祖母はこのような思わせぶりな事を口にする人間ではない。それでも明確に口に出来ないとなれば、その理由は一つしかない。
私が生きて来た年数は十数年。その内、祖母と過ごした時間など、一年にも満たないだろう。それでも、私はその理由を知っている。それは祖母の中で絶対の物であり、何があっても変わらない物であると思う。いや、そうであって欲しいと私は願っているのだろう。
「私と誰が揃ったの?」
そう。
祖母が言葉を躊躇う理由など、私という存在以外ないのだ。




