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日本書鬼  作者: 久慈川 京
第一章 鬼気迫る
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其の壱




 翌朝、登校中に同級生と会う煩わしさを避ける為、早めに家を出る。

 通勤の為に駅へと歩くサラリーマン達が忙しく歩く中、雀達の鳴き声を聞きながら、余裕を持って高校に辿り着き、誰もいないであろう教室の扉を開けた時、私は息も出来ない程の圧迫感を感じて短い悲鳴を上げてしまった。

 誰もいないであろうと思っていたのは確かであるが、心の片隅には自分よりも早く登校する者もいるだろうという思いもあったのだ。故に、私が教室に入った際に、そこに人がいることに驚く事はない。それにも拘らず、私が悲鳴を上げてしまったのは、密閉された空間に漂う何かが原因ではないだろうか。

 邪気と言えばよいのだろうか、しかし霊感など皆無に等しい私がそれを感じる事などないだろう。ならば、この悪寒がするような圧迫感が何なのかが説明しようがないという程にそれは禍々しい物であり、その禍々しい空気を生み出しているのが、この教室に唯一いる人間である事だけは確かであるように感じた。


「お、おはようございます」


「!! あ、ああ……おはよう」


 教室を支配する禍々しい空気に飲み込まれてしまった私は、唯一教室にいる人間が座る窓側の最後尾に向かって朝の挨拶を漏らしてしまう。

 当初はそのような気はなかった。誰が居ようと、それは私にとって他人であり、興味の対象になる事はない。ならば、その相手と交流を持つ必要もなく、私から挨拶をする必要性もないからだ。

 だが、そこにいた相手は、私が生まれて初めて興味を持った人間であり、その人間が放つ空気が、昨日感じた影よりも大きな負の感情を持つ物であった事が私に予想外の行動を起こさせたと言っても良いのだろう。

 しかし、私が本当に驚いたのはその先である。私が朝の挨拶を交わした相手は、自分以外に誰もいない事を再確認するように教室内を見回した後、戸惑うように表情を変化させて、拙い挨拶を口にしたのだ。

 彼のその挨拶は、挨拶を覚えたばかりの幼児のようであり、しかも先程まで私を圧迫していた空気が彼の挨拶と同時に霧散して行くのを感じた。それも私に余裕を取り戻させる結果を生み出し、思わず笑みを溢してしまう。そんな私の姿に気を悪くしたように、再び窓の外へと視線を移した彼を見た私は、小さく声を出して笑ってしまった。


「神山さん、おはよう」


「おはようございます」


 その後、左隣の彼と会話をする事もなく、続々と入って来るクラスメイト達と挨拶を交わす私ではあったが、どのクラスメイトも、私の左側の通路を通る事はない。まるでそこを通ると命を吸い取られてしまうかのように避ける生徒達を見ていると、不思議と気分が悪くなって来るのは、私自身の変化のせいなのだろうか。

 その日も前日から何一つも変わる事のない日常が過ぎて行く。前の高校の方が授業内容も進んでいたようで、私としてはとても退屈な授業が延々と続いて行くようにも感じていた。

 何気なく左手を見ると、相も変わらず窓の外を眺める男子生徒が居る。


『何故、それ程の苦痛を感じてまで高校に通うのだろう?』


 思わずそんな疑問が湧き上がって来てしまう程、彼は授業に全く興味を示してはいなかった。

 私が通っていた中学や高校にも、授業に興味を示さず、無駄話を続ける者や自分の趣味のような物を密かに行う者はいた。俗にいう不良と呼ばれる者達も存在したし、授業を妨害するような馬鹿もいた。だが、この左側にいる彼は、そのどれとも違う空気を醸し出している。

 何故なら、彼の机の上に広げられた教科書は、マーカーの跡などがあり、勉強に対して全く興味を示していない訳ではない事を物語っていたからだ。授業の内容を聞いてはいるのかもしれないし、自宅で勉強をしているのかもしれない。一つ言える事は、彼が私の見て来たどの人間とも違うという事だけであった。

 そして、それは意外に早く、証明される事となるのだが、それはもう少し後で語ろうと思う。


「神山さんには気の毒だけど、来週から中間試験です。試験範囲などは、各先生から聞いているでしょうから、皆さん頑張って下さい。神山さんは、試験範囲を纏めた物をお渡ししますから、後で職員室に来てくれるかしら」


 5月という中途半端な時期での転校は、通常の高校で行われる5月中旬の中間試験という物を受けざるを得ない物とした。幸い、授業内容は、以前の高校の方が進んでおり、元々成績も悪くない私にとっては苦になるような事ではなかったが、普通の学生にとって、テストというのは歓迎される物ではないのだろう。教室中に響く不満の声がそれを証明していた。

 その後、各教科ごとに担当教員が試験範囲を記し、それを纏めた物を職員室で受け取った私が教室に戻ると、既に残っている人間は誰もおらず、私もそのまま鞄を取って教室を後にする。


「本屋に寄って帰ろうかしら」


 校門を出た私は、そのまま帰るだけというのも寂しく感じ、この町で唯一の駅がある場所へと向かって歩き出した。

 この小さな町には、町の規模に合わない程の立派な駅がある。通る線は一本しかないが、その一本が都会へと向かう物である為、利用客は多いのだ。

 駅前は、町で唯一の娯楽施設が並び、大きな本屋や電機店なども存在する。ちらほらと私と同じ制服を着ている女生徒も見かけるし、異なる制服を着ている者もいた。少し離れた場所にある高校などからも生徒が遊びに来る程の規模を持つ駅前である事が解る。


「あれ? 転校生じゃない?」


「あ、本当だ」


 駅の傍にある大型本屋に入ろうと歩いていた私は、突如として横から掛けられた声に足を止められた。声に止められるという表現は可笑しいかもしれないが、正確に言えば、声と同時に目の前に出て来た二人の女生徒に行く道を遮られたのである。

 その二人の女生徒は、言われてみれば私のクラスの教室にいたような気もする。他人に興味のない私にとって、それは特別に気に掛ける事柄でもなかった為、非常に曖昧ではあったが、その二人の女生徒の髪色には見覚えがあった。

 明るい栗色をした髪は、色を抜いているのであろう。軽薄そうな唇には、淡い色が塗られている。私としては興味もないが、余り付き合いを持ちたくない部類の人間のようであった。


「何? お前達の学校の転校生? おっ、結構美人だな」


「おお、美人さんだ。なんだよ、こんな美人が転校して来たなら、俺らにも教えてくれよ」


 そんな私の感想は、目の前の女生徒達を追うように現れた二人の男子生徒を見て確信に変わる。

 他校生なのか、その男子生徒達は、私が通い始めた高校の男子制服とは異なり、俗にいうブレザーと呼ばれる紺色の上着を着ていた。この男子生徒達も女生徒と同様に髪の色を抜いており、軽薄が服を着て歩いているかのような容姿をしている。これは私の偏見が強く出ている為、参考にならないかもしれないが、私としては目の前に立つような男に対して何の感情も湧きはしない。

 人間という生物も、異性を意識するのは、己の子孫を残そうとする表れであり、私のように性別が女性であれば、種を受けたいと思う事が恋愛感情なのだと思う訳である。

 だが、目の前に立って厭らしい笑みを浮かべる雄二匹には、そのような感情は一切湧かず、むしろ明確な嫌悪感すらも覚える始末。不覚にも、私はそれが表情に現れてしまった。


「なんだよ、そんなに嫌な顔しなくても良いだろう?」


「俺達これから遊びに行くけど、一緒にどう?」


 陳腐な誘いである。

 今まで、十数年かという人生を歩んで来て、曲がりなりにも女子高生という期間を1年以上過ごして来たが、このような陳腐な言葉は、聞いた事がない。小説やTVの中だけの話だと思っていた状況に自分が本当に直面しているという事実に気づき、私は一瞬唖然としてしまった。

 例え自分達が交際する女性のクラスメイトであっても、ここまで馴れ馴れしく出来る物なのだろうか。自分の事をお堅い人間だと思う事はないが、それでもこの目の前にいる二匹の雄が自分とは別の種族の生き物ではないかとさえ思ってしまう。


「なにそれ!? 私達がいるんだから良いでしょ!」


「そうだよ、浮気するつもり!」


 更に轟く馬鹿なやり取り。

 ならば、声など掛けるなと怒鳴りつけたくなってしまうのを必死に堪えながらも、この四体の生物が奇怪な物にしか見えなくなっていた。

 このような事をしている時間は私にはない。私には色々とやりたい事があるし、家に帰って読みたい本もある。あと1時間もすれば祖母が温かい食事を用意してくれるだろうし、祖父の凝った肩を叩いてやらなくてはならない。

 故に、私はギャーギャーと騒ぎ出す四人を無視するように、その脇を通り過ぎようと足を踏み出した。


「それでは、私はこれで……」


「おいおい、ちょっと待ってよ」


 しかし、そんな私の目論見は即座に阻止される。前に立つ男の一人が、脇を擦り抜けようとする私の腕を掴んだのだ。

 どれ程に他人を拒絶しようとも、私はか弱き乙女である。腕力では男性には敵わないし、対抗する為の武器を所持している訳でもない。考えていたよりも強い力で握り込まれた腕に鋭い痛みが走った事で、不覚にも小さな悲鳴を上げてしまった。そんな私の弱さが、目の前にいる雄二匹を調子付かせていく。

 厭らしい笑みを浮かべた後、私の腕を引いた彼らは、再び私の進路を潰していった。その横には、先程まで滑稽なやり取りを演じていた女子生徒が、醜い笑みを浮かべて立っている。

 何がそれ程までに楽しいのか、醜い顔を更に醜く歪める女生徒に憎悪さえも感じて来る。私に害を成すのであれば、それは興味のない他人ではなく、自分の敵となる。私は人間が好きではない。出来る事ならば、自分以外の人間と関わりたくはないのだ。


「やめてもらえませんか?」


「良いだろう? 一緒に行こうぜ」


 強い怒りと憎しみを込めて手を握る相手を睨み付けるが、相手は飄々と私の腕を引き続ける。下衆な笑みはその強さを増し、いつの間にか、私が周囲から認識されないように四人が囲い込むように立っていた。

このような人種が、今のこの時代にまだ生息していたのかと嘆息する程に愚かしい。私に何を求めているのかが理解出来ない。男女四人で遊びに行けば良いのにも拘わらず、自分を強引に誘い込もうとする考え自体が私には、理解出来なかった。


「さあ、行こうよ……って、痛えな!」


 再度腕を引かれた際、足を踏んででも逃げようとしていた私は、突如横から伸びて来た腕によって逃げる機会を逸してしまう。だが、悲鳴を上げたのは、逃げる機会を逸した私ではなく、私の腕を掴んでいた軽薄そうな男の方であった。

 顔の横から入り込んだ腕は苦痛の声を上げた男の腕を握り込み、それを私の腕から引き剥がす。それ程力を込めているように見えないにも拘らず、握り込まれた腕は細かく震えており、怒りを含んでいた男の顔は、苦痛の物へと変化して行った。


「丑門……」


 突如起こった出来事に呆然としていた私の横から現れた人間を見た女生徒は、瞬時に顔色を失って行く。まるでこの世の終わりを見てしまったように青褪めて行く女生徒の顔は滑稽以外の何物でもなかったが、隣にいた女生徒の顔も同様の物へと変化している事に気付いた私は、ようやく横から現れた人物へと視線を移した。

 そして、再び時が凍り付く。


「なんだよ、てめえは!」


「や、やめなよ」


「か、神山さん、ごめんなさい。私達はもう……もう帰るから」


 激昂しかける男を遮るように、真っ青な表情をした二人の女生徒は現れた人間と私に頭を下げ始める。その表情は誰が見ても奇怪な物であり、幽霊でも見たかのように青褪め、唇は細かく震えていた。

 それが彼女達の胸の奥にある恐怖の表れであるという事に私は気付く。

 恐怖という感情は、人間の思考や行動の一切を奪ってしまう程に強い感情である。正常な判断を狂わせ、人間本来の能力さえも奪って行くのだ。その大きな感情に、彼女達二人は飲み込まれていた。


「何なんだよ!? こんな奴……」


「お、おい、やめろ。こ、こいつ、丑門だよ」


 恐怖に引き攣らせた顔で頭を何度も下げ続ける二人の女性の姿に、自分を虚仮にされたと感じたのか、先程まで腕を握られていた男が攻撃的な態度を示そうとするが、それはもう一人の男性によって遮られる。

 まるでその名が、この世界共通の忌み名であるかのように告げるその顔に張り付いているのも明確な『恐怖』。それがとても強い物である事は、彼が激昂する男の身体ごと抑えようとする行動によって浮き彫りになっていた。

 忌み名を聞いた事で落ち着きを取り戻した男は、『丑門』と呼ばれた男性を軽く見上げた後、他の者と同様に顔色を変化させて行く。いや、正確に言えば、噛み付いていた分、他の者達以上の変化と言えただろう。


「ほ、本当に、ごめんなさい」


 そんな哀れな男を護るように前へ出て来た女生徒の勇気を、私は賞賛したくなった。先程まで憎悪を感じる程に不愉快であった気持ちが消え、足も唇も小刻みに震えているにも拘わらず、何度も何度も頭を下げる女生徒の姿に、何やら申し訳ない気持ちさえも湧いて来る。

 女に護られて、女の後ろへ下がろうとする二人の男子生徒に関しては、先程以上に怒りが湧いて来るのは、私が古い考えを持つ女だからなのだろうか。『先程までの下種な笑みは何処へ行った!』と怒鳴りつけたい気持ちを抑え、私は涙目で頭を下げる女生徒へと視線を戻した。


「い、いえ、お気になさらずに。今後はこのような事をなさらないのであれば、私も気にしませんので」


 横から割って入って来た『丑門』という男子生徒に助けられたにも拘わらず言う事ではないかもしれないが、突然の急展開に頭が付いて来ていなかった私を誰が責められるだろう。

 私のこの発言は、誰がどう聞いても上から目線の言葉である。圧倒的優位に立った者が劣勢に立たされた相手に対して発する言葉は、暗黙の圧力を生み出す物だ。現に、先程まで泣きそうになっていた女生徒の表情は、驚きを表した後で歪み、唇を噛み締めるように俯いた。

 今思えば、私のこの発言が全ての始まりだったのかもしれない。


「あの! ありがとう」


 何処か怨念を感じるような視線を私に向けながらも、女生徒二人と雄二人が去って行き、必然的に残された私は『丑門』なる男子生徒が去って行こうとするのを止める。

 私自身、祖父母に向かって以外で心からの感謝を述べるのは久方ぶりかもしれない。だからなのか、言葉が少し震えていたと思う。それでも、その声は既に背中を向けていた男子生徒に届いた。

 振り返った男子生徒の表情は何とも表現し難い物であり、驚きと喜びと哀しみが混ざったような、そんな表情だったと記憶している。


「余計な事でなくて良かったよ」


「え?」


 複雑な表情が、小さな笑みに変わる。はにかんだような笑みはとても優しい物で、先程四人の人間を恐怖に陥れた人物が放つ物ではないように見えた。そんな予想だにしない笑顔を向けられた私は、不覚にも素っ頓狂な声を上げてしまう。私自身を見る事は出来ないが、その時の私の顔は、呆けたような間抜けな物だったに違いない。今思い出すだけでも赤面する忘れたい過去の一つであった。

 だが、そんな私の表情は、『丑門』という名の男子生徒の気分を害すには十分な物であったのだろう。『もしかすると、助けなど求めていないかもしれない』という疑問を持ち、『余計なお世話になる』という可能性を振り切って救ってくれた相手に対してする表情ではなかった。

 笑みを消して背を向けた彼は、そのまま駅前の人ごみの中へと消えて行ってしまう。私はその背中を呆然と見つめる事しか出来ず、既に人ごみの中に消え、どれが彼の背中なのかも解らなくなっても、暫くの間、立ち尽くしてしまった。




 その後なんとか家である神社へと辿り着いた頃には、すっかりと日も暮れていた。

 小さな山の上にある私の父の実家は、山の麓にある鳥居を潜ってから百四十九段の階段を登る。神社などで四という数字や九という数字を使用する事は非常に珍しい。特に四十九という数字は『始終苦』に繋がるとして、この日本でも忌み数として伝えられていた。

 ならば何故、そのような数字を使うのかという事になるのだが、これは私も祖父に聞いた物であって、確かな物でない事を前もって断っておこうと思う。祖父もまた、自分の父や祖父に聞いた話であり、千年続く家系に伝承として伝わっている話である為に、何処かで捻じ曲がっていたとしても可笑しくはないからだ。

 そもそも、この神社は『南天神社』と云う。本来の名は、異なった別名があるのだが、この神社の境内には多くの南天の木が植えられており、数百年前からこの地域の人間に南天の神社という形で親しまれた事が由来と云われていた。

 この地方の中心。今では市役所がある場所であるのだが、その北東の方角にこの南天神社は位置する。遥か昔、この場所に居を移した公家が、暮らす館の鬼門を護る為にと建立されたのがこの神社であると云われ、鬼除けとして植えられた南天がこの地方に根付いた民に受け入れられたのだろう。

 この神社の階段を登る者達は鬼門へと近付く。だが、神社へ赴く為に百四十九ある階段を登る事で苦を先払いさせ、苦を祓うという意味があるのだそうだ。私としては、どうにも後付けの逸話のような気がする。単純に、作った人間が後から百四十九段となっている事に気付いて言い訳を考えたようにしか思えないのだが、長く続いた嘘は真実になるというのが現実であり、今ではそれが当然の事として受け入れられ、苦労が耐えない者達は、苦を祓う為にこの神社を詣でるのだった。


「ただいま」


「あら、遅かったわね。お友達と何処かに行って来たの?」


 玄関の引き戸を開けると、既に夕食の準備が済んでいるのか、台所の方から良い香りが漂って来ている。帰宅を告げる私の声に気付いた祖母が奥から顔を出し、良く解らない事を口にしていた。

 私の祖母の年齢は若い。十六になる孫が居るにも拘らず、未だに六十の半ばにまで達していなかった。二十代前半で私の父を生んだ祖母は、四十代で孫を授かっている。私が生まれた頃は、『四十でお婆ちゃんなの?』と絶望したと今では笑い話のように語る陽気な人であった。

 祖父とは歳が十近く離れており、昔は亭主関白で厳粛だった祖父も、今ではこの陽気な祖母に頭が上がらなくなっている。


「流石に、まだ友達は出来ないわ。まだ、転校二日目よ?」


「そう? 深雪ちゃんならすぐに出来ると思うけど」


 そして、そんな祖母は本当に心から私を愛してくれている。溺愛と言っても過言ではないその感情は、私への過剰評価へと繋がって行くのだ。

 私は人間関係構築には難のある人間である。敢えて友達という存在を作る気もないし、それが必要だとも思わない。結局は全てを自分で考え、成さなければならず、そこに他人が必要な事など有り得ないとさえ考えていた。

 祖父母のような肉親は別である。ずっと傍に居て欲しいと思っているし、私はこの二人には心から感謝もしている。父親や母親は居ても居なくても構わないが、私はこの二人が居なくなれば生きて行けないような気さえしていた。


「……お腹が空いた」


「あら、じゃあ着替えてらっしゃい。手もちゃんと洗うのよ」


 十六歳となり、既に高校へも通っている私も、この祖母にとっては幼い子供なのだろう。帰って来たらうがいと手洗いをするように注意する事自体が子供扱いなのだが、私はそんな祖母の言葉が不思議と不快ではなかった。

 自分では全力で否定したいのだが、もしかすると、私はこの祖父母に甘えたいという欲求が何処かにあるのかもしれない。玄関で靴を脱ぎ、この比較的大きな日本家屋の奥にある、私に与えられた部屋へと入った。

 祖父母の家は、昔ながらの日本家屋である。二階という概念はない平屋でありながら、山の上にある広大な土地に作った為、その敷地面積は広かった。昔は、神社を尋ねて来る者達を泊める事もあったそうで、今では使っていない客間も多い。私に与えられた部屋もその一つである。父が使っていた部屋をという祖父母の申し出を断り、私がそう希望したのだが、あの時に祖父母の顔は、寂しさを含んだ微妙な物であった。


「学校に行く事が憂鬱ね……。転校早々に孤立しちゃうかも」


 制服をハンガーに掛け、壁に吊りながら、私は駅前で起こった一連の出来事を思い出す。あの場は『丑門』という苗字の男子生徒によって救われたが、最後に見せた女生徒の表情を思い出すと、そこに悔しさと憎しみにも似た感情を潜ませている事が理解出来た。

 遭遇した当初の軽薄さを考えると、あの女生徒達が軽率な行動に走らないという保証は何処にもない事が解る。俗に云う『いじめ』という事が起こり得る可能性もあり、最悪はあの雄二人を含めた襲撃という可能性さえもあるだろう。

 どちらにしても良い未来が待っているとは思えず、軽い溜息を吐き出したくなる。あの丑門と呼ばれた男子生徒のように、徹底的な無視という処遇であれば何の問題もないのだが、多干渉のいじめであれば、煩わしい事この上ないのだ。


「深雪ちゃん、ご飯出来ているわよ」


 部屋着として使用している、前の学校のジャージに着替えて暫し思考に耽っていた私は、祖母の声を聞いて、その思考を捨てる事にした。

 今、考えた所で、物事が好転する事など有り得ない。むしろ悩みばかり増えて行き、結局は八方塞になって憂鬱さが増して行くだけだ。

 そう結論付けた私は、食卓で暖かな湯気を出している数々の料理の美味しさへ思考を飛ばし、軽やかな足取りで居間へ向かうのだった。




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