其の陸
廊下が静まり返る。
だが、この場所に誰もいない訳ではない。
股間部分を濡らし、床に広がる水溜りの中に、腰が抜けたように座り込んではいるが、数人の生徒が存在し、私もまた、その場所にいる。名誉の為、言っておくが、私は失禁していない。
それでも誰もいないかのように静寂が広がっていた。この場所に存在する誰もが、どんな物音も立てないように息さえも殺していたのだ。
それは、先程までこの学校の生徒、教員を含む全ての人間を恐怖に陥れた殺人鬼への恐怖からではないだろう。この場を支配する唯一人の男子生徒へと、その恐怖は向けられていた。
「……」
砕け散った窓ガラスの破片を踏みしめる音だけが廊下に響き渡る。猛威を振るっていた殺人鬼は、窓ガラスの破片を頭から被ったまま沈黙を続けていた。それに一歩一歩近付いて行く足音を鳴らすそれから私は目を離せない。意図的でもなければ、好意的にでもない。目を離したその瞬間に、自分の命諸共にこの世から消えて無くなりそうな恐怖に縛られていたのだ。
その恐怖は、正に地獄である。いや、地獄という言葉は相応しくないだろう。あれは死後の世界であり、生きている内に味わう物ではない。私は先日足を踏み入れかけた黄泉へと続く坂道を前にした時のような絶望と恐怖を味わっていた。まるで、この場所自体が既に黄泉の国になってしまったかのようである。
「ぐわぁぁぁ」
恐怖で動けない周囲とは別に、殺人鬼は己の欲望を満たす為に、この機会を待っていたのだろう。自身の射程範囲に足を踏み入れた丑門君に向かってその手に持った刃物を突き出す。絶望と恐怖に縛られた私には、その動きが酷く緩慢に見えた。
実際、鼻骨を折られていると思える程に血で顔面が濡れている殺人鬼の身体の損傷は見た目以上であろう。だが、それに対応しようとしている丑門君の動きさえも緩やかに見えているのだから、私の脳の処理が大幅に遅れていたのかもしれない。実は既に何もかもが終わり、私が過去の映像を追っているのだとしても信じられる程に、両者の動きがスローモーションのように見えていた。
「ぐぎゃ」
殺人鬼が突き出した刃物は肉を突き破る事が出来ず、廊下を支配する絶望の空気に風穴を開ける事さえ出来ない。虚空に突き出された刃物を持つ手首を、丑門君が殴り落とした。
骨が折れる音というよりも、陶器が割れるような音が廊下に響き渡る。それは本当に乾いた音であった。私の短い十数年も人生の中でも聞いた事のないようなその音に続き、金属音が響く。連続的な廊下を叩く金属音は、次第に細かくなって行き、消えて行った。
そして、再び弓が引き絞られる。丑門君の右腕が後方に引かれ、まるで周囲の瘴気を吸収するようにどす黒い何かに包まれて行く。
「……し、死んじゃう」
その右腕は『死』そのものだった。
引き絞られたそれが放たれた瞬間に、殺人鬼の命の灯火は消え失せるだろう。誕生日ケーキに刺された蝋燭のように、一息に消されてしまう。そして消された炎は二度と灯る事はない。それが明確に理解出来る程、この廊下には濃密な『死』が充満していた。
今は、私でさえも彼を丑門君と認識出来ない。彼を人間とは認識出来ない。私でさえもそうなのだから、この廊下にいる全ての人間は、彼が化け物にしか見えていないかもしれない。
それ程に、今の彼は『人』から遠く掛け離れていた。それこそ、祖母が私に話してくれた『鬼』という存在と見間違う程に。
「……だめ」
それを思い出した時、恐怖で縫い付けられていた私の口から、彼を制する為の言葉が漏れる。
彼がその腕を放ってしまったら、もう二度と彼が人間に戻れないような気がした。彼が標的としている殺人鬼と同様に、心を鬼に喰われてしまい、『人』ではない何かになってしまう気がしたのだ。
だが、私の小さな小さな呟きは、我を忘れているかのような彼の耳には届かない。手首を折られた殺人鬼が彼を引き倒そうと動くより前に、彼の左腕が殺人鬼の喉元を握り込んでいた。
呼吸を止められたように口を開閉する殺人鬼の様子から、彼が左手に込めた力の強さが解かる。そして、動きを封じた標的に照準を合わせ終えた彼は、引き絞った弓から手を離そうと動いた。
その時、私は確かにこの肌で、そしてこの心で感じた。私のすぐ横で彼のその姿に歓喜している者の姿を。私の視界の隅に立つ黒い影。その影は私が顔を向ける毎に鮮明になる。私が初めて目にした時のようにみすぼらしい姿ではなく、境内へと続く石段で私を追っていた時のような煌びやかな着物を纏ったそれは、私に向かってその真っ赤な唇を歪めて確かに笑みを作っていたのだ。
パァーン
その笑みに戦慄し、先程までの恐怖とは異なる何かで私が身体を縛り付けられ、彼の引き絞られた腕が放たれようとしたその時、私の耳に、そして私の心に、聞き慣れたあの音が聞こえて来た。
その音は遠くから聞こえて来るが、それがまるで波紋となって広がるように、校内の澱んだ空気を清めて行く。私の濁った視界も、音が移動する動きを見ているかのように開けて行き、恐怖によって色を失っていた世界が彩られて行った。
引き絞られていた弓は、解き放つ機会を失い、呼吸を止められていた殺人鬼は、その音を受けて意識を失う。
私の横で歓喜の笑みを浮かべていた黄泉醜女は、その音を耳にした瞬間に美しい顔を瞬時に歪め、苦悶の表情を浮かべた。醜女にも拘わらず、美しい顔というのも可笑しいかもしれないが、苦悶に歪むその表情は、憎悪に染まり、確かに醜い物であった。そして彼女は、私に掴み掛かろうとその手を伸ばす。
パァーン
二度目の拍手。
一度目の拍手の波紋によって清めた空気を更に上書きするように波紋を広げて行く。その波紋は一度目よりも強力に空気を浄化し、私に掴み掛かろうとしていた黄泉醜女を砕き、霧散させて行った。
そして、その音は、私の心を正常へと戻し、私自身を神山深雪という一人の人間へと戻して行く。長い年月を経て血を繋げている神山家の人間へと。
この音が正確に耳に届いている人間がこの廊下にどれ程いるのかは分からない。だが、私の心は、脳は、身体は、この音が何で、誰が発している物なのかを理解出来る。それは、私の祖父が神様に拝する際に行う物に相違ない。
拍手とは、神様に拝する事への喜びや感謝を表す物や、神様を迎える為の場所の邪気を祓う為の物であると云われている。私は、幼い頃から、祖父の拍手は後者だと教えられて来た。神様のお力をお借りして、お迎えする場所の邪気を祓い、清める為の物だと。
神事に携わっていない人間が行う拍手と、宮司などが行う拍手では、その意味もその効果も異なるだろう。現に、澱み切ったこの校舎内の空気を瞬時に清めたのは、祖父が行った拍手に間違いない筈だ。
パァーン
『再拝二拍手一拝』
神社を詣でる際の一般的な作法として伝えられている物ではあるが、拍手の回数は全てに於いて同じではない。神社によっては、四回の拍手が作法である場所も存在するし、伊勢神宮などでは八回とも云われている。短拍手、長拍手など、拍手にも種類はあるが、今、私の耳にはっきりと聞こえた三度目の拍手は、校舎全ての空気を清め、正常な物へと戻していった。
私の目の前で恐怖を振り撒いていた殺人鬼は気失ったまま廊下に倒れ付しており、その喉元を握り込んでいた一人の青年もまた、疲労と負傷による血液不足によって、ふらふらと廊下へと座り込んでいる。
「……良かった」
安堵の言葉が口を吐く。
目に見える限り、丑門君の傷も深くはなく、命に係わる程の物ではないだろう。殺人鬼も気を失っているが腹部が上下しているのを見る限り、命はある筈だ。周囲を見ても、恐怖によってへたり込んで身体を震わせて居る者、恐怖の限界を超えて気を失っている者など様々であるが、少なくともこの階層にいる生徒達の中で命を落とした者はいない。ほぼ全ての人間の股間付近が濡れ、廊下に水溜りが出来ている為、命の次に大事な尊厳も誰かだけが失っているという事もないだろう。
下の階や、昇降口付近などの状況は解らない。生徒を含め、命に係わる負傷をしていない事を祈るしかない。下から徐々に聞こえて来た生徒達の泣き声が、痛みと恐怖から解放された事への安堵の涙である事を祈ろう。
「丑門君……」
座り込んでいた丑門君が這うように殺人鬼へと近付き、刃物によって切られたワイシャツを引き千切って、殺人鬼を拘束して行く。うつ伏せに倒れていた殺人鬼の腕を背中で交差させ、その腕を縛る。その拘束の固さを確認した彼は、息を吐き出し、仰向けに倒れ込んだ。
気力、体力の全てを使い果たしたかのように倒れた彼に近付いた私は、彼の姿に絶句する。
何が、『命に係わる怪我ではないだろう』なのだ。彼が受けた刃物による傷は、決して浅くは無く、縫合しなければ完治はしない程のものである。今も尚、彼の命の源ともいうべき真っ赤な水を湧き出し続ける傷口を私は咄嗟に押さえ込んでしまった。
「ぐっ」
押さえ込んだ瞬間に響く彼の苦悶の声。最も傷が深いと思われる肩口の傷を押さえ込んだ私の手が、瞬時に真っ赤に染まって行く。指と指の間から漏れて行く命の源が、焦燥感を駆り立てて行った。
医学の知識など微塵もない。小説やゲームにあるような治癒魔法など使えない。出来るとすれば、これ以上の血液が流出しない為に傷口を押さえ込む事と、私の体内から涙を溢す事しかない。
押さえ込んだ私の手が、彼の体内から溢れ出る血液によって熱くなって行く。人の生命の源は、これ程の熱量を持っているのかと思う程に、彼の血液は温かかった。学校の生徒達からも、この町で暮らす全ての人間からも忌避されているような人間とは思えない温かみ。
「大丈夫、丑門君なら大丈夫」
涙で掠れた声で私が呟いた言葉は、いつぞやかに私の祖母が彼に向かって呟いた言葉。首筋の傷に布巾を当てながら口にしていた言葉。あの時も今も、その言葉の意味は解らない。何が大丈夫なのか、何故大丈夫なのかも解らないが、それでも私はその言葉を口にした。
肩口の傷から溢れ出る血液の量は変わらない。だが、私の言葉に呼応するように、血液と共に傷口から白い煙が溢れ出す。それもまた、あの時目にした物であった。
右手で傷口を押さえながら、ポケットからハンカチを取り出し、それを肩口へと当てる。薄桃色のハンカチがどす黒い赤に変色して行くのを見ている内に、私はまたしても泣き出してしまった。
「誰か……早く……早く」
廊下にいる生徒達は先程の恐怖から使い物にはならない。他の生徒達は身の安全を守る為に教室から顔さえも出さない。私の小さな懇願に応える者は誰一人としていなかった。
そんな私の二の腕を軽く叩く手。それは、私に向かって微笑を浮かべる丑門君の物。その瞳は、先程まで殺人鬼へ死を与えようとしていた者の物ではない。優しさと温かみを持つ『人』の瞳であった。
「……無事で良かったよ」
「貴方が無事じゃないでしょう!?」
優しく微笑むその表情は間違いなく『人』であり、あの時感じた『鬼』の欠片もない。だが、その言葉は私の心の中にある罪悪感と焦燥感に拍車を掛けた。
彼から流れ出す血液は止まらず、手で押さえているハンカチは白い面積の方が小さくなって来ている。このまま行けば、出血多量で命を落としかねない。それが理解出来るからこそ、暢気に笑みを浮かべる丑門君に腹が立つし、この状況でも尚、廊下に出てくる様子もない生徒達、教員達に憤りを感じていた。
「こっちだ!」
どうして良いかも解からず、只々力任せに彼の傷口を押さえる事しか出来ない私の耳に、数人の大人達の声が聞こえて来たのは、丑門君が目を瞑り、それを見た私の目に大量の涙が溢れて来た頃だった。
私の後方にある階段を多くの人間が上って来る足音が聞こえ、そのままの勢いで多数の警察官が私と丑門君を追い越して行く。そのまま縛られて転がされている殺人鬼を取り囲んだ。
気を失い、刃物さえ持っていない殺人鬼を警戒しながら多数の大人が取り囲む姿は滑稽以外の何物でもない。人を一人殺し、この学校でも刃物を振り回していた人間に対しては当然の警戒なのだろうが、そんな殺人鬼に唯一人で立ち向かった青年を知っている私には、臆病者の集団にしか見えなかった。
それは、今、生死を彷徨い始めている男子生徒を放って、全員で気を失った殺人鬼に対応しようとしている警察官に対しての怒りの現れであったのかも知れない。
「馬鹿者! 怪我人を保護するのが先であろう!」
そんな私を代弁する声が後方から大音量で聞こえて来た。
それは私の聞き慣れた声であり、緊張と恐怖で固まっていた私の身体を解す声。その声が響くと同時に、白い白衣に似た物を着衣した多数の人間が私を取り囲むように表れた。
救急隊員達が一斉に丑門君の身体を確認し始める。その中には、彼の姿を見て顔を顰めるような人間も居たような気もするが、安堵から来る放心状態で、よく憶えてはいない。唯一憶えているのは、安堵によって力が抜けたにも拘らず、丑門君の肩口を押さえていた手が離れなかった事。数人の大人が私の手を退けようと力を入れるが、硬直したように、私の手が丑門君の肩口から離れなかったのだ。
「深雪、もう大丈夫。もう大丈夫だから」
先程、警察官に怒鳴り声を挙げた人間が、私の肩に手を置いて、優しく語り掛けるまで、私の腕は硬直したまま動かなかった。
その声と、優しい祖父の顔が目に入った瞬間、私は大声で泣き、血だらけになった手で祖父にしがみ付く。全ての緊張と恐怖から解き放たれた私の身体は、思い出したように小刻みに震え出し、その震えは叫び声にも近い泣き声に呼応するように大きくなって行った。
痙攣のように震え出した身体は治まる様子は無く、自分の身体ではないかのように、私の脳からの指令を無視したような動きを続ける。そんな私の視界の隅に、大きな担架に乗せられた丑門君が見えた。
その姿を見た瞬間、あれ程に震え続けた私の身体が嘘のように止まる。
「その人は……丑門君は大丈夫ですか!?」
「……危険な状態ですが、最善を尽くします」
私の問いかけに振り向いた救急隊員は、先程顔を顰めた者とは別の人間であった。
彼は、私の伸ばした手にべっとりと付着した丑門君の血液を見て、痛ましそうに顔を歪めるが、私を安心させるかのように微笑を浮かべ、大きく頷きを返してくれる。それは救急隊員として当然の行動なのだろうが、この町の人間達の丑門君への接し方を見続けていた私のとってはとても意外な物であった。
そのまま私の横を通り過ぎた丑門君を乗せた担架は、階段を下りて行き、私の視界から消えて行く。私は彼に『ありがとう』の言葉も伝えていない。この状況で彼に与えた物は、彼の言葉に対する罵声だった。
そのような言葉で終わらせたくない。そのような最後など認めたくない。
「彼なら大丈夫だろう。心配するな」
「おじいちゃん……」
私を抱き締めていた祖父が口を開く。その言葉は、何故か私の胸に響いた。
何故、祖父がこの学校にいるのか。何故、祖父の拍手が聞こえたのか。警察、救急と一緒に、何故祖父が当たり前のように校内に入って来ているのか。様々な疑問が浮かぶが、今、目の前で笑みを浮かべている祖父の顔を見ると、そのような疑問も些細な事のように思えた。
祖父の言葉は気休めかもしれない。救急隊員の人も『危険な状態』だと言っていたし、私が見た彼の姿も、安心出来るような状態ではなかった。
それでも私は祖父の言葉を信じたかったのだろう。その『大丈夫』という言葉を真実として飲み込みたかったのだ。それが真実となり、それが現実になる事を願って、私は祖父に向かって大きく頷きを返した。
「下の階にいた生徒さん達も、怪我をした者もいたが、皆無事だ」
「……うん」
祖父の言葉に頷きを返してみたものの、私の心の中に、この学校に通う生徒達の安否に対する安堵はない。私も同罪ではあるが、誰も殺人鬼と対峙する丑門君を助けようとはせず、そこに顔を出す事さえしなかった。
刃物を振り回す狂人に対しての当然の反応であり、生物としての本能である事は理解出来るが、それでもそれを飲み込む事が出来ない。今も、誰一人として彼を心配している者はいなかった。今回の事件に関しては、彼は英雄と言っても過言ではない動きをしていたし、私は彼に感謝しかない。だが、ようやく廊下に顔を出し始めた他の生徒達を見ていると、そのような感情は微塵も見られなかった。
「深雪、ここは黄泉國との距離が近い。今日は家へ帰ろう」
「え?」
祖父はそう口にするや否や、私の手を引き、階段へと向かって歩き出す。確かにこの状況で午後の授業を再開するような事はないだろうが、無断で校外へと出る事を率先する祖父に少し驚いてしまった。
同時に、先程まで祖父の拍手によって清められていた校内の空気が再び澱み始めている事に気づく。その澱み、歪みが目に見えている訳ではないが、再び頭痛がし始めている事がそれを証明していた。
拍手に効果時間があるという話は知らない。永続的な物でない事は確かであり、参拝する人間も管理する人間もいない神社は荒廃し、悪しき神が宿ると云われている事からも、場を清めるには、継続的な儀が必要であると考えられる。そして、この学校に関しては、既に一度や二度の拍手程度では清めきれない程の澱みがあるのだろう。
「……やはり、この高校に入れるべきではなかったのかもな」
「……おじいちゃん」
祖父に支えられながら階段を下り、昇降口まで辿り着いた所で、私は振り返った。そこは、阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっている。多くの生徒達が泣き喚き、多くの警察官と救急隊員が駆け回っていた。白いタイル式の廊下には、幾つかの血痕が残っており、それが数人であろうと怪我人がいる事を示している。
数時間前までは、いつも通りの平和で退屈な、何処にでもある学校の風景であったが、それが今や面影さえもない。校舎の外には何台ものパトカーが駐車しており、その赤色灯がまるで校舎を燃やす炎のようにゆらゆらと揺れていた。
突如として落とされた非日常の世界は、私の想像以上に、私の心にもこの学校の生徒達の心にも傷痕を残す。『死』という世界への恐怖は、本来人間であれば誰しも持ち得る物でありながらも、それを実感するのは『死』を間際に控えた者だけである。私達は今日この日に、底の見えない『死』という崖の淵に立ったのだ。少しでも足を踏み外せば、二度とは戻れないであろう、あの坂の入り口のような『死』そのもの。
「お待ち下さい」
「何だ? 孫は疲れている」
昇降口を出ると、警察官が私と祖父を囲むように立ち塞がる。私達の行く手を遮るように囲う警察官達の発する威圧感に私は怯んでしまうが、祖父は片眉を上げ、不愉快そうに言葉を漏らした。
警察官側にその意思が無くとも、一般人にとって、その制服を着ているというだけで後ろめたい事が無くとも何処か圧迫感を感じるものである。それが複数となれば尚更であり、私は疲労に疲労を塗り重ねられたように身体が重くなり、庇うように立つ祖父にしがみ付いた。
「いえ、事情聴取という訳ではありません。お孫さんの身体は流石に物々しい状態ですし、心身共にお疲れだと思います。怪我などはないとは思いますが、救急車両での移動をお願い出来ますでしょうか?」
「ん? ……そうか、こちらこそ、配慮が足りなかった」
だが、警察官の考えは、私達の考えている物とは大きく異なっていた。憔悴し切っていた私は、自分の状況を正確に把握出来ておらず、よくよく考えてみれば、私の両手も制服も丑門君の血液によってどす黒い赤で染まり切っている。それは、一般人が見れば卒倒しかねない程の光景であろう。
今更ではあるが、私達を威圧するように囲んでいた警察官は、それが目的なのではなく、私のその姿を、奇異の目から遠ざける為なのだと今ならば理解出来る。その証拠に、警察官越しに見える校門付近には、人だかりが出来ており、その中にはTVの取材と思われる人間やカメラが見受けられた。
私と祖父がこの状態で歩いて校門まで行けば、格好の餌食となる事は間違いなく、それを未然に防ごうとしてくれた警察官に対しての先程までの対応を祖父が謝罪する。その頃には、校門の人だかりを押し開くように数台の救急車が校内に入って来た。
「数人と一緒になりますが、車内にどうぞ」
近くに停まった救急車の後部が開き、その中に誘導されるように乗り込む。他の救急車も後部が開かれ、怪我人達が乗り込んで行ったのだが、救急隊員に促されて歩いて来た生徒達は皆、救急車の中で私が座っている事を確認し、その手が真っ赤に染まっている事を見た瞬間に別の車両へと移動しようとしていた。
私と同じクラスの人間ならば、そのような姿も理解出来るのだが、私自身、見覚えもない生徒達にまでそのような態度をされる事が理解出来ない。だが、私が乗っている救急車には誰一人として乗ろうとしない事を見ると、それが現実なのだろう。
何時の間にか、丑門君だけではなく、私もまた忌避するべき存在になってしまったのだ。警察官や救急隊員にそのような素振りがない為、まだ校内の範囲なのかもしれないが、それが現実なのだろう。
「仕方がない。出てくれ」
誰もこの救急車に乗ろうとせず、強引に乗せようとしても発狂しかねない生徒達を見た救急隊員は、諦め気味に扉を閉め、運転している隊員に発車を促す。それに頷きを返した隊員は、静かに救急車を走らせた。
救急車の赤色灯が回り、特殊なサイレンが周囲に響く。白いカーテンで遮られた窓からは外が見えず、五月蝿い筈のサイレンは徐々に私の耳から離れて行くように遠く聞こえ始める。それと比例するように、私の意識もまた遠退いて行った。




