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日本書鬼  作者: 久慈川 京
第二章 殺人鬼
18/35

其の伍




 階下に響き渡る叫び声は、遊び半分の物ではなく、純粋な悲鳴であった。

 恐怖、苦痛、悲痛、嫌悪、そんな全ての感情が入り混じった叫びは、聞いている人間さえも恐慌に陥れる程に切羽詰った音であり、廊下に出ていた全ての人間の足を竦ませる。それは私も例外ではなく、拒絶しようとしていた丑門君への怯えさえも吹き飛ばすほどの新たな恐怖が私を縛り付けた。

 階下の混乱と奇声は収まる様子は無く、むしろ時間の経過と共に加速している。一人の女生徒の叫び声から始まった悲鳴は、複数の悲鳴に変わり、男子生徒の怒号が即座に悲鳴へと変わって行く。それは、廊下に出ている全ての生徒達へと平等に浸透し、今では何事かと階下の様子を見に行こうとする者もいなかった。


『行こう……』


「え?」


 竦み上がり、自分でも解る程に震え続けていた足が強引に動かされる。まるで何かに引かれるように私の身体は階段の方へと移動していたのだ。

 聞こえて来るのは、あの忌まわしき声。私を死へと誘うその声は、此度もまた、不吉なあの坂へと導いて行く。身体の自由は利かない。自分の意思とは裏腹に、私の足はずるずると階段へと近づいて行った。


「ちっ」


 抗う事も出来ない不可思議な力で動く身体は、私の心を恐怖で埋め尽くして行く。洗面所の鏡に映ったその顔が甦る。目の錯覚なのか、今では私の腕を掴む土色の手さえも見えるようになっていた。

 触れられているその部分から腐り落ちてしまうのではないかと思う程に冷たく、握り潰されてしまうのではないかと感じる程に力強く。既に感覚を失いつつある腕を眺める事しか出来なかった私は、不意に割り込まれた腕に気付かなかった。


「神山!」


 恐怖に竦んだ私とそこに追い込む何かは強引に引き剥がされ、先程よりも強い力で階段傍から引き戻される。踏鞴を踏むように足を縺れさせた私は、黒い学生服の中へと落ちて行く。それが丑門君に抱き止められたのだと理解した頃、私の視界に強引に割り込んで来たあの裸婦の表情は醜く歪んでいた。

 憎悪、嫉妬など歪んだ感情の全てがその口元に色濃く映っているように私には見える。いや、正確に言えば、あの存在自体を私しか認識出来ていないのかもしれない。その証拠に、私のアレを引き剥がした丑門君でさえ、アレが居る方向とはまったく異なる場所を睨みつけていた。


『おいで……おいで』


 先程までの憎悪に染まった口元を隠したアレは、再び私を階段付近へと誘う。私の傍に丑門君が居るからなのか、それとも他に理由があるのかは解らないが、先程のように直に私の腕を握って引くような事はしなかった。

 アレは誰がどう見ても異常な存在であり、その誘いに乗っては駄目である事は明白である。だが、私のあの本能が、それ以上にあの階段付近へ近づく事を拒否している。それこそ身体の内部で警鐘が鳴り響いているように感じる程に私の身体と心は何かを強烈に拒否していた。

 脳の指令を無視するように足が引き摺られ、徐々に階段へと近づいて行く。混乱の渦中にいる私とは異なり、周囲に居た生徒達は、騒ぎを避けるように教室へ戻る者と、恐怖と好奇心を抑える事が出来ずに階段へ近づこうとする者の二つに分かれていた。

 私を抑えていた丑門君ではあったが、見えない力で引き摺られる私の状況を見て、無理に繋ぎ止めようとはせず、私と共に階段へと近づいて行く。無理に私の身体を引き止めると、力の作用で無理が生じると考えたのか、彼はまるで私を護るようにゆっくりと歩いていた。


「なんかあったのか!?」


 そんな時、階段近くの教室から一人の男子生徒が出て来る。未だに廊下に響き渡る階下からの悲鳴は、教室の中にも聞こえているのだろう。それに加え、教室への出入りによる扉の開閉によって、廊下での騒ぎが必然的に中に居る者達の耳にも入っていたのだ。

 出て来た男子生徒が騒然とする廊下の状況を見て、瞬時に困惑の表情を浮かべる。その後方から出て来た男子生徒が暢気な顔で私の視界に入っていたあの裸婦を追い抜いて階段側に出た時、それは訪れた。


「ぐぎゃ」


 潰れた蛙のような声を出して吹き飛んだ男子生徒は、壁へ頭を打ちつけ倒れ付す。だが、誰も彼を助けに近付こうとはしなかった。何故なら、二階の廊下に出ていた全ての生徒達の目には、微かな油分で光る赤黒い液体の付着した刃物が映っていたのだから。


「ひっ」


「ぎゃぁぁぁぁぁ!」


 誰の声だったのだろう。僅か一人が漏らした短い悲鳴を皮切りに、廊下に居る全ての生徒達が一斉に絶叫した。窓ガラスの全てが震える程の絶叫が廊下に響き渡り、皆が散り散りに逃げ惑う。誰も彼もが混乱し、自分が何処へ逃げるべきなのかさえも理解していない。先程廊下の壁に激突した男子生徒は放置され、階段へ続く踊り場のような場所には誰一人として残ってはいなかった。

 残されたのは、私と丑門君、そして未だに気を失っている男子生徒のみ。頭を打ったようではあったが、打ち所が悪かったという様子でもなく、僅かに腹部が動いているのを見る限り、しっかりと呼吸をしているのだろう。


「……う、丑門君」


「神山、動くなよ」


 壁に凭れ掛かるように倒れている男子生徒の様子を私が冷静に見ていられるのも、私の前に大きな背中が見え、それによって自分が護られているという安心感にも似た感覚があったからだろう。

 だが、背中越しでも、彼がとても緊張している事が解かる。私を庇うように立っている彼であるが、その背中から前方を見れば、先程一瞬だけでも見たあの凶器が嫌でも目に入って来た。

 既に乾き始め、赤黒く変化をしている物は、生物の血液である事は理解出来る。そしてその命の源を流す原因となった凶器をしっかりと握り締めて立つそれは、小太りの男性であった。


「キッキッキッ」


 階段を上り切り、私達の姿を確認したその男は、とても人間が発したとは思えないような笑い声を発し、薄気味悪く口元を歪める。背丈は丑門君よりも小さく、私よりも少し大きい程度、170センチあるかないかといった所だろう。明らかな肥満というよりは、小太りという方がしっくりと来る体系。眼鏡はかけておらず、髪の毛なども長くはない。何処にでも居そうな青年と中年の間の年齢の男性であった。

 凶器となる包丁のような刃物を握っている右手が血液で染まっている訳ではない為、ここに来るまでで生徒を刺してはいない事が解かる。だが、包丁自体には血液が付着している為、斬り付けはしたのだろう。乾いた血液の端から床に赤い雫が垂れ落ちており、先程吹き飛ばされた男子生徒も何処か身体を斬られている可能性は高かった。


「ふひゅふひゅ」


 口を歪めて笑みを作ったその男は、私達へ向かって来るのではなく、廊下の壁に倒れ伏している男子生徒の傍へと近付いて行く。そしてその体躯を力一杯蹴り込んだ。

 重量感のある音と共に、男子生徒の呻き声が響く。男子生徒が生きている事に胸を撫で下ろすが、追い討ちをかけるように蹴りを繰り出す小太りの男に恐怖を覚えた。

 先月、八瀬紅葉という少女に躊躇いなく手を出した私が言うのも可笑しな話ではあるが、何故にあそこまで躊躇無く他人に暴力を振るえるのかが理解出来ない。少なくとも、私のように転校して間もないとはいえ、何度か交流がある人間に対してではなく、あの小太りの男にとって、倒れている男子生徒は赤の他人の筈である。そこに遺恨などある筈もなく、暴力を振るう理由などあろう筈がないのだ。


「ぐへぇぐへぇ」


 小太りの男が発している笑い声も、既に人間の物ではないように聞こえる。そもそもあれが笑い声なのかどうかも怪しい。表情は変わらず、そこに笑みも怒りもない。只々、当たり前の事のように、彼は男子生徒を蹴り続けていた。

 そしてその蹴りが何度目か判断する私の脳が麻痺した頃、男子生徒は口から赤い物を吐き出す。口の中を切っているのか、それとも内臓を傷つけたのかは解らない。只一つ、あの男子生徒の身がかなり危険な状況である事だけは理解出来た。

 だが、私の足は動かない。私が冷徹な訳ではなく、彼を見捨てようと思っている訳でもない。私の意志はあの男子生徒を助けなければという想いを持っているのだが、足が動かない。息さえもしているかどうか定かではなく、視線だけがその暴力を捉え続けていた。


「神山……少しの間、大丈夫だよな?」


「え?」


 恐怖に縛られ続けていた私の身体が、一瞬緩む。とても静かで、とても柔らかく、とても温かな言葉。それを発した人間が誰かなど直ぐに理解出来る。だが、その言葉の内容だけは理解出来なかった。いや、正確に言えば、私がその言葉の意味を理解する事を拒んでいたのだろう。

 この恐怖の中で一人にして欲しくはない。この恐怖の中に置いていかれたくはない。それは、本能などではなく、一人の人間としての我侭なのかもしれない。それでも私は見上げた先にある丑門君の顔を見て何度も首を横へと振った。

 そんな私に軽く笑いかけた彼は、私の頭の上に手を置き、数回軽く叩く。緊張と恐怖で強張っていた私の身体は、その瞬間だけ『ふっ』と力が抜けていた。私の視界が瞬時に広がり、廊下に残った生徒達が端の教室の前で震えている姿が見える。その視界の端に小太りの男が右手に持つ刃物を振り上げる姿が映り込んだ時、私の目の前にあった背中が消えた。


「うらぁ」


 小太りの男が刃物を振り下ろすよりも早く、丑門君が放った前蹴りが小太りの男の横っ腹に突き刺さる。駆け出した助走分も加わっている分、吹き飛ばされるのではと思ったが、丑門君の蹴りを受けて尚、その男はその場に立ち続けていた。

 そのまま標的を変えた男は、振り被った刃物を丑門君に向けて振り下ろす。刃物が突き刺さる寸前で身を交わした為、彼の身体に刃物が突き刺さる事はなかったが、場所を移した彼のワイシャツは切り裂かれ、血が滲むように広がっていた。

 小太りの男は、身体を切り裂いた事で丑門君への興味を失ったのか、再度倒れ伏す男子生徒に向かって刃を振り上げる。そして、今度は間髪入れずに、その刃物を振り下ろした。


「ひっ」


 無責任にも私は目を瞑ってしまった。

 だが、私の予想と反し、聞こえて来たのは男子生徒の悲鳴でも、肉に突き刺さる音でもなく、刃物が何かに弾かれたような乾いた音だけ。恐る恐る目を開くと、廊下を形成するタイルに刃物を突き立てた男の姿と、息を切らせながら、男子生徒の腕を持つ丑門君の姿があった。

 咄嗟に倒れている男子生徒の腕を引き、自分側に滑らせたのだろう。学校の床のようなタイル式の物でなければ出来ない事ではあるが、そんな咄嗟の判断がこの状況で出来る丑門君の異常さが際立つ行動であった。


「……弱い者狙ってんじゃねぇよ」


 その声を聞いた瞬間、先程まで私を縛りつけていた恐怖など生易しいと感じる程の息苦しさに襲われる。地獄の底から響くような声と比喩れる物があると云うが、その声こそが正しくそれであった。

 恐怖に竦み、足が震える。無意識に瞳から零れ落ちる涙が床に落ちた時、そんな自分の感情とは別の物が湧き上がった。それは胸の奥というべきか、それとも頭の奥というべきかは解らないが、私の身体の奥底からその感情は溢れ出す。

 それは『歓喜』。

 全身全霊の喜びと、それを迎えた事への祝辞。

 そんな物が口を吐いて出て来そうな押さえ切れない感情が私を包み込む。それでも足は動かず、歯は噛み合わない。『カチカチ』と不快な音を立てながらも、私の瞳は喜びに満ちてその姿を見ていた。

 この町から忌避され、この町の全てから恐れられるその者の姿を。


「ギシャギシャ」


「何言ってんのか解んねぇよ!」


 奇声のような声を上げた男は、丑門君を敵として認識したのか、その刃物を再度持ち上げるが、それよりも早くに彼の拳が男の顔面に突き刺さる。だが、男は顔を仰け反らせるだけで、そのまま刃物を振り下ろした。

 再び赤い血液が宙を舞う。苦痛の叫びと、それを楽しむような笑い声。それでも丑門君は倒れている男子生徒の身体を滑らせ、小太りの男から大きく遠ざけた。

 彼が喧嘩のような事をする姿を、私は一度しか見た事はない。それでも彼のその雄としての強さは目を奪われるほどであった。あの時の男子学生も、同年代の学生の中では喧嘩慣れをした者達であったように思う。そんな学生達を四人も相手にしていた丑門君の拳は、容易く相手を殴り飛ばす程の威力を持っていた。

 『殴り飛ばす』である。彼に殴られた学生は文字通りブロック塀に吹き飛んだり、そのまま糸の切れた人形のように倒れている。目の前の小太りの男がプロレスラーや力士であれば話は別だが、とてもそうは見えず、先程といい、今といい、手加減なしの丑門君の攻撃を受けて、微動だにしないその姿は異常に見えた。


「ぐぼっ」


 小太りの男の異常性に目を奪われていると、丑門君の苦悶の声が耳に入る。状況を見れば、小太りの男が振るった刃物を持っていない方の腕が、丑門君の腹部に突き刺さっていた。

 黄泉醜女に操られていたのではないかと思える男子学生に殴られても、蹴られても、丑門君はここまで苦しんでいなかったように思う。だが、小太りの男に殴られた彼は、くの字に身体を曲げ、今にも座り込んでしまいそうな程に苦しみを漏らしていた。

 背丈格好からしても、それ程強靭な肉体を持っているとは思えないこの小太りの男の何処に、それ程の力があるのか理解出来ない。だが、身体を曲げた丑門君へ追い討ちをかける事なく、その男は丑門君の身体を退かし、視線を動かした。


「ひっ!」


 その視線の先は、私しかいない。

 必然的に目が合った私は、本能的な恐怖に縛られ、小さな悲鳴を上げる。だが、その声はとても小さく、息を呑むような音しか出ない。人間は、どうしようもない程の本当の恐怖に直面した際には、声など出す事は出来ないのだろう。

 一歩一歩その男が近付いて来る。その顔も、その瞳も、その口も徐々にはっきりと見えて来た。手には刃物、そこにはべっとりと血糊が付着しており、それを持つ手にも若干の血液が付着している。


『鬼に喰われてしまった者は、二度と人には戻れない』


 祖母の言葉が思い出される。この男が、この小さな町を混乱させた事件の犯人なのだろう。私を見る眼は、既に人間の物ではない。目は血走り、血走った白目はどす黒く濁り、黒目との境が解らなかった。口から牙を生やしている訳ではないが、半開きの口から漏れる息は、冬場に吐き出す吐息のように白く濁っている。この小太りの男は祖母の言う通り、鬼によって心を喰われてしまっているのだろう。小学生の服を切った時からなのか、それとも若い女性を刺し殺した時からなのか、もしかすると、それよりもずっと以前からなのかは解らないが、彼は最早、『人』ではないのだ。

 人を殺す事を快楽とし、その愉悦を忘れる事の出来ない者を、この世では『殺人鬼』と呼ぶ。それは正確には『鬼』ではないのかもしれない。『人を殺す鬼』という意味ではあるのだろうが、本来の『鬼』であれば、必要ならば『人』も殺すだろうし、『人』の肉を喰らう事もあるだろう。人間の身でありながら、心を鬼に喰われ、同種である人間を殺す事に喜びを見出した者を『殺人鬼』と呼ぶのかもしれない。


「アァァァ」


 よく解らない言語を発した殺人鬼は、私の目と鼻の先に顔を近づけて来る。死臭が漂うその身体と、吐き出される生臭い吐息に不快感を覚えるよりも先に身体が硬直したように動かなくなる。瞳だけが動く中、殺人鬼の後方で、先程斬り付けられた男子生徒が他の生徒達の手によって教室の方へ運ばれて行くのが見えた。

 あの男子生徒の身の安全に安堵する想いと、私の犠牲を良しとするこの学校の生徒達への怒りがごちゃ混ぜになるが、それ以上の恐怖が私の全てを覆い尽くして行く。私の身体は何かに羽交い絞めにされているように動かず、正面から掛かる殺人鬼の吐息の他に、耳元からあの声が聞こえて来た。


『さぁ、黄泉路へ……』


 一度、黄泉に魅入られた者は、そこから逃れる事は出来ないのかもしれない。私はもう黄泉の国への入り口を開いてしまい、そこに片足を突っ込んでしまったのだ。あの時、二の鳥居で消滅したかに見えた黄泉醜女のあの目は、私を黄泉の国に必ず落とす事の決意の瞳だったのだろう。

 何故、鬼気に触れた八瀬紅葉という女子生徒ではなく、その対象となった私なのかが解らない。だが、私の直ぐ横に、黄泉へと続く坂道の入り口がある事だけは確かであった。おそらく今の私の身体は、黄泉醜女によって掴まれているのだろう。二の鳥居の先に踏み込み、神気によって身を滅ぼした黄泉醜女には、自ら私を黄泉へ引き摺り込む力はないのかもしれない。故にこそ、私を黄泉へ送る役目を、目の前の殺人鬼に託したのだ。


「クフックフッ」


 目の前の殺人鬼が笑っているのか、咳き込んでいるのかも解らない。それでも私の肩に伸ばされた手が私を黄泉へと導く道標である事だけは理解出来た。

 肩に触れた殺人鬼の手は、制服越しでも解る程に冷たい。それはまるで死者であるかのようであり、血が通った人間の手とは明らかに別物であった。肩を握りこまれ、セーラー服が突っ張るように掴まれる。肉ではなく衣服を掴まれた為に身体に痛みはないものの、寸前に迫る濃密な死の香りが私の脳を麻痺させて行った。

 高らかに上げられる殺人鬼の右腕。廊下の窓から差し込む陽光が、その右手に握り込まれた刃物に付着する血脂を煌かせる。それが振り下ろされれば、その血脂は私の物と交じり合い、盛大な血花を咲かせる事だろう。花というべきか、華というべきか。私の血液は華々しくはないだろうから、花で良いのかも知れない。

 実にくだらない事が頭を過ぎる中、私の視界に映る殺人鬼の顔が涙で歪んで行く。ここに来て、死という物を受け入れる事しか出来ない事を悟った私の脳が、悲しみの涙を溢れさせていた。

 涙で歪む視界の中に、大きく暖かな手が映り込むまでは。


「弱い者を狙うなって言ってんだろ!」


 私の視界に入り込んだ歪んだ腕は、横合いから殺人鬼の顔面を握り込み、後ろへと引き摺り倒す。その力は、素人目から見ても、先程よりも力強く見えた。その証拠に、力によって無理やり引き摺り倒された殺人鬼は、私の肩口のセーラー服を引き千切り、盛大に廊下へと倒れ込んだ。

 既に夏服へと替わっている事もあるが、通常の人間の握力と圧力では引き千切る事など不可能に近い。それが、この殺人鬼と丑門君の力の異常さを物語っていた。

 肩口から引き千切られた事で、二の腕から胸元近くまでを覆う生地はなくなり、私は慌てて身体を抱くようにして手で隠す。先程までの恐怖と、殺人鬼との距離が離れた事で、力が抜けた私はその場で座り込んでしまった。

 臀部で感じる廊下の冷たさ、目の前で倒れ込んだ殺人鬼への恐怖、そして何より、その殺人鬼の髪を掴み、引き摺るようにして私から距離を取る丑門君の姿に、私は凍りついていたのだと思う。先程感じた理解出来ない歓喜は疾うの昔に消え失せ、全身が震える程の恐怖が私を包み込む。

 それは、丑門君へ刃物を振り回そうとする殺人鬼へではなく、その刃物さえも鬱陶しい蝿のように足蹴にする丑門統虎という一人の青年に対しての物だという事を、心の何処かで私は理解していたのかもしれない。


「グワァァァ」


 人ならざる者のような奇声を発する殺人鬼に臆する事なく、そしてその身体を起こす余裕を与える事もなく、丑門統虎という生物は殺人鬼を攻撃する。殺人鬼の左手に埋め込まれているのではないかと感じる程に離れる事のない刃物を避けながら、倒れ伏す殺人鬼の顔面を踏み抜いて行く。それは、見ている者を魅了する程に力強く、竦ませる程に恐ろしい姿であった。

 私がこの学校へ転校して来た初日に見た全てを飲み込む程に大きな影。教員の罵声に対してゆっくりと滲み出した闇。それが何度も殺人鬼の顔面を踏み抜く彼の背中から見えているような気がした。


「ぐっ」


 しかし、そんな彼の攻勢も長くは続かない。無闇矢鱈に振り回された刃物が彼の左足を切り裂いたのだ。黒い制服を切り裂き、その中にある肉体をも傷つける。それ程深い傷ではないのかもしれないが、皮膚を切られ、その内側を通る血管を傷つけられた彼の足から真っ赤な血液が噴き出した。

 白いタイル張りの廊下に、真っ赤な血花が咲く。痛みに耐えながら傷口を押さえる彼の手が即座に真っ赤に染まって行った。対する殺人鬼はその隙に立ち上がるが、その顔面は通常の人間が耐えられるとは思えない程に腫れ上がっている。何度も踏み抜かれ、頭部をタイル張りの床に打ち付けていた事もあり、後頭部の髪の毛は血によってべったりと張り付いていた。

 立ち上がった殺人鬼は即座にその右腕を振るう。既に新たな血を吸った刃物は獲物の味が忘れられないかのように、その相手の肉を切った。

 足を傷つけられ、素早い動きが出来なかった丑門統虎は、肩口を切られ、再び白いワイシャツに赤い染みを生み出す。


「……いてぇな」


 地獄の底から届くようなその低い唸り声を聞いた時、私は確かに見た。

 切られた足の傷から手を離し、悠然と立つ彼の傷跡から白い湯気のような物が立ち上っているのを。

 それは、傷ついた丑門君を私の家である神社で治療した時に見た物と酷似していた。彼の身体の内部から立ち上るようなその煙は、私が瞬きをする僅かな時間で消え失せ、それと同時に先程よりも数段濃い『死』の香りが漂い始める。

 恐怖ではない。畏怖でもない。この場にいてはいけないと思う程の絶対的な死の予感。それは絶望と称しても過言ではない程に、私の身体に浸透して行く。

 ゆっくりと振り被られた彼の拳は、周囲の恐怖と死臭を集約するように握り込まれた。座り込んだ私の身体の震えが治まる気配はない。僅かに廊下に残っていた生徒達も全員廊下に座り込むか、倒れこむかしている。そしてその全ての生徒達が例外なく失禁をしていた。


「あ……あ……」


 言葉を紡ぐ事など出来はしない。声が出ているのは、出したいと思って出している物ではなく、無意識の内に漏れてしまっている物。周囲の生徒達の失禁と同様に、自分の身体の制御が全く利かない為に起こった物であった。

 空が雨雲に覆われているとはいえ、未だに太陽が空にある昼間であるにも拘わらず、この場所だけは漆黒の闇に包まれているように感じる程に暗い。その中心にいる彼の姿しか見えなくなる程の闇の中で、引き絞られた弓が放たれた。


「ブヒョ」


 その音を言葉にする事は不可能だろう。

 少なくとも、私はこの音を生まれてから一度も聞いた事がない。

 何かが潰されたようであり、何かが折れたようでもある。何かが叩き壊されたような音でもあり、水を叩いたような音でもあった。

 彼の放った拳は、正確に殺人鬼の顔面を捉え、その身体は廊下の端へと吹き飛んで行く。先程まで、いくら彼が殴ろうとも、蹴ろうとも、びくともしなかった殺人鬼の身体は、重りが取れたかのように軽々と吹き飛び、廊下の窓の下にある壁に激突し、その衝撃で割れた窓ガラスが殺人鬼へと降り注いだ。




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