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日本書鬼  作者: 久慈川 京
第二章 殺人鬼
17/35

其の肆



 この数日間、町は平和を取り戻していた。

 殺人事件が起きてから一週間の時間が経過し、あれ以来は何事も起こっていない。だが、殺人事件の犯人は逮捕されていないし、その人物も特定されてはいない。だが、既に報道陣もこの町から撤退を終えており、TVでもこのニュースはほとんど報道されなくなっていた。

 事件から一週間という時間が短いのか、それとも長いのかという問いに対する答えを私は持ち合わせてはいないが、それでも、異常な程に熱の冷め方が早いような気もする。町全体も、報道の沈静化と比例するように落ち着きを取り戻し始め、歳若い人間になればなる程、当然のように外での活動を再開し始めていた。


「いってらっしゃい」


「いってきます」


 この日から、私達の通う高校も通常授業が再開され、祖母に見送られて玄関を出る。既に事件から一週間が経過している為、あの時に丑門君と交わした約束が有効である証拠はないのだが、私はあの時と同様の早い時間に家を出た。

 私自身、携帯電話を所持しているし、おそらく丑門君も持っているとは思うが、お互いに番号を交換している訳でもなく、家に直接電話をする程の仲でもない。故に、不確かな事ではあるが、何となくだが、今日も彼は一の鳥居の前で待ってくれている気がしていた。

 梅雨明けにはまだ早く、今日も『しとしと』と雨が降り続いている。雨は降れども、気温が下がる事はなく、蒸し風呂に入っているような不快な暑さの中、私は石段をゆっくりと下りて行った。


「おはよう」


「おはようございます」


 やはり、待っていてくれた。

 不思議な嬉しさが胸に湧き上がり、気温に対する私の不快指数は、一気に下降を辿る。彼のこの行動に対し、不快感や嫌悪感がなく、むしろ嬉しさを感じる辺り、私自身に何か変化があるのだろう。もし、去年まで通っていた学校の同級生の男子が、きっちりとした約束もなく、私の家の前で待っていたとしたら、私はとてつもない嫌悪感を覚えた筈だ。『気持ち悪い』とさえ感じたかもしれない。

 そう感じる事は、年頃の女性としては当然の事なのだと思う。私が笑顔で挨拶を返した事に対し、心なしか丑門君の表情に安堵の感情が含まれていた事からもそれが解る。彼もまた、自分の行動が迷惑になっていないか、不快に思われないかと考えていたのだろう。


「本日も、お役目ご苦労様です」


「……まだ町が何となく澱んでいるからな」


 そんな彼の不安を払拭する為に、私は精一杯の笑顔で頭を下げる。彼が私を迎えに来てくれるのは、善意なのだと思う。その必要性も義務も彼にはなく、転校してきたばかりの人間を気にかけるメリットも彼にはないのだ。

 それは彼の優しさなのだろうと思う。もしかしたら、本当に僅かばかりの下心はあるのかもしれないが、私がそれに気付かない以上、無いに等しい物であろう。現に、私は彼にとても感謝しているのだから。

 彼が言う、町の澱みに関しては、私は未だに解らない。黄泉醜女の事件の時には、学校に入りたくなくなる程に暗い闇に覆われたように感じたが、それが町全体となると、私には解りかねる案件であった。


「今年は長梅雨になりそうですね」


「それも影響しているのかな……」


 朝の天気予報では、梅雨前線は未だに本州に停滞をしており、その動きはとても遅いという事である。通常、7月の海の日の前には本州でも梅雨は明けるのであるが、今年はそれも怪しいと言われていた。沖縄の方でも6月下旬に差し掛かっているにも拘わらず、未だに梅雨明けの気配も見えていない。だらだらと続く雨は、人の心もどんよりと曇らせてしまうのだ。

 だが、私の桃色の傘と、丑門君の濃い青の傘が、朝早い登校路に咲く紫陽花のようであり、私の心は少し浮き足立つ。曇天の空模様とは裏腹に、何故か私の心は晴れやかだった。


「……酷いな」


「……これは私でさえも解ります」


 だが、そんな私の晴れやかな心は、僅か数分後に闇に覆われる事となる。

 私の背中越しに聞こえる丑門君の声に、思わず頷いてしまう程、私達が通っていた高校は様変わりしていたのだ。校門も、その奥にある校舎も、一週間前となんら変わりはない。だが、明らかに一週間前とは異なる雰囲気を持っていた。

 説明は出来ない。丑門君の言葉を借りるならば、『澱んでいる』としか言えない。空を覆う真っ黒な雨雲が、この高校にも覆い被さっているのではないかと思う程に暗く、校門の前に立つ私の肌に、以前感じた事のある物が纏わりついて来ていた。

 それは、あの時、あの坂で感じた空気と臭い。明確な『死』を表すそれが、徐々に私の身体へと付着して行く。振り払おうにも見えないそれは真綿のように私の身体を包み込み、私自身を再び黄泉の入り口へと誘っているかのようであった。


「駄目かもな、こりゃ」


「何がですか!? 何が駄目なの!?」


 私の後方で校舎を見上げていた丑門君が、何かを諦めるような呟きを溢す。まだ一ヶ月強しか付き合いはないが、彼がこのような弱気な発言をする事自体が初めてだった為、私の心の奥底に隠していた不安と恐怖が増幅されて行った。

 私の勝手な押し付けなのかもしれないが、彼は何事にも動じず、何事にも対処が出来る人間だと考えていた。黄泉醜女のような得体の知れない不可思議な物に対しても、それに迫られ、鬼のような物に変わってしまった同級生に対しても、彼はいつもと同じような感覚で接していたように思うし、狂気を宿した男子生徒に対しても毅然と迎え撃ったと記憶している。そんな彼が口にする『駄目かもしれない』の重みは、この一ヶ月の期間、この町の誰よりも接して来た私が一番感じる物だろう。


「神山……今日は帰った方が良い」


「何で!? 丑門君には何が見えるの!?」


 続いて口を開いた彼の言葉に、私は更に驚く事になる。ここまで来て『帰れ』という事は、本日は学校を休めという事と同意である。それ程までに切迫した状況である事を示唆しており、私自身の心もまた、その言葉に呼応するようにざわめき始める。

 私のような繊細で、弱く、慎ましい女性を怯えさせる発言をこの場でする彼に対して、私が文句を言えない程に彼の表情は険しかった。それこそ、校舎を睨む彼の表情は、背筋が凍りつくほどに冷たい物であり、二の句を繋げる事さえも拒否している。


「ちっ」


 震える足で後方にいる彼の近くへ戻った私の耳に盛大な舌打ちが響いた。その音源へ視線を向け、彼が見つめる視線の先へと目を移した私は、そこに広がる光景に絶句する。

 そこに見えるのは、まだ生徒達の姿もない校門。だが、鉄の引き扉が半分ほど開かれた校門は、私の知るそれとは根本的な何かが異なっていた。黒いペンキで塗られた鉄の引き扉は、見た事もない筈の地獄の門を連想させる。いや、正確に言えば、あの時見た黄泉比良坂の入り口を思い出させた。


「……う、丑門君」


「……」


 あの恐怖を思い出し、救いを求めて隣に立つ彼へと視線を送った私の目に映ったその表情は、私が求めていた物でも、想像していた物でもなかった。

 驚愕と言っても過言ではない程に、彼の瞳は戸惑いと驚きに満ちている。その瞳が私を射抜いていた。いや、これも正確ではない。正確に言えば、その瞳は私の後ろを見ているように思えた。

 そう考えた私は壊れたブリキ人形のように後方へと顔を向けるが、当然のようにそこには誰もいない。一気に押し寄せてくる安堵と、再び私を怯えさせた彼への怒りは、一瞬にして弾け飛んだ。


『黄泉へ……』


 聞き取れた言葉はその一言のみ。それでもそれは私の耳というよりも脳へと直接響いて来る。忘れたくとも忘れられないその声は、心の奥へと引いて行った恐怖を急速に引き戻して来た。

 身体の芯から冷えたように全身が震え、気温などを無視するように歯が噛み合わなくなる。カチカチと不快な音を歯が鳴らし、自分の身体ではないかのように、膝は言う事を聞かない。持っていた桃色の傘は地面に落ち、身体の震えを抑えようとする両手も小刻みに震えており、それと共鳴するように身体の震えも大きくなって行った。


「……まずは教室へ行こう」


 そのまま倒れ込みそうになる私の身体を大きな手が支えてくれる。その手の持ち主を見上げると先程までの表情はそこにはなく、落ち着いた声が聞こえて来た。

 彼のその声に、その表情に、何故か心が震える。それは理性ではないだろう。私の中にある本能の何処かが、彼の何かに共鳴しているのだ。だが、それは余りにも不自然で余りにも急激な物である。何処か自分の感情ではない事を私自身が理解しているようでありながら、何故かそれを自分の心の震えだと認識する。そんな不思議な感情であった。


「で、でも……帰らないと」


「ごめん、神山。たぶん、もう無理だ」


 力の入らない足は、本当に地面を踏んでいるのかさえも怪しくなる程に感覚がない。それでも丑門君の支えで何とか立っていた私は、二言三言前の忠告に従おうと言葉を漏らすが、それは悲痛な彼の表情と共に否定された。

 何故、彼が謝罪するのか。何が無理だというのか。その全てが私には理解が出来ない。だが、あの事件から1ヶ月という時間の間、一度も感じた事のないあの死の臭いが私の周囲に充満し始めている事だけは理解出来た。まるで、私の心にトラウマとして残る、あの恐ろしい裸婦が再び傍にいるような感覚さえもある。黄泉へと続くあの坂が今にも目の前に現れそうな程の死臭が私達を取り巻いていた。


「ちっ」


 そんな私達の横から盛大な舌打ちが聞こえる。何時の間にか私達の横を生活指導の教員が通り過ぎ、校門へと向かって歩いていた。

 擦れ違いざまの視線と、それに合わせての舌打ち。あの視線は丑門君だけではなく、私へも向けられていた。既に厄介者のレッテルを貼られていた私ではあるが、あそこまでの嫌悪を剥き出しにされた視線を受けたのは初めてである。この町で起きた事件によって学校が休校する一週間前は、まだあのような視線を向けられてはいなかった。

 この一週間であの教員の心境に何か大きな変化があったのか、それとも私自身に何か悪い変化があったのかは解らないが、昇降口へ続く道で抱き合っているようにさえ見える生徒に向ける視線ではない事だけは確かであった。


「歩けるか?」


「あっ、はい」


 教員の視線に驚き戸惑った私とは異なり、丑門君には日常茶飯事の事だったのだろう。彼は校門へと向かって歩く教員の背中を一瞥する事もなく、私を気遣う。そんな丑門君を見て、私は嬉しいというよりも、何故かとても哀しくなった。私の心の一部が嬉しいという感情を吐き出しているのだが、それよりも哀しさの方が強い。だが、何故かそれこそが本当の私の気持ちだと思った。

 彼にとって、既にこの学校の教員は意識の外にあるのだろう。最早、生物として認識しているのかさえ曖昧である。学校という箱の中で蠢く何かというのは言い過ぎなのかもしれないが、彼にとって誰からも嫌がられるあの黒光りする虫よりも劣る物として認識しているようにしか見えなかった。


「……今日は出来る限り教室から出ない方が良い。帰りも送るよ」


「ありがとう」


 昇降口から校舎内に入ると、私は自分の呼吸がしっかり出来ているのか怪しくなる程の圧迫感を感じた。それを死臭と言えば良いのか、それとも澱みと言えば良いのかは解らない。ただ、一刻も早くここから逃げ出したいと思う程、この場所は嫌な場所であった。

 特に、昇降口から階段までの一階部分はその圧迫感が強く、一歩足を出すごとに体力が奪われて行く。まるで毒沼にでも足を踏み入れたかのように、階段を上り切る頃には体力を根こそぎ奪われていた。

 じっとりと汗を掻き、前髪が額に張り付いている。一階部分よりは教室のある二階部分の方が幾分かは圧迫感が薄くなっているのだが、それでも教室の自席に着席する頃には、精根尽き果て、ぐったりと机に突っ伏してしまった。


「何か飲むか?」


「……大丈夫です」


 机に突っ伏したままの私へ気遣いの言葉を掛ける丑門君に対しても対応が出来ない程に憔悴した私の耳に、徐々に騒がしい生徒達の声が聞こえて来る。いつの間にか登校時間を迎えており、聞こえて来る生徒達の声が若干弾んでいる事に私は驚いた。

 一週間の臨時休校というのは、毎日同じ行動をしている学生にとっては非日常的な物であり、それによって心が浮き立っている事は想像出来るが、この校舎内の空気を感じれば、そのような感情を持てる事が私には信じられない。むしろ、他の生徒達はこの死臭や澱みを感じていないのではないかとさえ思った。


「おはよう」


「久しぶり」


 次々と教室へ入って来る生徒達の顔は、しとしとと降り続ける雨とは裏腹に晴れやかである。それもまた、私には信じられない。私には、この校舎内の方が、外の雨雲よりも暗い何かに覆われているようにしか感じられないのだ。何故笑えるのか、何故談笑できるのか、何故楽しそうに出来るのか。そんな疑問がぐるぐると頭を回る内に、無性に教室内に増えて来る能天気な生徒達が苛立たしくなって行った。

 鬱陶しい、馬鹿らしい、不快だ。様々な負の感情が私の心を満たして行く。それは私の本当の気持ちなのだろうか。これまで他人に対して、自分に危害さえ加えられなければ、どれだけ騒ごうと、どれだけ五月蝿かろうと、何の感情も持つ事はなかったのに。この学校に転校して来てからの私は、何かが可笑しいように感じていた。


「皆さん、席に着いてください」


 何か解らない感情の行き場を探している内に、教室内に担任の女性教員が入って来て、そのままホームルームが開始される。私語が飛び交い、騒がしさが静まる中始まったホームルームは、結局一度も静寂にはならず終わりを迎え、そのまま一限目の授業に突入した。

 未だにこの町で起きた事件が解決された訳でもなく、その犯人が特定された訳でもない。それでも当事者でなければ、時間の経過と共に事件は風化し、忘れ去られる。この教室に亡くなった女性の関係者はいないのだろう。非日常から日常に戻された事に対しての不平不満は出るものの、何かに怯えたように授業を受ける人間は私以外には誰もいなかった。


『ふふふふ』


 授業中に何処からか聞こえて来るその笑い声は、この教室に居る誰も気付かない。私だけにその声は地の底から響く低く暗い物のような、それでいて私の頭の中だけに届いている甲高い声のような不可思議でありながらも不快な物であった。

 だが、一つ言える事は、その声を私は何度も聞いた事があるという事。この身に染み込み、恐怖と共に植え付けられたその声は、時間が進むと共に私の怯えを強めて行く。手が小刻みに震え、黒板の文字をノートに書き取る事も出来ない。そんな私を嘲笑うかのように、再びその声が耳に入って来る。


「では、今日はここまで」


 年老いた古文の教員が終了を宣言すると同時にチャイムが鳴り、本日の午前中の授業全てが終了した事を示した。

 教員が教室を出たと同時に、学食や購買に向かって走る者達が後方の扉を開けて廊下へと駆け出して行った。お弁当を持って教室を出て行く者もいて、教室は徐々に人が減って行く。何故かこの日は、お弁当を取り出す気力もない私と、元々食事をしているのかも解らない丑門君の他には数人の人間しか教室に残らなかった。その僅か数人も、私達の席からは遠く離れた前方の席で固まってお弁当を食べている。今日は祖母のお弁当を丑門君に渡してはいないので、彼は未だに雨が降り続ける窓の外を眺めていた。


「食欲が湧かないので、代わりにお弁当を食べて貰えませんか?」


「身体に悪いぞ、食べろよ」


 授業が終わった辺りから、声が聞こえなくなった代わりに耳鳴りがするようになり、それに併せて頭痛にも襲われるようになった私は、とてもではないが弁当を食する気分にはならなかった。おそらく、今、何かを口に入れても、即座に戻してしまうだろうし、それは折角作ってくれた祖母に対して申し訳がないと思い、丑門君へ声を掛けたのだが、彼は周囲を気遣うように小声でそれを断った。

 何となく断られるような気もしたのだが、本当に食事をする気力もない為、鞄からお弁当箱を取り出す作業だけでも億劫であり、それを成した以上は彼に食べて貰わなければならないのだ。彼の机の上にお弁当を置き、そのまま机に突っ伏した私の耳に、小さな溜息が聞こえる。その溜息から暫く経った頃、ようやくお弁当箱を開ける音が聞こえて来た。


「……神山、大丈夫か?」


 頭の痛みを堪え、未だに鳴り続ける耳鳴りを抑え込むように目を閉じた私の耳に、彼の声が届くが、それに答える事さえも難しい程、私の身体は何かを拒絶するように抵抗していた。

 正直言えば、眠ってしまいたかった。眠る事によって、この痛みも苦しみも忘れてしまいたかったのだ。だが、そんな自分自身の気持ちとは裏腹に、脳も目も冴え、教室の中だけではなく、廊下の音やトイレの音までも聞こえて来るような錯覚に陥る。


「……もう帰りたい」


「……気持ちは解かるが、まだ駄目みたいだな」


 顔を上げる事もせず、机に突っ伏したままの私の発言にも彼は律儀に答えを返してくれた。だが、それはお世辞にも嬉しい返答ではなく、むしろ私の憂鬱を増加させる物に他ならない。彼が言う『駄目』とは、まだ授業が残っているという当たり前の理由ではないだろう。おそらく、校門で彼が口にした『無理』という単語に関係する理由なのだと思う。先程の恐怖が私の胸に甦り、頭痛の激しさが増した。

 余りの頭痛に目を開いている事が出来ず、もう一度目を瞑るが、それさえも許さないというように、突如として吐き気が私を襲う。昼食は口にしていないが、朝食はしっかりと食べて来た事が災いしたのか、一気に胃から込み上げて来た為、私は瞬時に席を立ち、全速力で女子トイレへと駆け込んだ。


「……只の風邪なら良いのに」


 汚物を流し終え、個室から出た私は、洗面所で手を洗い、口を濯ぐ。胃の中の物を全て吐き出した事で幾分か頭痛が和らいだが、それでも全快という訳ではない。そして、この症状が風邪のような病気ではない事を誰よりも私が一番理解していた。

 この学校に来てからというもの、私は不可解な事件に片足どころか胸付近まで踏み入れてしまっているのだろう。恐怖がないとは言わないし、どうでも良いとも思っていない。ただ、心の何処かで『またか』という達観にも似た想いがあるのだと思う。


「ひっ!」


 口を濯ぎ終えた私は、そんな諦めにも近い想いを持ちながら顔を上げる。そして必然的に洗面所の前に有る物に視線を移すのだ。そして悲鳴を上げた。

 そこにはあの女が居た。

 ちょうど私の左の肩口付近に、黄泉醜女は立っていた。

 私の視界の全てはモノクロの世界へと切り替わる。

 位置的には私の背面。だが、私との距離は限りなく零に近い。油分のない髪を垂らし、歪んだ口元だけが見えるその顔を、大きな鏡越しに私は見てしまった。

 人間、本当の恐怖に陥った時には動けない物なのだという事を初めて知る。手や足は勿論、鏡を見つめる目を動かす事も、助けを呼ぶ為に口を動かす事も出来なかった。只々、鏡越しに私を見つめる黄泉醜女の姿を見る事しか出来ない。声を出す事は出来ないのに、歯だけが噛み合わずに『カチカチ』と不快な音を鳴らしていた。

 徐々に黄泉醜女の顔が動くのが見える。その口元を私の耳元へ近づけて来た時、あの声が聞こえた。


『……来た』


 噛み合わない私の歯の音を掻き消すように頭の中に響いたその音を理解した瞬間、先程まで制御が聞かなかった口元の震えが止まる。まるで別次元から帰還したかのように、瞬時に色を取り戻した私の視界の中に、黄泉醜女の姿は無かった。

 洗面所の鏡の中に、振り返った後ろにも、その姿は何処にもなかったのだ。

 先程まで時が止まっていたように抑え込まれていた恐怖が湧き上がり、女子トイレから飛び出した私の視界に、彼の姿が移る。女子トイレから少し離れた廊下の窓側で心配そうにこちらを見ているその姿は、本来ならば私を安堵させる物なのかもしれない。だが、何故か、この時の私は彼が怖かった。


「……来た?」


 まるで初めてこの学校に来た時のような黒い影を纏った彼の姿は、何処か切羽詰った物であり、それは私の心の奥にある生物としての本能的な恐怖を呼び覚まさせる。それと同時に、先程の不可思議な現象と、私の恐怖の対象その一である黄泉醜女が発したであろう言葉を思い出す。

 何が来るのか、何が来たのか。その主語が何もなかった。もしかすると、彼がここに来た事を意味していたのではないかとまで考えた私は、ここ一ヶ月の出来事に恐怖する事になる。

 確かに私はこの学校に来てから不可思議な出来事に遭遇するようになった。命の危機にも何度も遭っている。空想の中でしかいないような世界、存在にも遭遇した。

 その全ての出来事に、彼もまた存在している。


「こ、来ないで……」


 女子トイレの前で呆然としている私を心配したのか、それとも別の理由があるのか、廊下にいた彼がこちらへとゆっくりと歩き出す。押し寄せて来る恐怖に私の足は竦み、搾り出すように出した拒絶の声はか細く震えていた。

 彼が何者なのかを私は知らない。ここ一ヶ月で知った気になっていたが、私は何も知らないのだ。それが急に恐くなった。パニックに近い状態で首を振り続ける私と彼の距離が縮まって行き、それに比例するように、私の頭痛の激しさが増して行く。これ以上、彼との距離が縮まれば、私は座り込み、気を失いかねないと思う程に頭の痛みが増して来た。


「きゃぁぁぁぁぁぁぁ!」


 飛ばし掛けた私の意識を強引に引き戻したものは、私の意地でもなく、彼の声でもなく、階下から響いて来た大勢の女生徒の叫び声であった。




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