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日本書鬼  作者: 久慈川 京
第二章 殺人鬼
16/35

其の参




 あの日から、地方の静かで小さな町は急激に騒がしくなった。

 この時代、人知れず行方不明になる人間など数え切れない程いるだろうし、それが死亡という結果に繋がる事も多いだろう。だが、明確な殺人事件となれば、やはり日本全国的にニュースとなり、マスコミなども多数取り上げる。現代の日本であれば、次から次へと出て来る多数の事件により、直ぐに埋没してしまう事になるかもしれないが、少なくとも数日は、この町をマスコミの車が行き来する事になる筈だ。

 あの日の夜、学生のいる家庭には案の定緊急連絡が回った。騒ぎが一段落着くまでは休校という連絡である。どの程度で一段落なのかと問われれば、誰もが答えに窮するだろうが、現代の優秀な日本警察であれば、犯人など直ぐに見つかり逮捕されると考えての結論なのかもしれない。

 だが、そんな教育委員会の目論見は当てが外れ、あの事件が起きてから数日が経過してしまっていた。


「ふぅ」


 休校になったとはいえ、何も考えずに出歩くような状況でもない為、私は自分の部屋で参考書とノートを開いて学習をしていた。

 やはり、大学には行きたいと考えているし、そこへ進むのであれば、地方の田舎町にある高校での授業だけでは足りない事は明白である。既に高校二年となり、残り一年半の学生生活の中で、大学受験に必要な基礎学力は備えていなければ話にならないだろう。

 少子高齢化が進み、昔よりも大学進学は難しくなくなったとはいえ、それなりに名の通っている大学となれば狭き門である事実は余り変わらない。私は昔から古典文学に多少なりとも興味を持っており、祖父母の家が神社と言う事もあってか、日本神話などは好きな部類に入る。そういう関連の学部で勉強したいという想いもある為、一応は志望校も漠然とながらもあったりしたのだ。

 それに、やはり先月の定期試験の結果が悔しい。丑門君に負けた事が悔しいというよりも、あれ程に勉強していない態度を装っている彼よりも順位が下だった事が悔しいのだ。まぁ、やはり丑門君に負けた事が悔しいのだろう。


「喉が渇いた」


 時計を見ると既に正午近くになっており、朝の八時から机に向かっている事を考えると、四時間近く頭に詰め込む作業をして来たという事だ。暗記物ばかりではなかったとはいえ、知識の復習と新たな知識の収集をする作業である為、思いの他集中していたのだろうし、考えていたよりも疲れていた。

 今日は終了と自分に言い聞かせ、机の上を片付けた私は、既に昼食の準備を終えているであろう居間に向かって歩き出す。居間に近づくにつれ、テレビから流れる音が明確に言葉となって聞こえて来た。

 内容はここ数日一緒である。未だに犯人の情報が乏しい。犯人を特定する事も出来ておらず、その風貌や性別、足取りさえも解らない。殺人事件の被害者となった歳若い女性とその家族達には申し訳ないが、事件当初は通常通りの殺人事件の報道であったマスコミも、数日間犯人の情報が全くないという状況によって憶測を含む勝手な報道を始めていた。

 曰く、快楽殺人者だ。曰く、既に日本にはいないのではないか。曰く、何処かで静かに次の犯行機会を狙っているのではないかなど、有名な学者を交えての話となっていた。更には、海外の犯罪者である『切り裂きジャック』になぞらえる者も現れ、もっと酷い物になると、鎌鼬のような人外の怪奇現象説まで飛び出す始末である。


『今も尚、事件現場周辺の学校は休校が続いて下り、住民は不安な日々を過ごしております』


 既に昼近くになっても、このニュースを流されている。余程、日本が平和で他に何も伝えるべき物がないのか、それともこの町で起きた事件が特別なのかは解らないが、事件から数日が経過しても、この事件に関する報道の熱は冷めていなかった。

 居間で昼食待つように座っていた祖父が、私が入って来た事で軽く微笑を見せる。常に厳格な祖父ではあるが、昔から私にだけはとても柔らかな表情を見せてくれた。小さな頃、そんな祖父の表情を見た私の父が、『父さんの笑顔なんて初めて見た』という程であったのだから、孫という存在は祖父にとっても特別な物だったのだろう。


「余り外には出るなよ」


「うん。おばあちゃんが買い物に行く時は手伝うけど」


 私も座った事を確認した祖父は、少し表情を引き締めて注意を促す。心から私の身を案じている事が解るその言葉は、すんなりと私の胸に落ち、即座に頷きを返す。

 だが、私達も人間である以上、水だけでは生きていけない。神社に畑がある訳もなく、自給自足が出来ない為、駅前の商店街に行って食料品などを買わなければならなかった。神主である祖父が神社を離れる訳にも行かない為、やはり買い物は祖母の役目となり、私という一人分の買い物が増えた以上、私も手伝うのが当然であろう。

 ただ、私も祖母も女性であり、刃物を持った相手に立ち向かう事など出来はしない。そう考えると、祖父が反対するのではないかと思った私は、伺うように祖父へと視線を送った。


「おばあちゃんが一緒なら大丈夫だ」


 だが、そんな私の心配とは正反対に、祖父は柔らかな笑みを浮かべる。それは、私自身が浮かべた事のある、絶対的な信頼を基にした微笑だった。

 私としては、祖父の言うように祖母と一緒であれば安心しかないが、その感情を祖父も持っているという事に驚き、不思議に思ってしまう。

 こう言っては何だが、祖父は古風な男性である。厳格な父であり、夫であるように見えるし、実際、家の中では亭主関白であった。炊事は全て祖母が行っているし、掃除や洗濯も祖母の役目である。そういう古風な男性である祖父から、祖母への素直な信頼の言葉が出る事が正直意外であったのだ。


「どうして?」


「おばあちゃんには、災いが寄り付かないからな」


 だが、それを問いかけた私への祖父の返答は、私を更に混乱させる。その言葉の意味は解れど、理由が全く解らない。『何故』という疑問ばかりが私の頭の中を飛び交い、テレビから流れるニュースさえも頭の中に入らない程に満たしていった。

 疑問符が顔にまで出ていたのだろう。祖父は珍しく声を出して笑っていた。


「どうしたの? 随分楽しそうね」


 祖父が私の困り顔を見て笑うが、その笑いは不思議と不快にはならない。これが、丑門君が相手であれば、私は絶対に『むっ』と怒りを示した筈である。珍しく笑い声を上げる祖父の声に反応した祖母が、お膳に昼食のうどんを乗せて台所から出て来た。

 ほかほかと湯気を上げるどんぶりの中には、醤油ベースの汁を泳ぐ太目のうどんが見える。具は簡素な物で、絹さやに大きな油揚げ、かまぼこにゆずの皮が乗せてあった。温かい湯気は香ばしい醤油の香りにゆずのさわやかな香り加わり、更に食欲をそそる。

 祖父も私と同じ気持ちなのだろう。既に笑いは止み、食事の体勢に入っている。その姿に今度は私が噴き出す順番になってしまった。くすくすと笑い声を上げる私を微笑みながら見つめていた祖母は、自分の分のどんぶりを置くと、ゆっくりとした動作で腰を下ろす。それが合図となり、祖父と私の食前の挨拶の声が重なった。


「深雪ちゃん、お勉強はお終い?」


「うん。今日の分は終わり。何かあれば、お手伝いするよ」


 うどんの茹で加減が良いのだろう。つるつると口に入るうどんは、とても美味しかった。大きな油揚げも、しっかりと出汁が染みこみ、先に甘く煮込んでいる為、染み出す出汁もほんのり甘く、噛み締める度に頬が緩む。やはり、祖母の料理は魔法のようであった。

 祖母の魔法に罹り、笑顔が零れたまま、私は祖母へ返事を返す。元々祖母を手伝うつもりではあったが、今ではその気持ちも強くなっている。それは、祖母の魔法の影響なのかもしれない。もし、手伝いをするつもりが微塵もなかったとしても、このうどんを食べてしまえば、手伝おうという気持ちが湧き上がって来ていただろう。やはり、私の祖母は不思議な人であった。


「じゃあ、お昼の片づけが終わったら、お買い物に行きましょう。今日の夜ご飯は何が良いか、それまでに考えておいてね」


「何でも良い……は、駄目だよね?」


 祖母の手伝いは買い物の荷物持ちだけだと思ったが、意外な難題が与えられる。私としては、祖母が作る物ならば何であれば笑顔で美味しく頂けるのだが、全てを祖母に委ねるという選択肢は、祖母の表情を見る限りは許されないようであった。

 夕飯の献立を考えるのは難しい。自分が食べたい物を考えるだけなら良いが、一緒に食べる人間の事も考えれば、安易に決める事が出来ないだろう。私自身の好みが和食寄りになっている為、祖父母と合わないという事はないだろうが、それでも悩まされるものだ。


「ご馳走様」


「はい、お粗末様でした」


 うどんを啜りながら悩んでいると、祖父が昼食を取り終え、食後の挨拶を済ます。それに対する返答を祖母が口にした。私は、この家のこういう所が好きである。祖父は必ず、食後に祖母へ感謝の言葉を告げていた。それは簡素な言葉であるし、当たり前の言葉なのであるが、その短い言葉の中に、祖父の気持ちがしっかりと詰まっている事がはっきりと解るのだ。それに対する祖母の笑顔と言葉も、気持ちがとても温かくなる物で、お互いがしっかりと気持ちを通じ合わせている事が解る。だからこそ、私はこの家の食卓が好きなのだと思う。

 食べた食器を祖父が片付ける事はない。それでも短い食後の挨拶の中に『美味しかった』という気持ちが詰まっている事を感じる為、祖母の中ではそれでも良いのだと思うのだ。


「美味しかったぁ。ご馳走様でした」


「喜んでくれて良かった」


 私が箸を置いて食後の挨拶を口にすると、祖母は嬉しそうに微笑み、食後のお茶を入れてくれる。温かなお茶は湯気が立ち上り、口に含むとほんのりとした香ばしさを持ったほうじ茶であった。

 私がお茶を口にして頬を緩めていると、付けっ放しになっていたテレビから、再びこの町で起きた事件のニュースが流れ始める。容疑者の名前も顔も解らず、それが本当に人間かも解らない。そんな恐怖心だけを煽るような報道なのは、この町に縁のある人間が、製作に絡んでいない為であろう。

 特段興味を引いた訳でもないが、耳に入って来る音源へと私が視線を向けると、それに合わせて祖母もまたテレビへと視線を移した。


「可哀想にね……。被害に遭った人は勿論だけど、きっとこの犯人の人は鬼に喰われてしまったのね」


「え?」


 テレビの画面には、ちょうど被害に遭った女性の顔写真が映し出されており、それを見た祖母は悲痛な表情を浮かべる。祖母の同情を示すような言葉には、私も心から同意するし、本当に無念であったろうと思う。

 被害に遭ったのは、二十代前半の女性であった。大学生だったようで、駅から自宅へと歩いて帰る途中で襲われたようである。後ろから胸を鋭利な物で一突きに刺されたという報道がされており、包丁のような刃物を犯人は所持しているという事であった。

 未来ある大学生。恋愛も勉強も将来の夢もあった事だろう。犯人がどのような人物なのかは解らないが、先日の小学生の服を切り裂いた者と同一犯人であるならば、おそらく怨恨などの理由で殺された訳ではなく、本当に無差別な殺意によっての犯行なのだと私は考えていた。

 だが、祖母が口にした言葉は、そんな理不尽極まりなく、身勝手な犯人に対する同情も含まれていたのだ。それが私にはとても大きな衝撃を齎す程の驚きであった。


「……鬼に喰われる?」


 祖母は、誰に対しても寛容ではあるが、決して犯罪を許すような人間ではない。身勝手な理由や理由などもない理不尽な内容で他人の未来や命を奪う人間に同情するような人間ではないし、むしろそういう行為等に対しては本当に厳しい人であった。

 私も小さな頃に一度祖母に怒られた事がある。その時は人様に迷惑を掛けるような事をしてしまったのであるが、細かな内容は省こう。あの時の祖母は、それはそれは恐かったものだ。


「深雪ちゃん、鬼は常に人と共に有るの。他人を恨む気持ち、他人を嫌う気持ち、そして自分自身を嫌う気持ちが大きくなれば大きくなる程、人と鬼との距離は縮まってしまう。人の心は弱く、大きくなった気持ちは現世に鬼気を呼び込み、それが鬼の道を作り出してしまうのよ」


「鬼って……」


 私の疑問に対して祖母が語った内容は、子供に聞かせるような内容の話であり、それは御伽噺を聞いているような物であった。

 この科学が発達した現代で、『鬼』などという存在を大真面目に語られて、素直に受け入れるような人間は誰も居ないだろう。だが、何故か私は、祖母の言葉に呑まれていた。

 それは、先日の出来事があったからなのかもしれない。あの時私は確かに黄泉醜女を見た。アレを黄泉醜女だと思っているのは私だけかもしれないが、あの時の祖母もまた、アレを黄泉醜女だと断定して話していた傾向がある。だからこそ、そんな祖母が口にする『鬼』という存在を私は受け入れてしまったのかもしれない。


「鬼に心を喰われてしまった者はもう二度と人には戻れない。鬼にも成れず、人にも戻れず、現世と黄泉を彷徨い続ける事になるの」  


 私は言葉を紡げなかった。

 祖母が話す内容を理解出来たかと言われれば、正直全く理解出来ていないだろう。それでもその中にある何かが、私の心に深い杭を打ち込んでいた。

 『黄泉』という死者の世界。現世とは私達が生きる世界。その狭間で彷徨い続ける事になる存在とは、どのような者なのであろう。祖母は、それを『鬼』とは称しなかった。それは鬼によって心を喰われた者であり、鬼ではないのかもしれない。


「深雪ちゃん、他者を羨む事は正しい事。他者を羨み、励み、前へ進むのが人。でもね、他人を恨んでは駄目。他人を憎んでは駄目。恨みは恨みを、憎しみは憎しみを呼ぶ。そして、その傍には必ず、鬼が現れてしまうから」


 祖母の表情はとても真剣であった。いつものような優しい笑顔ではなく、いつものような温かな物でもなかった。それが私の恐怖心を誘う。

 もし、目の前に居る祖母が、通り魔によって傷つけられたとしたら、私は間違いなく、通り魔を恨み、憎むだろう。その復讐を果たすまで走り続けるに違いない。だが、その復讐を果たした時、私は本当に人のままなのだろうか。今回犠牲になった女性の親族や恋人は、今もまだ人のままなのだろうか。そう考えてしまった。

 他人がこの会話を聞いたら、噴き出してしまうかもしれない。こんな年齢になって、何を馬鹿な事を真剣に話し合い、考えているのだと笑われてしまうかもしれない。だが、私の心の奥底にある何かが、祖母の言葉を完全に受け入れてしまっていたのだった。


「あら、もうこんな時間。早く買い物に行かないと、暗くなっちゃうわね」


「え?」


 私が深い思考の海に墜ちてしまっていると、不意にいつも通りの明るい祖母の声が聞こえて来る。慌てて顔を上げると、時計に目を向ける祖母の横顔が見えた。

 何時の間にか時計は二時近くを指しており、昼食を取り終わってから一時間近く経過している。まるで狐に抓まれたような感覚に陥った私は、呆然と時計と祖母の顔を見比べた。

 既に事件の報道番組は終わっており、何か通信販売の商品に対して大げさなリアクションを取る芸能人の姿が映し出されている。既に祖母は食器を持って台所へと戻っており、蛇口から水が流れる音が聞こえていた。

 我に返った私は、祖母の買い物に付き合う為に服を着替えようと部屋へと戻ろうと立ち上がる。


『黄泉路はもう開いている』


 その時、私の耳に不意に聞こえて来た言葉のような音。その言葉を正確に聞き取れた訳ではない。だが、その音は確かに聞き覚えのある物であった。

 僅か一ヶ月前に聞いたあの音を私が忘れる訳がない。耳では忘れていても、私の脳細胞を始めとした全ての細胞がその音を覚えている。おぞましく、哀しい音。誰しもが心の奥底に隠し持っている生物としての本能的な恐怖を呼び覚ますその音が、確かに聞こえたのだった。

 悲鳴を上げる余裕もない。首を動かしたくもない。私の顔の直ぐ横に、その顔があるのではないかと思う程に、それを近くに感じてしまっていたのだ。


「深雪ちゃん、お皿洗い終えたら、お買い物に行きましょう」


 潜在的な恐怖によって動きを封じられた私を、その呪縛から解き放ってくれたのは、やはり聞き慣れた声であった。

 台所から聞こえて来るその声が、私の周囲を取り巻いていた、あの不気味な空気を取り払う。霧散して行く恐怖と共に、私の身体は自由を取り戻していた。

 一気に力が抜けて行く感覚に襲われ、私はそのまま居間で寝転んでしまう。古い日本家屋の天井を眺めながら、恐怖の縛られていた時に、自分の身体の機能全てが停止していた事を知った。徐々に動き出した私の心臓は、それまで動けなかった事を取り返すかのように激しく鼓動し、その鼓動を受けて運ばれて来る血液が身体全てに巡っているのを感じる。急速に血の気を取り戻した私の身体は、はっきりと解る程に火照っていた。

 『吊橋効果』という現象があると話でだけは聞いているが、確かに瞬間的な恐怖に襲われた後に血の巡りが良くなれば、身体も火照り、傍にいた異性に特別な感情を抱いてしまうのかもしれないなどと、どうでも良い事を考えられる程度には、私の心も余裕を取り戻していた。


「こら、早く着替えてらっしゃい」


 そのまま寝転んだまま呆けていると、流石に祖母に叱られた。

 だが、そんな祖母の言葉が妙に嬉しく、私は笑みを浮かべながら立ち上がり、祖母に待っていてくれるように言うと、自室へと戻る。そんな私を不思議な物でも見るように祖母は眺めていた。

 私自身、普段着というか、外出用の洋服を数多く持っている訳ではない。年頃の娘としてはどうなのかと自分でも思うが、有名ブランドの物などには興味がないし、流行のファッションというのにも疎いのだ。

 自宅でくつろいでいる時は、ジャージである事が多いし、休日に外に出かける時は長めのスカートの色に合わせたシャツなどを着ている事が多い。ジーンズも好んで穿くし、ジーンズとTシャツという格好をしている事も多いかもしれない。

 小物やバッグなどもブランド物など持っていないし、気に入った物でも値段が高ければ、直ぐに購入を諦める。もしかすると、私が持っている物で一番高価な物は、高校入学時に祖父母からプレゼントされた腕時計なのかもしれない。品質も良く、可愛らしい物ではあるが、それでも国内メーカーの商品で、高くても数万という物である。

 うん。自分で言うのもアレだが、女性として私には何かが欠けているのかもしれない。


「うん、やっぱり、そのお洋服は深雪ちゃんに良く似合っているわね」


「ありがとう」


 それでも、着替え終わった私を玄関で待っていてくれた祖母の言葉を聞けば、世間の評価などどうでも良くなる。今私が着ている服も、おそらく上下で一万円にもならない安物である。

 夏が近づき、徐々に気温が高くなって来た為、スカートは長めであるが、シャツは七分丈の物。麻系の素材で作られたシャツで、過ごし易いお気に入りのシャツである。サンダルを履いた私は、そのまま玄関を出た。


「あっつ……」


 外に出た瞬間、そこまでの良い気分が一瞬で失われる。夏が近いとはいえ、未だに梅雨は明け切らず、雨が降っては止み、止んでは降りを繰り返していた。

 今日は梅雨の途中の晴れ間ではあるが、その分昨夜まで降り続いた雨の水分が蒸発し、有り得ない程の湿気に包まれている。太陽が燦々と輝いている訳でもなく、それでいて、黒い雨雲に覆われている訳でもない。だが、太陽の姿を隠す程に分厚い雲は、地上と空の湿気を閉じ込めている蓋のようであった。

 サウナに入っているような不快な暑さに顔を顰めた私は、ゆっくりと出て来た祖母と共に二の鳥居を潜り百四十九段の石段を下り始める。石段を下り始めると、周囲の木々により、幾分か汗が引く。持って来ていたハンカチを早速使う事になったが、まだ、神社の敷地から出てさえいなかった。


「そういえば、ちゃんと虎ちゃんにお礼は言えたの?」


「随分と今更な話だね……。ちゃんとお礼を言いましたとも」


 石段を下り終え、一の鳥居を潜った時、祖母が思い出したかのように話題を振って来る。既にあの事件から一ヶ月が経過している事を考えると、祖母の質問自体がどこか不思議な物ではあったが、この場所を考えると、私もあの時の事が鮮明に思い出せた。

 この場所で、私は直接『八瀬紅葉』という女生徒と対峙している。危うく命ごと刈り取られそうになったが、丑門君の助けが有って、今も尚、私は生きているのだ。

 そういえば、後日に丑門君は八瀬紅葉と会ったと言っていたが、結局あの日はどうしたのだろう。この一ヶ月それを疑問に思わなかった事自体が疑問だが、あそこまで豹変してしまっていた彼女が、後日には元に戻っていたというのだから、あの事件の後で彼女も普通に家へ帰ったに違いない。その方法などは皆目見当も付かないが。


「おばあちゃん、鬼に心を喰われたら、二度と人には戻れないのでしょう?」


「ん? そうね。喰われてしまえば、戻れないわね」


 あの時の八瀬紅葉という女生徒の姿と、先程祖母が話した内容が不意に重なった。あれは、確かに『鬼』だったと思う。牙も生えていなかったし、頭から角も生えていなかったが、それでも私の目には彼女が『鬼』に映っていた。

 だが、丑門君の言葉を信じるならば、彼女はその後、私に向かって謝罪を口にするような、普通の女子高生に戻っている。それは、祖母の言うような『鬼に喰われた者』ではないという事になる。

 その後の彼女の姿が、偽りの姿だったという可能性もあるが、それをあの丑門君が見落とすとは思えない。如何に自分へ話し掛けて来たという大きな衝撃があったとしても、何となく、彼は間違わない気がしていた。

 となれば、八瀬紅葉という女生徒は『鬼』に喰われてはいなかったのだろう。私が見た物は『黄泉醜女』ではなかったのか、そもそも『黄泉醜女』とは『鬼』ではなかったという事なのか、それとも、黄泉醜女が鬼であっても、彼女は心を喰われていなかったという事なのかも知れない。益々謎が深まるばかりだ。


「そもそも、鬼って何?」


「そうね……難しい質問ね。深雪ちゃんは、何だと思うの?」


 質問を質問で返された。

 丑門君ならばいざ知らず、流石に祖母に対して、『質問に質問で返すのは失礼だ』とは言えない。更に言えば、その質問の内容も内容なだけに、私は歩く速度を緩めずに考え込み始めた。

 鬼という存在のイメージを簡単に言うのであれば、絵本に載っているような姿をした怪物だろう。人の何倍も大きく、長い牙を生やし、頭には大きな二本の角が伸び、虎柄のパンツを穿いた物。その存在はそれ程には恐くないと思ってしまう。

 小さな頃は、あの絵本の鬼の顔でも恐かったのだが、今ではそれに現実味はなく、とてもシュールに見えてしまうのだ。だが、『鬼』というイメージが幼い頃に定着してしまっている為、改めて思い浮かべると、どうしてもあの赤鬼、青鬼の姿になってしまう。黄泉醜女を見た時は、その姿が瞬時に『鬼』と繋がったにも拘わらず、落ち着いて考えれば、何故かそういう結論に落ち着いてしまった。


「今、深雪ちゃんが考えた鬼の姿も間違いではないわよ」


「何で解るの!?」


 言葉にしてもいないのに、自分の想像の中を見られてしまった事に、私は声を上げる。他人であれば、『はぁ?』と切り捨てる程に突拍子もない事なのだが、この祖母が口にすれば、確実にこの人は私が想像した物を知っているだろうと思ってしまうのだった。

 そんな私の姿に笑みを浮かべた祖母は、静かに前を向き、顔を顰める。そして、直ぐに私の手を引いて、方向転換を始めたのだった。


「少し遠回りして行きましょう」


「え? う、うん」


 手を引かれるまま、右の道に入った私達は、駅までの道を迂回するように大きな通りへと出る。先程の道を真っ直ぐに進めば、駅前まで僅か数分で着くのだが、一度大きな通りに出れば、信号のある横断歩道を渡らなければならず、十分以上時間を掛けなくてはならない。その理由が解らないながらも、今朝方の祖父の言葉を思い出した私は、祖母の言うままに付いて行った。

 人通りも疎らだった先程の道とは異なり、車もそれなりに走っている通りには、駅に向かう人達が多くいる。先日の殺人事件の影響もあるのか、皆が人通りの多い場所を歩こうと考えているのかもしれない。


「鬼はね、この日本という国の厄災でもあり、守護者でもあるの。遠い昔は、この日本を護っていたのかもしれない。人を襲い、喰らう事もある。町を荒らし、暴れる事もある。でもそれは、もしかするとこの日本という国を人間から護る為だったのかもしれない。黄泉の番人でもあり、この現世を裁く者でもあるのかもしれないわね」


「鬼は善い者なの?」


 自分で改めて言うのも何だが、私は祖母と共にいると、幼児化するのかもしれない。発言して直ぐに、自分の疑問が余りにも幼い事に気付き、恥ずかしくなって来た。

 自分の発言に恥ずかしくなった私は、今の発言を取り消すかのように手を振ったが、既に遅く、祖母はくすくすと笑いを漏らしている。何処か懐かしい瞳を向けながら微笑む祖母の顔は、私の羞恥心を更に増長させた。


「ふふふ。一概には言えないわね。善い鬼もいれば、悪い鬼もいる。その辺りは人間と変わらないわね。違った、人間も鬼と変わりがないのね」


 祖母の言葉を省みると、祖母は人間よりも鬼を上に置いて話をしている。人間の上位の存在として鬼がいると考えているのだろうか。私としては御伽噺にしか出て来ない存在が、人間よりも上位だと言われても首を傾げるしかないのだが、祖母の話を聞いていると、擦れ違う人達の中に鬼が隠れていそうだとさえ考えてしまう。

 悪人と呼ばれる人間もいれば、非の打ち所のない善人だと云われる人もいる。だが、悪人であっても良心が全くないかと言われれば否であり、善人に下心や表裏がないかと問われれば、それもまた否であろう。故にこそ、この町で生きる全ての者が鬼に喰われる可能性を秘めており、全ての者が鬼の残骸である可能性もあるのだ。


「でもね、深雪ちゃん。鬼に喰われた者は『鬼』ではないの。純粋な鬼は、深雪ちゃんの想像している通りの姿をしているかもしれないわよ。本当の『鬼』は、この日本という国に於いて、最上位に位置する場所にいる存在なの。神様ではないし、人間でもない。海外の人達が語る悪魔や天使でもないし、日本の昔話などに出て来る妖怪の類でも、世界中で物語になっている怪物でもない。『鬼』という僅か一字の名を持つ、この日本に根付く存在なのよ」


 気付けば、先程曲がり角を曲がって以降、私は祖母に手を引かれていた。十代後半に差し掛かる高校生でありながら、祖母と手を繋いで歩くという行動は、思春期の人間としては恥ずかしく思う事なのかもしれない。だが、私はとても心地良い温かさに包まれていた。

 祖母の話を聞いても、この町を歩いても、私の心に恐怖心は湧いて来ない。黄泉醜女に遭遇した場所を思い出しても、あの頭の悪そうな男子高校生に絡まれた場所を目にしても、私の身体や心に変化がなかったのは、祖母と手を繋いでいたからなのだろう。


「鬼は日本にしかいないの?」


「そうね。『鬼』という存在は日本にしかいないでしょうね」


 その言葉を持って、私と祖母の鬼談義は幕を下ろす事になる。

 確かに、海外の言葉で『鬼』を表す言葉はない。英語であろうと『ONI』となるだろうし、ヨーロッパでその言葉を直訳できる単語はない筈だ。

 日本という国にしか存在しない者。それはとても不可思議でありながら、とても尊く、そしてとても恐ろしく感じた。

 この時に感じた畏怖の想いは、私の中に固定される事になる。それは生涯に渡り、私の根底となる感情であり、想いとなるのだ。


「おばあちゃんは、純粋な『鬼』を見た事があるの?」


「ん? さぁ、どうかしらね」


 だが、そこでふと疑問に思う。何故、これ程までに祖母は『鬼』について語れるのかと。幾つになっても孫は孫と言えども、私も十代後半になっている人間である。幼い子供に語り聞かせるような御伽噺を実しやかに話す祖母ではあるまい。となれば、信憑性の云々はあるにしても、それなりの確信がなければ、祖母はここまで話をしないだろう。

 となれば、必然的に『祖母は鬼に会った事があるのか?』という疑問に辿り着く。知っているというよりも詳しく、聞いた事があるというには現実味がある祖母の話であるだけに、私はその疑問を祖母にぶつけてみた。

 だが、その疑問は簡単に受け流される。『暖簾に腕押し』とはこの事だろう。全く手応えのない祖母の回答に、私は少し落胆した。


「さぁ、そろそろ晩御飯のリクエストは決まったのかな?」


「え? あっ!? お、お店を見てから考えるつもりだったの」


 最早、祖母は『鬼』について語るつもりはないのだろう。話題を急に方向転換し、今日の夕飯へと移って行く。そして、その献立を考えるのが自分の仕事であった事を思い出した私は、商店街の入り口のアーケードを見て慌てて周囲のお店へと視線を移した。

 この町には、町の規模にそぐわない程に立派な駅がある。その駅前のロータリー付近には大きな本屋や電気店があるが、チェーンの大きなスーパーなどはなく、その代わりに横丁のような形でアーケード街があった。そこは昔ながらの商店が並ぶ商店街であり、肉屋や八百屋は勿論、お茶屋さんや蒲鉾屋まである。小さなスーパーはあるが、食料品に関しては、やはり専門の商店の方がお客は多いという、今の時代には珍しい商店街であった。

 私が幼い頃は、この商店街にあるおもちゃ屋で祖父母におもちゃを買ってもらった記憶がある。二階建てのその店は、二階全部がプラモデルを販売しており、子供用のおもちゃなどは一階部分で販売していた。今から思えば、それ程種類があった訳ではないのだろうが、幼い私にとって、そこは宝石箱にも近い輝きを持った場所だったと思う。

 お肉屋さんも牛や豚、羊の肉を販売している店の他に、鶏肉専門の肉屋もあり、コロッケなども販売している肉屋とは異なり、鶏肉専門店の横では、何故かうなぎの蒲焼が焼かれている。店先でうな重が食べられる訳ではないので、持ち帰り専門なのだが、これがなかなか繁盛しており、注文をしてから商店街で買い物をし、買い物が終わった頃に受け取りに来る人達が多かった。


「私ね、この商店街が好きなんだ」


「そうね、おばあちゃんも大好きだわ」


 私はこの色とりどりの店が並ぶ商店街が好きだった。とても大きな何でも置いてあるような店も、中に入るとワクワクするが、この商店街を歩く時ほどではない。左右どちらからも様々な匂いがして、八百屋や魚屋の店主の声がまた、気持ちの高揚を更に煽って来る。

 店舗から聞こえるあの声は、財布の紐が固い主婦の気持ちを高揚させる方法として、昔から受け継がれているのかもしれない。特に、この昼過ぎの買い物時は、全ての店が活気に満ちており、それを見聞きするだけでも楽しい物であった。


「今日は良い(あじ)が入ってるよ!」


「旬のさくらんぼ、甘くて美味しいのがあるよ!」


 商店街に入って直ぐは、食品よりも雑貨系の店が立ち並ぶ。刃物などを販売している店や、鍋などを売っている金物屋。CDなどを売っている楽器店や文房具を取り扱う店等が立ち並び、それが終了する商店街の中央に入ると、威勢の良い声が聞こえて来る。

 魚屋では6月が旬となる魚は勿論、今朝仕入れて来た物であろう魚が所狭しと並び、その向かいにある八百屋では、未だに土の付いた大根や牛蒡の他にも色とりどりの野菜が並んでいた。八百屋の天井から吊るされた籠と新聞紙、そして薄いビニール袋が子供の頃を思い出させる。

 私は祖母と共に買い物に来る他に、小学生ぐらいで里帰りした時は、一人でお使いに出た事も多かった。八百屋で買い物をした時には、お札を出した私に対して、天井から吊るされた籠からおつりを出してくれていた事を思い出す。ビニール紐で吊るされた新聞紙で器用に包まれた野菜をビニール袋に入れてくれて手渡された時は、八百屋の店主が魔法使いのように見えた。

 そう考えれば、私が子供の頃には、私の周りには魔法使いの大人が数多くいたような気がする。


「アジフライとかも良いね」


「あら、そうね。おじいちゃん用に『なめろう』を用意して、鮭も時期が良いようだし、フライを作っても良いわね」


 私はお肉も好きだが、魚も好きだ。魚の見た目も好きだし、それを捌く事に抵抗もない。捌くと言えるほど上手に出来る訳ではないが、一応、三枚に卸す事も出来る。祖母の手を離して、魚屋の軒先に行くと、綺麗な鱗が輝く鯵が竹籠に乗せられていた。

 昔は鯵や鰯などはとても安かったらしいが、今ではその価格も価値も高騰している。鰯などは一躍高級魚の仲間入りであった。私の後ろから顔を出した祖母は、鯵とは別に、その奥にある鮭の切り身へも視線を送る。6月の鮭も脂が乗っていて美味しいのだそうで、北海道の方では、鮭のフライも珍しくはないそうだ。


「毎度! 今日の鯵は本当に良い鯵だよ。フライ、刺身、何でもござれだ」


「深雪ちゃん、どうする?」


「今日は、アジフライ!」


 商店街に入って、一軒目で夕飯の献立は決まってしまった。それもこれも、やはり祖母の料理の腕が決め手なのだと思う。素材の良し悪しもあるだろうが、祖母の作る魚のフライは、生臭さなどなく、いつも美味しかった。頭の中で思い描くと、口の中に唾液が溢れて来る程で、瞬時に私の口はアジフライの気持ちに変わってしまう。ここで、やはりお肉ですと言われても、受け入れられないだろう。

 祖父の『なめろう』分の鯵も購入し、ビニール袋に入れてもらったそれを私が受け取る。鮭も購入した事で、鯵を一尾おまけしてくれた。こういうところも昔ながらの商店街の良さなのだろう。お金を支払った私達は、そのまま向かいの八百屋へ向かう。


「へい、いらっしゃい」


「キャベツと生姜、にんじんも貰おうかしら」


 メインディッシュが決まってしまえば、後は祖母の後ろを付いての荷物持ちに徹する。買い物籠を持ちながら並べられている野菜に目を配り、現在家に残っている物を思い出しては次々と注文を告げて行くその姿が、幼い頃の私にはとても格好良く見えた記憶があった。

 旬だという『さくらんぼ』を勧められた祖母は、私の希望を聞くように顔を向け、私が頷くと、一パック購入する。つやつやと赤く輝く宝石のようなその果実は、ほのかな甘い香りを放っており、再び私の口の中に唾液を放出させた。


「今日は、比較的空いているわね?」


「そうなんですよ。例の事件があって、やはりまだ外へ出る人も少ないんでしょうね。今日はお使いに来る子供もいないし、事件解決まではこんな調子かもしれませんね」


 魔法のように新聞紙で野菜を包んでいた店主は、祖母の問いかけに苦々しい表情を浮かべながら口を開く。確かに買い物客が多いとはいえ、ごった返している訳ではない。この町の食料事情のほとんどをこの商店街が支えている事を考えると、この時間帯でこの人通りは少ない方なのだろう。

 店主の言葉通り、私よりも年下の子供たちの姿は皆無であり、それが、商店街の賑やかさを半減させている最大の理由なのだろう。物を親に強請る子供達の声は、商店街で物を売る者達にとっては、合いの手を入れ易い物なのかもしれない。


「じゃあ、深雪ちゃん行きましょう」


「毎度!」


 商品を受け取ると、威勢の良い店主の声を背中に受け、私達は商店街へと戻る。その後、蒲鉾屋さんで幾つかの蒲鉾を購入し、酒屋さんにいつも通りの注文をした。この商店街にある酒屋さんは、昔ながらの配達も請け負ってくれる。あの南天神社の階段は百四十九段あり、瓶のケースを抱えて上るのはかなりの重労働なのだが、その手間賃などはほとんど取らず、良心的に配達をしてくれているのだ。

 全ての買い物を終えた時には、私の両手は幾つものビニール袋によって塞がってしまい、祖母の買い物籠も一杯になっていた。


「あれ?」


「あら」


 買い物を終えた私達は、商店街の入り口へと戻るのだが、その入り口で意外な人物と遭遇する事になる。私はその人物に一度しか会った事はないのだが、祖母は顔見知りらしく、軽く声を上げた後に、その人物へと近づいて行った。

 四十前半と思われるその女性も、祖母の顔を確認すると柔らかな笑みを浮かべ、近寄って来る。その笑みは、私が生まれて初めて興味を持った人と良く似た物であった。


「こんにちは」


「こんにちは。お買い物?」


 丑門統虎という男性の母親である。

 笑みを浮かべ、祖母に対して丁寧に頭を下げる姿は、彼に本当に良く似ていた。いや、彼に似ているのではなく、彼がこの母親に良く似ているのだろう。男の子は母親に似ると言われるが、笑顔に関しては、本当に良く似ていたのだ。

 ボブショートに切られた髪が、この母親の年齢を解らなくさせている。私と同い年の子供がいる以上、四十付近の年齢なのだろうが、三十代前半と言われても納得してしまうような若さを持っていた。家庭に入ると老けるなどと言う人間もいるが、彼女に関してはその常識は当て嵌まらないように感じる。尤も、専業主婦かどうかも私の想像の域から出ないものではあるのだが。


「今日は、幸音ちゃんは一緒じゃないのね」


「はい。あの事件がありましたから……。本人は付いて来たがっていたのですが」


 幸音というのは、彼の妹の事だ。あの子は小学生の低学年だった筈であり、最初の事件が小学生の女の子を狙った物であった事を考えると、とてもではないが連れて歩く事は出来ないだろう。例え丑門君の母親とはいえ、通り魔を撃退出来る筈もなく、撃退出来る可能性を持つ丑門君も一緒にと考えても、先日のあの様子を見る限り、妹さんの方がそれを嫌がるであろう事は想像出来た。

 となると、現在の丑門家では彼と妹さんの二人で留守番となっているだろう。それはそれで妹さんとしては厳しいのではないだろうか。彼女があれ程に怯える理由も、丑門君を嫌がる理由も解らないが、あれ程の恐怖を覚える相手と一つ屋根の下で二人きりというのは、大変な苦痛だろう。


「でも、虎ちゃんが一緒にお留守番しているなら安心ね」


「ええ、虎は私の身を案じてくれていましたけどね」


 二人の会話の中に出て来る人物が、あの学校どころか、町全体から忌み嫌われている存在と同一人物だとは思えない。そんな穏やかで優しい気持ちが込められた言葉が続いた。

 私の祖母は、自分で見て感じた評価しか信じない人間であり、正直に言って親からの評判が余り良くなかった私の事も心から愛してくれる人である。それは孫だからとか、血が繋がっているからとかではなく、私自身を見てくれていると実感出来る何かがあった。丑門君に対しても同様なのだろう。祖母の目から見た彼は、町の人間が見ている姿と全く異なる物なのかもしれない。


「そうね、帰り道は危ないでしょうから、買い物が終わっているのでしたら、途中まで一緒に帰りましょうか?」


「ありがとうございます。そうして頂けると心強いです」


 相手の買い物籠に商品が入っている事を確認した祖母は、途中まで共に帰る事を提案する。だが、これは私の勘ではあるのだが、祖母はきっと遠回りして、先に丑門君の家の近くまで行ってから南天神社へと帰るつもりなのだ。

 私達は二人だし、祖父のお墨付きもあるように、祖母が一緒であれば災いの方が避けてくれる。ならば、相手を送り届けた方が、後々の心配の事を考えても良いという事なのだろうし、私も同意見であった。


「深雪さんでしたよね。この前は慌しくてごめんなさい。虎と仲良くしてくれてありがとう」


「い、いえ! 私の方こそ、丑門君には助けてもらってばかりです」


 商店街を出た私達は、駅前を通り、大きな通りから住宅街に向かって歩き出す。祖母との会話が一段落着いたのか、丑門君のお母様は、私に向かって声を掛けて来た。

 本当に嬉しそうな笑顔を見て、同じ女性であってもドキリとする。この町に引っ越して来てから1ヶ月と少ししか経っていないにも拘わらず、私が丑門君に助けられた数は片手では数え切れない程になっていた。こちらこそ、私のような転入直後に腫れ物に触るような扱いになった人間に対して、分け隔てなく付き合ってくれている彼に対し、感謝しかない。それを伝えると、少し驚いた表情を浮かべたお母様は、先程以上に嬉しそうな笑みを浮かべた。


「そうですか。じゃあ、深雪さんは安心してね。あの子が助ける、守ると決めたのならば、何があっても大丈夫よ。虎は強い子だから」


「……はい」


 だが、その笑顔から発せられた言葉は、私の想像の遥か斜め上を行っていて、正直理解が及ばない。取り敢えずは返事をしてみたが、漫画であれば、私の頭上には『?』が三個以上浮かんでいる事だろう。

 そんな私の表情に笑みを強めた彼女は、私の祖母へと視線を移し、そして二人で笑い合う。益々困惑する私を放置し、二人は再び会話を始めてしまった。


「そうなると、虎は将来神主様なのでしょうか?」


「あら、虎ちゃんなら、立派な神主になれると思うわよ」


 そんな二人の会話の一部を聞いて、ようやく私も二人が言っている意味を理解する。余りにも飛躍し過ぎる内容に、驚きを通り越して呆れてしまった。

 何でも恋愛に結び付けようとするのは、中高生の女子生徒の特権なのかと思っていたが、年齢を重ねようとも女性は女性という事だろうか。そしてまさか祖母もそういう話に乗る人だとは夢にも思っていなかった私は、それを否定する余裕もなく、買い物荷物を両手にぶら下げながら、二人の後を付いて歩く事しか出来なかった。


 何事もない、平和な昼下がり。

 それはとても短い、私の充電期間だったのかもしれない。




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