其の壱
定期試験の結果が張り出されてから一ヶ月が経過した。
一週間前ほどから、この町がある地域にも梅雨前線が停滞を始め、晴れ間の方が少ない日々が続いている。じめじめとした空気の中、全てが落ち込むほどの気温と湿度に辟易とした毎日を送っていた。
学校特有の床は、湿気によって滑り易くなっており、蒸し風呂のような教室の中は、汗の臭いや制汗剤の臭いが混ざり、異様な空気となっている。今のご時勢で教室にエアコンが設置されていない学校というのも珍しいのではないだろうか。
しかも、この高校は私立である。それなりの授業料を取りながら、環境設備を整えないのは犯罪に近いとさえ私は思う。それ程高度な授業をする訳でもなく、校内のベランダの鉄柵は老朽化で落ちるし、校内ではいじめのような物が黙認され、仕舞いには授業を受ける環境さえも整えないとなれば、授業料詐欺に等しいとさえ思えるのだ。
「神山……目が怖いぞ」
授業と授業の合間にある短い休み時間の中、不愉快な気持ちを抑える事が出来ずに黒板の方を見ていたら、不意に横から声を掛けられる。そのまま視線を向けると、少し戸惑うような、怯えるような表情をした丑門君の顔があった。
失礼な態度に苛々するが、それでもあの事件以降、小声ながらも学校で私に話し掛けてくる唯一の生徒となった彼の変化に想いを馳せる。
あの事件によって八瀬紅葉という女生徒はこの高校から去ったが、依然として私と丑門君の立場は変わらなかった。席は離れ小島のままであり、丑門君は勿論の事、私に対して言葉を掛けて来る生徒も皆無のまま。本来、私を隔離しようとする元凶が去った以上、この状態を続ける意味がないとは思うが、私としてはむしろ好都合なので、そのまま放置していた。
「窓を開けて頂けませんか?」
「いや、結構雨が降っているだろ?」
その中で、私に唯一話し掛けてくるのが、この隣の席に座る男子生徒であった。
完全にクラスの中でも離れ小島になった私達の席だが、私達の席自体は全く動かしていない為、ごく普通の距離感しかない。つまり、私と丑門君にだけ限って言えば、普通に隣の席の生徒に声を掛けているだけの行為なのだ。
故に、私は通常の声量で声を掛けるが、彼は私を気遣ってくれているのか、小さな声で答える。それがまた異様な光景に映るのだろう。当初クラスメイト達は驚愕の目でみていた。学校内どころか町全体から忌避されている男子生徒が、突如現れた転校生の女子に気を遣っているように見える。確かにそれは異常以外のなにものでもないだろう。
「ベランダがあるから、そこまで雨は入らないと思いますけど」
「今日は風が強いだろう……」
確かに今日は横殴りの風が吹いており、窓の外の雨が作る斜線が横に向いているように見えている。雨の日を考えると、学校の構造は何とかするべきだと思う。日射病ではなく、熱射病が当たり前になりつつある現代なのだから、高校はもっと考えるべきだ。やはり、授業料詐欺として訴えるべきなのではないだろうか。
朦朧とする程に蒸し暑く、サウナに入っているようである。ハンカチで拭ってもすぐに噴出す汗で髪の毛が額に張り付いてしまう。それがまた不愉快になり、私は顔を顰めた。
田舎とはいえ、避暑地とは程遠いこの町は、梅雨時期に入ると同時に気温も上がる。通常雨が降れば気温は下がる筈だが、全くそのような事はなく、むしろ雨によって不快指数が跳ね上がっているのが現状であった。
「もう、帰ろう」
「アホか!?」
思わず零れた本音を掬い上げた丑門君が間髪入れずにツッコミを入れる。それすらも煩わしく感じる程に、この教室の不快指数は高かった。
世の中で働いている人達は、本当に凄いと思う。このような時でも外回りと言われるような仕事をし、頭を下げたりしながらも仕事をしているのだろうから。それを考えれば、確かに丑門君が言うように、私は阿呆なのかもしれない。だが、もう、この教室で、つまらない教員によるつまらない授業を受けるのは嫌であった。
温厚で清楚な私でさえも、これ程に心を掻き乱されるのだ。先程考えたように、懸命に働いている人達の中には、不満と不快を爆発させてしまう人達がいても可笑しくはないだろう。
「お弁当にカビが生えてなければいいのだけれど……」
「神山のお祖母さんなら、その辺の対策もしている筈だろうな」
あの事件の後、お礼を兼ねて祖母が作ったお弁当に対し、彼は本当に丁重なお礼を述べてくれた。それをそのまま祖母に伝えたところ、一週間に二回は彼の分のお弁当も作るようになってしまったのだ。
彼はそのお弁当を最初は固辞していたが、私も食べていないお弁当箱をそのまま持ち帰った時に祖母の哀しい表情を見るのは嫌だったので、強引に渡していた。彼と共にお弁当を食べる事はしなかったが、それでも狭い学校内でお弁当を渡していれば、誰かしらがそれを見ていても可笑しくはない。その噂は、伝染病よりも速い速度で学校内に広まった。
曰く
『神山深雪と丑門統虎は付き合っている』
曰く
『神山はあの丑門を餌付けした』
曰く
『神山はあの丑門を従えている』
どれもこれもが事実無根なのだが、日を追う毎に校内の生徒達が私を見る目が変化して行く。軽蔑から奇異へ、そして畏怖から恐怖へ。遠巻きに噂話をしていた者達が、本当に聞こえるか聞こえないか程度の小声に変わり、今は完全に視線さえ向けないようになった。
人生経験が豊富な訳ではない私であっても、どこかこの雰囲気が異常である事だけは解る。最早、これはいじめという範疇ではない。私と丑門君は、この学校だけではなく、この世からもいないものとされているのではないかという錯覚に陥る程のものであった。
前回の定期試験の結果が張り出され、その学年一位と二位として私達の名前が張り出されている以上、この学校に在籍しているのは認知されているのだが、それでもこの空気は異常であろう。
定期試験の事だが、私としては本当に意外であった。彼を馬鹿にする訳でも、見下す訳でもないが、それでも彼の授業中の態度を見る限りでは、とても勉強熱心には見えず、あの雄としての闘争を見てしまうと、尚更に彼と勉強が結び付かないのだ。
だが、それでも彼が学年一位であり、私が二位だ。その点数の差は大きく離されている訳ではないが、それが嘘偽りのない事実であった。
「皆さん、座って下さい!」
本日最後の授業が始まるまで二分を切った頃に、教室の前の扉が勢い良く開き、担任の女性教員が教室へ飛び込んで来る。最後の授業は彼女が担当する教科ではない。その為、教室に居る生徒全員が首を傾げるが、そんな生徒達の様子を考慮する事なく、女性教員は大きな声で指示を出した。
その切羽詰った表情と、今まで聞いた事のない程の声量に驚いた生徒達は、一斉に自分の席へ戻って行く。そんな生徒達の動きに苛立ちの表情を浮かべていた女性教員は、全員が着席すると同時に叫び声のようなヒステリックな声を出した。
「ほ、本日の授業は全て終了です。これから皆さんには集団下校をして頂きます。自宅がある地域ごとに分かれて貰い、学年ごとに先生が付き添います。今から名前を呼びますので、名前を呼ばれた方は帰り支度をして廊下へ出てください」
金切り声のような音を発する女性教員は、一気に捲くし立て、手に持っていた名簿へと視線を落とす。教室に居る誰もがその行動の意味を理解する事が出来ず、教室内がざわつき出した。
このような時に真っ先に声を上げる者は、必ずどの学年、どのクラスにも存在し、その者が発した疑問の声に同調するように、教室中の生徒達が一人の教員を責め立てる。
だが、今回に限っては、この行動は愚かだった。相手の状況、相手の表情、相手の言動を省みないその行動は、相手の逆鱗に触れ、それは災害レベルの発狂となって降りかかって来る事となる。
「黙りなさい! 本日、ナイフを所持した男に、下校途中の小学生が襲われました。幸い、衣服を傷つけられただけですが、未だに付近に潜伏している恐れがあります。死にたくなければ、先生の言う事を聞きなさい!」
この女性教員も、そこまで年配という訳ではない。だが、十代半ばの社会を知らない子供に野次を飛ばされた事によって、抑えていた不安と不満が爆発したのだろう。本来であれば秘さなければならない内容までも口にしたように見えた。
それを証明するように、教室の中は一瞬の静寂の後、先程以上の火が燃え上がり、炎が揺らめくような喧騒に包まれる。それぞれが思い思いの言葉を叫び、中には悲鳴を上げる女子生徒までもいた。
確かに、奇声を上げる生徒達の気持ちも十二分に理解出来る。何故なら、多くの人間にとって、刃物を持った犯罪者がいるという環境は、TV画面の中でしか見た事がないからだ。物語の中の話とまでは言わないが、毎日溢れているようなニュースが、自分の身近で起こるとは思わないだろう。
そう思いながらも、先月の怪事件を経験している私としては、何処か達観した気持ちで混乱し続ける教室を眺めていたのだが、不意に私の左隣から溢れ出して来た真っ黒い影によって、私の表情も凍りつく事になる。
「うるせぇよ……」
真っ黒い瘴気のような影を醸し出しながら、地獄の底から響くような声が教室内に轟いた。決して大きな声ではない。むしろ呟くような小さな声であったにも拘らず、その声は喧騒に包まれていた教室に響き渡ったのだ。
一瞬で静まり返る教室。その声を誰が発したのかを、この教室に居る誰もが理解している筈なのに、誰も後ろを振り返ろうとはしない。中には口を手で押さえ、呼吸さえも止めてしまおうとしている者までいた。
「その小学生は無事なのか? 何処の小学校だ? 男か? 女か?」
静まり返った教室に、一人の男子生徒の声だけが響く。本当に呼吸音さえも聞こえない程に静まり返った教室は、その男子生徒の問いかけに答える声さえも聞こえなかった。
それに苛立ったのか、声の主は盛大な舌打ちを鳴らす。その舌打ちの音もまた、教室内で反響しているのではないかと思う程に大きく響いていた。
「どっちだよ!」
「ひっ! お、女の子です。服を切られただけで、怪我はないと聞いています!」
苛立ちを露にした丑門統虎という男子生徒は、教員とは思えない怯え切った答えを聞くや否や、鞄を持って立ち上がり、そのまま駆け出すように後方の扉から廊下へと飛び出して行く。それを見た私は、驚愕と恐怖によって固まっている生徒達を放置して、鞄を持って彼を追った。
その時には、既に私の頭の中には通り魔の事は消え去っており、丑門君の尋常ではない様子が気になって仕方がなかったのだ。
一ヶ月程、この学校に登校して解ったのが、彼は私以外の生徒達と一切会話をしない。それは会話が成立しないという物ではなく、彼自身が口を開く事が一切ないのだ。あの事件以来、私には話し掛けて来るが、それも周囲に聞こえない程の小さな声である。授業中に彼に問いかける教員もいない為、彼が回答する事もない。登校してから下校するまで一度も口を開かないという事は当たり前だったのだろう。
そんな彼が切羽詰ったような表情で教員に向かって口を開いた。それも一言、二言ではなく、苛立ちを含めた言葉を吐き出したのだ。それが気にならない訳がない。
「丑門君、待って!」
昇降口まで行くと、既に靴を履き替え終えた彼が今にも駆け出しそうな姿が見える。慌てた私は、昇降口内に響き渡る程の大きな声で彼に呼び掛けた。
その声は私が思っていた以上の大きさで、呼び掛けられた丑門君でさえも本当に驚いたように振り返る。振り返った彼の表情は、一瞬の驚き、そしてその後には迷惑そうな困った物へと変化した。
確かに、彼の慌て様を見れば、私が追いかけて来た事は迷惑だったのかもしれない。だが、あんな表情をしなくても良いのではないかと思う。多少の申し訳なさを感じるが、何処か納得の行かない自分がいた。
「神山はクラスの人間と一緒に帰れよ」
「今の私の状況で、集団下校の中に組み込まれるとは思えません。それよりも何処に行くんですか?」
この一ヶ月で、私は完全に孤立している。それは、町全体から忌避されている『丑門統虎』という男子生徒と同レベルと言っても過言ではないだろう。そんな私である為、いくら教員が地域別の集団下校に私の名を組み込んだとしても、おそらく生徒達から弾き出されるだろうし、私自身もそこに入る気持ちを持てない筈だ。
必然的に一人で帰る事になるのであれば、彼と共に行動した方が良い。彼に対しての迷惑を考えず、私だけの身の安全を考えるのであれば、それが自明の理である。だが、私は自分の身の安全というよりも、彼が何にそこまで焦っているのかが気になって仕方がなかった。
他人に自分の領域を侵される事を一番嫌う私が、彼の領域を興味だけで侵略しようとしている。そこに罪悪感を覚え、申し訳なく思うのだが、それでも私は気になってしまう。命を救ってくれた彼の助けが何か出来ればという殊勝な気持ちだけではないが、その様な想いもある事は事実であった。
「俺は急ぐから!」
私の問いかけに正確な回答をくれる事無く、彼は昇降口から校門の方へと駆け出す。彼と話しながらも靴を履き替えていた私も、彼の後を追って走り出した。外の天気は既に雨が止んでおり、黒く厚い雲が空を覆ってはいるが、傘を差す必要などない状態である。足元に広がる水溜りに注意をしながらも私は全力で走り続けた。
だが、元々の男女の運動能力の差と、丑門君の身体能力の高さにより、どんどん私は彼に引き離される。彼が校門を出て左へと曲がった時に、私はまだ昇降口と校門の半分ほどの距離しか到達していなかった。更に足に力を入れ、何とか校門を出て左方向へ視線を向けると、何とか彼の背中は見えるものの、その距離はマラソン大会であれば絶望を感じる程の距離となっていた。
「こっちは確か……小学校がある方角」
彼の背中を見ながら懸命に走る中、私は考えを巡らす。彼との差が縮まるどころか、その差が広がって行く事に歯噛みしながらも、この一ヶ月で頭に入れた地理を思い浮かべ、彼が走って行く方角に何があるのかを考えた。
私が住む南天神社の方角ではあるが、そこからは少しずれている。そしてその方角には、確か小学校が存在していた筈だ。毎朝、私が登校しようとうすると、小学生達とすれ違う事がある。彼が向かっている方向は、私がすれ違う小学生達が向かっている方角であった。
色々と考えながらも懸命に足を動かしていたにも拘らず、既に彼の背中は見えなくなっている。私はこの道の先にある、自分自身が思い至った場所に向かって走り続ける事しか出来なかった。
教室でも、彼は『小学生が切り付けられた』という部分に反応し、教員に向かって、その小学生の安否を確認し、更にはその性別をも気にしていた。それは、これから向かう小学校に、彼の知り合いが通っており、その子の安否を気にしていたからだと推測出来るだろう。それは、本来、赤の他人である私のような人間が知ってはいけない事柄だったのかもしれない。
「ふぅ……ひゅう……」
小学校の校門に到着し、足が止まった時、私の呼吸は病的な程に乱れていた。呼吸をしようとも上手く気管を通らず、か細い音が響く。胸一杯に吸い込んだ筈の酸素は何処かに漏れてしまっているかのように肺を満たす事はなく、吐き出す二酸化炭素の量だけが増えているような錯覚さえ覚えた。
それでも何とか顔を上げ、周囲を見渡すと、そこには通常であれば考えられない光景が広がっている。校門の前には多数の教員が立っており、校舎の方からは保護者と思われる人間と共に歩く小学生の姿が見えた。
下校中に切り付けられた生徒がいたという情報が流れた時、まだ下校する事なく、校舎内や校庭に残っていた生徒達もいたのだろう。緊急で保護者達に連絡を入れ、迎えを求めたと考えられた。
狙われたのが小学生という事と、相手が大人であった場合、小学生では何も出来ない可能性を考えれば妥当な選択だと思う。私のような高校生であれば、数の暴力という物もあり、犯罪者もおいそれと近寄る事は出来ない。本来下校中の事件や事故は、学校という機関に責任はないが、将来ある子供達を預かる公共機関としては正しい判断だといわざるを得ないだろう。
「……丑門君!」
「……神山」
その異様な光景を眺めていた私を不審そうに見つめる教員の視線を避けるように顔を背けた私の目に、見慣れた学生服が入って来る。校門から少し離れた場所で母親らしき女性とその後ろに隠れるようにしている女の子がおり、彼はその母親に話しかけているようであった。
思わず大きな声で呼び掛けた私に、驚きの視線が一斉に集まる中、当事者である彼もまた、驚いた表情を見せる。だが、その表情も瞬時に迷惑そうな物に変わり、そして呆れたような物へと移り変わって行った。
「皆と帰れって言っただろう? 何やってんだよ」
この言葉に対して、流石に反論出来る言葉を私は持ち合わせてはいない。確かに彼は私の身も案じて、一人で帰宅するなと釘を刺していてくれた。それを無視してここまで追って来たのは私の独断であるし、自分勝手な行動である。彼がする迷惑そうな表情は当然の事であるし、激昂しても仕方のない事を私はしてしまっていたのだろう。
「ごめんなさい」
故にこそ、私は整え切れていない呼吸の合間に謝罪の言葉を口にする事しか出来なかった。冷静になって考えてみれば、今も尚、この周囲には刃物を持った犯罪者が潜んでいる可能性がある。それが男性であろうが、女性であろうが、刃物を持っている以上、私が敵う相手ではない。最悪命を失ってしまう可能性もあったのだ。
ここ最近で命の危機を感じた事は何度もあった。その為に私の危機管理能力が低下しているのかもしれない。あの黄泉醜女が醸し出す得体の知れない恐怖に比べれば、人間として対抗出来る可能性が残る通り魔程度であれば何とかなるとまでは考えていなくても、それを軽視していた節はあったのだろう。
真剣に考えれば、服を切られる程度であれば良いが、その刃物が身体を切りつけたり、刺さったりすれば、最悪『死』に至るし、命を取り留めたとしても、身体にも心にも傷が残る筈だ。今更ながらに、自分が起こした行動に冷や汗が出て来た。
「お友達?」
腰を曲げて意気消沈している私の耳に、静かながらも力強い声が響く。それは、丑門君の横に居た女性から聞こえた。
顔を上げると、柔らかな微笑を浮かべながら、私と丑門君を交互に見ている女性の顔が見える。年若くは見えるが、しっかりとした人生経験を基とした支柱が解るその女性は、腰にしがみ付く幼い少女の背中を撫でながらも優しい笑みを浮かべていた。
「クラスメイトだよ」
「あら!? そう……。統虎の母です」
「あっ、神山深雪です」
ぶっきらぼうに答えた丑門君の言葉に、その女性は盛大に驚きの声を上げる。漫画やTVドラマでしか見た事がないような、口を手で覆うような仕草をして目を丸くした女性は、少し目を伏せた後、本当に嬉しそうな笑みを浮かべ、私に向かって頭を下げた。
息子の級友に対する態度としては仰々し過ぎる気がする態度ではあったが、顔を上げた母親の顔は、先程と同じような優しい笑顔であり、その笑顔は、他人である私でさえも嬉しくなる程に優しい物であったのだ。故にこそ、その目の端に光る物を見たのは、私の気のせいであったのかもしれない。
「ほら、幸音もご挨拶して」
その笑顔に呆けていた私に対し、丑門君のお母様は、自分の腰にしがみついている少女の背中を軽く押す。だが、母親の手と言葉を拒絶するように、少女は尚一層に腰にしがみ付き、顔さえも上げようとはしなかった。
その姿は、何かから自分の身を隠しているかのようであり、その庇護を母親に求めているようでもある。その対象が何なのか、誰なのかは解らないが、少女の姿を見る限り、その対象に対して恐怖や怯えにも似た感情が伝わって来ていた。何故なら、その少女の身体は、小刻みに震えていたからだ。
「ごめんなさいね。統虎の妹の『幸音』というの」
「あ、い、いえ。よろしくね」
謝罪を口にするお母様に手を振った私は、屈み込んで少女へ挨拶をするが、そんな私の声に対しても少女の反応は変わらず、一切の返答をせず、顔さえも向けようとはしなかった。
失礼、無礼の話ではない。小さな子供であれば人見知りの部分を多少なりとも持つだろうし、実を言えば、私自身も子供の頃はこのように他人に対して壁を作っていた。流石に他人に対する恐怖で身体が震えていた記憶はないが、それでもこの少女の感覚も理解出来るような気がしていた。『この時は』だが。
「虎、私と幸音はこのまま帰るから大丈夫。神山さんをお家まで送ってあげなさい」
「あぁ……わかった。母さんも気を付けて」
少女の態度に対しても私が特に何も思わなかった事に気付いたのか、お母様は丑門君へ声を掛ける。まるで、何処かの風来坊の呼び名のように聞こえるそれは、私にとっては不思議な響きを齎した。
そういえば、私の祖母も彼をそう呼んでいたような気もするが、それでも他人と肉親の違いなのか、彼のお母様が呼ぶその名は、何か大きく異なっているように感じる。暖かく、それでいて厳しく、その感覚は、今の私には表現出来ない物であった。
「行こう」
「えっ? あ、うん。それでは、失礼します」
私へ視線を向ける事なく、丑門君は来た道を戻り始める。急な変化に対応が出来なかった私は、慌てて彼のお母様に頭を下げた。その際にも彼の妹さんは顔を上げる事なく、母親の影に隠れていたのだ。
そんな妹さんの姿に何処か違和感を覚えた私は、丑門君の背中を追うように歩き始めた後も何度か振り返り、その母娘の姿を確認する。既にこちらを見る事なく反対方向へ歩き始めた二人は、本当に仲の良い母娘の姿であり、遠目ではあるが、母に手を引かれたその少女の顔には笑顔が浮かんでいるようにさえ見えた。
そこには先程までのような怯えた様子はなく、恐怖など微塵もないような笑みを浮かべる少女の姿。それは異様と言える光景であったと思う。彼女にとっての恐怖の対象が去ったのか、それとも最初からなかったのかは解らない。だが、あの笑顔を見る限り、私に対して取っていた態度が只の人見知りという物ではないように思えた。
「妹さんがいたのですね」
「ああ」
何処か釈然としない想いを振り切るように丑門君に声を掛けた私であったが、話題の選択を間違えてしまったようである。彼の返事は素っ気無く、私に対しての関心がないというよりは、その話題で会話をしたくないという拒絶さえも感じる物であった。
どうしたら良いのかを迷ったが、ここで全く関係のない話題をするのも違和感しかないだろうし、別の話題を振るにしても、よくよく考えればそこまで話が弾むような物もない。困った私は、再び話題を戻してしまった。
「今日はごめんなさい。妹さんの安否を確認する為に急いでいたとは知らず、勝手に追ってきてしまって……」
「それはもういいよ。ただ、本当に気を付けないと駄目だぞ。八瀬の時といい、神山は少し無用心過ぎる」
私の謝罪に対して丑門君は、盛大なため息を吐き出した。何処か呆れているような、諦めたような溜息で、少し『むっ』とするが、それもこれも私の起こした行動が原因である事も事実である為、何も言えない。彼の言うように、黄泉醜女の事件の際は、私にも軽率な行動があっただろうし、今回の行動も軽率であった事は事実である。だが、反論をさせて貰えるのであれば、黄泉醜女のような未知の存在に対し、私のような一般人が取れる行動など限られているのだ。
まず、黄泉醜女という名を知っている人間は居ても、その存在を見た者などこの日本にどれだけ居るだろう。空想の存在、物語の存在、ゲームの存在であれば、その絵姿などを見た者はいるだろうが、現実の世界でアレを目にした者は誰一人として居ないのではないかとさえ私は思っている。
そんな状況で、自分の行動を分析し、最適な行動を起こせる筈がないというのが私の言い分なのだ。
「今、この町で起きているのは、正体不明の黒い影の問題じゃないんだぞ」
「ぐっ……ごめんなさい」
だが、どれ程に私の言い分があろうとも、彼が口にしている事は正論であり、どちらに分があるかと言えば、間違いなく彼である。悔しかろうが、不満があろうが、私は彼に謝る事しか出来なかった。
それに、彼が本当に私を心配してくれている事も、なんとなくではあるが理解出来る。慌てて学校を飛び出した時のような切羽詰った感じではないが、真っ直ぐな心配に少し温かな気持ちになった。
彼にあそこまでの焦燥感を与える、『丑門幸音』という存在が特別なのだろう。彼女を見る限り、小学校低学年だと思われる。それ程に歳の離れた妹であれば、兄としては可愛い存在だろう。
故にこそ、あの少女の態度が何処か引っ掛かりを覚えるのだ。あの少女は明らかに何かに対して怯えを見せていた。その対象が丑門統虎という存在なのだとすれば尚更腑に落ちない。彼の姿を見る限り、心から妹を案じていたし、昇降口を出た時と比べれば、小学校の校門近くにいた彼の表情には安堵の色が見えていた。
まだ一ヶ月程の付き合いではあるが、彼の性格などを鑑みると、妹に虐待をするような人物とは思えない。妹に手を上げるどころか、声を張り上げる事さえもしないように思える。それは彼の母親の態度から見ても正しい認識なのだろう。もし、彼が親に隠れて妹に対して虐待をしていたとしたら別ではあるが、どうしてもそうは思えなかった。
「流石に石段の途中で待ち伏せしているなんて事はないとは思うけど、一応は境内まで送るよ」
「大丈夫だとは思いますが……ありがとうございます」
私の謝罪後は一言も言葉を交わす事のなかった私達は、何かに襲われる事もなく、南天神社の境内へと続く石段の前にある一の鳥居に辿り着く。そこから百四十九段ある石段を見上げながら、丑門君が口にした提案に対し、私は有り難く甘える事にした。
やはり、彼が妹を虐待するような人間には見えない。となれば、益々あの少女の怯え方に疑問が残る。それでもそれを彼に聞く事が出来ないと思える程に、彼がその話題を拒絶している事が解った。
石段を上りながら、私は先程の少女の表情を思い浮かべる。その表情には確かな怯えがあったが、丑門君が離れてしまえば、母親に満面の笑みを向けて手を繋いでいた。
それこそが、彼があの少女に危害を加えていない証拠なのかもしれない。私自身、そのような経験がない為に確信を持って言う事は出来ないが、肉体的な虐待を受け続けた人間は心を閉ざしてしまい、誰に対しても笑わなくなる物ではないだろうか。それこそ、母親のような肉親であれば尚更であろう。虐待される自分を救ってくれない母親などに笑い掛ける事はないと私は思う。
であれば、彼女は丑門君の何に怯えていたのだろう。
「暫くは集団での登下校になると思うぞ。神山、大丈夫か?」
「大丈夫ではないでしょうね……」
石段も中腹に差し掛かろうとする頃に彼が発した言葉に、私は思考の海から引き上げられる。今の私の学校での立場は、『孤独』であろう。それが自分が望んでいた立場だとしても、このような状況になってしまえば、仇となったと言っても過言ではなかった。
転校して1ヶ月の期間が経過するが、未だに私はクラスメイト達と会話をする事は皆無である。転校初日に話し掛けて来た女子グループなどその後は一切私に近寄ろうとしないし、教室で離れ小島となった私の席を見れば、私もまた忌避する存在となっている事は間違いないだろう。
とすると、通り魔が徘徊する町を私は一人で歩かなければならない事になる。自業自得という言葉しか浮かびはしないが、それでも不安を煽られてしまった事だけは確かであった。
「まぁ、神山なら、通り魔ぐらい撃退出来るだろう。うん、大丈夫だな」
「……貴方には、明日から私の送り迎えを命じます」
そんな私の不安を嘲笑うかのように口にした彼の言葉が逆鱗に触れる。何かを思い出したように微笑を浮かべて口にする彼の顔が尚更に私の怒りを増長させた。
故にこそ、私は彼に向けて指を差し、少し高圧的な態度で命令を発する。自分で考えても余りにも礼儀知らずな行為であると思うし、それこそ自分で引き起こした事態を自分で解決する事も出来ない事を他人に丸投げする最低な人間だと思う。
自己嫌悪に陥りながらも、僅かな期待を胸に石段を上りながら発した言葉に対しての返答は、彼の苦笑であった。
「わかったよ。朝、下の鳥居の前で待ってるよ」
「え? あ、ありがとうございます」
朱色に染まる第二の鳥居が見え、それと同時に最後の石段も見えて来た頃、彼は溜息交じりに私の命令に応じてくれる。それは私にとって予想外の事であり、身勝手な事を口にする女に対しては余りにも優しい了承であった。
予想外であった事もあり、私は思わず頭を下げてしまう。既に境内へと足が掛かっていた彼は、立ち止まって頭を下げる私を見て、少し笑ったのだろう。小さな声で『別に良いよ』という言葉を発し、それでも人目に付かないように早めに出る方が良いという提案をくれた。
いつも私が出る時間よりも早めの時間での待ち合わせを約束した私達は、その場所で別れる。送ってくれた事へのお礼を述べると、何も言わず手を上げて応えた彼は、ゆっくりと石段を下りて行った。




