後日談②
翌日、月曜日の朝は何事もなく目が覚め、身体に不調を感じる事もなく、玄関を出る。
久しぶりの爽やかな朝。そう感じる程、ここ数日の私を取り巻く状況は異常だったのだろう。南天の木の他にも多くの樹木が植えられている境内は、夏に向けた緑の匂いに包まれており、葉に乗る朝露が周囲の気温を下げている。それがまた、神社という神域を清めているように感じる程に神秘的な朝だった。
四日前にあれ程の恐怖を感じた、一の鳥居へ続く百四十九段の石段も、朝露が陽光を受けて輝き、まるで天へと続く階段のようにまで見える。自然と弾んで行く心に押されながら一歩一歩石段を下りた私は、紅く塗られた一の鳥居を見上げ、小さな微笑を浮かべた。
「よし、行こう」
数日前は、転校さえも考えていた私ではあったが、もう一度頑張ってみようと思える景色がそこにはあり、胸の前で小さく拳を握り、前へ一歩踏み出す。それは小さな一歩であったが、また一歩また一歩と足を前へ進めると、自然と歩幅は大きくなり、それに伴って歩く速度も速まって行った。
十数分の道程を歩き、目の前に現れた校門を見ても、私の心は曇らない。数日前に見たあの黒い影はなく、空気は澱んでいても闇に包まれている訳ではなかった。
校門に立つ生活指導の教員は相変わらず私に対して朝の挨拶をしようとはしなかったが、それに構わず挨拶を告げ、私は昇降口へと向かう。擦れ違う人達も遠巻きに私を見つめ、まるで腫れ物を見るような視線を投げては来ているが、それすらも気にならない程、私の心は穏やかであった。
「おはよう。 昨日はごめんなさい」
「あ、ああ」
教室の扉を開け、不躾な視線を無視して私が真っ先に向かった場所には、いつも通り椅子の背凭れに背中を預けて窓の外を見ている男子生徒。私は開口一番の朝の挨拶と共に昨日の謝罪を口にし、深く頭を下げた。
本当に彼には感謝しているし、昨日の事は申し訳なく思っている。私の身体を心配してくれた彼に感謝と共に心から謝罪をする。顔を上げると、未だに驚きと戸惑いから抜け出せない彼の間の抜けた顔があり、思わず噴き出してしまったのは愛嬌で見逃して欲しい。
「それと……本当に色々とありがとうございました」
「……元気そうで良かったよ」
しっかりと言葉に気持ちを乗せてお礼を述べた私に向かって、彼は小さな笑みを浮かべる。その瞬間、私達の動向を見ていた生徒達がざわめいた。彼等にとっては、彼の本当に小さな変化が天地を揺るがす程の大事件に映ったのかもしれないが、ここ数日の彼を見ている私にとっては、まだまだ彼の一部も表に出ていないように思う。もっともっと彼の素を引き出してみたいという欲求が私の心に湧き上がって行くのが解った。
そんな自分でも不思議な感情を表に出す事無く、椅子に座った私は、未だに彼と私の机だけが他の生徒達から大きく離された場所にある事に改めて気付く。だが、注意深く周囲を見渡せば、最近出来たもう一つの離れ小島がなかった。
「……先週末に転校した」
「え?」
その離れ小島となっていた席の方へ視線を向けていた私の耳に彼の言葉が届く。小さく、私にだけ聞こえるような声で囁いた彼の言葉の意味を最初は理解出来なかったが、朝のHRの為に入室した担任の女性教員が出席確認を取る頃には、ようやく私の頭も事実として受け止められるようになった。
高校は義務教育ではない。故に、転校となれば転入試験を受験しなければ基本的には入学が不可能である。あの一連の事件が先週に起こった出来事である為、その頃には転入の為の準備をしていたか、それとも一度自主退学という形を取り、学校を去るしか方法はないだろう。
先程まで浮かれていた私の心は、一気に沈んで行った。今でもあの時の私の行動は正当な物であるという自負はあるが、それでも私の起こした行動によって、彼女の居場所を奪ってしまった事もまた事実である。それは、一個人として受け止め切れる程に軽い物ではなかった。
「では、今日から試験になります。日頃から復習していれば大丈夫だとは思いますが、皆さん頑張って下さい」
沈んだ気持ちのまま、担任教員の言葉を聞き逃しそうになった私は、その言葉に顔が跳ね上がる。
試験?
今日から?
ここ数日に発生した数多くの出来事が強烈過ぎて、試験の事など頭から抜けていた。その証拠に、私の鞄の中には祖母が作ったお弁当がしっかりと入れられている。それも二つも。
試験勉強など微塵もしていない。二日間も眠り扱けていた私だ。しかも昨日などは昼近くに起き、食事をした後は境内の掃除などを手伝い、ノートどころか教科書さえも開いていない。一気に目の前が暗くなって行くのを感じ、呆然としていた私は、半ば投げられるように飛んで来た問題用紙と答案用紙が目の前を舞っているのを見て我に返った。
「……あっ、と」
離れ小島となっている私の前の席は、席一個分近く離れており、前から回って来る問題用紙は、本来ならば前の席に座る女生徒が席を立って持って来て貰わなければ回って来ないのだが、それさえも億劫なのか、前の女生徒は前の席から問題用紙を突き出すように投げて来たのだ。
問題用紙はホッチキスで数枚が綴じられている為、その重さによって私の机の上に滑り込むように届いたが、一枚ぺらの解答用紙は、私の目の前で空を舞うように漂ってしまう。慌ててそれを掴もうとするが、薄い紙は出した手の風圧によって違う方向に流れてしまい、更に慌てた私は、まるで蚊を叩くようにして解答用紙を両手で挟み込んだ。
『パン』と驚く程に大きな音を立ててしまった事で、教室中の視線が私に向けられる。その視線に珍しく恥ずかしくなってしまった私は、勢い良く挟み込んだ為に、変に折れ曲がった解答用紙を持って静かに着席した。
「それでは、始めてください」
私以上に忌避されている丑門君は、床を滑らせるように解答用紙と問題用紙を渡され、それに対して文句を言う事もなく、拾い上げた解答用紙を広げていた。
試験監督となった教員の合図と共に、紙の擦れる音が一斉に響き、答案用紙に名前を書く音が教室を覆う。ここまで来れば、私も覚悟を決めるしかなく、筆入れからシャープペンシルと消しゴムを取り出し、解答用紙に名前を書いて行った。
一応、前の高校では成績上位者であったし、あの奇妙な出来事が起こるまでは復習も行っている。ここよりは都会の高校に通っていただけに、既に受けていた授業を再度受け直していた感じもあった。
『うん、これなら大丈夫だわ』
初日の初試験は数学だった。
元々、数学は苦手ではなかったし、前の学校で既に習得していた公式などばかりであった為、それ程悩む事無く筆を走らせる事が出来ている。この分で行けば、試験を見直す時間をしっかりと残して終わらせる事が出来そうだった。
余裕が出て来た私の耳に、不意に筆記用具を机に置く音が入って来る。何気なく音のした方向へ視線を向けると、隣の席に座る丑門君が試験に興味を失ったように窓の外を眺めていた。
試験が始まってまだ三十分も経過していない。私でさえもまだ試験の七割が終わった程度なのに、既に筆記用具を持つ気配すらない彼を見て真っ先に思ったのは、『諦めたのかな』という感想だった。
そう考えた私は、『自分はしっかりと解答用紙を埋めないと』と再度問題と向き合い始める。ようやく全ての答えを埋め終えた時は、試験終了十五分前であった。
「試験終了十分前です。終了している方は、もう一度見直しをしておいて下さい」
再度問題と回答を見直し終えた頃、試験監督の教員が試験終了十分前を告げる。入学試験などであれば、途中退室も認められるが、定期試験などでは認められない事も多く、この学校は認めない方針なのだろう。
不意に気になって窓側へ視線を向けると、そこに居る彼は腕を組みながら目を閉じていた。本当に眠っているのか、目を閉じているだけなのかは解らないが、その光景は何故か私の心に焼き付いたように残って行く。
青い空と白い雲、それを背景に座る黒い学生服を着た黒髪の男子生徒。まるで一枚の小さな額縁に入った絵のようなそれは、特段美しくもなく、珍しくもないにも拘らず、とても印象的な物であったのだ。
その後、もう一つの試験を受け、昼前には終礼となる。この日に私の苦手な英語がなくて良かったと心底安堵した。終了のHRの時には、明日の試験科目の時間割を担任が黒板に記載してくれた為、明日も英語はない事が解り、明日の分の試験勉強と共に英語に関してもしっかりと復習しておこうと心に誓う。
何故か、英語だけは苦手である。単語は覚えられても、その文法がさっぱり理解出来ず、訳す事が出来ないのだ。英語を流暢に話せる日本人によれば、英語で話したり聞いたりする時は、わざわざ日本語に訳して理解するのではなく、英語として理解すると聞いた事があるが、私のような凡才には理解出来ない。
やはり、これは何百年も続く神社の跡取りの血の影響なのだろう。そうに違いない。きっとこれは私の身体に流れる血の呪いなのだ。
「また明日」
そんな馬鹿な考えを続けながら鞄に筆記用具を詰めていた私は、既に他の生徒達が帰り支度を終えて廊下に出て行っている事に気付く。帰りの挨拶を交わしながら外へ出て行く生徒達を眺めながら窓際の席へ視線を向けると、ちょうど丑門君も帰り支度を終えて席を立った頃合だった。
筆入れを鞄に入れる私の手に、弁当箱を包む布に触れる。祖母が毎日作ってくれる美味しいお弁当が今日は二つあった。それを見て、今朝玄関で靴を履き替えている私に話し掛けて来た祖母の言葉を思い出す。
『深雪ちゃん、虎ちゃんはいつもお弁当持って来ているのかしら? 深雪ちゃんを助けてくれたお礼と、心配してくれたお礼に、虎ちゃんにもお弁当を作ってみたのだけれど、持って行ける?』
いつも彼は昼時になれば何処かにふらっと出て行ってしまう事、そしてその時に手に何も持っていない事を思い出した私は、祖母の勢いにも負けてその弁当箱を受け取ってしまったのだ。その弁当箱が今、私の鞄の中に入っている。
試験後という事もあり、いつもは何人か残っている生徒達も殆ど教室を出て行った事もあり、決死の覚悟で私の後ろを通り過ぎようとする彼へ声をかけた。
「少し時間を貰えませんか?」
突然掛けられた声と、私の表情に驚いた顔をした彼であったが、少し時間を置いて首を縦に振る。ただ、『自分と一緒に校門を出るのは止めた方が良い』と言って、以前私が一人でパンを食べた公園で待ち合わせる事となり、先に教室を出て行った。
私は教室の全員が出て行った後、鞄を持って立ち上がり、数日前まで離れ小島となっていた席の前に移動する。数日前には八瀬紅葉という女生徒が座っていた席。彼女が使っていたままの傷が残された机。その傷に指を少し這わせると、自然と涙が零れた。
「……ごめんなさい」
漏れた言葉は、小さな謝罪だった。
これが私の本心なのかもしれない。私は私の正当性を信じてはいるし、あの時感じた怒りを後悔もしない。だが、行き過ぎた点は否めないし、他に方法はなかったのかと問われれば答えに窮する。
客観的に見れば、命を狙われ、本当に死の淵に足を踏み入れてしまっていた事からも私が謝罪する必要などないのかもしれないが、彼女をあそこまで追い詰めてしまったのは間違いなく私であり、彼女と黄泉醜女を結び付けてしまったのも私かもしれない。
願わくば、彼女が他の高校に通い、そこで通常の学生生活を送れれば良いと思う。これもまた上から目線での言葉になってしまうのかもしれないが、今ここでしっかりと生きている私の本心であった。
改めて思えば、私のこういう所が他者から反感を受ける部分なのかもしれない。それでも、これが私であるので致し方ないのだが。
とにかく、私は今生きており、無視される程度であれば何の苦痛も感じない。むしろ願ったり叶ったりの物である為、生きてさえいれば良いのだ。そう考えると、やはり、八瀬紅葉という女生徒に対し、何処か申し訳ない気持ちが湧いて来てしまう。
「……さようなら」
だが、その気持ちをいつまでも持ち続けても仕方がない。互いに自業自得の部分がある以上、片方が重荷を背負う必要もないだろう。
やはり、私は他者から好かれる要素のない性格なのかもしれない。少し零れた涙をハンカチで拭った私は、鞄を持って廊下へと出て行った。
八瀬紅葉という女生徒が座っていた椅子には、数日前に漂っていた黒い影は微塵もない。ただ、解れた糸のような黒い線が、私の首の後ろに付いている事をこの時の私は知る由もなかった。
「ほら」
待ち合わせ場所の公園に辿り着くと、既にベンチには彼が座っており、その手には二本の飲み物が握られていた。
一本は炭酸飲料であり、もう一本は無糖の紅茶である。その内、紅茶の方を私への手渡した彼は、そのまま炭酸飲料のキャップを外し、豪快に三分の一近くを飲み干した。
彼から貰ったペットボトルを一旦ベンチに置いた私は、鞄の中から弁当箱を一つ取り出す。そのまま彼に向かってそれを突き出した私を、得体も知れない物のように見つめる彼の視線に苛立ち、捲くし立てるように用件を切り出した。
「こ、これはお礼です。何度も助けて下さり、ありがとうございました。そして、心配をして下さり、ありがとうございました」
「え? お礼なら、朝に言ってもらったぞ?」
心底不思議そうにこちらを見ている丑門君の顔からすると、彼は本当に朝に私が告げた簡素な謝礼だけで充分だと考えているのだろう。何とも簡単な男だろうか。命の危機さえも救ったにも拘らず、『ありがとう』の言葉だけで満足するなど、どう考えても異常としか思えない。
戸惑う彼の手にお弁当箱を強引に握らせた私は、そのまま鞄の中から私の分のお弁当箱を取り出す。お弁当箱は、私の分が赤の布、彼の分が青の布と色違いの布で包まれていた。
お弁当箱を手に取ったまま呆然と私を見つめる彼を余所に、私は布の結びを解き、膝の上でお弁当箱の蓋を開ける。私のここまでの行動でようやく我に返った彼もまた、ペットボトルをベンチに置いて、弁当箱を開き始めた。
「大きさが違うんだな……これは神山が作ってくれたのか?」
「私は女の子ですので、このくらいの量なんです。このお弁当は祖母が作ってくれました」
確かに、私と彼の弁当箱の大きさが異なっている。彼のお弁当箱は、私の物よりも二周り程大きく、よくあの家にこのサイズのお弁当箱があったなと思う大きさであった。だが、よく見ると、彼の弁当箱はなかなか年季の入った色形をしており、もしかすると、私の父が学生時代に使っていた物なのかもしれないと気付く。お弁当の中身の具などは変わらないが、一つ一つの量は明らかに多く、私であれば食べ切る事は出来ないだろうと思う程であった。
祖母が作ってくれたという言葉を聞いた丑門君は、私に向かって丁寧に頭を下げ、『ありがとう』と口にする。私と祖母からのお礼として渡した物にお礼を言われるというのも変ではあるが、それでもそのお礼の言葉は、とても心が温かくなる素敵で綺麗な物であった。
「いただきます」
「祖母のお弁当はとても美味しいので、よく味わって食べて下さい」
お礼の言葉を述べた後、これまた丁寧に食前の挨拶を口にする彼を見て、何故か私は嬉しくなる。そのまま祖母の料理の腕自慢を口にする私に、彼は小さな笑みを浮かべて頷きを返した。
箸で卵焼きを取り、それを口にした彼の表情を見た瞬間、私もまた笑顔を浮かべて箸を掴む。何も言葉を口にしないが、その表情を見れば、彼の中でのお弁当の評価は解るというものだ。
天気の良い公園には、昼時という事もあって、子供達の姿もない。梅雨入り前の五月の陽気は、寒くもなく暑くもなく、強い風が吹く訳でもない、穏やかで優しい物であった。少し食べてはお茶で喉を潤し、彼の表情とお弁当箱の消費速度を見て笑顔になる。それを繰り返している内に、お弁当を半分ほど消費した彼が口を開いた。
「八瀬が神山に謝っておいて欲しいと言っていたよ」
「え? 会ったのですか?」
お弁当の味の評価を口にするのかと思えば、その中身は私が驚く程の物であった。
先週末に転校なのか、自主退学なのかは解らないが、高校を去った八瀬紅葉という女生徒と話をする機会があった事が一つの驚きである。もしかすると、先週末に最後の挨拶として教室に現れたのかもしれないが、その時に丑門君から話しかけるという事はまず有り得ないだろうし、逆にこれ程に皆から忌避されている彼に対し、八瀬紅葉から話しかけるというのも考え辛い。故にこそ、どのようにしてその会話が成り立ったのかという疑問が出て来てしまうのだ。
そんな私の疑問を無視するように、彼は残っている卵焼きを口に納め、幸せそうな表情を浮かべる。それが非常に腹立たしく、先を促すように彼の横顔を睨み付けた。
「本当に美味しい……」
「わかりましたから、続き!」
暢気に卵焼きの感想を述べる彼に対し、私の堪忍袋の緒が切れる。先を促す怒りの声を聞いた彼は、微笑を浮かべながら、それでも白米を口に含んだ。
地団駄を踏みそうな程に苛立ちが増した私は、その想いをそのまま言葉に乗せ、彼に向かって放つ。白米を食べた後で先程買っていた炭酸飲料を口の含んだ彼を見て、私は少し顔を歪めた。
甘い炭酸飲料をご飯と一緒に食べる感覚が解らない。ピザなどであれば合うのかもしれないが、日本食には間違いなく合わないというのが私の持論であった。
だが、彼もそんな私の感性と似ているのかもしれない。炭酸飲料が喉を通ると、眉を顰めて舌を出した。
「お弁当を貰えるんだったら、お茶にすれば良かったよ」
「……でしょうね」
こんな彼の表情も、彼の言葉も、あの教室を共にしているクラスメイト達は知らない事だろう。知ろうともしていないだろうし、知る必要もないのかもしれない。教室内での姿と今の表情のギャップに、彼の言葉に同意を示した後で、噴出してしまった。
炭酸飲料のキャップを締めた彼は、お弁当を食べ終わるまでおそらくキャップを開ける事はないだろう。再び箸を取り、おかずを口に入れようとする彼に対し、もう一度私は催促の言葉を投げかけた。
「先週末に南天神社の鳥居の前で会ったよ。石段の下から神社を見上げていたから、『一緒に行くか?』と聞いたけど、断られた。あの時、神山に向けていたような気持ちはもうないようだったけど、実際に会って、また同じようになってしまうかもしれないからって言ってさ」
「丑門君から見ても、変わっていましたか?」
鳥のつくね風団子を口に入れた彼は、『これも美味しい』という言葉を口にする。祖母が作ってくれた食べ物の中に美味しくない物など有りはしないのだが、そんな素直な感想は、決して不愉快になる物ではなかった。
八瀬紅葉が豹変したのは、私への憎悪だったのだと思う。人が他人を憎む事に理由の大小はないのだ。本当に些細な事で、誰が考えても小さな事でも、本人にとっては殺してしまいたい程の憎しみを持つ理由である事もあるだろうし、逆に言えば、それは相手を殺しても許されるのではないかと思えるような事でも、謝罪の言葉だけで許してしまう者もいる。
私が八瀬紅葉という女生徒に行った行動や発した言動が些細な物だとは言わないが、それでも殺意さえ持つ程の事だとは思えない。あれは、何か別の意志が動いていたような気がしてならなかった。
「うん? ああ、そういえば、黒い影は見えなかったな。今の神山にも纏わり付いてないし。憑き物が落ちたっていうのかな、あれは……。あの時、鳥居の前で会ったような鬼気迫る感じではなかったよ」
「……『鬼気迫る』ですか」
『鬼気迫る』という言葉を辞書で引けば、『恐ろしいまでに真剣な様子』という意味が真っ先に出て来るかもしれない。だが、元々『鬼気』とは鬼の気配という意味であり、それ程に恐ろしく不気味な気配が迫って来るという物となる。
遥か昔から、この日本という国で最も恐れられていた生物は『鬼』である。人を喰らい、悪さをするという存在であり、その逸話は数多く残されていた。それ故に、それ程に恐ろしい気配を持つ者を人は忌避し、遠ざける。鬼の気配が迫ってくれば必死になるという意味合いも含め、現代では鬼気迫る表情や、鬼気迫る想いなどの使用方法があるのだろう。
思い返せば、八瀬紅葉という女生徒は、確かに何かに迫られているような気配を持っていた。あの一の鳥居では、私を殺せば何もかもが終わるとでもいうように言葉を漏らしていたし、その手や顔は、十代の女子の物ではなかったように思う。
あれは、黄泉醜女という鬼女が彼女を喰らう為に迫っていたからかもしれない。鬼は、海外に逸話の残る悪魔とは異なり、契約などを人間と交わす事はない。鬼と人とは対等な関係ではないのだ。故にこそ、私を殺す代わりに八瀬紅葉自身の命を差し出すというような事はないだろう。ただ、単純に、彼女の中にある私への憎悪が、黄泉醜女という鬼女を呼び寄せてしまったと考えるべきであった。
「まぁ、こう言ったら八瀬が激怒していたけど、あの鳥居にいた八瀬は、『鬼』そのものだったからな。昔見た事がある、般若の面のような感じだったよ」
「間違っても、華の女子高生を例える物ではないですね」
私が見た彼女も、失礼ではあるが、般若のような表情だった。額から角が生えていた訳でもなければ、牙を剥き出しにしていた訳でもない。それでもあの顔は『鬼』と表現せざるを得ない物であったのだ。
彼女は黄泉醜女という鬼女をこの現世に呼び寄せる鬼門を開き、その依り代となって、鬼に成り掛けていたのではないだろうか。女性が般若となるには過程があると云われている。角が完全に生える前で、角が皮膚に覆われた状態の突起として額に現れている状態を『生成』と呼ぶそうだ。彼女の場合、まだ突起物が額に現れていなかった為、その状態にまで達していない状態だったのかもしれない。
「でも、何か本当に憑き物が取れたように清々しい顔をしていたな。俺とも普通に話していたし。最後には、笑顔で神山への謝罪を口にしていたよ」
「そうですか。一歩間違えれば、私はこの世にいなかったのに、清々しい顔をしていましたか」
もしかすると、丑門統虎という人間にとって、自分と普通に話をしていたという一点が最も驚いた事だったのかもしれない。彼こそ、何処か清々しい表情をしており、その表情が何故か私のイライラボタンを押し、不愉快になって行った。
だからこそ、教室で自分自身が零した言葉を忘れたかのような皮肉を思わず口にしてしまう。私の不機嫌さが自分に向けられている事に気付いた丑門君は、苦笑を浮かべながら再び口を開いた。
「神山の平手もローキックも、一歩間違えれば命を刈り取りかねない威力を持っていると思うけどな」
「むっ」
流石に鬼の力を持った黄泉醜女と同等だと言われると腹に据えかねる。あの恐怖もあの痛さも、生まれてから十数年間の間で初めて感じた物であったのだ。本当に何度も何度も自分の『死』という物を覚悟したし、それこそ何度も諦めかけた。あれ程の恐怖を笑い話にされると、やはり気分が悪い。
そんな私の雰囲気を感じたのか、彼は素直に『不謹慎だった、ごめん』と謝罪をしてくれた。そのまま最後に残ったおかずを口に入れると、『ごちそうさまでした』と綺麗に頭を下げ、お弁当箱の蓋を閉じて行く。
箸入れに箸を戻し、包まれていた布で再びお弁当を包み直した彼は、それを手にしたまま私に向かって小さな微笑を見せた。
「本当にご馳走様でした。弁当箱は洗って返すよ」
「お粗末さまでした。お弁当箱は大丈夫ですよ。私が洗いますから」
私にまで食後の感謝の気持ちを伝えてくれる彼に自然と私も笑みが浮かぶ。また、お弁当箱を洗って返そうとするその気持ちも私が嬉しかった一因であった。
申し訳なさそうに私へとお弁当箱を渡す彼に自然と微笑が浮かび、彼もまた何処か照れ臭そうに微笑を浮かべる。傍から見れば、それは年若いカップルの青臭い青春の一幕に見えたかもしれない。
「だけど、結局あれが何だったのかは解らず仕舞いだったな。実際、あの黒い影は消えたし、学校の空気も幾らかは良くなったけど……」
「え? 学校を覆っていた物も消えたのではないですか?」
脇に置いていた炭酸飲料の蓋を開けて一口飲んだ彼は、あの黄泉醜女という存在を知らないようであった。確かに、一般的な学生の中で日本神話に興味を持っている者は少ないだろうし、それに関する書物も多い訳ではない。
今でこそ、色々な小説やゲームなどで、名を聞くようになった黄泉醜女ではあるが、一般的な認知度を考えると、彼のような反応が当たり前なのかもしれない。むしろ、あの姿と色々な要素から、あの場所が黄泉比良坂であり、その前に立っていたのが黄泉醜女であろうと考えた私の方が異常なのだろう。
そんな事を考えていた私は、彼の言葉の中で一つ気になる事があり、問いかける。あの不可思議な出来事の最後の日に感じた学校の状況は、彼の言うとおりにとても澱んでいたと思う。そしてその澱みも今朝には消えていたというのが私の印象であった。
「ん? いつからだか解らないけど、この町全体の空気が重いというか、何か澱んでいるような感じなんだよな」
私の方を見る事なく呟かれた彼の言葉は、私の耳へと届き、そして空気に溶けるように消えて行く。彼が見上げる空は、ここ数日の中でも珍しい程の雲一つない快晴。それにも拘らず、彼の視線を追うように見上げた私の目には、何処かどんよりとした曇り空に見えた。
翌週に掲示板に張り出された定期テストの結果が、私の心を覆い始めた暗雲を濃くして行く。予想通りの点数であった私の順位は学年二位。そして、上に一つしかない順位の場所に『丑門統虎』という名を見つけたのだった。




