後日談①
瞼の奥にまで届く程の眩い光によって、私は目を覚ました。祖父母の家にある私の部屋で、布団に入った状態で不意に目を覚ました私は、一瞬自分が何処にいるのかさえも把握出来ずに戸惑う事となる。祖父母の家にはベッドはない。それは私の部屋も例外ではなく、晴れた日には毎日天日干しをするその布団は、いつでもお日様の匂いがしていた。
暫く現状を理解する事は出来ずに天井を見つめていたが、一瞬目の前にあの黄泉醜女の目が見えた気がして、慌てて身体を起こす。しかし、それは私の錯覚だったのか、私の目にはまだ見慣れたとは言えない部屋の景色が入って来た。
「……あれ?」
私が着用している物は、学校に通う為の制服ではなく、寝る時に着替えているパジャマである。可愛らしい花柄模様のピンクのパジャマを着ている自分に気付き、私は再び首を傾げた。
私の記憶は、二の鳥居を潜った先にあった境内で終了している。あの時に見た、何かを宿した黄泉醜女の瞳だけはしっかりと覚えていた。身の毛もよだつと言えば良いのか、それとも身が竦むと言えば良いのか解らないが、全身が凍りつくようなあの感覚だけは身体の奥の奥にまで染み付いている。それこそ、思い出した今、身体が小刻みに震え出すほどに。
布団から上半身を起こした姿勢のまま、私は両手で身体を抱き締め、身体の震えが収まるのを待つ。力一杯に目を瞑り、力の入らない腕で身体を抱き締めるが、瞼の裏に張り付いたように、あの瞳が見えていた。
黄泉醜女の瞳が今も私を射殺す程の威力を持っている。実際にここにはいないと分かってはいても、記憶の中にあるその瞳の強さが私の身体を縛り付けていた。
「あら、深雪ちゃん起きたの?」
部屋に充満し始めていた黒い霧のような空気は、突如聞こえて来た優しい声で霧散する。本当に部屋の中の空気が一瞬で浄化されたように清められ、私の身体の震えも止まったのだ。
それと同時に目の前に現れた顔を見て、自然と涙が溢れ出す。私が大好きな人の、大好きな顔がそこにあった。優しく包み込むような笑顔。それを確認した私は、勢い良く抱きつき、恥も外聞も無く大泣きした。
今時、幼稚園に通う子供でさえもここまで泣き叫ばないだろうと自覚する程に泣き叫んだ私を祖母は優しく抱き締め、頭を優しく撫でてくれる。それがまた私の琴線に触れ、止め処なく涙が溢れ出して来た。
「ふふふ。そんなに大きな声で泣いていると、居間にいる虎ちゃんに笑われちゃうわよ」
「……ぐずっ……え?」
祖母の肩口に顔を付けて泣いていた私であったが、突然耳にしたとんでもない爆弾発言に涙どころか思考さえも停止してしまう。今、祖母が何を言ったのか、そして、私の頭を撫でながら何故笑っているのだろうか。そんな単純な事さえも考える事が出来ない程に私は放心状態に陥った。
そんな私の表情を笑顔で見つめていた祖母は、懐から手拭いのような布を取り出し、私の涙を拭き、鼻の周囲も拭き取ってくれる。泣き叫ぶどころか、鼻水さえも垂れ流していた事に私は顔を赤らめるが、それよりも先程祖母が口にした内容が気になり、顔を上げた。
「深雪ちゃんは、二日間も眠っていたお寝坊さんだから、虎ちゃんも心配して来てくれているのよ」
「……心配? えっ? 二日?」
一瞬、あの『丑門統虎』という名を持つ男子生徒が心配する姿を想像し、『似合わないなぁ』と暢気な感想を持つが、その前に何事もなかったかのように話した祖母の言葉に私は盛大に躓いた。
二日間も眠り続けるなど、正常な身体を持つ者であれば異常である。そんな異常事態にも拘らず、まるで何も心配していなかったかのように微笑んでいる祖母が不思議であった。
そんな私の気持ちを察したのか、祖母は優しく私の頭を撫でてくれ、ふわりと微笑みをくれる。
「今までとは違う場所に来て、色々と疲れていたのよ。でも、もう大丈夫。何と言っても、深雪ちゃんはおばあちゃんの孫なんだから」
色々と聞きたい事も、問い詰めたい事もあるが、それでも祖母がそう言うのならばそうなのだろうと思ってしまう。この場所に越して来て、初日から今まで色々とあり過ぎた。それこそ、私が今まで生きて来た十数年を足しても敵わない程の経験をしたと言っても過言ではないだろう。
故にこそ、その精神的な疲労から二日間の眠りを必要としていたと言われれば、納得が行くような気もする。ただ、それでも、あの不可思議な出来事が全て空想の出来事であればという条件が付くのだが。
祖母の口ぶりから考えても、あれらが全て夢であったとは考えられない。この場所へ越して来た私は、確かにあの黄泉醜女に纏わる一連の出来事に遭遇し、その上で生き残ったのは事実なのだ。黄泉比良坂から黄泉の国へと片足を入れた事は間違いがない。何かほんの僅かな差で、私の命は散っていたという事実を思い出し、再び身体が震えそうになった時に、私は肩を叩かれた。
「ほら、起きたのなら着替える。そして、顔を洗ってらっしゃい。もう直ぐ朝御飯だから」
本当に不思議な人だと思う。思い出し、再び私の心から溢れ出しそうだった恐怖は、祖母の顔を見た途端、霧散して行った。それに代わって心に届いたのは、『早く着替えて顔を洗って来なければ』という想い。それが不思議と嫌ではない。むしろ温かな気持ちにさせてくれる。
一つ伸びをしてから布団を出た私は、着替える為に脱いだパジャマから漂う汗の臭いに顔を顰め、ついでにシャワーを浴びる事にした。先程までと異なり、少し陽気な気分になった私は、鼻歌交じりに着替えを取り、お風呂場へと歩いて行く。その時には、先程まで泣き叫んでいた事を忘れ、またそれを止めた祖母の一言さえも忘れ去っていたのだ。
「あ?」
「え?」
だからこそ、風呂場へ向かう為に居間の前にある廊下を通らなければならない事も気にせず、そしてそこに今、誰がいるのかも考えてはいなかった。居間と廊下を隔てるのは、障子であり、その障子は開け放たれていて、居間で座っている人間と目が合う事になる。
完全にそこに他人がいる事を失念していた私は、パジャマのまま、そして手には下着を含めた着替えを持ったままで立ち止まってしまった。間の抜けたような声をお互いに発した後、彼の視線を追うように自分の身体を見た私は、自分の顔が熱を持って来るのを実感する。それと同時に、よく解らない感情が私の中で湧き上がったのだ。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁ!」
私の絶叫は、古い平屋であるこの家全てに響き渡った。それこそ、自室での号泣など霞む程の声だったに違いない。だが、私には、そんな事を確認する余裕はなく、そのまま風呂場へと駆け出した。
脱衣所の引き戸を開け、中に入った瞬間に戸を締めて鍵を下ろした私は、そのまま腰が砕けたように座り込んでしまう。息を整えようとする私の耳に、『どうした!』という久しく聞いていなかった祖父の怒鳴り声と、縁側の廊下を駆ける音が聞こえて来た。
居間の方で誰かが喚いている声がする。それが祖父の物なのか、それとも彼の物なのかはもう解らない。火照った頬を押さえながら何とか立ち上がり、逃げ込むように風呂場へと身体を滑り込ませた。
「ふぅぅぅ」
蛇口を捻り、シャワーコックから出て来る湯気の立つお湯を頭から被った私は、気持ちを落ち着かせるように深い溜息を吐き出す。熱を持っているお湯を被り、徐々に顔の火照りは抜けて行くが、心の火照りは収まらない。口から飛び出してしまいそうな程に激しい鼓動は一向に収まる気配を見せず、私は身体を抱えて座り込んでしまった。
何故、これ程までに心がざわつくのか。絶叫にも近い泣き声を聞かれてしまったからであろうか、それとも気の抜けたパジャマ姿を見られたからであろうか。そのどちらもであって、どちらでもないような気もする。
自分でも解らない感情が溢れ出し、暫しの間、私はシャワーコックから出るお湯を屈んだまま被り続けた。
「ようやく上がったの? 朝御飯は置いてあるからね」
私がお風呂場から出て来たのは、三十分以上が経過してからだった。
縁側の向こうにある庭先の物干し台に洗濯物を干していた祖母が振り返り、少し呆れたような表情をしている。確かに、着替えて顔を洗うだけであれば数分で朝御飯を食べに行く事が出来るだろう。それにも拘らず、居間付近で大絶叫した挙句に風呂場に閉じ篭ってしまえば、呆れもするというものだ。
縁側から見える空は青々と晴れ渡り、清々しい程である。あと1ヶ月もすれば、この地域にも梅雨前線と呼ばれる鬱陶しい物が停滞し、このような晴れ間を見る機会も随分少なくなるのだろう。
居間の方に見える日捲りのカレンダーの色は赤。世間が言うゴールデンウイークという週は既に通り過ぎ去った後である為、本日は何もない只の休日であるようだ。この分であれば、二日寝ていたとは言っても、学校を休んだのは僅か一日のようであった。
恐る恐る居間の中を覗くと、既にそこにあの青年は居らず、長ちゃぶ台の上に一人分の朝食だけが置かれている。大きな安堵と何故か小さな寂しさを感じながら私は空の茶碗へ炊飯器からご飯を装った。
「虎ちゃんなら、深雪ちゃんの絶叫を聞いて帰ったわよ」
「うぐっ」
台所にあった味噌汁を温め直し、それをお椀に注ぎ終わった私は、ようやくゆっくりと朝御飯を食べ始めたのだが、卵焼きを口に含み、それを味わうようにご飯を口に入れた時に聞こえた祖母の声に喉を詰まらせる。慌てて胸を叩く私に、祖母はそっと麦茶を出してくれ、それを一気に飲み込む事で、九死に一生を得た。
荒い呼吸を繰り返しながら、恨めしそうに睨む私の視線を気にする事もなく、微笑を絶やす事のない祖母は、再びその口を開く。
「昨日も来てくれたんだけどね。深雪ちゃんが、学校をお休みしたから心配してくれたみたい」
「うん……何度も助けてもらったから、お礼を言わなくちゃ」
彼には本当に何度も命を救って貰った。
今でも、昨日までに私が体験した事が現実の物だとは信じ難いし、記憶と共に曖昧な物ではあるが、それでも彼が居なければ、この朝御飯を食べる事は出来なかったであろう事は理解出来る。今頃は、黄泉路を渡り切り、黄泉の国の住人に成っていたのかもしれないし、あの黄泉醜女と同じような存在になっていたかもしれない。
状況が状況だっただけに、私はきちんとお礼をしていない。先程など、礼を伝えるどころか悲鳴を上げ、彼に更なる迷惑を掛けてしまう始末だ。
昨日、私が置かれた状況を本当に理解してくれるのは、彼と八瀬紅葉という女生徒だけであろう。その上で私の身を案じてくれていた彼に対して、なんと不誠実な対応を取ってしまったのだろうと珍しく落ち込んでしまった。
「ふふふ。大丈夫、虎ちゃん笑っていたから。『元気そうで良かった』って。おばあちゃんね、深雪ちゃんが虎ちゃんと一緒に帰って来た時に思ったの。『やっぱり、深雪ちゃんは私の孫だな』って。『やっぱり、深雪ちゃんは私の大好きな自慢の孫だな』って」
「なにそれ?」
私はお箸を口に咥えたまま、首を傾げる。余談だが、もしここに祖父が居たとしたら、私は厳しい叱責を受け、頭に拳骨を貰っていただろう。お箸から手を離していないし、食器を持ち上げても居ない為、『くわえ箸』ではなく、箸先を噛む事をしていない為に『噛み箸』でもない。箸に付いた食べ物を舐め取ってもいないから『ねぶり箸』でもないのだが、小さな頃から、祖父はとても行儀作法には厳しかった。
他の事ではほとんど私を怒る事はなく、厳格でありながらも常に優しく見守ってくれている祖父だが、神社の跡取りとして生きて来たからなのか、全てに於いての行儀作法にだけは厳しいのだ。もしかすると、そんな口煩い家が嫌で私の父はこの家を出て行ったのかもしれない。
挨拶、食事の作法は当然の事、昔ながら日本家屋の為、畳の縁を踏んではいけない、座布団を踏んではいけない、床の間に荷物を置いてはいけない等々、あらゆる事に私もお小言を頂いたものだ。
当時の私はその禁止事項の理由が全く解らなかったが、それでも祖父が言うのであればそうなのだろうと納得し、可能な限りそれを護って来た。その理由が解った今となっては、その制約がむしろ日本らしくてとても好きになっている。
「なんでもない。ただ、虎ちゃんとお友達になった深雪ちゃんは、色んな事を経験して、楽しんで、苦しんで、悲しんで、いっぱい笑うのだろうなって思ったの」
「どういう事なのか、ちゃんと教えてよ」
さっぱり要領を得ない祖母の言葉に軽い苛立ちを感じた私は軽く頬を膨らませながら抗議の声を上げるが、祖母は微笑を浮かべたまま立ち上がる。そのまま『早く食べちゃって、お手伝いしてね』と言って、居間を出て行った。
釈然としないまま、言葉の消化不良を起こした私は、憮然としたまま食事を再開し、こちらは消化不良にならないようにするしか出来ず、祖父も祖母も居ない一人の食事は久しぶりではあったが、寂しいと感じる暇もなく、朝食を全て平らげるのだった。




