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日本書鬼  作者: 久慈川 京
第一章 鬼気迫る
11/35

其の拾





 その瞬間、私の視界を埋め尽くしていた絶望が晴らされた。

 黄泉醜女越しに見えていた洞窟のような景色も消え去り、私の目の前には見慣れた夕暮れ時の景色が広がり始める。

 この町限定の物ではなく、私がこの世に生を受けてから生きて来た『日本』という国で見る事の出来る、何の変哲もない夕暮れ時の景色。橙色に染まった空、暗く染まって行く雲、徐々に灯り出す街灯の明かり。その全てが見慣れた景色であり、私が生きている証のようにも思えた。


「神山、こっち!」


 言いようの無い感動に心が満たされて行く事を感じていた私の耳に、突き刺すような叫びが轟く。顔を上げれば、坂の上から手を伸ばす彼の姿が見える。

 私が生まれて初めて興味を持った人間であり、何故か感情をそのままにぶつけてしまう人間。この町の全てから忌み嫌われているような存在でありながらも、それに怒りをぶつける事無く、寡黙で真っ直ぐな『丑門統虎』という一人の男子生徒。

 この町に来てから私の身に奇妙な出来事が起こり始めている。そしてその全てから私を救ってくれていたのは、間違いなく彼であろう。安堵と嬉しさから溢れ出す涙を拭う事無く、私はその大きな手を握った。


「走れ。神山の後ろを俺も走るから、南天神社まで振り返らずに走れ」


「う、うん」


 私を背中に庇うようにした丑門君は、視線を前へ向けたまま、私へ指示を出す。だが、ここに来て、私の身体は安堵を感じた為なのか、思い出したように細かく震え始めていた。

 無意識に足は震え、それが止まる気配は無い。『カチカチ』と噛み合わない歯が鳴り、脳が出す静止の指令を無視するようにその音は鳴り続けている。丑門君を真っ直ぐに見て返事をしているにも拘らず、その焦点は合ってはいなかった。

 そんな私の空返事を聞いた彼は警戒をしたまま振り返り、小さな笑みを浮かべて私の頭の上に手を置く。以前にも彼はこの行動を起こしたが、それは同年代の女性に対して向ける物ではなく、小さな子供に対しての接し方のように感じる程、自然で温かく、そして優しい物であった。


「俺が居るから、神山は後ろを気にしなくても良い。ただ前だけ見て、南天神社目指して走れ。大丈夫、心配するな」


 愚図る幼子をあやすように話すその言葉は、何処か祖母を思い出させる温もりが込められていた。何の確証もない『大丈夫』という言葉が、絶対の信頼が置ける程の強さを持っているようにさえ感じる。祖母が持っているような不思議な雰囲気が私を包み込み、身体の芯から湧き上がっていた震えが徐々に収まって行った。

 徐々に合って行く私の目の焦点が、前に立つ丑門君を捉えるのを確認すると、彼は再び後方へと鋭い視線を向ける。それが合図になり、私は自分の身体に残る全ての力を振り絞り、再び駆け出した。

 既に緩やかではあっての坂道は上り切っている。後は比較的平坦な道を走り、神社へと続く階段の麓を目指すだけ。祖父母の家でもある南天神社の階段の麓には大きな鳥居があり、百四十九段の階段を上り切った所にももう一つ鳥居がある。二の鳥居は、俗界と境内を隔てる境界線の役目を果たすが、一の鳥居の意味は私にも解らない。

 ただ、一の鳥居を潜った後でも、階段を上る途中で私の体調に変化があった事を考えれば、一の鳥居の向こうが即神域という訳ではないのだろう。私の祖父母が暮らす南天神社の境内もまた、二の鳥居を越えた先にある。百四十九段の階段を上り、『始終苦』を祓った後に神域に入ると考えれば、二の鳥居を潜るまでは安全とは言えないのかもしれない。


「ほら、行け」


「うん」


 徐々に迫って来る黄泉醜女から視線を外す事無く発せられた丑門君の言葉に、今度はしっかりと私が反応を返す。力強く頷きを返すと、身体の中に残っている全ての力を動員して、既に視界に入っている一の鳥居目指して駆け出した。

 先程とは異なり、自分が全力を出している事を感じられる。しっかりと足は地面を蹴り、息が切れ、肺が圧迫される苦しさも感じていた。だが、その苦しみは、私が未だに現世に留まっている証拠であり、生きている事を実感出来る喜びでもある。その全てが僅か数分前に現れた一人の青年の影響である事は事実であり、現在の私が縋り付く事の出来る唯一の希望でもあった。

 流れて行く周囲の景色など目に入らない。徐々に大きくなって行く一の鳥居だけ目指し、私は直走る。後方を振り返る余裕も無い。私を追って来るような足音は常に耳に入って来るが、その足音は私の希望である青年が発する物である事を信じていた。

 彼が『大丈夫』だと言ったのだ。だからこそ、私が後方を心配する必要はない。何時の間にか、私の中で『丑門統虎』という男子生徒は、祖母と同等の信頼を寄せる程の存在になっていた。


「……あと少し」


 息も切れ、心臓の鼓動も肺も爆発しそうな状況になろうが、私は懸命に足を動かす。一の鳥居の奥に見える百四十九段の階段が見えて来ると、自然と言葉が漏れた。

 あと数十歩、あと何回か足を回転さえれば、私の足は階段を踏みしめる事が出来る。ここ数日で味わった苦労を払い、神域である境内へ入れば私は助かる。何故かその想いは、希望や憶測ではなく、私の中で確信に近い物となっていた。

 だが、そんな私の確信は、一の鳥居に寄り掛かるように立つ一人の影によって打ち壊される事となる。

 私が通う事になった高校の制服を着て、手を後ろに隠しながら真っ直ぐにこちらを見つめる女生徒。その姿を見た瞬間、私の足は自衛本能の元、急速に回転数を落として行った。


「……八瀬さん?」


 その女生徒は、私の後方から走って来る丑門君以外で、唯一私が名前を憶えている人間。転入した学校の中で、まだ二人しか名前を覚えていないという事が良いか悪いかは別として、名前を覚えてしまう程に印象深い人間である事だけは確かである女生徒であった。

 しかし、その姿は、私の知る『八瀬紅葉』という女生徒とは、ほど遠い物。思わず疑問系で問いかけてしまう程に彼女の姿は変わり果てていたのだ。

 私を射殺すように見つめる目は、白目が解らない程に真っ赤に充血し、赤い血の海に黒目が浮いているようである。脱色し、綺麗にカールを掛けていた髪は、疲れ切ったように水分も油分も無くして乱れ切っていた。


「何で死んでないの? 早く死んでよ」


 一の鳥居から離れる時に、苦痛を感じるように僅かに顔を歪めた彼女は、私から視線を外す事無く、徐々に私へと近づいて来る。その圧迫感、そして纏う負の感情は、先程まで相対していた黄泉醜女の物と大差がない程に強力であり、再び私の身体は恐怖によって硬直を迎えた。

 八瀬紅葉の身体は私へ近づいて来る。だが、私の身体は少しも動かない。素早く避けて、境内へ続く階段を駆け上がれば良いのかもしれないが、脳が身体へ指令を出さないのではなく、私自身がその思考へ辿り着く事が出来なかった。


「もう、お願いだから死んでよ。アンタが死なないと……」


 何処か魔力のような物が宿った言葉。それは脅迫ではなく、懇願。只、只管に私の死だけを願う言葉。それは言霊のように私の心を縛って行った。

 身動きも出来ず、心も縛られる。その願いを叶えなければならないという強迫観念を持ってしまう程に言霊の力は強く、私に向かって来る八瀬紅葉が伸ばした手を払い除ける事が出来ず、再び明確な『死』を受け入れる事しか出来ない。

 伸ばされた腕は、最早女子高校生の物ではなく、『人』の物でさえなかった。生気を失ったように皺が寄り、爪はどす黒く濁っている。それに加え、血が本当に通っているのかと疑いたくなる程に土色に変色した手が私の喉元へと迫っていた。


「死んでよ! 早く死んで、私を返して!」


 呪詛のような『死』の言霊が頭に響く。唾を飲み込み、動いた喉元を彼女の片腕が掴んだ。それと同時に襲う圧迫感。気持ちの問題ではなく、実際に息が出来ない程の圧力が喉を襲う。それが、八瀬紅葉が伸ばした手が私の喉を鷲掴みにした為だと気付いた時には、喉に彼女の爪が食い込み、皮膚を突き抜けてからであった。

 その力は、とても女子高校生が持つような次元の物ではない。掴まれた瞬間から呼吸自体が止められてしまう程の力であり、次第に私の身体は、重力に反するように地面から離れて行った。それは、以前に教室内で起こった出来事の再現のようでありながらも、全く異なる部分を持つ。何故ならば、私の身体を持ち上げているのは、不可思議な存在ではなく、しっかりと存在する同級生であるからだ。


「アンタさえ死ねば……死ね! 死ね!」


「ぐっ……が、が……」


 片手で私の身体を持ち上げる程の力を込めていながら、更にもう片方の腕も私の喉を締め付けようと伸ばす八瀬紅葉のようなそれは、確実に、明確に、私個人を殺そうと動いている。そこに戸惑いも、躊躇いもない。ただ、それだけが正しい行為であり、正しい意志なのだと信じているかのように、突き進んでいた。

 私は、恐怖を感じる余裕さえもない程に、混乱していたのだろう。何故、ここまで恨まれるのか、自分の手を血に染めてまで殺したいと願う恨みとは何なのかなど、様々な思考が私の頭の中を巡る。それは、既に酸素が脳へ届かなくなっている事の証明だったのかもしれない。


「やり過ぎだ」


 暗転して行く視界の中、既に鬼の域に踏み込み始めた八瀬紅葉が伸ばしたもう片方の腕を掴む手が見えた。それと同時に私の耳に入って来る声は、今では祖母と同等の信頼を寄せる者が発する物と酷似している。手放しかけた意識が急速に戻り、喉を掴む腕を私は何度も叩いた。

 その行動が功を奏したのか、それとも別の要因があったからなのかは解らないが、私の身体は完全に宙を舞う事となる。まるで気に入らない玩具を放り捨てるかのように、私の身体は投げ飛ばされ、アスファルトの道路に叩き付けられた。

 喉の圧迫から開放され、一気に吸い込まれた酸素は、叩き付けられた衝撃で再び肺に留まる事となる。息が詰まるような衝撃と痛み、そしてその後に咳き込むようにしながらも必死で酸素を吸い込む度に走る激痛が、私が受けていた力の強さを物語っていた。


「立て、神山! 早く階段を上がれ!」


 蹲るように咳き込む私に浴びせられる容赦のない指示。だが、それは、決して私を苛む為の物ではなく、私の命を優先してくれているからの言葉である事は理解出来る。それは、ゆっくりとではあるが立ち上がろうとした私の側に近づいて来た黒い影が証明していた。

 既に陽も落ち、街灯の灯りだけが頼りの薄暗い中でもはっきりと視認出来る程の影。それは最早、『闇』と表現しても過言ではないだろう。だが、認識は影や闇という物であるのに、私にはその姿がはっきりと見えた。

 あれ程に水気を失っていた筈の髪は、八瀬紅葉から奪ったように、漆黒でありながらも流れるような美しい物へと代わっており、裸であった筈の身体には、美しい着物が身に付けられている。派手ではないが艶やかで、煌びやかなその着物は、その女の存在を際立たせ、何故か異様なまでに似合っていた。

 しかし、相変わらず目元は見えず、真っ赤に浮き出ている唇を歪めてゆっくりと近づいて来るその姿は、恐怖以外の何物でもない。身体中の痛みに耐えながらも、必死に立ち上がった私は、痛みと恐怖で震える足を叩き、必死に石段を上り始めた。


「八瀬! このままじゃ、お前は孤立するぞ! その辛さは俺を見ているお前が一番解っている筈だろ!」


 私の後方から丑門君らしき叫び声が耳を突く。それは、自分の事だけで必死であった私でさえも涙が溢れそうな程の悲痛な叫びであった。

 やはり、彼も今の状況は口にも態度にも出さないが、辛いと感じているのだろう。それでも、そういう状況に自分が落とされているにも拘らず、相手を想って叫ぶ事の出来る彼の優しさが、私の胸に突き刺さった。

 そんな彼の言葉に被せるように何かの叫び声のような物が聞こえるが、石段を駆け上がっている私の耳には細かな内容までは聞こえない。その代わりに私の耳には、あの黄泉醜女が発する息遣いのような物が聞こえていた。


「……たすけて……たすけて、おばあちゃん」


 ここ最近、必ず私を窮地から救ってくれたスーパーマンのような男子生徒は、一の鳥居で八瀬紅葉という女生徒を抑えてくれている。最早、私が頼る事が出来るのは、あの不思議な力を持つ祖母だけだった。

 今になって思えば、どれ程に強がっても、どれ程に虚勢を張っても、私の中身は年相応の女性なのだろう。予測出来ない出来事に遭遇すれば混乱し、対応出来ない事になれば取り乱し、どうしようもない事に当たれば泣き叫んで助けを請う。それは、表面には出さずとも心の奥底で小馬鹿にしていた学生達と何も変わらない。化けの皮が剥がれた私は、有象無象の学生と何一つ変わらない、何処にでもいる人間であったのだ。

 痛みを無視し、疲れを無視し、懸命に石段を駆け上がっているにも拘らず、耳元に聞こえて来る息遣いは近づいているようにさえ感じる。もう、真後ろに黄泉醜女が居ると錯覚する程にその気配が迫って来て、私の神経も狂い出しそうになった頃、遠く離れた場所からのような、耳元のような、奇妙な音が聞こえた。


『ぶちん』


 正確な音は表現出来ない。何かが千切れたような、何かが引き剥がされたような、生理的に受け付けがたいそんな音が私の耳に入って来たのだ。

 思わずその音の出元を探すように首を動かした私の視界に突如現れた顔。それは、一の鳥居で見た、あの闇の女性。黄泉醜女と言うには美しいその姿からは想像も出来ない程のおぞましい笑みは、私の身体から全てを奪って行った。

 気力、体力、生気までをも奪われ、石段を上がる足がもつれる。倒れ込みそうになる身体を抑えるのに必死になり、恐怖も相まって黄泉醜女から視線を外した私の心の中には、既に絶望しか残っていなかったかもしれない。残る体力を振り絞って動かしていた足の速度は落ち、哀しみと苦しみで顔が下がる。だが、耳元で黄泉醜女が囁く言霊が聞こえて来るようで、諦めと懺悔を含め、最後にもう一度あの家を見ようと必死に顔を上げた。

 恐怖に縛られた私の視界には、ようやく見えて来た二の鳥居。朱色に染まったその鳥居が目の奥に飛び込んで来たその時、私の身体の奥底に眠っていた何かが爆発した。

 一気に湧き上がるその力は、火事場の馬鹿力なのか、それとも他の何かなのかは解らない。それでも、真横に居た黄泉醜女が伸ばして来た腕を振り切るように、石段を踏みしめた私の足には、今までに感じた事のない力が漲っていた。


『黄泉路に踏み入れた以上、戻る事など許されはしない』


 朱色に染まった二の鳥居まであと数段。通常であれば僅か数秒で駆け上がれるその数段が、今はとても高い。足に力は戻っている。それでも周囲の時間の流れが止まっているかのように足が前に出る速度がもどかしかった。

 これが死を前にしてみる『走馬灯のような景色』なのだろうか。そう思える程に二の鳥居までの距離は縮まらず、それに反して何かの制限でも取れたのか、一飛びで千里を駆けるその力の片鱗を見せ、まるで私を弄ぶかのように再び真横に現れた。

 生理的に嫌悪感を抱くようなあの笑みを浮かべ、伸ばされた細い腕を私は最早避けようがない。あの掴めば折れてしまいそうな細い腕も、その実は全てを捩じ切る程の力を有しているだろう。あの腕に掴まれてしまえば、私は黄泉路を越え、黄泉の国の住人となってしまうのだ。


 嫌だ。

 嫌だ。

 死にたくはない。まだやりたい事も沢山ある。まだ見ていない場所も、行った事のない場所も、読んだ事のない本も、学んだ事のない物も、見た事も聞いた事もない物も、沢山ある。

 恋だってしたい。誰かを好きになって、誰かに好きになってもらって、その誰かの為に笑って、泣いて、胸を痛めながらも胸をときめかせたい。まだまだ、生まれて十数年しか生きていない小娘の未練だけが漏れ出す。

 そんな私の表情を横目に浮かべた黄泉醜女の笑みは、そんな私の未練も執念も、悔やみ恨みも養分であるかのように歪んだ物であった。


「たすけて、おばあちゃん……」


 最後に私の口から漏れた言葉は、ここまでの道程で何度も口にした他者に救いを求める言葉。自分という人間の小ささと浅ましさと愚かさが、自分自身の心に突き刺さるその言葉を、今日、私は何度口にした事だろう。

 どれだけ虚勢を張ろうとも、私は私自身で何かが出来るような人間ではないのだ。他者と距離を取り、ましてや他者を見下す事の出来る程の人間でもない。人間としての器の小ささを実感しながら、迫る闇の腕から逃れるように、朱色に輝く二の鳥居へと手を伸ばした。


「お帰りなさい、深雪ちゃん」


 黄泉醜女の腕が私の肩に掛かったのと同時に、私が力なく伸ばしたその手は力強く握られ、一気に二の鳥居の中へと引き上げられる。何が起きたのか解らず、呆然とする私の瞳に、あれ程に焦がれた祖母の笑顔が映っていた。

 いつものような柔らかく包み込むように優しいその笑顔を認識すると同時に、私の視界は涙によって歪んで行く。自分でも解らないが、『もう大丈夫だ』という絶対的な安心感がそこにはあった。

 黄泉醜女がその時何処にいたのかは解らない。いや、もう私が気にする事ではないのだと理解した。私の前には大好きな祖母がいる。それだけで良かった。それだけで、私は何も恐れる必要などないのだ。


「深雪ちゃん、お鍋に火を掛けたままだから、ちょっと見て来てくれるかな?」


 優しい笑顔のまま、祖母が口にした言葉は、そんな私の考えを後押しするかのような、本当に日常的な物であった。お使いを頼まれるだけ。先程まで感じていた私の恐怖は、最早、虚空へと消え去ってしまったのではないかと感じる程に、祖母の言葉に緊張感は欠片もない。

 だが、未だに呆然とする私に、『ね?』と後押しした祖母は、私から視線を外し、二の鳥居の向こうへと顔を向ける。必然的に私の顔を鳥居の向こうへと向く訳で、そして、当然のようにそこに居る物が目に入った。


「ひっ」


「大丈夫。深雪ちゃんは私の孫だから大丈夫。さぁ、お鍋が焦げちゃうから」


 二の鳥居の向こうに立つそれは、先程まで愉悦に歪んだ笑みで私を追っていた黄泉醜女そのもの。ただ、一の鳥居を潜る前に見た、艶やかな姿ではなく、学校などで見た姿に近しい物へと変わっていた。

 先程まで艶やかであった黒髪からは水分が抜け、着ていた筈の煌びやかな着物の色は褪せ、真っ赤に染まっていた唇は土色へと変化している。薄汚れた麻の着物のような色に変わった着物を着て鳥居の向こうに佇む黄泉醜女の髪の毛が、何処から吹きぬけた一陣の風に靡いた。

 その瞬間に私の息が詰まる。髪の間から見えた瞳は、真っ直ぐに祖母へと向けられ、その瞳には憎しみと恨みが目一杯に詰まっていたのだ。見る者を魅了する程に色濃い憎悪。私はその瞳から目を離す事が出来ず、その殺気に当てられたかのように身体が震え出した。


「鬼によって既に引き剥がされたお前がこの鳥居を潜るのか? 依り代もなく、天津神を祀るこの神域へと入るつもりか?」


 一瞬、それが誰の声か解らなかった。だが、その声が耳に入った瞬間、あれ程に震え、強張っていた私の身体が、呪縛が抜けたように動き始める。その声は、確かに私の横から聞こえていた。しかし、私の隣にはいつも朗らかに微笑む祖母しか居ない筈である。

 顔を向けると、そこには見た事のない人の横顔が見えた。既に齢六十を越えた人間の横顔ではなく、何処か浮世離れし、人間という種からも離れた年若く、何よりも美し過ぎる女性の横顔があったのだ。

 しかし、驚きの余り、何度も瞬きを繰り返す内に、その年若い女性の横顔は消え、見慣れた祖母の横顔に戻って行く。今のは何だったのかと再び瞬きを繰り返す私を余所に、事態は終局を迎えていた。


「これは大神の知るところか? お前の独断であろうな。もし、大神の意志ならば、八雷神(やくさのいかづちがみ)も共にあろう。現世に鬼気を誘うだけならいざ知らず、神域に踏み込もうなど、身の程を知れ。良いか、一歩でも踏み入れば、お前は何も残らぬぞ」


 再び年若い、人間離れした美しさを持つ女性へと変わった祖母の横顔が聞き覚えのない言葉を口にする。大神とは、黄泉醜女の主であり、黄泉の国の主でもある、黄泉津大神の事なのだろうか。私の頭に、先程祖母が発した単語が渦巻き、そして八雷神へと考えが及んだ時、そんな思考が吹き飛ぶ程の奇声が耳を突き刺した。

 二の鳥居を挟んで対峙する祖母と黄泉醜女。その均衡を黄泉醜女が破ったのだ。憎悪の篭った瞳を向け、一歩踏み出す黄泉醜女。その薄汚れた麻の着物が鳥居の中へと入った瞬間、それはこの世から消滅した。

 そして、それに遅れて入って来ようとした足もまた、見えない壁に触れた瞬間に蒸発するように溶けて行く。同時に発せられた黄泉醜女の物と思われる絶叫が、私の鼓膜を通り越し、直接脳へと襲い掛かった。


「QGaaaaaaaaaa」


 言葉にならない絶叫が私の脳を揺さぶる。直ぐにでもここから逃げ出したいと思う気持ちに反し、私の視線は、黄泉醜女に釘付けになっていた。

 劈くような苦痛の叫びを発しながらも、黄泉醜女は尚も鳥居を抜けようとしている。だが、鳥居を抜けている筈の黄泉醜女の身体の一部は、私達側には現れず、消滅したように消え失せていた。

 そこで私は見てしまった。先程まで、憎悪を込めて祖母へ向けられていた黄泉醜女の瞳が、標的を変えたように私へと向かっている事に。その瞳に魅入られたように、私は視線が外せない。脳に直接響く絶叫と、怨嗟が宿った瞳が、私が見聞きした最後の物であった。

 そして、私はそのまま気を失っていた。




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