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日本書鬼  作者: 久慈川 京
第一章 鬼気迫る
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其の玖




 身体が震える。

 それはもう小刻みというレベルではない。

 上半身だけではなく、下半身も振るえ、上体が揺れ動いているのが解る程、私の身体は脳の指令を拒否して震え続けていた。

 その原因は、坂の上で未だに微動だにしない一つの影。全く動く事なく、私を見下ろしているそれは、私へ近づいて来る訳でもなく、そこから私へ何かを成そうとしている訳でもない。だが、それでも私の身体の震えが止まる事はなく、頭の中でそれが動かない事を理解して尚、この身を刺すように届いて来る明確は『死』を連想させていた。


「……」


 声など出る訳がない。喉が焼け爛れたかのように痛む。何時間も、何日も水分を取っていなかったのではないかと思う程に乾いた喉からは呻き声さえも出ては来なかった。

 それでも私は来た道を戻るように駆け出す。後ろを振り返る余裕など無い。全速力で駆ける足は、本当に地を蹴っているのかを疑いたくなる程に空回り、何度も転倒しそうになりながら、それでも私は駆け続けた。

 学校に戻ろうとは欠片も思わない。私が帰る場所は祖父と祖母の待つ、あの鳥居の向こうなのだ。

 この町は狭い。高層ビルも、高層マンションも無く、立ち並ぶ家屋も二階建ての家ばかりである。そんな昔からある町の中心を護るように聳える小山の上にある神社。それが私の帰る場所なのだ。来た道を戻るのではなく、別の方角からその小山を目指して駆ける私の視界に、赤く染まった鳥居が見える。その小山の麓に辿り着くまで、坂道をあと二つという場所に来て、坂道によって鳥居が隠れてしまった。


「ひぃ!」


 代わりに見えて来た物は、あの裸婦。

 先程と同じように坂の上から私を見下ろす黒い影。

 その姿は坂の上の番人のように、行く者を遮る。


「……どうして」


 先程、この裸婦が立っていた坂は、この場所からかなり離れた場所にある。それにも拘らず、時間と空間を飛び越えたようにこの場所に立っている影に私は言葉を失った。

 この場所の坂道は、先程の坂道よりも短く緩やかである。必然的に裸婦の影と私の距離は先程よりも近くなり、迫り来る『死』の臭いは強くなっていた。肌に突き刺さるというよりは、肌に纏わりつく生温かい風のような臭い。表現のしようのない『死』そのものが、影の立つ場所から私に向かって流れて来ていた。

 一度纏まりついた『死』の臭いは、私の身体を覆い、ねっとりと張り付いて来る。それが私の心の中にある恐怖を呼び起こし、再び身体を大きく震えさせた。今日の朝に感じていたような倦怠感を感じ、目の奥から響く鈍痛が襲い掛かって来る。もはや、それは頭痛という状態など遥かに越え、鈍痛が響く度に、視界が赤く染まっていった。

 夕焼けによる赤ではなく、血液が漏れ出しているようなどす黒い紅。再びその場所を離れようとする意思はあれど、足が動かない。根を張ったようにアスファルトに吸い付いた足の裏は、気持ちとは裏腹に剥がす事が出来なかった。


「!!」


 どれぐらいの時間、その場所に立ち尽くしていただろう。息をする事さえも忘れてしまったように影を見上げていた私の中では数時間が経過したかに思えたが、それは僅か数秒にも満たない時間だったのかもしれない。

 明確な『死』が私の身体を蝕んで行く。それが自覚出来る程、私の皮膚に黒い何かが纏わり付いていた。だが、後ろへ下がる事も、坂の上にいる影から目を離す事も出来ず、只々立ち尽くすだけしか出来なかった私の視界が突如変わる。纏わり付いていた『死』の象徴によって景色が変わった訳ではない。それが僅かに近づいただけ。


「え?」


 僅か一歩分ではあるが、私と裸婦との距離が縮まった。理解が出来ない。何故なのかという思考が答えに辿り着けない。それでもまた一歩、私と裸婦との距離が縮まって行く。視線は裸婦に固定され、腕も首も指さえも動かない。それにも拘わらず、私の足だけは、ゆっくりと坂道を上り始めていた。

 そこに私の意志など微塵もない。私の脳は足の命令無視を非難し、警報という痛みを発生させる。だが、それでも全身を刺すような痛みを無視し、私の足は前へと進んで行くのだ。足が前へ出る度に全身に痛みが走り、視界は狭まって行く。視界が狭まって行くにも拘わらず、私の視界から裸婦の姿は消えない。

 その裸婦の姿が真っ赤に染まって行く。それは、先程まで感じていた視界の充血のような赤ではなく、完全に陽が落ち始めた事によって染まり始めた景色であった。

 私は、裸婦と対面しながらも、かなりの時間を立ち尽くしていたのだろう。時は夕暮れ。黄昏時へと入っていた。


『もう駄目だ』


 私の頭に諦めの文字が流れる。

 『黄昏』とは、幾通りの意味を要する言葉であった。未だ電気という文明が日本にはなく、夕暮れ時になれば明かりは無くなり、すれ違う者の顔さえも解らないという時代に、『誰そ彼(誰ですか、あなたは?)』という言葉が変化し、『たそかれ』となったという説もある。すれ違う者が何者かも解らない状態は、自分以外の者を見失う時でもあり、人間が生きるべき時間と空間からも逸れてしまうという説さえもある時間帯でもあった。

 『黄昏る』という動詞は、そんな生気を失った者が呆然と佇む様を表す説もあり、また、陽が暮れて行くという事から、人間が衰える様を表すという説もある。

 『黄昏』は『こうこん』と読み、『たそがれ』と読ませている当て字なのだ。何故、この文字が当てられたのか。私は本を読みながらこの当て字の由来を考えた事がある。『昏』とは、訓読みで『くらい』と読む。夕暮れ時の暗くなって行く様からもこの字が使われているのかもしれないが、『黄』が当てられる理由が私には解らなかった。

 『昏』という文字は、『昏倒』や『昏睡』、『昏迷』などのように、余り良い意味では使われない。そして、私が何度も耳にしている言葉である『黄泉』という言葉も当て字に近いのだ。『黄泉』にも『黄』という字が当てられている。黄泉へ近づく者を誘う時間。それが『黄昏』なのではないかとさえ思う程であった。


『おいで』


 そんな場に合わない考えに耽っていた私の頭の中に、あの声が直接響いて来る。ふと気付けば、既に私の目の前にあの影があった。

 乱れた髪を垂らし、痛ましく荒れた真っ赤な唇が私に向かって歪むように吊り上がる。周りを見回しても、周囲に誰一人おらず、私は完全に黄昏に迷い込んでしまっていた。

 手を伸ばせば届きそうな距離にも拘らず、その影は私に何かをする様子はなく、ただそこに在り続ける。近づく『死』の臭いと、その影が発する何かによって、私は恐怖に縛り付けられた。硬直する筋肉を無視するように動く足が、私の脳に激痛を伝えるが、それでも抗う事など出来る訳もなく、私はその影と横並びになった。


『深雪ちゃん!』


 今から思えば、私は軽い失禁さえしていたかもしれない。それ程に恐怖に縛り付けられていた身体が、急に開放された。

 脳裏に響いた優しい叫び。私という人間だけに送られた優しい叱責と激励。瞬時に頭に思い描かれる優しい笑顔。その全てが私の身体を恐怖から開放してくれたのだ。

 だが、我に戻っても急に身体が動く訳ではない。強制的な前進は止まっても、振り返る事は出来ず、私の視線は前方に向けられたままであった。

 私の左手から発せられる威圧が、あの裸婦が今も私の横にいる事を物語っている。私の前方は、夕焼けに染まったいつもの景色。一歩踏み出してそのまま駆ければ、数分で南天神社へ続く長い階段へ辿り着けるだろう。それにも拘わらず、私の身体の中にある何かが足を踏み出す事を拒否していた。

 『黄昏』、『黄泉』、『裸婦』、『坂道』。この数日で遭遇した全てが、ようやく私の中で繋がった気がしたのだ。この一歩を踏み出せば、私は二度とここには戻って来る事は出来ない。二度と祖父と祖母に会う事は出来ず、あの笑顔を見る事は出来ないだろう。それは予想でも想像でもなく、確信に近い物であった。


『貴方は、神山という苗字を継いだ、おじいちゃんと私の孫です』


 その言霊が私の頭の中に甦る。今朝、玄関先で祖母から伝えられた言葉は、あの時の私では欠片も理解出来ない物であった。だが、あの祖母が、この状況を予測していたとすれば、あの時、あの場所で私へ告げた言葉が意味のある物だったのだろう。不可思議な出来事ではあるが、あの祖母であれば不思議ではないと思えるのだから、祖母の異常さが解る。

 しかし、思い浮かんだ、私の大好きな祖母の笑顔が、私の身体に力を漲らせた。その力は全身に隈なく行き渡り、私の足を強制的に動かす。

 縛り付けていた何かを引き千切るように方向転換した私の視界に裸婦の頭部が移り込んだ。そこには口元しか見えないながらも、先程の歪んだ笑みの消えた姿のまま私へ顔を向けている影があった。目も鼻も、全て荒れ果てた髪で覆い隠されているにも拘わらず、そこから溢れる憎悪と明確な『死』の臭いで、私の視界が歪んで行くのが解る。それでも私は全身の力を振り絞り、後方へと駆け出した。


「はぁ……はぁ」


 駆け出したのは良いが、ここまで全身を蝕んでいたどす黒い何かに奪われた気力と体力が戻った訳ではない。即座に息は切れ、走る速度が落ちて行く。それでも後方を振り返る余裕はなく、私は道を右へと曲がり、大きく迂回するように先程の坂道の上へ辿り着ける道を走り続けた。

 時は黄昏。太陽が齎す光という恵みは衰え、闇が支配権を持つ夜へと移り変わる頃。それにも拘らず、すれ違う人間もいない。そればかりか、見える家屋に電気という文明の光が灯る様子も無い。私だけが別次元に落ちてしまったかのような気になる程にこの町全体が異常に満ちていた。


「おばあちゃん……たすけて」


 私は最早、溢れて来る涙を理性で止める事が出来なくなっていた。ボロボロと零れ落ちる涙を拭う暇もなく、夢中で走ってはいるが、本当に夢の中で走っているように地に足が着かない。足だけが空回りをし、前へ進む速度は亀のように遅かった。

 救いを求める声が無自覚に零れる。助けを求めた相手は、私が最も頼りとする身内であり、いつでも私の味方で在り続けてくれた祖母。

 幼い頃から、その声で名前を呼ばれれば嬉しくなった。その笑顔を見れば自然と笑顔が零れた。その手を握れば、心の底から安心した。父も母も家に居る事の少なかった私にとって、いつでも側にいてくれ、私の話を最後まで笑顔で聞いてくれる祖母だけが、本当の意味での肉親であったのかもしれない。

 父や母が私を愛してくれていなかったとは思わない。だが、その愛は私には届いていなかった。忙しかったのだと思う。私という子供を育てる為に二人とも必死だったのだと思う。それでも、私を見てくれない二人の親よりも、いつでも私を見てくれる祖父母の方を私は頼りとしていたのだ。


「えぐっ……えぐっ……どうして」


 嗚咽を零しながら、大回りして先程の坂道の上へ出る道を走っていた私の視界に映った影に絶望する。南天神社に辿り着く為には、どこをどう走っても、必ず坂道を上らなければならない。そこに緩急の差はあれど、小山の上にある神社へ向かうには坂を上る事が絶対不可欠な行動なのだ。

 そして、比較的緩やかな坂道の上には、当然のようにそれが居た。既に夕暮れ時も終盤を迎え、夜の帳が降り始めている。それでもその影は夜に溶け込む事は無く、むしろはっきりと己の存在を主張するようにそこに立っていた。


「もう駄目……」


 祖父を想い、祖母を想い、何とか踏ん張っていた私の心の壁が崩れて行くのが解る。最早逃れる事など出来ないのだろう。私の目の前に居るのは、世にある小説や映画に登場するような怨霊などではない。直接私を害し、私を殺すという悪霊でもない。

 ここ数日間で起こった奇妙な出来事は、おそらく全てこの裸婦が関係している事は間違いない。彼女が直接手を出したのは、教室内で八瀬紅葉という生徒が攻撃を受け、それを迎撃するように動いたときだけ。それ以外は全て私を含め、『死』の入り口に辿り着けるように誘う事だけであった。

 時には他者を動かし、時には器物を動かし、着実に私の周囲を『死』で満たして行く。そして、今日、それは完成し、私は『死』への入り口に立ってしまったのだ。

 その場所こそ


黄泉比良坂(よもつひらさか)……」


 あの裸婦が立っている坂の上の向こう側は黄泉の国であり、裸婦が立っている場所こそ、黄泉への入り口なのだろう。死者の国であり、死後の国。仏教の観念である地獄という物などではなく、日本神話に於ける死者の国である。

 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の妹であり、妻でもある伊邪那美命(いざなみのみこと)が治める国であり、腐敗と闇が支配すると謂われる国なのだ。伊邪那美は別名で黄泉津大神(よもつのおおかみ)と呼ばれるその国の支配者であった。

 そして、私の想像どおりであれば、その黄泉比良坂の前に立つ裸婦は、黄泉津大神の下僕である黄泉醜女(よもつしこめ)に間違いない筈だ。この鬼女は、一飛びで千里の距離を走る足を持っている。一里という距離は日本では約4kmであるから、約4000kmの距離を飛ぶように走る事が出来るのだろう。それであれば、神出鬼没とも言える行動の証明にもなる筈だ。


『おいで』


 思考も意識も保ってはいるが、その誘いには抗えない。再び何かに拘束された私は、自分の意思と真逆の行動を始める。筋肉を引き千切るような痛みを伴いながら、私の足は一歩、また一歩と前へと進んで行った。

 この時の私の感情は、絶望に近いものだっただろう。抗う事も出来ず、それをする気力も萎え、諦めに近い想いを抱きながらも、その恐怖を押さえ込む事が出来ない。涙で視界が歪み、嗚咽は止まらない。そんな私を嘲笑い、愉悦すら感じているかのように、黄泉醜女の口元が歪んだ。

 祖母の顔を思い浮かべても、祖父の顔を思い浮かべても、私が二人の孫である事を自覚しても、あの不思議な力を持つ祖母の血が私にも流れていると信じていても、最早どうにもならないという事実だけが、私を埋め尽くして行く。私と黄泉醜女との距離が徐々に縮まって行くにつれ、涙で潤んだ瞳に黄泉醜女の姿が鮮明に映り始めた。


「ひっ!」


 その姿が見える事。

 それは、私自身が確実に『死』へと近づいている事の証明なのかもしれない。

 想えば、誰にも見えないこの黒い影が裸婦である事を私だけが気付いていた。そして、最初は視界の隅に一瞬映った程度の物だったが、日が経過するにつれ、それを視認する回数も時間も多くなって来ていたのだ。

 それは、この裸婦の発していた言葉通り、私自身が黄泉比良坂を辿っていたからなのかもしれない。黄泉の国へ一度足を踏み入れれば、神様でもなければ戻る事は出来ない。『黄泉がえり』とは、黄泉の国から戻る事を意味するが、実際には死んだ者を生き返らせる事は出来ない。心肺停止の状況から息を吹き返すという奇跡をどの位置付けにするのかは解らないが、黄泉へと落ちた者が現世へと戻る事は、日本の母神でもある伊邪那美でさえも不可能な事なのだ。

 つまり、私の命もあと数歩で終わるという事。


「おばあちゃん……おばあちゃん……たすけて……」


 口に出て来るのは、私がこの世で最も頼りにしている人への哀願。どうしようもない状況である事は誰よりも理解している。それでもあの人ならば、この状況からでも助けてくれる。そう想える程に私にとっての祖母は強い存在であった。

 だが、そんな祖母が応えてくれる様子はない。私の悲痛な声は誰にも届かず、黄泉醜女の姿が近づいて来る。その口元から笑い声さえも聞こえて来そうな程に私の身体が近づいた時、その容貌がはっきりと確認出来た。


 それは『鬼』であった。

 私が小さい頃から絵本で見て来たような赤鬼、青鬼のような物ではない。

 それでも、それは『鬼』だった。


『おいで』


 乱れ、脂分もない髪の毛の隙間から小さな角のような物が飛び出ており、乾き切っているにも拘わらず真っ赤に染まった唇の端から牙のような物も出ている。髪の毛に隠れ、目は見えない。だが、歪めた薄い唇から見えた牙が、人間ではない事を明確に表していた。

 痩せ細った体躯には似つかわしくない乳房を揺らし、浮き出た肋骨がそれを支えている。下腹部を覆う物さえも身に着けておらず、陰部を隠す恥毛が見えていた。明らかに現代に居てはいけないその存在だが、この黄昏時に関してだけ言えば、私の方が場違いな存在なのだろう。

 そんな黄泉醜女の目の前に立つ頃、私の瞳から溢れ続けていた涙は止まっていた。先程その横に立った時とは異なり、黄泉醜女の後方の景色は様変わりしていたのだ。

 住宅が並ぶアスファルトの道路は消え、岩場の洞窟のような景色。どこまで続いているのか想像すら出来ない深い闇は、そこが踏み入れてはいけない場所である事を明確に物語っていた。

 『おばあちゃん、おじいちゃん、ついでにお父さん、お母さん、さようなら』。自然にそんな言葉が頭の中で漏れてしまう程、私は自分が直面したこの場面が絶体絶命の状況なのだと理解してしまっていた。

 抗えない命令。

 避けられない運命。

 全てを諦め、全てをそんな言葉で受け入れる私は、悔しさも、憎しみも、怒りも、何もかもを忘れてしまったように、歩を進めて行く。生と死の境界線は既に私の目にもはっきりと見えていた。その線を踏み越えてしまえば、その時点でこの世から『神山深雪』という人間は消え失せてしまうのだろう。

 祖母の顔が過ぎる。祖父の顔が過ぎる。私の短い人生が走馬灯のように流れ始めた頃、あの声が聞こえたのだ。


「邪魔!」


 『神山深雪』という人間の根底を変え、この先で歩む長い道さえも変更させてしまう者の発した声。

 それは黄昏に染まる世界を一変させてしまう程の力を持っていた。




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