序説
私の全ては、丑門統虎という一人の男性から始まったのかもしれない。
彼と出会うまで、曲がりなりにも一人の女性としての十数年の人生を歩んで来ていた私ではあるが、私自身の内を流れる血を意識したのは、彼と出会ってからだと言っても過言ではない事は確かである。
恐怖の対象としての男性から、気になる男性へ、そして何にも代え難い存在へと変化して行く想いに戸惑いながらも、私という人間をこの広い世界へと引き上げてくれたのは、丑門統虎という何処にでもいる、少し捻くれた青年であった。
だが、身が引き裂かれる程に悔しくはあるが、彼の全ては私から始まった訳ではないのだろう。
彼の全ては彼が九歳の時に誕生した唯一人の妹によって始まり、彼の全てが妹に注がれ、そして、彼の全ては妹の為に終えたのだ。
非常に腹立たしく、憤りしか感じないが、彼の一番は『丑門幸音』という少女であり、その場所は誰にも譲られる事はなかった。
ここで愚痴を言っても始まらない事は私でも理解はしているのだ。思い出す度に腹が立つ事ではあるが、まずは私こと、神山深雪と丑門統虎の出会いについて語ろうと思う。
あれは、私がまだ十七になる誕生日を迎える前の事。
とある高校へと私が転校をする時まで遡る。
「神山深雪と申します。祖父母と暮らす事になり、この町に越して参りました。幼い頃に何度か里帰りで来ていた町ですが、解らない事も多く、色々とお聞きする事もあるとは思います。よろしくお願い致します」
高校二年の春。しかも、5月という中途半端な時期に、私は編入試験を経て、父方の実家のある町の平凡な高校へと転校する事になる。地元ではそれなりの上位に入る高校ではあったが、卒業後の進路は大学へ進む者とそうでない者が半々程という地方都市にある普通の高校であった。
親の都合といえば聞こえは良いが、単純に両親が離婚する事になり、生活力のある父親に引き取られた私が、未だに健在の祖父母の元で暮らす事になっただけの話である。父の仕事は忙しく、海外出張なども頻繁にある為、高校生という多感な娘を自宅に一人にする事を嫌ったのだろう。私としても、四十歳という年齢を超えても男女としての恋愛感情に振り回されている両親に辟易していた為、渡りに船と思い、祖父母の家へ行く事にしたのだった。
「神山さん、視力は大丈夫ですか? では、一番後ろの空いている席へ」
「はい」
三十代半ばの女性教員は、当たり障りのない言葉をクラスの生徒へと掛けた後、私に向かってもこれまた当たり障りのない質問を投げかけ、私が頷くのを確認すると教室で唯一空いている席を指差した。
そこは窓側にある最後尾の席の隣。
その何とも中途半端な席が、今の自分を明確に表しているように感じ、私は小さく笑みを溢してしまう。そんな私を不思議そうに見る担任教員に頷きを返し、好意的な視線と排他的な視線を一身に浴びて教室の後方へと歩き出した。
「!!」
しかし、まるで教室の全てを独り占めにしたような優越感は、教員に告げられた席に座ろうと椅子を引いた瞬間に弾け飛んだ。
椅子を引く際に何気なく視線を向けた窓から差し込む太陽の光が、私を飲み込む程の影を作り出したように感じたのである。窓から差し込む陽光だけでは影が出来る訳はない。当たり前の事ではあるが、陽光を私より先に受ける者がいてこそ、影は生み出される。それは、私の隣の席の級友となる一人の人間であった。
その人物は机の上に何も乗せず、学校特有の固い椅子に背を預けたまま、窓の外をぼんやりと眺めている。何一つ変わった様子のないその人間は、黒い詰襟の学生服を着た男子生徒であり、私が恐怖にも似た圧迫感を感じる要素など何一つなかったのだ。
「はいはい。神山さんへの質問などは、休み時間に行ってください」
恐怖と圧迫感に襲われ、座る事さえも出来なかった私の身体を再起動させたのは、ざわめき出した生徒を窘める担任教員の声だった。
感じていた世界が可笑しいと思う程に日常的な光景が広がる教室を改めて見回した私は、恥ずかしさを隠すように素早く席に座る。ただ、これ程に騒々しい教室内の空気も、窓側に座る隣人の興味を惹くものではなかったらしく、彼は微動だにせずに窓の外を眺めたままであった。
その後休み時間の度に私の許へと集まって来るクラスメイト達に辟易しながらも、私の意識は窓際の隣人へと移って行く。
彼は休み時間になっても、必要以上に席から動く事はなく、何も口を開く事もなく、唯黙って窓の外を眺め続けていた。時折ふらりと席を立つのは、女性である私が口にする事ではないが、トイレにでも行っていたのだろう。
そして、転校初日の終盤に差し掛かって、私はある疑問を持つ事になる。それは、休み時間の度に私が窓側の隣人を気にしていた事に起因する。そう、私は休み時間ごとに必ず窓際の隣人を視界に納めていた。休み時間の度に押し寄せて来るクラスメイトが多数いるにも拘らずだ。
窓は私の席の左手にある。つまり、押し寄せて来るクラスメイト達は、何故か私の席の左側には立たない。全ての生徒が正面か右側に集まっている。まるで、私の左手が危険地帯かのように、左側だけぽっかりと空間が開けられてしまっていた。
故に、私は何時でも窓際の隣人を視界に納める事が出来たのだ。
不思議に思い、気になり始めると、そこだけが異様な空間に見えて来る。次の授業の間、窓際の彼の周囲を注意深く見ていると、彼の席とその前の席が異様に離れている事に気づいた。
本来であれば、私の席の前の女子生徒のように、椅子の背凭れが後ろの机に当たる程の距離しかない筈なのだが、彼の前の席は席一個分とまではいかないが、半個は入る程の距離が空いている。そして、私の前の女生徒の席も、私の席よりも右側に寄っている事に気付く。
その窓側だけが別世界のように、異なる空間で生きていた。
「神山さんの家って、あの山の上の神社なの?」
「えっ? ええ、そうですけれど……」
終業のベルが鳴り、HRの時間が終わると、我先にと生徒達は教室から出て行く。
そのまま帰宅する者、部活などに出る者、遊びに出る者など様々であったが、私は窓側の彼の背中が廊下へと消えて行くのを目で追いながら、鞄に教材を詰めていた。そんな私に声を掛けて来た女子生徒は三人のグループで、真ん中にいるリーダー的な存在が私の父の実家である場所を言い当てる。
私の父の実家は、この町に古くからある神社であった。『神山』という苗字も、神が住む山を管理する者という呼称が結びついた物と云われ、一説には千年以上も続く神主の家系であるとさえ云われている。
父はその一人息子であったが、決められたレールを歩みたくはないという、己を知らない若者の決まり文句を口にして、大学入学を機に都会へと出て行き、その場所で就職したのだ。
千年続く神社の跡取りを失ったにも拘らず、祖父母の対応は温かな物であった。息子のやりたい事をやりたいようにすれば良いと、その行動を容認し、父を勘当する事もなかった。
私は、毎年のように里帰りとしてこの町へ来る事があったし、たまに来る孫を祖父母は本当に愛してくれた。神社の神主らしく厳粛な雰囲気を持つ祖父ではあったが、私に対しては良き祖父であり、いつも笑みを浮かべながら私と遊んでくれていたし、祖母はちょろちょろと動き回る私に苦笑を浮かべながらも、いつも何らかのお菓子を手作りしてくれた。
この人達の血の一部が私にも流れているのだと思うと、今でも胸が温かくなり、自分が幸せな人間なのだと思う。
「私達の帰り道も向こうの方なの。良かったら、一緒に帰らない?」
私が鞄に全ての教材を入れ終わるのを待っていたかのように、真ん中に立つ女性が声を発した。
転校初日という事で、転校などした事のない私でもある程度は覚悟していたが、まさか下校まで誰かと一緒にするとは考えていなかった為、一瞬反応が遅れてしまう。その反応の遅れが、彼女達から見れば戸惑いや不快のように感じられたのだろう、先程までの自信に溢れた表情が一変した。
「あ、いや……迷惑だったら、そう言って」
「ご、ごめんなさい。突然の事で、驚いてしまって。是非、ご一緒させて下さい」
手を胸の前で振りながら、気を遣うように言葉を発する女子生徒を見て、悪い人間ではない事を理解した私は、慌てて頭を下げて共に帰る事を了承する。
神山深雪という人間は、正直に言えば人付き合いが得意ではない。いや、むしろ苦手と言っても過言ではないだろう。
以前に暮らしていた場所は、この町よりも都会にあり、人間関係は希薄であった。友達という人間は表面上の物でしかなく、別に毎日登下校を共にする必要もなく、学校内の休み時間中の談話に対して適当に相槌を打つだけで良かったのだ。
私は基本的に他人が好きではない。正確に言えば、他人に興味がないのかもしれない。他人の性格がどのような物であろうと、私にとって害が無いのであればどうでも良いし、他人が何に興味を持っていようと、私には全く関係がない。
この世界で生きる人間は、私にとってその程度の存在であった。
「前の学校では、学校が終わったら遊びに行っていたの?」
「……いえ、私は余りそういった事はしていませんでした。帰りに本屋に寄る程度でしょうか」
そんな私は今、下校の道の途中で、クラスメイトの矢継ぎ早な質問に適当な相槌を打っている。以前の高校で転校生の扱いを見ていただけに、自分もまたこのような状況になるだろうと予想はしていたが、今の状況は自分でも俄かには信じられない。
もしかすると、生まれて初めて私の他人に対する興味を奪って行った窓際の隣人の影響で、私自身の何処かに変化が生じてしまったのかもしれない。クラスメイトの意味のない質問を右から左へと流しながら、私はそう感じていた。
そして、彼女達の質問がある程度の落ち着きを見せた時、私は初めて他人に疑問を投げかける事となる。
「私の左隣の人は、どのような人なのですか?」
生まれて初めての他人への疑問は、その場の時を凍らせてしまった。
自宅へ帰った私は、自分に与えられた部屋の整頓をしながら、先程のクラスメイトの話をぼんやりと考えていた。
私が生まれて初めて興味を持った人間は、思い出すだけで今でも体が震える程の恐怖を私に齎している。私一人など易々と飲み込む程の影を、あの男子生徒が作り出した証拠など何処にもない。だが、それでも私はあの男子生徒に恐怖を感じ、目も合せていないにも拘らず、泣きたくなる程の圧迫感を感じていた。
気のせいだと一蹴するのは楽な事である。実際私もそのように思っていたし、今でも心の何処かでそれを望んでいる。だが、あのクラスメイト達の反応が、私の感じた物が只の間違いでない事を推測させた。
「ふぅ……何だか、本当に田舎って感じね」
私はそう独り言を呟く。
別にこの場所を蔑んでいる訳ではない。だが、一つの町という狭い世界の一高校という更に狭い世界の中で、排他的に接しようとする人間の気持ちが私には理解出来なかった。
確かに私は他人に対して興味はない。だが、それは反対に言えば、相手が誰であろうと、私を害するつもりのない人間は皆平等であるという事でもある。誰に対しても同じように接するし、誰かを排する欲望も無いのだ。
だが、あの高校では……いや、正確に言えばこの町では、あのたった一人の男子生徒を大多数が避けているという。避けているというよりは、その存在自体を認めていないと言っても過言ではないだろう。
誰も彼に話しかけなければ、誰も彼に近寄りもしない。まるでその存在自体が悪であるかのように、彼は町全体から忌み嫌われていた。
以前に私が通っていた高校でも、いじめのような物はあった。いじめられっ子を庇う事は、自分が次の対象に立候補する事に等しい為、見て見ぬ振りをされている事が多く、毎日のように言葉や腕力での暴力が続く事もある。
だが、それでもそのいじめられっ子の存在は認められているのだ。その人間の存在があるから、いじめる人間も成立するし、中には同情や憐れみを感じた者が手を差し伸べる事もある。
「何故、あそこまで嫌われるのかしら」
空になった段ボールを折り畳みながら、私は窓側の隣人の顔を思い浮かべた。
何度かある休み時間の中で、私が彼の顔を見たのは二度しかない。一つは彼がトイレにでも行く為に立った時。そして、二つ目は彼が食事にでも行く為に席を立った時である。
決して美男子ではない。芸能人になれる程に眉目秀麗という訳でもないが、決して醜い顔をしている訳でもない。普通というには目立つ容姿ではあるが、注目の的になる程目立つ物でもなかった。
つまりは、表現し難い容姿である。中の上から上の下と言ったところだろうか。自分自身の容姿を棚に上げての話にはなるが、私自身は自分の容姿を上の中ぐらいだと思っている為、これはこれで許して欲しい。
だが、狭い狭い世界であっても、全校生徒が300人超の高校であれば、少なからず彼に好意を寄せる女性がいても可笑しくはない容姿を持っていたとも言えるだろう。
「余り詮索して、私が標的になるのだけは避けないと」
あのクラスメイト達は、結局真相を教えてはくれなかった。何か言い淀むように口を閉ざし、お互いに顔を見合わせながら苦笑を浮かべる。そんな姿を見て、私は初めて自分が禁忌に触れてしまった事を知ったのだ。
口にするのも阻まれる程に忌み嫌われる存在など、人間以外の存在しかいないだろう。彼はもしや妖怪の類なのかと考え、私は自分の馬鹿馬鹿しい思いに思わず笑ってしまった。
父の実家が神社とはいえ、私に霊験あらたかな力がある訳ではない。それは私の祖父母も同様である。確かに私の家系である『神山家』は千年に渡りこの神社を護って来た。その血筋が途絶える事はなく、直径筋には必ず子が残されている。それこそが神の力の成せる技なのかもしれないが、その血筋に特別な力が宿っている訳ではない事は、その血を受け継ぐ私が誰よりも理解していた。
子供の頃から遊び場としていたこの神社にある古い書物などを読んだ事もあるし、その類の話が好きだという事は否定しないが、私自身、霊的な物を見た事は生まれてこの方一度たりともない。
「深雪ちゃん、ご飯よ」
「あ、うん。今行くわ」
自分の馬鹿馬鹿しい考えに苦笑を浮かべている間に、祖母からの声が聞こえて来る。手に持っていた『日本書紀』を本棚に仕舞った私は、祖母の作る温かい夕飯を食す為に居間へと向かった。