かりそめの家
「なんだ?」
背後から声をかけられ、再びミイは飛び上がる。
「あ、あ、あの……。あれ……あれは一体……、な、なんなんなん……」
ミイは数歩後ずさりしながら、シンクを指差した。
トン、と背中がカシュールカにぶつかる。
ミイが見上げれば、カシュールカの顎が見えた。
「なんだ。いいよ、あんなのは放っておいて」
「でも、シンクが使えないと何もできないですよ」
「じゃあ何もしなくていいだろ。ああ、おまえの飯か。まあ、一食くらい食わなくても問題ないよな。まさか誰かがここに住み着くなんて思ってなかったから、うちに食い物なんてないんだよ。嫌だったら、出て行ってくれても一向に構わないけどな」
「いえ、大丈夫です。わかりました」
ミイは鳥肌のたった腕を抱えながら答えた。
仕方がない。この台所をどうするかは、明日考えよう。
ご飯を一食ぬくぐらい、カシュールカの言う通りどうってことはない。
何日もろくな飯を食べられなかったこともある。
「え、いや、冗談だって。本気で夕飯ぬくつもりかよ。あの怪しい紙に賄い付きって書いてあったんだろ? 仕方ねえなあ、もう……」
カシュールカはズボンのポケットに手を入れて、何かを探している。
「怪しい紙ではなく、職業安心所でもらった紹介状です」
「ああ、そう。ま、いいや。これ、夕飯代な。これでその辺の飯屋にでも行って適当に食べて来いよ」
それをミイに手渡す。夕食を食べるのには充分な金額だ。
「あの……あたしのご飯はともかく、カシュールカさんたちは……」
「俺たちは、別に食べなくても支障ないし。働いてないから、食う必要もないってわけだ。俺なんて、今日一日家から一歩も外に出てない。サクだって、ずっと酒飲んでただけだしな。そりゃあ腹も減らねえって」
「そう……ですか」
「そうそう。な、サク」
サクが微かにうなずく。
「わかりました。じゃあ、外出させてもらいますね」
「おう、美味いもん食って来いよ!」
カシュールカはそう言うと再びサクの前の椅子に座り、乾燥させた肉へ右手を伸ばしている。
左手をひらひらと振り、早く行けと言わんばかりだ。
ミイは軽く頭を下げて礼を告げると、硬貨を握りしめたまま家を出た。
往来にはまだ多くの人の姿があった。
これから酒場にくり出す人、仕事帰りの人、夜会へ向かう人……。
馬車がミイの目の前を通り過ぎて行った。
ミイは立ち止まり、たった今出てきたばかりの家を見上げる。
ありふれた、石作りの二階建ての家。
これからしばらくのあいだ、厄介になる家だ。
用を済ませたら、さっさと姿を消す。
それまでの間の、かりそめの家だ。
ミイは周囲を観察しながら、ゆっくりと歩き出した。
人通りが多いとはいえ、時間が時間なだけに、女の一人歩きは危険かもしれない。
早々に夕飯を食べて戻った方がいいだろう。
そう考えて手近な店に入ろうとしたその時、背後から肩を叩かれた。
ミイは内心びくりとしながらも、次の瞬間にはその驚きを表情の下に隠してゆっくりと振り返る。
「よっ」
そこに立っていたのは、顔なじみの少年だった。