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職業安心所の紹介状

 部屋の中には甘い香りが漂っていた。


「ごめんくださーい」


 ミイはドアから家の中を覗き込んだまま、声をはりあげる。

 先ほどのノックに対する返事はなかったものの、ドアを押せば開いたので、留守ではなさそうだと判断した。


 ミイは耳を澄ませた。

 定期的なリズムを刻みながら聞こえてくる微かな音。


「ごめんくださーい。誰か、いらっしゃいませんかー?」


 ガタン、と大きな音が聞こえた。

 ミイはびくりとしてほんの少し飛び上がる。


「あ……」


 音のした方に視線を向ける。

 一人の青年と目が合った。

 青年はちょうど椅子から立ち上がったところだった。


 身長は成人男性の平均くらいだろうか。

 線が細く、一見しただけでは女性と見間違えてしまいそうだ。

 色素の薄い金髪が顔の左半分を覆っている。

 右の瞳の色は髪の色よりやや濃い、ダークブラウンだ。


 その青年は、ニコリと笑った。


 ミイはそれを見て安堵する。

 青年の人の良さそうな笑顔に、つられて微笑んだ。

 優しそうな人で良かった。


「あの……」


 ミイは口を開きながら一歩、家の中に踏み込んだ。


 ガタン、と再び音がする。

 笑顔の青年が後退した際に、椅子にぶつかった音のようだ。


 え? あたしは、何もしていない。


「あ、あの、違います。不審な人間じゃないんです。えっと、職業安心所で、こちらを紹介してもらったので……」


 ミイは鞄の中から一枚の紙を取り出した。

 それを手渡そうと、歩を進める。

 また、その青年が後ろに下がる。

 笑顔で。


 何故?


「あ……」


 ミイが更に口を開こうとした時、その青年が突然駆けだした。


 え?


 青年は部屋の端から端へ一足飛びに移動する。


 向かって左手の、窓辺に置かれた小さな二人がけのテーブルから、部屋の中央に置かれた応接セットを器用に避けて、向かって右側、窓とはちょうど反対側の壁に沿って置かれている長椅子へと。


 ミイはその動きを目で追った。

 長椅子の上には、もう一人、別の青年が転がっていた。


 最初に聞こえた微かな音は、彼の小さないびきだったらしい。

 笑顔の青年が、寝ている青年を揺さぶる。

 長椅子から垂れ下がった左手が、ゆらゆらと揺れる。


 呻くような声。


 ゆさゆさ、ゆさゆさ、と笑顔の青年は揺さぶり続ける。


 ミイはそれ以上近づくこともできず、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 ドアは開きっぱなしのままだ。

 そのドアから一歩だけ家の中に踏み込んだ場所にミイは立っている。


「んぁー?」


 低い声が聞こえた。

 ぼそぼそと何かを囁く声が聞こえたが、何を言っているのかは聞き取れない。

 囁いているのは笑顔の青年だ。


「んだよ……」


 揺さぶられ続けている青年は、まだ起きないようだ。


「あの……」

「っんだよ、もうっ!」


 ミイが痺れを切らせて、話しかけようとしたその時、長椅子の上の青年ががばっと起き上がった。


 まだ続いている、ぼそぼそと囁く声。


 寝起きの青年が、ギロリとミイを睥睨した。


 寝癖のついた黒髪。

 目にかかるほどに伸びた前髪の隙間から、灰色の瞳がミイを見据えていた。

 その鋭い視線に、ミイは思わず首を竦める。


「帰れ」

「嫌です」


 即答した。

 あの目は怖い。

 しかし、ここで帰るわけにはいかない。


「職業安心所? そんなもん、俺たちは知らない」

「でも……。これ、見て下さいよ」


 ミイは手に持ったままだった紙を、ぺらりとその黒髪の青年の方に突き出した。

 しかし男まではやや距離がある。

 この距離で書いてある内容が読みとれるとは思えない。


「紙切れ一枚が何の証明になるっていうんだ。とにかく、俺たちには覚えがない。とっとと帰ってくれ」

「困ります」

「こっちだって困ってるんだ。力ずくで追い出してもいいんだぞ」


 黒髪の青年は頭を掻きながら立ち上がった。

 予想以上に背が高い。

 青年が近寄るにつれて、ミイが青年の顔を見上げる角度は大きくなる。


「よく見てください。あたしはちゃんと、職安の紹介状を持ってるんです。ここで雇ってもらえないと困るんです」


 紙を青年の顎の辺りにつきつける。

 ミイがいくら手を伸ばしても、それ以上高い場所に掲げるのは無理だったのだから仕方がない。


「だから、これが本物だろうが偽物だろうが俺たちには関係ないんだって。俺たちは求人なんてしてないし、これからする予定もない。うちに不要な人間を雇う金なんかないんだよ。そもそも、やってもらいたい仕事もないんだ。悪いけど他、当たってくれ」


 青年は紹介状をよく見もせずに、ミイにつき返す。


「ラクドット家……」


 ミイは突然、その名を口にした。


「は?」


 青年が不審そうな顔をする。


「この街に、ラクドットという貴族が住んでいたはずなんです。あたしはその人を訪ねてこの街までやって来ました。でも、ラクドット家は既になかった。お屋敷のあったはずの場所は、空き地になっていました。かつてそこに住んでいた人が今、どこでどうしているのかを知っている人は誰もいなかった。あたしは途方にくれました。お金はもうほとんど残っていません。だから、この街で働きながら調べようと思ったんです。今夜泊まる場所すらないんです。困るんです」


 ミイは淡々と語った。


「俺たちの知ったことじゃない。働き口なら、他に幾らでもあるだろう。さあ、出て行ってくれ」


 青年は面倒くさそうに言う。

 いや、本当に面倒なのだろう。

 見ず知らずの人間の突然の訪問により、寝ていたところを起こされたのだ。


 起こしたのはミイではなく、顔の半分が髪で隠れているあの笑顔男だけれど。


「今、何時ですか?」

「あ? 何時って……。おい、今、何時だ?」


 黒髪の青年が、笑顔男に問う。

 笑顔男はふと窓の外に目を向けた。

 そして笑顔のまま、しかし小さな声でぼそっとおよその時刻を告げる。


「終了してしまいました」


 時刻をきき、ミイは即座に言う。


「はぁ?」


「職業安心所です。今日はもう閉所してしまっています。今からまともな、別の働き口を探すことは不可能です。今、ここを追い出されたあたしが、どのような職に就くことになるのか……。それは易々と予測できるでしょう。もしもそんなことになっても、あなたたちはここで今までのようにのうのうと生活を続けることができますか? 良心というものがあるのなら、きっとあなたたちは良心の呵責に苛まれ……」


「ああもう、面倒くせぇ!」


 黒髪男が、銀の腕輪をはめた手で髪を掻き毟る。


「わかったよ、わかった。好きにすればいいだろうさ。でもな、その紙切れに何て書いてあるかは知らないけどな、うちは給料めちゃくちゃ安いからな。ただ働き同然だ。それでもいいなら勝手にしろ」


「あ、ありがとうございますっ! 精一杯働きますので、よろしくお願いします」


 ミイは相手の気が変わってしまう前にと、勢いよく頭を下げた。

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