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極彩のシナスタジア

作者: あまね




 小さな頃から、都会よりも田舎の方が好きだった。


 前に、友達にそう言ったら、「田舎とか、何もなくてつまんないじゃん」と変な顔をされたことがある。相手は東京の大都会に憧れる、今どきの女子高生たちだ。


 一歩大人に近付いて、お洒落を覚えて、格好いい男子を噂の種にしては色めき立つようなお年頃だから、友達がそう思うのも仕方ないのかもしれないけれど。


何もないのが(・・・・・・)いいんだよ」


(なん)ね?」


「なんでもないよ、おばーちゃん」


 ただの独り言。そう軽く笑って、私は上がり(がまち)から勢いよく立ち上がった。履いたばかりの靴の爪先を、沓脱ぎ石代わりに横たえられたコンクリートブロックへ打ち付ける。


 振り返れば、つぶらな瞳を心配そうにこちらへ向けるおばあちゃんと目が合った。


「ほんに大丈夫ね? あんたももう十七やろうに、毎年々々夏休みになるたんびに飽きもせんでばあちゃんとこ来てから」


「夏休みだけじゃないでしょ。去年は冬休みも来たじゃん。一昨年は受験で一年間ご無沙汰だったけど」


「そげな問題じゃなかろうが」


「孫に毎年会えるんだよ。嬉しくない?」


「バカタレ、友達おらんっちゃなかろうかち、心配でしょんなか」


「大丈夫、友達も私が長期休暇に里帰りしてるのは知ってるから」


 安心させるようにいたずらっぽく口角を持ち上げると、おばあちゃんは呆れたとばかりに息を吐く。そのため息に、一体いくつの言葉を溶かしたのだろう。


 何も気付かないふりをして、私は帽子を深く被った。歩くのに不自由のないくらい、視界を狭めるように。


「じゃ、散歩してくるね。行ってきまーす」


「気を付けて行ってこんね」


 軽く手を振ってドアを開ける。途端、むっと喉に熱気が絡み付く。


 視界一杯に、煩いほどの真っ白な日射しが広がった。




 ◇




 年季の入った平屋作りのおばあちゃんの家は、山と町との中間にある。


 少し下れば古い商店や個人経営のコンビニがある程度のひなびた町だ。反対に、おばあちゃんの家から少し奥へ上ると木々の茂った山道へと出る。


 名前も知らないその山は、昔から私の遊び場だった。


 中腹より手前には個人所有の小さな墓所があり、石段や手すりといった申し訳程度の目印がある。私の“散歩”は、その更に奥を開拓するものだ。


 開拓、と言っても、別に未開の地というわけではない。獣道だったり、うっすらと人が使っていたのだろう地肌が剥き出しの道があちこちにあるので、それを見つけてはなぞっていくような小さな探検だった。


 冬は枯れ葉が波打つ山道も、夏は緑の屋根に覆われて葉陰が揺らめく小路へと変わる。


 土と木肌と千歳緑(せんざいみどり)。似通った色が起伏を付けてどこまでも広がるそこは、物に溢れた都会よりもよほど静かで私の気持ちを宥めてくれた。


 ベタつく肌に、小さな雫がいくつも浮かぶ。


 無作為に歩いているようで、決められた山道を登る道すがら。今日も無為に私を待っているだろう面影を思い浮かべながら、流れてきた汗を何度も拭った。


 急な傾斜を乗り越えて、緩いカーブをいくつも巡る。その内に、普段使われていない筈の山道は人の手で舗装された道へと繋がるのだ。


 狭かった道幅はどんどんと広くなり、やがてぽっかりと開けた視界を、軽やかな青空が埋め尽くした。青空。そう、青空(・・)だ。


 乱立しているはずの木々はそこだけきれいに伐採されて、山肌を整えた場所に家が建っていた。


 それほど大きくはない一軒家。私の膝より低い生け垣の内側には、山中に不似合いな花壇が整えられていた。


 おばあちゃんの家にも負けないくらい古びた民家は、手入れが行き届いてこざっぱりとしている。その割に、いつも人の気配が希薄なほど、この家からは生活音がしなかった。


 聞こえるのは、四方八方からジィワジィワと鳴く蝉の声と、風が草木を揺らす音。鳥の歌。それから。それから――。


 目まぐるしい曖昧な音の奔流に、私は一度、強く目を瞑る。再び目の前の民家へ視線を向ければ、ところどころくすみの目立つ煤竹色が視界の殆どを埋めた。


 正面から見れば二階建ての純和風な門構えは、側面から見れば、大きなガラス窓が規則正しく並ぶ西洋建築のようにも思える。玄関口では二段になっていた瓦屋根は、窓の方だと天辺の一段だけになっていて不思議な作りだ。


 私は生け垣越しに迂回して、ガラス窓が並ぶ方とは反対の側面へ回った。そこに張り出した縁側に、目的の人物が居ることを願って。


 民家の裏手に佇んだ桃の木が、ザワザワと風に騒ぐ。来訪者の存在を家主へ告げるように。


「来たね」


 それまで人の気配を感じさせなかった庭先に、抑揚のない声が落ちた。どこへも続かない飛び石を目で追っていた私は、縁側の奥、開ききった障子の木枠に背中を預ける男を見つけた。


 薄墨の地に、濃藍(こいあい)の流紋が入った着物の男だ。歳は知らないけれど、多分、一回り以上は離れていない。名前は――そう、イロハと言っていた。色彩の色に波と書いて色波。女の人の名前みたいだ。


 以前、そのままそっくり伝えたら、「似合うだろ?」と無気力な口振りで返された。確かにその響きの似合う繊細な造形をしているから、女の私としては悔しいところだ。


 彼の細腕が、それまで手元で弄んでいたクロッキー帳と黒鉛を脇に押しやる。隣を無言でぽんぽんと叩くので、生け垣を跨いで縁側から家に上がった。


「お邪魔します」


「邪魔だなんてとんでもない」


 大歓迎、と紡ぐ声はやっぱり静かで、実は真逆の意味合いが含まれているんじゃないかとも勘繰ってしまう。


 そう勘繰る程度の間柄なのだ。私たちは。


「さて、今日はどの色から始める?」


 気だるげに小首を傾げる色波は、畳の部屋の真ん中に置かれた文机から、使い込まれた木製パレットと筆を取る。


 机の引き出しから幾つかの絵の具と油壺を取り出すので、今の自分に拒否権がないことを悟った。


「せめてお茶の一杯でも貰えませんかね」


「後でね」


 駄目元で試みた抵抗は、案の定、あっさりと跳ね除けられる。四、五本ためしたら、彼の気も済むだろうか。


 適当に指差したビリジアンをパレットに出して、彼は原色のままクロッキー帳の端に塗りたくった。


「どう?」


 それを突き付けて、彼が問う。私は目を凝らして、頭に響く音を(・・・・・・)取り出した(・・・・・)


「……ピアノの低い音。ド、レ、ミ……ミ、かな」


「ふむ。赤と緑はピアノか。黄色は木琴で、青が鉄琴に聞こえるんだっけ。黒がティンパニ系の打楽器で白になるにつれ高音のベルみたいな音になる」


「聞こえるっていうのも、ちょっと違う気がするけど。なんとなく、そんな音に感じるの。言葉じゃ言い表しにくい」


「興味深いな。君の耳と目はどんな構造になってるんだろう」


 静かな声で、色波がうっすらと笑った。こんなふうに表情を動かすときの彼は、大抵において半分、自分の世界に入り浸っている。


「耳と目って言うより、頭の構造の問題らしいけどね」


 肩に掛けていたバッグから、スマホを取り出してブックマークを漁る私にチラと目配せをしたから、まだ完璧に頭が飛んでいるわけではないらしい。


 ほら、と開いたページを差し出すと、彼はまともに見もせずにスマホを押し返した。


「小難しい理屈とか、理論とか、そういうのじゃないんだよ。俺が欲しいのは、正真正銘そこにある事実(データ)だ」


 そこ、と指差す爪の先には、私の目だか、耳だか、頭だか。突き付けられた指を見つめていた私は、うっかり、寄り目の変顔をお披露目してしまった。


「人を指差すとか、最低限のマナーもなってないってどういうことなの」


 力を入れればポッキリといってしまいそうな彼の指を掴むと、曰く。


「マナーなんて堅苦しいもの、母親のお腹の中に置いてきちゃったんでね」


 人差し指以外の自由な指で、私の手の方が捕らえられた。ぎゅ、と握手のように手を上下されて、ひんやりとした彼の温度が手の甲に伝わる。


 じっとりと汗ばんだ、自分の手のひらが急に気になった。


 慌てて指を放す。それを見越していたように、彼も何食わぬ顔で私の手を離した。


「続きをしよう、(かなで)


 彼の声が、私を呼ぶ。世界に何重にも溢れた音が、一瞬で弾けて飛んだ。




 ◆




 物心がつくよりも前から、私には色の音(・・・)が聞こえていた。


 念のために釘を差しておくと、比喩だとか、勘違いだとか、ましてや思い込みなどではない。


 たとえば多くの人がバナナを見て黄色いと思うように、或いはそれを食べて甘いと思うように、私には視界に映った色を「ピアノの音」だとか、「澄んだ鈴のような音」といった、音で区別する感覚が生まれながらに備わっていたのだ。


 バイクのマフラーをふかす音に混じって、黒い車体からボォンと打楽器を震わせる音がする。


 お母さんの軽快な包丁の音を聞きながら、キィンキィンと音叉を叩くような音をそこに重ねる。


 注目すれば音は大きくなるけれど、それを他の生活音や自然の音と同じように認識していたから、数が多いだけで煩いとは思わない。


 それは自分にとって当たり前の感覚で、だから、それが万人の持つ感覚ではないということに気づいたのは、わりと最近のことだった。


 中学の頃、課外授業で美術館を訪れた時のことだ。人の囁き声も疎らな、きっと一般的には静かと形容するべき空間で、私はこともあろうに「真っ赤な絨毯って煩くない?」と言ってしまったのである。


 もちろん私にとっては、頭の中でピアノの高音のキーがぐるぐると巡っている感覚を指したのだけれど、クラスメイトはそれに不思議そうな顔をしてこう返した。


『そう? 館内ってそんなに明るくないし、このくらいの色で丁度いいんじゃない』


 確かに色の話をしているのだけど、視覚的な感覚ではなくて、聴覚的なもので云々。


 言葉を重ねるほどに、どうにも話が噛み合っていない気がして、そこで私はやっと、自分の聞いていた音と周りの聞いている音の差に違和感を覚えたのだ。


 私の聞いている音が、他の人には聞こえない。他の人が聞いている以上の音を、私は確かな感覚として感じ取ってしまう。


 何かの病気かと思った。聴覚の異常か、脳の異常か、はたまた精神の異常かと。泣きそうになりながらインターネットを開いて、思い付く限りの語句で検索を掛けた。


 今だからこそ、呑気に思える。あの時の焦りと混乱で満ち満ちた心情を思い出せば、大抵のことには冷静に対応できるんじゃなかろうか。


共感覚(シナスタジア)、だっけ」


 氷を浮かべた緑茶を差し出しながら、色波が呟いた。私はそれに、礼を返しながら頷く。


 予め冷蔵庫で冷やしてあったのか、受け取った湯呑みも緑茶もきんきんに冷えていた。


「ある特定のものを見たとき、或いは聞いたとき、そこに大多数の人が感じるものと、それとは異なる感覚を同時に感じる知覚現象……不思議だね」


 気道がくっつきそうなくらい渇いた喉に、油絵具の匂いと緑茶を一気に流し込む。溶けかけた氷までもを口に納めてしまうと、彼は何も言わずにウォーターピッチャーごとお茶のおかわりを持ってきた。


「文字や数字に色が付いて見えたり、特定の色に味を感じたり、いろんな感覚があるらしいよ。中には複数の共感覚を持ってる人も居るんだって」


「奏はどうなの」


「私のはこれ(・・)だけ」


 セルフサービスで注いでは飲み下し、何杯目かの冷茶を飲み干したところで、手元のクロッキー帳を指差す。


 原色のビリジアンで塗りたくられた白紙には、楽器の名前と音階と、同じような絵の具の島が余白の限りに作られていた。


 すべて、私が絵の具の色から聴き取った音だ。


 私の答えを聞いて、彼は「良かった」と笑う。「音以外の雑感があったら、聞き取るのも面倒そうだしね」


 その所感に、今日も私は「難儀なものだな」とため息をつく。私の感覚のことではない。難儀なのは、色波の無邪気な探究心のこと。


 彼の野望は(・・・・・)いっそ病的なまでの(・・・・・・・・・)執着心だ(・・・・)


 けれど、だからこそ、ここは心地いいのかもしれない。


 このちょっとばかり変わった感覚を、彼は決して否定しないから。あれやこれやと余計に考える必要がない分、彼のそばは楽なのだ。


 眠りに落ちる直前さえ、音が響いているのもとうに慣れた。うっかりこぼした他とは違う感覚を、不思議ちゃんのふりをして誤魔化すのも。


 だけど、人より多くの音が溢れた世界に、本当はときどき酔ってしまうのだ。


 ――耳を、視界を休めたくておばあちゃんのところに来たのに、“聴く”ことを求める男の元に通っているのは、本末転倒もいいところだと思うけれど。




 ◇




「このごろ、えらいなご散歩に出てさるきよるが、宿題は終わったとね?」


 その不意打ちの核弾頭は、朝食を食べ終わる間際に落とされた。射出口は、おばあちゃんの歴史が刻まれたおちょぼ口だ。


 うっかり被弾すると余計なことまで誤爆してしまいそうな話の切り口に、私はたっぷり咀嚼していたトーストのかけらを飲み込んで答えた。


「まだ夏休みは半分以上あるよ」


「そげん言いよると、すぐ休みが終わろうたい」


 窘めるというほどではない、軽く忠告する調子で返される。卓袱台の向かいで彩り豊かなサラダをつつくおばあちゃんは、まさかそのサラダが、ポォンポォンとピアノの弦を弾いているだなんて思いもしないだろう。


「それは……やだなぁ」


 ぽつり、ぼんやりとこぼした返事にいつもと違う響きを感じたのか、おばあちゃんは口に運びかけたパプリカのスライスをフォークごと器へ戻した。


 かちゃり、陶器とステンレスの擦れる音に、ポロンとピアノが鳴いて、チリチリと細かなベルが震える。旋律と言うには拙い、ただの音の断片に、おばあちゃんの声が混じった。


「かなちゃん、こっちで友達でんできたと?」


「え、なんで」


「夏休み終わるの嫌やーち、今までいっちょん言わんかったやろ」


 改めて指摘されて、そういえばそうだったかも、と思い返す。……いや、やっぱりそんなことはないかもしれない。小学生の頃は案外、一年中夏休みだったらいいのにとか、バカなことを考えていた筈だ。


「今度ばあちゃんに紹介してくれんね。かなちゃんの友達」


 他意のないおばあちゃんの笑顔には、


「機会があったらね」


 ひきつった苦笑で返すほかなかった。


 十七歳の高校生の孫娘が、万年着物姿の気だるげな成人男性を連れてきた日には、“友達”だけで終わらないだろうから。




 ◆




 私が色波と出会ったのは、昨年の冬の暮れだった。


 いつものように、おばあちゃんのところへ年末年始の里帰りに来た時だ。


 大晦日の大掃除を家族総出で終わらせて、久しぶりの“散歩”を楽しんでいた私は、山に深入りしすぎたのだろう。


 いつの間にか見たこともない道に出て、迷い込んだ先が色波の家の庭だった。


 いくらそう大きくない山とは言っても、中腹も過ぎたところだったから、こんなところに民家が建っているのを見た日には驚いたものだ。


 すぐに別の道に抜ける山道を探すつもりだったのに、私というやつは、縁側で色波が描いていた絵にうっかり魅入られてしまった。


 いつもの悪い癖だ。大人しくできなかったそれが、私の口を突いて出た。


『きれいな――』




「綺麗な、歌」


 記憶の中の私の声と、現実の色波の声が重なって息を呑む。突っ伏していた文机から顔を上げると、クロッキー帳を片手に庭を眺める色波の横顔が見えた。


 どうやら、一瞬意識が過去に飛んでいたらしい。


 練り餡に包まれた柔らかい餅のおやつで懐柔された心は、今や完全に警戒心を忘れていた。


「なに、いきなり」


「や。君と初めて会ったときに言われたことを思い出してた。『綺麗な歌』って言ったんだよね、奏。俺の絵を見てさ」


「あーね。そーね」


 さっきまで手繰っていた記憶の続きを思い出す。それで色波は私にこう返したのだ。『君、聞こえるの? ――絵の声が』


 互いに互いを正気とは思えないような第一声だったと思う。直後に脱兎の如く逃げ出した私の反応は、褒められたものではないけれど、本能的に異常を感じた者が取る行動としてはおかしくなかった筈だ。


 あえて言うならば、逃げる私に『絵が気になるならまたおいで』と投げ掛けた彼が特例だったのだろう。


 年が明けて言われるがままに来てみたら、根掘り葉掘りこの感覚のことを聞かれて、まんまと彼の野望の協力者に仕立て上げられていたというわけだが。


 木枯らし茶の文机にぺたりと頬を預ける。コンガのような、軽い音の打楽器がポコポコと頭の中で軽快に鳴り響いた。


「だって、綺麗だったんだよ。冬枯れの灰色一色の山の中でさ。鮮やかな絵がパッて視界を埋め尽くしたの。周りの景色なんて見えなくなった。いつもは一定のリズムを刻む音の群が、複雑に絡み合って音楽を作るのね。――初めて聞いた。歌ってるみたいだった」


 うわ言のような、独り言のつもりだった。それなのに、色波は無言の瞠目をこちらへ向ける。


 じわり。扇風機では下げきれない肌の熱に、汗が滲んだ。天井の隅のエアコンは、現代に遡行するようにいつも埃を被っている。


 いたたまれなくて再び顔を机に伏せると、微かな吐息が耳を打った。


「叶うなら、君の世界を見てみたいもんだよ。そうすれば、きっと、もっと、俺は夢に近づけるのに」


 顔を上げる。彼の瞳は、もう別の場所を見ている。


『音を描きたいんだ――だから、俺に協力してくれない?』


 去年の冬休みの里帰り、最後に聞いた色波の言葉。それが彼の“夢”と語る野望で、


「途方もない夢だね。私はそういうの、嫌いじゃないけど」


 彼の、すべてだ。




 ◇




 ――俺に協力してくれない?


 夏休みの初日、おばあちゃんの家に着いて人心地ついた頃。半年前の記憶を頼りに辿り着いた古民家で、彼は私を待っていた。


 来ると確信があったのか、それとも、来るか来ないかすらどうでも良かったのか。驚きも、再会の喜びも見せずに薄い笑いを浮かべた男はそう告げた。


 どの色はどんな音がするのか。どの色をどう使えばどんな旋律になるのか。知りたいんだ。


 本当に、頭のネジが二、三本緩んでいるのではないかと思ったほどだが、彼の瞳は純粋で、口振りに反して、彼の望みは真摯だった。


 音そのものを絵の中に閉じ込めたいんだ、と彼は言った。たとえば音は音譜という形で表せるけれど、それは記号の配列でしかない。


 そういうものではなく、また抽象的なものでもなく、目に見える形で、けれど確かに耳に聞こえる形で描きたいんだ、と。


 聞けば、彼はマイナーではあるが、一部のコアなファン層を持つ画家ということだった。


 断るのも面倒そうだ。そう思った心とは別のところで、思えば既に――彼の描いた絵を見たあの瞬間に、魅せられていたのかもしれない。


 気づけば、頷いていた。


 その日から、私は彼の“協力者”となった。


 協力者なのだから、敬称や敬語は要らないよ、と言われた。型に囚われることを煩わしがる気質のようだった。


 こんな山中に住んでいるのだから、厭世家のきらいもあるのだろう。


 けれど、絵と音に関する話題には、どこまでも誠実だった。


「始まりは、光。十歳の頃、フェルメールの絵を見て心臓射抜かれたんだよね。滑らかな筆致で、形にできない光ってものを見事に絵の中に閉じ込めたんだ、彼は」


 それで、目に見えないものを絵で表現することに取り憑かれた。


 イエローオーカーで小さめのS型キャンバスに下塗りをしながら、色波は淡々と語った。


「なんでそこから光じゃなくて、音を絵にすることに固執するようになったの」


 今日は畳の間の奥、吹き抜けになっている板張りの居間で、イーゼルに向かう彼の背中を眺めながら尋ねる。


 外から見ると平屋なのか二階建てなのかわからない外観の家は、中に入ると半二階建てのロフト型の間取りだった。畳の間の上が、また板張りの中二階になっているらしい。


 主な作業をするのは居間の方で、油絵具を使うときはすべての窓を全開にするようだ。


 それでも染み付いた油彩独特の重く粘着質な匂いは取れなくて、埃の積もった古書店といい勝負だと愚痴をこぼしていた。


「まだ人類が未踏の領域……と、俺は思ってるから」


「未踏の?」


「そう。先達は居るんだ。音を絵で表現しようとした画家が。たとえばパウル・クレーは色のグラデーションで時間や音の変化を表現しようとしたんじゃないかって言われてる。モザイクじみた絵が多いのも、そこに由縁してるんじゃないかってね。


 俺の試みは、感覚的には彼に近いのかも。でも、彼ともやっぱり違う。クレーは絵すらも記号と認識して表そうとした画家だから」


「幾何学的で、抽象的だもんね」


 この間、休憩中に見せてもらったパウル・クレーの画集には、およそ子供の作ったパズルの断片か、ミミズののたくった落書きかと言うような絵ばかりが載っていた。


 そこに人々は様々な意味を見出だし、途方もない金額の価値を付けるのかと思うと目眩がしたほどだ。


「記号じゃないの、そこにある事象として、本能で聴かせたいわけ。だから俺は、写実的な絵で、誰の耳にも確かな旋律を聴かせる絵を描きたいんだよ」


「それで、手始めに音視(おんし)感覚者に通ずる絵を描こうって?」


「そ」


 色波の肩越しに、キャンバスで激しく自己主張をするマリンバの音が耳の奥だか頭の奥だかで渦巻いた。ため息をつきたくなる。


「前にも言ったけど、共感覚っていうのは必ずしも共通の認識があるわけじゃないんだよ。イチゴを食べて甘いと思う人と酸っぱいと思う人が居るのと同じ。青色に鉄琴の音を聞く人も居れば、海のさざ波を聞く人も居るの」


「でも、共通性はある。黒を見て、多くの音視感覚者は低い音を聞くらしいじゃん。白はその反対に澄んだ高音。それなら、どこかしらに糸口はある筈だろ?」


 清々しいまでに言い切られて、私は反論を呑み込んだ。彼の理屈にはほとほと閉口する。途方もない野望を一心に追い掛けられるのは、根拠も定かではない色波理論の為せる業なのだろうか。


 根っからの芸術家の考えは、おいそれと凡人には(私を凡人と言っていいのかという議論はこの際置いておいて)理解しがたいものだ。


 事実私には、彼が何を描こうとしているのか、その欠片さえも見えなかった。




 ◆




『なんで私に声をかけたの』


 いつだったか、色波にそう尋ねたことがあった。まだ色の音を聴くことに全神経を傾けていた頃だ。


『なんで、って』


『だって、色波、人と関わるの苦手そう』


 厭世家のようだという印象を持ったのも、この答えに依るところが大きかったのかもしれない。


『あー、ね。うん。だからじゃないの』


『どういうこと?』


『奏もだろ。人と関わるのが苦手……というか、苦しそう』


 どこまでも見透かされていることが、恐ろしくもあり、同時にひどく安心できた。だからだろうか。


『“フツウ”の周りと、“フツウじゃない”自分の板挟みになって、必死で周りに合わせてんだろうなって想像ついたから』


 涙なんてこぼさなかったはずなのに、この時私は思わず自分の頬に触れてしまったのだ。それを、彼は、目だか、耳だか、頭だかを、気にしているのだと受け取ったらしい。


『俺にとっては、“フツウ”も“フツウじゃない”も同じなのにさ。寧ろ羨ましいよ、その感覚が』


 なに食わぬ顔で告げた後、彼はいつもと同じ声のトーンで付け加えた。


『君の目をこう、取り外して、俺の目とすげ替えられたら、どんなに便利だろうね』


『猟奇的』


『……やらないけど。さすがに、自分のこういう考えとか感覚が“フツウじゃない”っていうのは自覚してるから』


 だから、そんな型に囚われるのは御免だね、と。彼は私の葛藤なんてそ知らぬ顔で、軽やかに笑った。


 ――私の世界が大きく音を立てた瞬間だった。




 ◇




 そんなふうにして、日々は過ぎた。


 色波と過ごした夏、私は結局、彼の絵の完成を待たずにおばあちゃんの家を後にした。それから四ヶ月後、その年の冬休みには完成しているかと期待して再びあの古民家に顔を出したのだが、「来年の夏まで待ってな」とまさかのお預けを食らったのは強烈な記憶として焼き付いている。


 そうこうしている内に今度は大学受験がやって来て、勉強に面接に入学にと慌ただしくしている間に、彼に会わないまま一年以上が経ってしまった。


 よもや私へ叩きつけた挑戦状じみた台詞を忘れたわけではあるまいな。


 もやりと疑念が芽吹き始めた初夏の雨夜。その報せは突然やってきた。


 二年前、交換したきり一度も表示されなかったメールアドレスから、“From イロハ”の題名だけを載せて。


 メールには、画像が一枚添付されていた。質感まで手に取るようにわかる解像度の、S型の絵画だ。それから本文が、たった一文。


 二年以上、機種変していないスマホをベッドに放る。破る勢いでスケジュール帳を捲って、夏休みの始まる日付を確かめた。


 クローゼットを開く。あの頃の夏に着ていた、インディゴブルーのワンピースを取り出す。


 ひらりと揺れた裾に、ありもしない油絵具の残り香を嗅ぎ取った。





fin

ご一読ありがとうございます。

毎度企画の文字数破りとギリギリの〆切クリアに定評のある作者です。おはこんばんにちは!


今回も清々しいまでに文字数破りのオンパレードで、書いては千切り、千切っては投げと、途中まで書いたものが別に1案、構想だけ出したものが1案、今作含め途中まで書いて書き直した原稿が4つくらいあったりします。

お題の消化不良感は本来出す予定だった別案(英国時代物)に全部食われました!


あっちを削りこっちを削り、どうにかこうにか文字数は納めましたが、見事に着地点が不明と相成りました。

本当は色波はどんな人物背景でどんな絵を書いてどんな風に奏を驚かせるかとかそんなところまでビッチリ構想してたんですが、文字数の壁に阻まれました!いつものことです!

確固たる形で語って文字数不足で無粋になるよりも、曖昧な形で終わって文字数不足を個々人に補って頂くことにしました。

芸が成長してないって?

大丈夫、作者知ってる。


全部蛇足になってあっちもこっちも削る内に大事なところもほぼ丸投げ状態になった気がしてまぁ悔いだらけですね、すみません!

色々変わりすぎて作者がついていけてませんが、何が一番変わったかって奏と色波の口調だよ!

奏はもっとおとなしめでですます口調だったのに色波のネジが外れてるから…orz

何より真っ先に浮かんだ彼の台詞は「君の目を取り外して~」のくだりです。この時点でお察しです。

ついでに主人公の名前も当初のものから変わってます。本当に蛇足!


不完全燃焼を補うかのごとく空前絶後で超絶怒濤のマシンガントーク後書きになりましたが、そういえば学生の頃のあの夏にこんな非日常的なこともあったな程度の青春を思い起こして頂けましたらば幸いです。

(ジャンル設定で青春にしてもいいものか迷いに迷ってヒューマンドラマにしましたがこれヒューマンドラマで良かったのだろうかと思わなくもなくも…)


2017/06/30

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― 新着の感想 ―
[良い点] 企画からお邪魔してます。 通常と異なる感覚者を題材にするのはありきたりといえばありきたりですが、 そこに異感覚を持ち合わせないが、その世界を描こうとする変人との交流は引き込まれるものが有り…
[一言] こういう情景描写が書きたい、と心底思わされました。 無論情景だけでなく、登場人物の仕草や台詞、心情も趣味ど真ん中で惚れ惚れしました。 色波さんが魅力に溢れていて、もうどうしたらいいのかと。…
[良い点] 冒頭からじっくりとした速度で進む情景描写に感心しました。細部を疎かにせず、むしろそれを描くための描写なのだろう、と思わせる素晴らしくシャープな視点に実力を見ました。 ボク個人としては「なる…
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