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産まれた仔犬を、川に捨てた。

作者: 司馬仲

「やっぱりコロ、妊娠してる」

 襖を隔てた隣の部屋で、お母さんが焦ったようにそう言って話している。

 いつも通り、ゲームの映像が映るテレビ画面と、手に持ったコントローラに意識を集中していた私は、そんな会話には特に気を回さず、聞き流していた。

 コロ。家で飼っているメスの犬。白くて短い毛並の大型犬で、犬種はわからない。私は犬に詳しくないというのもあるけど、元々コロは野良犬だったから、おそらく雑種。だからわからない。

 いや……厳密に言うと、このコロは我が家の飼い犬じゃない。

 我が家で生活はしているけれど、これは『一時的に預かっている』という状態。本当の飼い主が別にいる。

 私の姉だ。

 今お母さんと話しているのも私の姉だけど、それとは違う。私には姉がふたりいる。もう片方の姉、長女の美沙(みさ)ねえが、コロの本当の飼い主。

 私は末っ子で、姉ふたりとは歳が十以上も離れている。私はまだ高校生だけど、美沙ねえも、今お母さんと話している次女の加奈(かな)ねえも、すでに結婚してそれぞれ別の家に住み、子どもまでいる。美沙ねえの子どもなんてもうすぐ中学生だ。

 そんな美沙ねえがコロを連れて我が家にやってきたのは半年前……夏の始め頃のことだった。

「引っ越し先のアパートがペット不可なのよ」

 美沙ねえはそう言って、我が家にコロを置いていった。

 我が家には庭があった。縁側から出られる、土と草の地面の大きな庭。四畳半しかない私の部屋よりよっぽど広い。

 その庭の一角にコロの部屋は建てられた。その大きな体がゆったり収まる、木製の立派な犬小屋だった。お母さんの友達の大工さんがわざわざ作ってくれたのだ。

 お母さんはコロにエサをやり、もうひとりの姉の加奈ねえも、コロにブラシとかおもちゃとかを買ってきてくれたりしていた。

 その間、美沙ねえは全く我が家に顔を出さず、エサ代を出してくれるなんてことも、一切なかった。

 お母さんは美沙ねえに何も言わなかった。

 美沙ねえはそういう人だと、わかっているから。

 自分第一。自分の都合が最優先。自分のためなら親族だろうが利用する。それが美沙ねえという人間なのだ。

 物心ついた時にはもう一緒に住んでなかったけど、私もそれはよく知っている。

 別の家庭に入ったくせに、シングルマザーで収入が乏しいお母さんへ毎月のようにお小遣いをねだる美沙ねえの姿をよく見ていた。……正直言って、美沙ねえのイメージは悪い。

 今回のコロの件もその延長だ。犬を飼ってるくせにペット不可の家に引っ越すのがそもそもおかしい。

 後になってわかったことだけど、美沙ねえは犬が嫌いだったのだ。コロを手放したかったが捨てるのは世間体がよくない。だからわざとペット不可のところに引っ越して、我が家にコロを『仕方なく預けた』のだ。

 しかし、預けた時点で、もう『引き取る』気なんて毛頭なかったのだ。……でもお母さんは、最初からそれに気づいていたのかもしれない。

 趣味だった庭の家庭菜園を半分以上潰してまで、あんな立派な犬小屋を立てるなんて……。

 まあ、単にお母さんが動物好きってだけの話かもしれないけど。

 そんな我が家とコロだったが、ひとつだけ、注意の足りなかった事があった。

 我が家はコロが来るずっと以前から、オスの犬を飼っていた――。


 名前はハル。これも元は野良で、白と青っぽい灰色をした長い毛並の小型犬。お母さんや周りの人たちが言うには、シーズーと何かの雑種らしい。十年ちょっと前……私が小学校に上がる直前ぐらいに我が家にやってきた。

 ハルは室内で飼っていたし、その二匹は馬が合わず、さらに体格に歴然の差があったせいもあるのか、口に出して心配する人が誰もいなかった。

 まさかこの二匹が交尾して、あまつさえ子を身ごもってしまうなんて、誰も考えていなかった……。

 一ヶ月ぐらい前のこと。北国であるこの町はもうすっかり雪景色となっていた。

 お母さんは窓ガラス越しに庭のコロを見て言った。

「コロ寒そうでないかい……? 物置に入れてやった方がいいんでないべか……」

 いくら立派な出来とは言え、所詮木造の小屋。吹雪の夜を過ごさせるのはかわいそう。お母さんはそう言って、コロを庭から連れ出した。そして、玄関のすぐ脇にある、普段物置として使っている小部屋へコロを繋いで、しばらくの期間置いてやる用意をしてやった。

 狭くないように物をどかして、庭の犬小屋に敷いていたカーペットやエサと水の受け皿もちゃんと物置へセットし直した。小型のガスストーブまで設置した。お母さんは本当にコロを大切にしていた。そのせいで……。

「ガス充満したらやばいんでない?」

「あ、そうだやねえ。ここ、開けとくからね、コロ」

 私の何気ない言葉で、お母さんはその時、物置のドアを閉めずに終わった。

 あの時のコロは、ストーブの燃える物置の中で舌を出して、私を見つめていた。その顔が妙に記憶に残っている。


 ゲームしながら隣の部屋の会話を聞き流していると、どうやらその間にハルが物置に行ってしまって……ということらしかった。

 ここまで話を聞いて、私はちょっと胸に疑問を抱いた。

 ――妊娠……別にいいじゃん。なんでふたりともそんなに困ってるんだろう――

 そう。何がそんなに不都合なのか。この時点で私には、なぜお母さんも加奈ねえも困りきった声を出していたのか、理解できなかった。

 次のお母さんの言葉を聞くまでは――。

「コロ、産まれたこっこ(子ども)無視するんでないべか」

 無視。つまり育児放棄。母乳をあげたり毛繕いをするといった、母犬としての役目をコロは果たせないのではないか。お母さんはそう考えていた。

「やっぱり……?」

 加奈ねえもお母さんの考えに納得している。

 私にも、なんとなくその考えの理由がわかる。

 コロは、精神が弱い犬だからだ。

 野良犬だった頃、コロは道路で車に轢かれたことがあるらしい。直接話を聞いたわけじゃないけど、その時の現場に居合わせた美沙ねえの子どもがコロを病院に連れて行き、その流れのまま飼うことになったんだそう。

 事故以来コロは極度に臆病な性格になってしまい、普通犬だったら喜ぶはずの散歩ですら嫌がり、特に車道には絶対足を踏み入れない。

 逆に、自分に危害を加えそうな相手に対しては凶暴すぎるぐらい凶暴になるのもお母さんたちに知られていた。コロが以前ハルに噛みつこうとしてた記憶が私にもある。

 ……とにかく精神状態が不安定で、扱いが難しい犬なのだ。そんなコロが、無事に出産して、産まれてきた子どもをまともに育てられるのか。そもそも育てようとするのか。最悪、子どもを無視して死なせてしまうんじゃないか。……いやもしかしたら、自分の子どもだという認識すらできずに、自分で自分の子どもを……。そういうことだった。

「どうするべ……」

「んん……」

 ふたりとも、襖の向こうで悩んでるみたいだ……。

 結局この日は結論が出なかった。実際産まれてみないとどうにもわからない。意外としっかり母性が目覚めて、うまく子育てをするかもしれない。そうなれば別に何も心配することはない。とりあえず、コロが出産するまで話は置かれることになったようだ。


 そしてとうとう、その時が来た。

 数週間経ったある日の夜。物置の前で、お母さんと、電話で呼び出された加奈ねえがしゃがみ、声を張り上げている。

「コロ! 大丈夫かい!?」

「ほら力入れなってコロ!」

 産まれそうでなかなか産まれないらしい。私は物置の中が見えない、少し離れた所にいるせいでコロの詳しい状況がわからない。なんでだか、あまり見たくなかった。

「くーん……」

 私の横にハルが来ている。その白と灰色の毛には、たくさんの……血が、付いている。

 出産間近で気が立って怒り狂っていたコロにうっかり近づいて、胴や脚を噛まれたのだ。お母さんたちももう少しで噛まれるところだった。

 そんな事が直前にあったせいか、とてもじゃないけど『感動の出産シーン』と感じることはできなかった。お母さんたちも、喜びと言うよりは緊張の声と表情だ。

「あっ、出てきた出てきた!」

 加奈ねえが物置に向かって指をさしている。一匹目が顔を出してきたようだ。私はひたすら、「早く終われ、早く終われ……!」と願うばかりだ。

「あー産まれたー!」

 ふたりが揃って言う。おしゃべりな家族のおかげで、直接見なくても何が起こっているのか詳しくわかる。

「また出てきた! あ、また!」

 二匹目からは早かった。次々とスムーズに産まれてきているのがふたりの声でわかる。

「ん? あっ、お母さん、あれ!」

「え……ああっ、ちょっとー!」

 四匹目が産まれてところで、ふたりが何かに気づいて妙に慌て出した。声だけだと何があったのかわからない。

「コロ! ちょっと! コロって!」

 どうしたんだろう……? 見たくないけど、気になる。

 覚悟を決めて、見に行くことにした。

 私が後ろに来たのに気づいた加奈ねえが、訊いてもないのに必死になって説明し始めた。

「挟まってる! ほらあそこ! 自分で出れなくなってるの!」

 指さす方を見ると、物置の中ほど、何に使うのかわからない木の板やら箱やらが乱雑に積まれている底の部分に、産まれたばかりの仔犬の一匹が転がって入り込み、出られなくなってしまっていた。仔犬はか細い声で鳴いている。

「コロ! 見なって! そっちにいるしょ!」

 そして母親であるコロがその事に気づいていない。お母さんが教えようと必死に指をさしても、コロは唸り声を上げてその指に噛みつこうとするばかりで全然気づく気配がない。

 直接仔犬を救出しようとしても、コロが勘違いして攻撃してくる。お母さんも加奈ねえも対処のしようがなかった。

「違うってコロ! あんたのこっこだよ!? あんたお母さんでしょ!?」

 泣きながらコロに怒鳴るお母さん。加奈ねえも涙を拭き、鼻をすすっている。

 お母さんの叫びに耳を貸さないまま、コロは五匹目となる最後の一匹を産み落とした。

「コロぉ……気づいてよお……!」

 力なく訴えるお母さん。

 ところが、事態はさらに悪い方向へ転がった。

「お母さん……コロ、さっきから最後の一匹しか舐めてないよ?」

 加奈ねえの言うとおりだった。

 五匹目が産まれてからというもの、コロはその最後の五匹目にしか関心がないようだった。すぐ側にいるのに、まるで他の仔犬たちが見えていないかのように。

「やっぱり、ダメだ……コロ……」

 お母さんががっくりとうなだれた声を出した。

 その落胆しきったような、憔悴しきったような声に、私は心の限界を感じ、ひとりその場を離れて自分の部屋に戻った。ベッドの上で毛布をかぶって目を固く閉じた。

 夜中だというのに、眠気が全くやってこなかった。

 遠くから小さく、お母さんの泣き声が聞こえた。


 数日後、コロは結局最後に産まれた五匹目の仔犬にしか母乳を与えず、他の仔犬には一切興味を示さないで無視を決め込んだ。やっぱり育児放棄だ。

 そしてあの、物置の片隅に挟まって出られなくなっていた仔犬は……死んだ。

 やっと救出できた時にはもう衰弱していて、お母さんにも加奈ねえにも、もちろん私にも、もうどうしようもなかった。

 その小さな亡骸(なきがら)はお母さんの手によって、雪の積もる庭に埋められた。

「こんな寒いとこでごめんね……春になればあったかくなるからね……それまで我慢してね……」

 亡骸を埋める時、お母さんはそう語りかけていた。

 私は縁側で、それを、ただ、見ていた。

 ふと振り返ると、後ろでハルと、母親に捨てられた三匹の仔犬たちが、絨毯の上ですやすやと眠っていた。


 その次の日。夜に加奈ねえが車で我が家にやってきた。またお母さんに電話で呼び出されたらしい。

 お母さんがダンボール箱を抱えて玄関に向かっていく。

 ダンボールの中には……三匹の仔犬が入っていた。

「捨てに行くの。川まで」

 そう言うお母さんの顔は、いつもと変わらない、普段通りの表情だった。

 だから私も、今の言葉の重みがいまいち感じられなかった。

「ほら、コロ、バイバイだよ。バイバイ」

 今もまだ物置にいるコロに声をかけるお母さん。コロはダンボールを一瞥すると、すぐ目を逸らして足元にいる五匹目の仔犬を舐めた。やっぱりこっちの三匹のことはわからないみたいだ。

「じゃ、行ってくるからね」

 お母さんは私にあっさりとそう言い、加奈ねえの運転する車に乗って出かけていった。

 あまりに唐突で、私は戸惑うことすらできなかった。

 産まれて数日の仔犬を、川に、捨てる。その意味。それに気づいた時には全部終わっていた。

 我が家に帰ってきたお母さんの手には、ダンボール箱も、仔犬も、何もなかった。

「誰にも言っちゃダメだからね」

 お母さん……お母さんは……他人に言っちゃいけないような事を……してきたの……?

 どうして。どうしてお母さんが。どうしてお母さんがそんな悲しい役目を……!?

 正体の掴めない後悔が胸にあふれて、涙に形を変えて、とめどなく流れ出た。

 お母さんじゃなくて、どうして何もしていない私が泣くのか、いつまで経ってもわからなかった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 一番いいのは避妊手術をしておけば良かったということですね。でもみんな特に深く考えずに流されるまま……こうなってしまった。 最初はお姉さんの子供、次はお姉さん、次にハル、次にコロ、次にお母さん…
[一言] 切ない物語です。読み終える前から涙が溢れて来ました。我が家でも犬を飼っているからです。彼はペットではなく、番犬として庭の犬小屋で生活しています。オスなので、この作品のような心配はないのですが…
2017/01/30 08:38 退会済み
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