02:アラサーOLと男子高校生の、“雨の日”
季節は春と夏の狭間。桜の木に葉が繁り、時々日差しの暑い日があり、けれども蝉はまだ鳴かない。そんな季節。通学路で通りかかる1軒家の庭先に紫色をしたアジサイが咲いて、薄くて小さな殻を背負った生まれたばかりのカタツムリが、苔の生えたコンクリートの上を這っている。そんな時期。
どこか遠くで、お神輿を担ぐ掛け声と、祭り囃子が小さく聞こえてくる休日。智哉は千鶴のアパートにいた。
外の天気は、雨だった。
「まぁ、梅雨だしねぇ。そりゃ雨だって降るじゃん? じゃんじゃん降るじゃん?」
ソファの上に寝転がっている千鶴が言った。
部屋の外からは、ザーザーと強い雨足の音がしている。
「……」
ソファに横になっている千鶴の足先の床に、智哉が黙って座り込んでいた。
智哉は頭にバスタオルを載せていて、体育座りをしている。
「……? どしたの? 智哉くん」
寝転がった姿勢のまま、千鶴が足下に視線をやり、智哉の横顔を見ながら尋ねた。
「もしかして、怒ってるかい?」
「……いえ、怒ってませんけど」
智哉がじっと前を見たまま、横のソファの上にいる千鶴とは目線を合わせずに、独り言のように言った。
「えー? 怒ってないって言うのなら、その不機嫌そうな態度は何なのさ? 智哉くん」
千鶴が訳知り顔で、首を傾げながら言った。千鶴のその表情と口調からは、智哉の態度の原因を知っている様子が窺えた。
「……意地悪しないで下さいよ、千鶴さん」
膝をがしっと抱えて、頑固に体育座りを決め込みながら、智哉が口を尖らせた。
「心外だなー、智哉くん。意地悪なんかじゃないよ。せめて親切心と言ってくれよ。さすがにあのままって訳にはいかないじゃーん。え? ひょっとして恥ずかしいの? 智哉くん――」
千鶴が、天井に張り出した梁と梁の間にかけられた洗濯ヒモを右手で指差しながら、左の手の平で口元を隠してププッと笑い声を漏らした。
「――私の服、着てるのが」
千鶴が右手で指差した先の洗濯ヒモには、雨でびしょびしょに濡れた智哉の服の上下が吊されていた。
「……そりゃそうでしょ。恥ずかしいに決まってるじゃないですか」
依然としてそっぽを向いたまま、智哉がぶつくさと言った。智哉の耳の先が赤くなっているのを見て、千鶴は口元が緩むのを我慢できなかった。
「――っ……ぶふっ……! あはは! 何その顔……っ! やっべー、智哉くん面白いなぁ……! ねぇねぇ、ちょっと立ってみてよ、智哉くん。どんな感じか見せてくれよー」
「いやです」
「まぁまぁ、そう言わずにさ。千鶴さんに見せてみなさいよー」
「い、や、で、す!」
ムキになった智哉が、ムっとした顔をしながら、ようやく千鶴と目を合わせた。
智哉は雨で濡れた自分の服の代わりに、千鶴が普段着に使っているTシャツとジーンズを借りて着ていた。細身の体格をしている千鶴の女性ものの服は、男性の智哉の体格にはパツパツで、明らかに身動きが取りづらそうだった。
「えー? けちんぼだなぁ、智哉くん。似合ってるよー」
千鶴が口の端にタバコを咥えて、ニコニコといたずらっぽく笑いながら言った。
「からかわないで下さいよ、千鶴さん……」
智哉が更に身体を縮こまらせながら言う。
「だって、面白すぎでしょ、これ。あ、智哉くん、そんなに丸くなったらダメだよー。ほら、パンツ見えてる」
「ちょっ……!」
フーっとタバコの煙をふかし、指の股に挟んだタバコの先端で智哉の腰元を指し示しながら、千鶴が注意した。
千鶴の好奇の目から逃れようと、頑なに体育座りをしていた智哉の腰周りから、パンツのゴムひも部分がちらりと覗いていた。
「千鶴さん……服貸してもらっておいて、こんなこと言うのも何なんですけど、この服、僕には小さすぎますよ……」
頭に載せていたバスタオルを掴み、慌てて腰元を隠しながら、智哉が苦言を呈した。
「智哉くん、教えてあげよう。それは小さいんじゃない。ローライズジーンズってのは、そんなもんなんだよ。股上がすっげー浅いから、腰を屈めるときは要注意だ」
千鶴が智哉の顔をビシッと指差して、教え諭すように言った。
「その……ジャージとかなかったんですか?」
智哉が本気で困った口振りで、助けを求めるように千鶴に尋ねた。
「ん? あるよ。ダボダボのやつが」
けろっとした顔で、当たり前のように千鶴が答えた。
「何でそれ出してくれなかったんですか! いや、今からそれ借ります! ジャージ貸して下さい、千鶴さん!」
情けなさで一杯になった智哉が、思わず声を大きくして言った。
「ふっ……いいぜ、智哉くん。ほら、そこのクローゼットの中に、君のお目当てのジャージがある。さあ、取りに行くがいい。そして私の目の前で、私のTシャツとローライズジーンズを着た君の姿を晒すがいい! ふはは」
ソファの上で寝転がっている千鶴が、頭の後ろに両手を回し、口の端にタバコを咥え、ショートパンツを穿いた裸足の足を智哉の目の前で組んで、勝ち誇った表情を浮かべながら言った。
「……謀りましたね……千鶴さん……」
プルプルと震えながら、智哉がゆっくりと立ち上がった。羞恥心で顔を赤くしながら、ジリジリとクローゼットの方へと歩いていく。
「むふふー。よい眺めじゃ、よい眺めじゃ」
組んだ素足をプラプラと揺らしながら、千鶴がケタケタと笑った。
***
「いやー、ごめんごめん、ちょっとしたイタズラ心だったんだよ。許しておくれよ、智哉くん」
ジャージに着替え終えた智哉が、さっきと同じ床の上で、またもや体育座りをして頬を膨らませているのを見て、千鶴が困ったような笑い顔を浮かべて言った。
「もぉ……ほんとやめてくださいよ、千鶴さん。もう僕、買い出しやりませんよ?」
テーブルの上に無造作に置かれた、コンビニのロゴマークの入ったビニール袋を指差して、智哉が言った。飲み物・食糧・つまみ・スナック菓子の詰まったビニール袋の表面には、雨粒がまだ大量に付いたままになっている。
「いや、それは困る。ほんとに困る。それは私の休日の生命線なんだ。智哉くん、私が悪かった。この通りだよ」
ソファの上に正座で座り直した千鶴が、顔の前でパンッと両手の平を合わせて頭を下げた。
「……まぁ、別に、いいですけど……」
頬を指先で掻きながら、まんざらでもなさそうに智哉が言った。
***
コチッ、コチッ。と、壁掛け時計の小気味よい秒針の音が聞こえる。
窓の向こうからは、梅雨時の雨のサーっという心地よい静かな雨音がする。
アパートの2階のガラスには、幾筋もの雨粒の這い跡が、付いては消えてを繰り返していた。
「……」
「……」
千鶴の部屋の中に満ちる音はわずかにそれだけで、時々紙がめくられるペラっという音がそれに重なった。
会話は、なかった。
千鶴はソファに置いたクッションの上に仰向けに寝転がり直して、黙々と文庫小説を読んでいた。書店で付けてもらえる紙のブックカバーが巻かれていて、小説のタイトルは分からない。
ふだんはコンタクトレンズをつけている千鶴だったが、替えのレンズがなくなったらしく、今日は赤色の細いフレームのついた眼鏡をかけている。軽く細められた瞼の下で、文字を追いかける瞳が上下にピクピクとせわしなく動いていた。その動きに合わせて、睫毛が揺れる。
口の端には相変わらずタバコが咥えられていて、タバコの灰が落ちそうになると、千鶴は慣れた手つきで、ソファの横に据えられたスタンド付きの灰皿の上でタバコをトントンと振る。
文庫小説からは一切目を離さずに、けれども絶対にタバコの灰は落とさない千鶴さんって器用な人だな、と、智哉は何とはなしにそう思った。
千鶴の部屋には、大きな本棚があった。その棚の中には小説の文庫・新刊、漫画、雑誌……いろいろな種類の本が雑多に突っ込まれている。
千鶴の部屋を訪れるたび、智哉もよくこの本棚に手を伸ばす。しかし、1番上の段にだけは、智哉は絶対に手を出さないことにしていた。別に千鶴に止められているというわけではない。たとえその1番上の段に智哉が手を伸ばしても、きっと千鶴は何も言わないだろう。智哉にはそれが分かっていた。でもだからこそ、智哉はそこには触れないでおこうと、心に決めていた。
その1番上の段、文庫小説ばかりが並んでいる段は、そこだけ異常に神経質に整理されていた。作家の名前ごとに文庫が50音順に並べられ、更に同じ作家の作品が50音順に綺麗に並べられている。国語の教科書で見たことのある作家の名前や小説のタイトルが並んでもいたし、聞いたこともない外国人作家の翻訳本が置かれていたりもした。その背表紙のどれもが、少しだけ傷んでいた。きっと千鶴が何度も読み返している内についた傷なのだろう。
そんなことを考えながら、智哉は千鶴の本棚から取り出した、深海魚のカラー図鑑を開いていた。グロテスクな深海魚たちのイラストや写真が、所狭しと並んでいる。
千鶴の本棚を眺めるたびに、千鶴がふだん、どんなことを考えているのか、智哉には分からなくなる。
――通学の時間帯に、時々アパートのベランダで怠そうにタバコを吸っている千鶴さんは、何を思っているんだろう。
――突然いたずらを思いついて、女性ものの服を着させようとしたりする千鶴さんは、どんな気持ちでいるんだろう。
――休日に男子高校生を自分の部屋に上げて、何も喋らずに文庫小説を読んでいる千鶴さんは、一体何を考えているんだろう。
――僕には、よく、分からない。
「……こっち座ればぁ?」
床に座って深海魚図鑑を読んでいる智哉に向かって、千鶴が言った。その目は文庫小説の紙面をじっと見つめている。
「……そうします」
千鶴のジャージを着た智哉が立ち上がり、千鶴の寝そべっているソファの前に立つ。
「ん」
智哉がソファの前に立ったのを目の端に捉えた千鶴が、文庫小説からは目を離さずに、裸足の足を縮こまらせて、ソファの上に智哉が座れるスペースを空けた。
ソファの右側3分の1の領域に智哉が座り、残りの3分の2の領域に、膝を曲げた千鶴が寝そべっている。
コチッ、コチッ。と時計の秒針が時を刻む。
サーッ。と、雨音がさっきよりも小さくなる。
ペラッ。と、智哉が図鑑のページをめくる音が聞こえる。
トントン。と、千鶴が器用にタバコの灰を落とす。
……。
……。
……。
トスン。と、智哉の肩に、千鶴が背中を預けた。
「……千鶴さん?」
智哉が千鶴の方を振り向いた。
「背中、痛くなっちった」
口の端にタバコを咥えて、文庫小説を黙々と読みながら、千鶴が一言だけ呟いた。
「そうですか」
「うん」
――千鶴さんが何を考えているのか、僕にはよく分からない。きっと、千鶴さんにも、僕が何を考えているかなんて、よく分からないのだろう。
でも、まぁ、それでいいんだろうな、と、智哉は思った。きっと千鶴さんも、そう思っているんだろうな、と思う。
それだけは、智哉にもよく分かった。
***
「あー、タバコ、切れちゃったなぁ」
千鶴が、読み終えた文庫小説をテーブルの上に置き、空になったタバコの箱を振った。「面倒くさぁ」と漏らしながら、智哉が買ってきたビニール袋の中をのぞき込む。ビニール袋に付いていた雨粒は、もう乾いてどこにも残っていなかった。
「千鶴さん、言っときますけど、その中にタバコはないですよ」
ゴソゴソとビニール袋を漁る千鶴の横顔に向かって、智哉が言った。
「げっ! マジ?! 何でさー」
千鶴が驚いたように目を丸くした。
「だって僕、未成年ですよ? 買えませんよ、タバコ」
智哉がけろっとした顔で言った。
「うーむ……そりゃそうだな……」
千鶴が頭をポリポリと掻きながら呟いた。それから「よっこいしょ」と立ち上がり、窓を開ける。
「そんなら、買いに行こっかなー、タバコ」
猫のように伸びをしながら、外を眺めて千鶴が言った。
「……あ、良かった、乾いてる」
千鶴のジャージを着ている智哉が、洗濯ヒモに吊された自分の服の具合を見て、ほっと息を漏らした。
どこか遠くから、お神輿を担ぐ掛け声と、祭り囃子が聞こえてくる。
「よし、出かけようぜ、智哉くん。お祭りやってるよ」
いつの間にか、雨雲はどこかへ流れていっていて、窓の向こうの空は、青く晴れ渡っていた。