七駅目
今朝は晶子さんが一番だった。いつも通り、連れ立って待合室へ行き、後の二人を待つ。
晶子さんは以前、ここに来る人の条件に『電車で居眠りをしていた人』の他にも条件があると言っていた。晶子さんはそれについては『まだよくわからない』と言っていた。けれど、日々誰かとこうして二人で会話をする時間を持って、色々な話を聞いている内に、それが何なのか、そして、その事を晶子さんはもう気付いていると確信した。
「そういえば、晶子さん、ここに来る人の条件なんですけど……」
「ああ、居眠り以外にもあるんじゃないかってやつね。それがどうしたの?」
「あの時晶子さんはわからないって言ってましたけど、本当はもう分ってるんじゃないんですか?」
晶子さんは顔をぷいっと背けて、わざとらしく盛大なため息を吐き出した。
「……、イヤな奴」
「すみません」
「気付いてるなら聞かないでね」
ああ、やっぱりそういうことだったのか。
「はい。でも、ちょっと意外です」
明るくて気さくな晶子さんに、そんな影は見当たらない。それを言うなら朱里さんもなのだけれど。
「そーだね。でも、人それぞれ事情ってもんがあるの」
「穂ちゃんもそう言ってました」
「アンタだって事情を抱えてるんでしょ。グリグリ掘り下げられたいの?」
「いえ、それは……」
軽くならば既に穂ちゃんには話したけれど、掘り下げられるのは勘弁してもらいたい。
「だったらこれ以上このネタは禁止」
晶子さんも、人には言いたくない何かを抱えてる。それを、ここの誰かに話したりしたこともあったりしたのだろうか?
不意にドアが開く音がした。いつもより早いなと思いながらもドアの方に顔を向けた。
けれど、現れたのは期待した人物ではなかった。
初めて見る女性が待合室に入ってきた。
晶子さんは嫌なものを見たという顔でそっぽ向いて黙り込んでしまった。
これは、相手にしちゃいけない人なんだな。
僕もすぐに晶子さんの方へ向き直る。いつまでも直視していてはいけない。今度こそ誰にも迷惑をかけずに黙ってやり過ごさなきゃ……。
パッとしかみてはいないが、長いウェーブのかかった髪に、体にぴったりとしていて丈が短い挑発的なスタイルのワンピースを着ていた。
もしかしたら前に話しに出ていたおねだり女とはあの人なのかもしれない。
腕にも首にもアクセサリーを着けているせいか、歩くたびにチャリチャリと音がする。そのせいで嫌でもこっちに近づいているのがわかる。
女性は僕のすぐ脇までくると、テーブルに体をのりだして僕の顔を覗き込んだ。その体勢のせいで、すぐ斜めを見ると、ばっくりとあいた胸元がよく見えた。
すぐに目線を目の前のコーヒーに戻して一口啜る。
平常心、平常心……。
女性はそのままテーブルの上に腰かけて足を組むと、僕の顔に手を伸ばす。何をされるのかと肩を震わせてしまった僕を気にすることなく、そのまま両頬に手を添えて強制的に彼女に顔を向けさせられた。
「ねえ君、初めて見る顔だね。私ね、円山望っていうの。君は?」
にっこり笑顔で僕に問う。
前に穂ちゃんが言っていたのはやっぱりこの人だったのか。
太めの眉に隙無く塗られたファンデーション、そして形の良い唇に丁寧に塗られた真っ赤な口紅。アーモンド形の大きな目にすっきりと整った鼻筋。美人、と言っても差し支えないだろう。けれど、たまにテレビで目にする、昔の映像に出てくる古臭い感じのする女性だった。
そうだ、確かバブル期のやつだ。それじゃあこの人が着ているこの服は、ボディコンというものなのか。
それにしても……。
「ねえ、何かしゃべってよ。別にいじめたりしないから」
円山は僕の頬に添えていた手をそっと動かして頬を撫で回す。何とも言えない微妙な感覚に背中が寒くなる。
「あ、わかった。そこの性悪女に何も言うなって脅されてるんでしょう?カワイソウに。ね、あんなちんちくりんなお嬢ちゃんなんて相手にしないでアタシと組まない?やさしーいお姉さんが可愛がってあげるわよ」
横目で晶子さんを見ると、ものスッゴイ怖い顔で拳を握り締めているのが見えた。
怖い。どっちも怖い。
それにしても、早くどうにかならないだろうか?なるべく、いや、可及的速やかに離れて欲しい。
これ、本当に黙っててどうにかなるんだろうか?
いや、弱気になっちゃいけない。逃げたところで何の解決にもならないって朱里さんに言われたじゃないか。余計な事を言って逆上させちゃいけない。黙って我慢し通さなきゃいけないんだ。
ぐるぐると考えていると、不意に手が離れた。見ると、円山は晶子さんの方に顔を向けていた。
「やっだ、こっわ~い。そっか。あ~んな怖い顔が傍にあったんじゃ何も喋れないよね~。ごっめ~ん。わかったわ。今度、二人っきりの時にお話しましょ。またね、新人君」
円山はそう言ってテーブルから降りると、僕に手を振って待合室から出て行った。
とりあえず難は去った。まだ次がありそうな予感が残っているが、今回は言いつけ通りにキチンと出来た。僕はやり通せたんだ!
達成感と開放感からそのままテーブルの上に突っ伏してしまった。
「何よ、それ」
晶子さんの冷たい声がする。もしかして、僕に怒ってらっしゃるんですか?
「いえ、黙り通せて難が去って安心したんです」
「ホントに?まんざらでもなさそうな顔してたくせに」
「冗談じゃありません。死にそうでしたよ。早く離れてくれて良かったです」
「ホントにぃ?そりゃ私達から見たらファッションは古臭いけど、……一応美人で胸もおっきかったじゃない」
「そんなのどうでもいいです。だって……」
「だって?」
「香水臭くて死にそうだったんです……」
それを聞いた途端、晶子さんは弾かれたように笑い出した。
「ちょっ琴似君、君、さいっこう!」
「笑い事じゃありませんよ。頭が痛くなるわ吐き気はするわで最悪だったんですから……」
思い出すだけで胃から何かが出てきそうな気がする。
「えっちょっと、大丈夫?ホントにゲロ吐きそうな顔してるよ」
あの臭いを鼻から消す為にコーヒーカップに鼻を近づけて吸い込む。……少しマシになった気がする。
「なんとか大丈夫です。コーヒーがあってくれて助かりました」
「うーわー。相当だね。あいつ女には近寄ってこないから知らなかった」
そうだったのか。でも、わかる気がする。
その後暫くして朱里さん穂ちゃんが来たので練習へと向かった。
行く道で朱里さんに円山に会った時のことを伝えると、朱里さんは大笑いした。
「そっかそっか。そりゃあ私も知らなかった。そうだ琴似、次会ったらそれ言ってやれ」
「えっ、そんなことしたら……」
何をされるかわかったもんじゃない。黙ってやり過ごすのがセオリーなんじゃないのか?
「チャンスだ。殴られたら即駅長呼べ」
それって、僕に引導を渡せと言っているのと同じだ。
「朱里さん、僕は……」
「今まで見た限り、あの女はヤバくなるとトンズラこいて警告を免れてる。まだ警告は食らってないはずだ。ビビる必要はない。いっぺん痛い目みたほうがいいんだよ、ああいうのは」
その声に、憎しみが籠もっているように感じた。僕が来る以前に、何かあったのだということは想像に難くない。
基本的に朱里さんはさっぱりした人だ。誰かを憎み続けるなんて面倒くさいからその場ですぐ文句を言うだけ言ってオシマイというタイプの人間だ。その彼女が憎しみを抱くのだから、相当の何かがあったに違いない。
一度だけ警告を出させるだけなら精神的ダメージなんて殆ど無い。一度くらいならいいか。
それに、上手くいけばもう付き纏われる心配もいらなくなるだろう。手早く済ませればあの酷い臭いから短時間で解放される。
「わかりました。やってみます」
それを聞いた朱里さんは、険しい表情が一変して笑顔になり、バシバシと僕の背を叩いた。
「そうそう、その意気その意気」
とは言っても、そんな機会が訪れないことを、僕は祈った。