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黄昏駅  作者: 青柳 蒼
20/21

終着駅

 白い手に掴まれ黒いホールに飲み込まれた僕が連れてこられたのは、見知らぬ部屋だった。


 薄暗い部屋の中には、業務用っぽい机や椅子に書類棚が置かれていて、どう見ても駅の中のどこかのようだった。

 ドアが机の横と、部屋の奥のほうの書類棚のわきに一つと、二つある。

 以前朱里さんに聞いた駅の外とは似ても似つかない。

 ここは一体何処なんだ?もしかして、助かった?

 奥の方の扉が開いて誰かが入ってきた。

 よろよろとした足取りで部屋に入ってきたのは、少女だった。

 ふわふわとした長い髪に、白い肌。化粧をしているわけでもないのに唇は赤く、頬もうっすらとピンク色をしていて、涼しい切れ長の眼。文句なしの美少女だ。

 よく見ると手に駅長服っぽいものを持っている。

 この部屋といい、少女の持っている物といい、これはもしや……。

「……、もしかして、駅長ですか?」

「よくわかったな、琴似」

 少女らしからぬ、朱里さんを彷彿とさせるような喋り方だ。

 駅長はのそのそと歩いて業務用椅子にどっかりと座り込んで、偉そうに足を組んだ。

 こんな可愛い子が駅長をしていたのか……って、待て。あのずんぐりでっかいのは着ぐるみなのか?!

「びっくりしただろう。こーんな美少女があの化け物みたいな駅長だったなんて」

 元気そうに言うが、どうも様子がおかしい。具合でも悪いのか?

「はい、驚きました。あの……、僕は助かったんですか?いや、助けてくれたんですか?」

「いや、お前はもう死んだ」

 駅長はどこか苦しそうに息を吐きながら答えた。

 あっさりと物凄い言葉で否定されてしまった。とはいえ、全くそんな実感は無い。まだ駅に居るせいだろう。それよりも駅長の方が気になる。

「どこか具合でもわるいんですか?」

「お前の脳みそは鶏並みか?この前何があったのかも覚えていないのか?まさか、売店で売り払ったんじゃあるまいな」

 そうだ。駅長はこの前福住に液体窒素を掛けられて身体から煙が出ていた。『モンダイナイ』なんてあの時は言っていたけど、本当はヤバイのか?

「福住にやられたやつですか。でも、大丈夫だって……」

「駅長服を着ていれば確かに問題は無い。が、脱いだら別だ。元は生身の人間だからね」

「でも、あの時はちゃんと駅長服を着ていましたよね。それなら……」

「駅長服を着ていても中身はちゃんと損傷する。駅長服を着ていれば痛まないってだけで、脱いだらちゃんと痛いんだよ。当然だろう。あんなものぶっ掛けられたらヤバイに決まってるだろう。全く……、福住の奴、こんな美少女に何てことしてくれるんだか……」

 確かに美少女だけど、自分で言うか……?

 まあそれはさておき、あの駅長服を着ることであのずんぐりした身体になって超人的な状態になれるわけか。

 それならどうして脱いだりしているんだろう?

 駅の外に放り出される前に、本来の姿の駅長に会うのが通過儀礼なのか?

「駅長、これから僕は駅の外に放り出されるんですか?」

「いいや、お前はこのまま死ぬまで駅の中だ」

 へっ?いや、アナタさっき、僕はもう死んだって言ったじゃないですか!

「すみません、全く意味がわからないです」

「だろうな。ま、聞け。私はもうじき消える。で、お前が次の駅長ってわけだ」

 僕に駅長をやらせる為に外に放り出さなかった、ということか。

「どうして僕なんですか?」

「不満か?」

 怪訝そうに駅長は僕を見る。不満は無い。それに、駅の外へ放り出されるよりマシだ。

「いいえ。ただ、理由が気になっただけです」

「カンタンなことだ。マトモそうなのがお前くらいしかいないからだ。この先でも他に候補が出てくるだろうが、そんなのはもう待ってられん。確かにもう一人候補は居たが、お前の方が若いしちゃんと仕事出来そうだからな」

「もう一人の候補って?」

「ああ、美園タツだ。お前と志乃のお陰でマトモになったからな」

 あのお婆さん……。

「あの人、今は駅の外に?」

「そんなの駅長になればすぐに嫌でもわかるさ」

 細かい事には答えてくれないのか。でも、駅長になる以外に選択肢がないことはよくわかった。

「僕はもう、帰れないんですね」

「そりゃそうだ。連行された時に黒い穴をくぐっただろう。穴をくぐった時点で魂と肉体は切断される。よって肉体は死ぬ。ここに在るのは魂のみだ。で、その魂が損傷を受けたら完全に死ぬってわけだ」

 連行された時点で死ぬ、という朱里さんの推理は正しかったんだ。

「医務室で治せないんですか?」

「無理。肉体が無くなったら修理できないの。今の私やお前は、魂だけしか存在しない、かなり不安定で危うい状態なのさ」

 魂と肉体が繋がっている状態でないと再生出来ない。黄昏駅で損傷を受けたとしても、現実の肉体は元のまま。だから肉体の状態を魂にインストールして魂の形を元に戻す、これが医務室で行われる治療の正体なのだと駅長は説明してくれた。

 その剥き出しの魂を守る為の鎧が、あの駅長服ってわけか。

「駅長服も万能ってわけじゃないんですね」

「そ。話が早くて助かる。そーゆーわけだから、せいぜい気をつけて業務に励むことだ。そこの棚に業務マニュアルがあるから、適当に読んでおいてくれればいい。どうせ大体何やってるかはわかってるだろう」

「はい。あの、あなたはどの時代から来た、誰なんですか?」

「私か?私は元町真由良。2032年の人間だった。14歳の中二。お前、変な事気にするんだな。もうじき消える人間のことが気になるなんて」

 随分わりきってるんだな。元の世界に未練はないのだろうか?

「どんな人が駅長をしていたのかと気になっただけです」

「なるほどな。それならいい。私に関して余計な事を聞く必要はない。現実に未練なんざないし、ここにも飽きた。気の遠くなるような時間をここで過ごしてきたんだ。いい加減楽になりたいと思うのは当然だろう」

 時間の流れなど本来ここには無い。けれど、乗客は現れ、帰っていき、或いは駅員に連行され駅の外へと放り出される。あって無いような時間を、気が遠くなるほどにこの場所で過ごしてきたのか。そして、これから僕もその時間を生きなければならない。魂が損傷を受けるまで。僕は耐えられるだろうか?

「……そろそろ時間だ。琴似、駅長服を着ろ。それを以って代替わり終了だ」

 駅長はずいっと僕の胸に駅長服を押し付ける。

「待って下さい。まだ聞きたい事が山ほど……」

「書類棚に日誌がある。全部目を通せば、大体のことは載ってる。そこに書いてないことでお前が知りたい事があったとしても、私どころか歴代の駅長の誰も答えは知らんよ。そんなものがあるなら答えはお前が見つければいい。早くしろ。もうもたない」

 駅長はゴホゴホと咳き込んで椅子から転げ落ちた。

 本当に時間が無いんだ。

 床に落ちた駅長服を拾って広げてみる。駅長服はかなり大きいサイズだ。これなら今着ている服の上からでも着れるだろう。

 意を決して駅長服に袖を通した。すると、急に目線が高くなった。両手は大きく、フサフサの真っ黒な毛で覆われている。

「どうだ?化け物になった気分は?」

 鏡が無いから姿を確認できない。けれど、両手で顔に触ってみると、丸くてフサフサだ。

「……キミガ ワルイ デス」

 声まで変わっていた。しかも、滑らかに喋ったつもりがカタコトになっている。

 ふと駅長の方を見ると、身体が透けて見える。

「エキチョウ……」

「アホか。もうお前が駅長だ。じゃあな、琴似。しっかりやれよ」

 駅長……いや、元町真由良が身体がどんどん透けて見えなくなっていく。

「元町さ……」

「琴似、未来を変えようとは思うなよ。上手くいかないし、上手くいったとしても、別の綻びが生じる」

 元町真由良はその言葉を残して完全に消えていった。



 一人になってしまった。

 そういえば、奥の部屋には何があるんだ?

 ドアを開けてみると、普通の部屋があった。ベッドに机、本棚にクロゼットにドリンクのサーバー。そして、部屋にもう一つ扉があり、そこには風呂とトイレが備え付けてある。簡易宿舎なのか。

 机の上に開いたままの日誌が置いてある。そこには僕宛のメッセージが書かれていた。



『琴似へ

 大谷地晶子と菊水穂はお前の未来を変えようとするだろう。が、絶対に止めろ。未来を変えると別のところで綻びが生じる。一人の人間の生き死にを変えるだけで、多くの人間の未来に影響を及ぼす。生まれてくる人間が生まれてこなくなったり、死ぬ予定じゃなかったやつが死んだり、影響の度合いは様々だ。そして、お前の場合はきっと一番身近なところに出るだろう。月寒朱里だ。お前が此処に来ずにそのまま生き延びた場合、月寒朱里が生まれてこなくなる可能性が高い。理由は書棚の個人ファイルを読め。

 私も最初の頃に未来を変えようとしたことがあった。が、失敗して良かったと思っているよ。後から個人ファイルを見つけて読んだら恐ろしくなって、それ以降は未来を変えようなんて馬鹿げたことは止めた。私のエゴで知っている奴が不幸になるのは御免だ。

 お前も、過ちを犯すなよ。』




 読んで暫く放心してしまった。一瞬疑いもしたが、元町真由良に嘘を吐くメリットはどこにも無い。全て知った上で、彼女なりの親切心から警告してくれているのだろう。

 それよりも、そもそも未来なんてどうやったら変えることができるんだろう?

 考えてから、ふと別れ際に泣いていた晶子さんを思い出す。彼女なら出来るかもしれない。例えば、黄昏駅に来る前の僕に会って説得するとか……。でも、そうなると僕はここに来ないことになる。


 ここに来た僕と、ここに来なかった僕。

 ここに来ずに生き永らえる僕を取るか、朱里さんを取るか。


 答えなんて、考えるまでも無い。ここに来なかった僕に、どれ程の価値は見出せないし、僕か朱里さんかなんて、天秤にかける必要さえ見当たらない。

 未来は、変わらないし、変えない。


 そうだ。いつまでもぼんやりしている場合じゃない。いつ呼びつけられるかもしれないんだ。

 急いで駅長室に戻ってマニュアルを読む。

 読んでから、ようやく幾つかの謎が解けた。そして、あることを思い出した。とても大切な、忘れてはいけなかったことを。

 すぐに駅長室を出て、彼女が居る場所へと向かう。僕と同じように、ここでたった一人になってしまった彼女の元へ。



 駅長服を着てから、黄昏駅の中のことが手に取るようにわかる。


 待合室の扉を開けると、テーブルに突っ伏している彼女を見つけた。肩が小刻みに震えていることから、彼女が泣いていることがわかる。

 ゆっくりと彼女の所へ行き、震えている肩に手を置いた。

 驚いた彼女がこちらを見る。

「駅長……?」

 やっぱり、この姿じゃわかるわけないか。

「ミノリ……ツイテコイ」

 零れた涙を拭いながら、わけがわからないという様子で穂ちゃんは僕を見る。

「あの……、私……」

「ダイジョウブ モンダイナイ ツイテコイ」

 どうもこの身体は上手く声を発せられない。言いたい言葉が勝手にぶっきらぼうな物になってしまっている。

「わかりました」

 『駅長に逆らってはいけない』ルールを思い出したのか、穂ちゃんは素直について来てくれた。

 駅長室に着いて、穂ちゃんを椅子に座らせると、僕は駅長服を脱いだ。

 脱ぐとすぐに目線が低くなった。手を見ると、普通の人間の手に戻っている。

 穂ちゃんは、驚いて目を見開いて口元に手を当てている。

「……琴似、さん?」

「ごめんね。駅長スタイルになると、言葉が上手く出せなくて……」

 言い終わらない内に穂ちゃんが僕に抱きついてきた。

 異性に抱きつかれるという初めての経験に、脳内はパニック状態だ。どこに手を置いたらいいやら何を言えばいいやらで、あわあわと手を彷徨わせてしまう。

 色々と考えて、どこに手を置いたらセクハラにならないかと考慮の末、ようやく穂ちゃんの頭にそっと片手を置いた。

「ごめんなさい……」

 搾り出すような声で穂ちゃんが言う。

 彼女が謝らなければならないことなんて、何も無いのに。

 そういえば、前にもこんなことがあったな。ヘマしたのは僕なのに、穂ちゃんが謝って……。

「ヘマをしたのは僕だよ。穂ちゃんは何も悪くない」

「私が無理をして転んだりしたから!琴似さんの言うことをちゃんと聞かなかったから……」

「ううん。穂ちゃんは必死に僕達を帰そうとしてくれただけで、何も悪くなんかないんだ。だからもう、泣かないで」

 思い出してポケットを探ると、そこにちゃんとあのハンカチはあった。それを取り出して、涙で濡れた彼女の顔を拭ってやる。

「……よかった。これ、ちゃんと返すことができる」

 ハンカチを彼女に握らせる。

「これ……」

「これはね、入試で試験官の補助をやった日に、僕が君に渡した物なんだ」

 そう。あの日、試験の休憩時間の終わり頃、廊下でうずくまって真っ青な顔をしていた彼女に、僕が渡した物だった。

「……そんな。あの人が、琴似さん……?」

「これは、持っていて。君にあげたものだから」

「どうしてあの人の顔が思い出せないんだろうって、ずっと不思議に思ってた……。琴似さんだったからなんですね……。絶対に合格して、入学式でこれを返そうって、それで試験を頑張れたんです」

 あの時の僕の何気ない行為が、彼女を元気付けていたのか。知る事ができて良かった。この先ウンザリするような長い時間を過ごさなきゃいけないけれど、もう後悔は無い。

 穂ちゃんは涙を拭って顔を上げた。その目はとても真剣なものだった。

「琴似さん、私、未来を変えます。戻って、ここに来る前の琴似さんに会います。それで……」

 ふと、頭の中に信号音が鳴った。電車が来るらしい。駅長服を脱いでいても駅のことがわかる。本当に、僕はもう駅長なんだな。

 穂ちゃんの話を遮って口を開く。

「穂ちゃん、時間が無いからよく聞いて。これから君が乗る電車が来る。僕が護衛をするから、心配しなくても安全に帰ることができる。帰ったら晶子さんに伝えて。『これは勝手に僕がしたヘマのせいであって、誰のせいでもありません。だから自分を責めることは絶対にしないで下さい』って。それと、帰っても未来を変えようとするのはやめて欲しい」

「……どうしてですか?私はこのままじゃ嫌です!変えられるのなら変えたいんです」

 朱里さんが生まれてこなくなるかもしれないと言えば引き下がってくれるだろうか?いや、駄目だ。穂ちゃんはまだ『乗客』だ。未来の話を聞いたら駅員に強制連行されてしまう。

「ダメだよ。未来を変えたら恐ろしいことが起こる。それに、何も知らない状態の僕に会っても、穂ちゃんが傷付くだけだ。話を聞いても僕はきっと信じないよ。ここに来た僕と、その前の僕じゃ違いすぎる。ここに来て、色んな経験をして変われたんだ。だからこそ、帰って強く生きようとさえ思えた。それが無くなったら、僕は僕じゃなくなる。皆にも、今の僕を否定して欲しくない。だから、このまま帰って。それで、僕には会わないで」

 ここで僕達が出会ったことも、朱里さんも消したくない。未来を変えてしまったら、全部消えてしまう。それだけは嫌だ。

「それなら私、帰りません。ずっとここに居ます。琴似さんの傍に居ます。だって……、だって私、琴似さんが好きなんです!」

 気持ちがグラついた。本当に未来が変えられるなら、入学してきた彼女が僕にハンカチを返して、そのまま告白してくれたら、そのまま付き合って、幸せな生活ができるかもしれない。本当にそうなったら、どれだけいいか……。


 けれど……。


「穂ちゃん、ありがとう。その言葉だけで十分だ。君はここに居たらいけない。ここに居ても何も進まないし何処へも行けない。僕は、この時間が止まった、ただ生きるだけの場所に君を縛りたくない。僕はもうここでしか生きられない。でも、君は違う。現実へ帰って、自分の人生を生きるんだ。現実が辛くても、君はもう強く生きられるだけの糧をここでもう得ているはずだ。それに志乃ちゃんも晶子さんも君の帰りを待ってる。一人じゃないんだよ。きっと幸せになれる。僕はここから君の幸せを願っているから」

「……琴似さん、私はそれでもあなたの傍に居たいんです……」

 駄々をこねるように僕の胸に縋って穂ちゃんは泣きじゃくる。

「ダメだよ。ここに居てももう良い事は何も無い。ここに居続けたらきっと、君は僕を嫌いになる。この場所を憎むようになる。僕は君にそんな風になって欲しくない。それに、そんな風になってしまったら、せっかくここで得られた物さえ呪わしい物になってしまう。だから、ここでの思い出が大切な内に、色褪せてしまわない内に帰るんだ」

 穂ちゃんがゆっくりと顔を上げて僕を見る。その眼差しはとても凪いでいて穏やかだった。互いに見つめあい、そしてその距離が近づき、そのまま惹かれ合うように唇が重なった。

 そっと触れ合うだけのキスの後、穂ちゃんは決断するように頷いた。



 駅長服を着て、先ず休憩室へ行って穂ちゃんを着替えさせる。駅長服さえ着ていれば移動は一瞬だった。着替えを終えた穂ちゃんを連れてホームへ飛ぶ。丁度電車が滑り込んできたところだった。

 ドアが開いて、僕は穂ちゃんの背中をそっと押す。一歩前に出た穂ちゃんは、まだ離れ難そうにこちらを振り返る。

 僕は深く頷いてから、もう一度彼女の背を押す。

 彼女が諦めたように一歩一歩進み、ようやく電車に乗り込むと、警報音は鳴り止みドアが閉まる。

 穂ちゃんはドア窓に張り付いてこちらを見つめる。電車が動き出し、僕はその場で遠ざかる電車に手を振る。

 小さくなっていく電車を見ながら、僕は初めて彼女に出会った時のことを思い出した。




 今年の二月のことだった。

 その日は僕の通う高校で入学試験があった。僕は試験官補助学生として学校に来ていた。試験問題を配って、その後は教室の後ろで受験者達がカンニングしてないかどうかを見るだけの、簡単な仕事だった。バイト代は出ないはずだったが、担任の先生がこっそり学食の無料券二枚を僕に握らせた。試験日は休日になるので誰もやりたがらない中、家に居たくないばかりに立候補した僕を、先生なりに優遇してくれたのだろう。

 試験は五科目ある。

 二科目目が終了して休憩時間に入り、補助学生用の控え室でゆったりと座って過ごした後、担当の教室へ向かった。

 その途中、廊下の隅でうずくまっている女の子を見つけた。具合でも悪いのかと思い、彼女に声を掛けた。その時はただ、自分が補助監督生としての立場で、これも自分の仕事の範疇だという義務感しかなかった。

 けれど、そんな感情はすぐにすっ飛んだ。顔を上げた彼女の表情を見て、『ああ、この子は僕と同じなんだ』と瞬時に悟ったからだ。その表情は、去年の僕と一緒だったから。正直、一瞬タイムスリップして去年の自分に会ったのかと思ったくらいに……。

 そして、考えるよりも先に身体が動いた。ハンカチを渡して、『はい、これで顔を拭いて。まだ3教科も残ってる。大丈夫だから、落ち着いてやろう』と言ったんだ。彼女はハンカチを受け取って涙を拭くと、憑き物が落ちたかのようにふっ切れた笑顔になり、『はい。ありがとうございます。頑張ります』と答えた。

 あの時の彼女の笑顔をまだちゃんと覚えている。あんな風に誰かに微笑みを向けられたのは何時以来だろう?本当に、心が温かくなったんだ。そして、この子にまた会いたいと思った。だからハンカチを返してもらわずにその場を離れた。

 それは、まだ恋と呼ぶには浅く、けれども確かな暖かい感情を、彼女に抱いた瞬間だった。



 黄昏駅で再び出会い、記憶を取られても彼女を意識したのは、身体が覚えていたからなのだろう。黄昏駅での日々を経て、記憶を取り戻した今、その気持ちがようやく名前の付けられるものになった。


 やがて電車が見えなくなって、ようやく手を下ろした。


 さようなら、僕の初恋の女の子。

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