Case 大谷地晶子
私の幸せな日々は、僅か四歳にして終わってしまった。
それ以降はどこを思い返してみても、酷いものだった。
母が弟を産んだあの日から。
父方の祖父母は事ある毎に、初孫が女だということに嫌味を言って母をいびっていた。父はそんな母を庇うことすらしなかった。祖父母からのいびりに疲弊しきっていた両親だったが、それでも両親は私に優しかった。
けれど母が妊娠し、産まれた子供が男の子だったことから、祖父母は態度を軟化した。祖父母からのいびりから解放してくれた弟を、両親は救世主と崇めるように可愛がった。
その日から私の存在は、彼らにとって邪魔者になった。
弟にかかりきりになった母は、私の世話も面倒も見てくれなくなった。父は空気だった。次第に食事の用意から洗濯まで、私にやらせるようになった。奴隷みたいに働かされてようやく生活に必要な学用品や服を必要最低限与えられるだけだった。
私が風邪をひこうが怪我をしようが、いつも「私は弟のお世話で忙しいの。アンタはお姉ちゃんなんだから自分で何とかしなさい」と言われるばかりだった。殆ど服なんて買ってもらえなくて、近所のお姉さん達からお下がりを貰っていた。中学の制服さえ買ってもらえなくて、友達の伝手を頼って卒業生に頭を下げて譲ってもらった。本当にみじめだった。それでも学校では『明るい晶子ちゃん』を演じて、成績も上位をキープして、馬鹿にされていじめられたりしないように必死だった。
中学二年生になり、高校受験がちらつく時期になると、「女の子が高校なんて無駄。そんな無駄なお金は出せないの。これから弟に幾ら掛かると思ってるの?お姉ちゃんなんだから察して自分から働きますって言わなきゃ駄目じゃない」と言われて、何かがキレた。
「私はあんた達の奴隷じゃない!」
気が付くとそう叫んでいた。
「親に向かって何てこと言うの!?」
開き直るとは思わなかった。しかも、何その最悪な返しは?って思った。自分の親ながら見下げ果てたクソだと呆れたのを良く覚えている。けれど、この言葉のお陰でスッと冷めて冷静になれた。
「私に食事の支度も掃除も洗濯も何もかもやらせておいて何が親だ。親のくせに親らしいことなんて何一つしたことが無いくせに偉そうなこと言わないで」
「産んでもらった分際で。この家に住めるだけありがたいと思え!」
「こんなクソみたいなのが親だってわかってたら産まれてきたくなんかなかった。勝手に産んでおいて産んでやった?笑わせないでよ。産みたくなかったなら堕胎でもなんでもすればよかったじゃない。出来ないなら施設にでも捨ててくれた方がよっぽどマシだったのに。それからね、産んだら養育の『義務』があるの。『権利』じゃないから。そんなこともわからないでよく『親でございます』なんて言えるね」
「これだから女の子は嫌なのよ!口ばっかり達者になって。誰のお金で生活できてると思ってるの?」
「じゃああなたは家で何に貢献してるって言うの?お金を稼いでいるのはお父さんでしょ。家事の一切を私にやらせて弟にただべったりしてるだけのくせに。一番何もやってない人が偉そうな口叩かないで」
「もういいわ!勝手にしなさい!でも、進学費用は絶対にださないからね!」
「そんなもの、始めから期待してないから」
その後猛勉強して、ある高校に授業料免除の特待生として入学することが出来た。それからはとにかく勉強とアルバイトだけしてた。大学にも行きたいから。あんな奴らに私の人生を潰されるのはまっぴら御免だ。
そんな感じでがむしゃらに生きていたある日、たまたま用事があって乗った電車で居眠りをしていたら、この黄昏駅に辿り着いてしまった。
嫌な予感がして電車を降りて、すぐに人を探した。そして出会ったのが、彼女と朱里さんだった。彼女の名前は平岸昭美。家庭環境も似ていて歳も近かったからか直ぐに仲良くなった。そして彼女から『早く家を出たいのなら手に職を付けたほうがいい』と言われて自分の先の人生をどう生きたいのか考えるようになった。自分が何者になりたいのか、どうしたら早く稼げるようになって家を出られるか。
ここで生活する知恵を朱里さんから教わり、売店の存在を知った。必要な物を揃えるにあたって、私は考えた。
ここで失ったものは現実に戻っても失われたまま、一生戻ってこない。
忘れてしまいたい嫌な記憶は掃いて捨てる程ある。けれど、それを忘れて戻ってしまって本当に良いのだろうか?
親にされたアレコレを忘れて戻ってしまったら、私はまたあいつらの奴隷に成り下がってしまったりしないだろうか?
そんなのは絶対に嫌だ。それならどうしたらいい?私はどんな記憶を引き換えに物を得たらいい?
そうだ。それならば、4歳までの幸せだった日々を捨てればいい。それがなくなれば、今度こそ何のためらいもなくあいつらを憎み、捨てることができる。この先何があっても余計な仏心を出したりしなくて済む。
そうやって私は一つずつ両親との思い出を消していった。
黄昏駅に来て二ヶ月位してから穂が来た。四人になったことで、朝の移動が二人づつになってすぐの頃、昭美と二人になる機会が増えたある日のことだった。
休憩室で、先に起きていた昭美と二人、待合室へと移動中のこと。
「ねえしょーちゃん、将来の夢はもう決まった?」
「ううん、まだ。でも、この前昭美に言われてから、ずっと前向きに考えることができてるよ」
「そっかー。よかった。決まったら教えてね」
昭美は、底抜けに明るい笑顔でそう言った。
これだけ見ていると、昭美には悩みや苦労なんて無さそうに見えるけれど、実際は全く違う。
両親に先立たれた昭美は、親戚の家でお世話になっているのだが、その親戚から壮絶な虐待を受けている。それなのに、そんなものを微塵に感じさせず、それどころか皆に気を配って明るく優しい昭美を、私は尊敬していた。
「うん、決まったら真っ先に教える。待ってて」
そう言って昭美の方へ顔を向けると、鈍い音がして、昭美が床に倒れる瞬間だった。
「え?」
後ろを見ると、若い男が椅子を持って立っていた。涎を垂らして、目が完全にイッちゃってて、どう見てもヤバイ奴だった。
昭美は倒れたまま動かない。
「あ……、あきみ……、昭美?!」
床にしゃがみこんで昭美を揺すってみるが、やっぱり動かない。
もしかして、死……?どうしよう?
呆然としていると、男は昭美に圧し掛かって身体を触り始めた。
「うぇへへ……。あきみぃ」
呂律の回らない舌で昭美の名前を呼びながら、男は昭美の身体をまさぐる。
震えながらも、このままじゃとんでもないことになると、必死で男にしがみ付いて凶行を止めようとした。
「やめて、お願いだからやめて!」
そんなことで男を止められるわけもなく、絶望を感じた。
私じゃ何も出来ない。どうしたらいいの?
「駅長!」
突然背後から声が閃いた。
振り向くと、そこに居たのは朱里さんと穂だった。朱里さんが呼んでくれた駅長は、男の背後に現れると、男の首を掴んで言った。
「オマエ ケイコク ニカイメ ツギ アウト」
そして駅長は男を壁に叩きつけると、昭美を担いで歩き出した。
「待って、何処に連れて行くの?」
焦った私は駅長に飛びついてしまった。
「イムシツ ツレテク」
この時初めて医務室の存在を知った。昭美は医務室で治療を受けて、元気な姿でもどってきた。
昭美が戻ってくるまで錯乱状態だった私を、穂と朱里さんが宥めてくれた。
私は、弱い。
駅長を呼べばいいことは知っていた。それなのに、怖くてできなかった。
朱里さんは、私がすぐに駅長を呼ばなかったことを責めたりはしなかった。そのことが、とてもありがたかった。
昭美を襲った男は発寒翔太といって、以前は仲間として一緒に行動していたのだそうだ。発寒翔太はその後、駅員に連行されていった。 駅長を呼んだのはあの異臭女の円山望。おかしくなった発寒翔太をもてあましての結果だったのだそうだ。朱里さんから話を聞いていた私は、その時からあの女を敵視するようになった。
そんな日々を経て、昭美と話すうちに私は自分の進む道を見つけることが出来た。彼女には感謝し切れないくらいだ。
やがて志乃が来て賑やかになった頃、昭美の電車が来て、彼女は無事帰っていった。
私にこれから先の人生の指針をくれた彼女がいなくなってしまった喪失感はとても大きかった。もっと彼女と話をしていたかった。
打ちひしがれている暇を与えないように回送電車がホームに到着した。慌ててホームから逃げようとし たその時、彼に出会った。
最初は何だか頼りないヘタレだと思っていたけれど、朱理さんに鍛えられたからか、どんどん頼れる存在になった。
年齢や来た年代が近いからか話しやすくて、色んな話をした。
ようやく私の電車が来る。彼と同じ電車だったのはびっくりしたけど、大丈夫。きっと上手くいく。
最初から決めてた。私はここに4歳までの幸せな記憶を全て捨てていく、と。
準備をしてすぐに穂と売店に行って、エレベーターのコインを買った。最後の幸せな記憶と引き換えに。
弟が産まれる前のことを何一つとして思い出せなくなって、私は安心した。もうこれから先何も迷うことなく進んでいける、心からそう思えた。
きっと大丈夫、きっと上手くいく、そう思ってた。まさかあんなことになるなんて……。
あの時、一緒に穂を止めに行っていたら、あんなことにはならなかったかもしれない。
朱里さんが私に皆を守る役を託さなかったのは、私の弱さを見抜いていたからだ。
穂が福住に捕まった時も、散々強気な発言をしておきながら、本当は怖くて逃げたかったし、駅長だって琴似君が呼んでくれるってズルイこと考えてた。
琴似君は、皆が無事に帰ることを最優先に考えてた。だから今回は見送る提案をしたし、あの時穂を止めようとしてた。なのに私は自分の事しか考えてなかった。早く帰りたかった。帰って前に進みたかった。
私の弱さが、彼を殺した。
彼は連行される最中、他の皆のことばかり言って、結局私には何も言葉を残してくれなかった。
彼は、私を恨んでいるんだろうな。
帰ってきてから、暫くは自責の念に押し潰されそうだった。けれど、ふと気付いた。未来ならば変えられるかもしれない。そう考えた後は、自分の事も、未来を変える為に必要だと思えることも全部、必死にやった。今度こそ、強くならなきゃ、そう自分に言い聞かせながら。
2012年2月16日、私は彼女を探した。そして、ようやく探し当てたその電車で、寝ている彼女の前に立った。
私にとっては3年前のことだけれど、彼女はこれからあの辛い別れを経験して、戻ってくる。
一人で耐えるには、とても辛いことだ。私が戻ってきたときは、志乃が隣に居てくれた。
黄昏駅に居た時の面影を残しながらもすっかり大人になってしまった志乃。志乃が私のサポートを買って出てくれたお陰であの腐った家から脱出することができた。
志乃は今日、どうしても来られないということで、私は一人で彼女を迎えに来た。
志乃は『歴史を変えるのは不可能だと思います』と言っていた。あのお婆さん、美園タツは志乃の曾祖母だった。志乃はそれを知らず、けれどもお婆さんを助けようとしてた。……でも、出来なかった。そのことから、未来ですら変えられないのではないかと思ってる。
でも、違う。未来は変えられる。きっと変えられる。穂と琴似君はもうどこかで出会ってるはず。会ったこともない私がいきなり何を言っても信じてもらえないかもしれないけれど、穂の言葉なら琴似君だって聞いてくれるはずだ。
穂、早く起きて。
起きたら、琴似君に会いにいこう。
彼を、死の未来から救う為に。




