Case 月寒朱里
何故こんなことになってしまったのか全くわからない。
あんなに幸せだったのに……。
幼馴染であった彼と付き合いだしたのは、大学に入ってからだった。男勝りの私を彼はよく理解してくれていて、そして、愛してくれた。昔から私を見守ってくれた懐の大きい彼を、私も愛した。大学を卒業して社会人になっても交際は順調に続き、そして、お互いに仕事に慣れてきた頃から結婚を意識し始め、そして結婚した。
26歳で結婚して、その翌年に子供を授かった。人生順風満帆、幸せの絶頂だった。
けれどもそれは長くは続かなかった。
産まれた子供は、一年を待たずに流行り病で亡くなった。彼も彼の両親も私の両親も、皆が悲嘆に暮れた。ここで皆が悲しんでいたら皆が駄目になる。そう思った。だから私は皆を励まして、悲しみから立ち直ろうとした。それなのに、皆は私も悲しむことを強要してきた。
どうしてなのかさっぱり理解できなかった。それからというもの、あんなに仲が良かった夫ともケンカするようになった。そりゃあ、交際中に小さなケンカはよくした。でも、今回のは違う。
どうしたら元に戻れるのか?
もしかしてもう駄目なんじゃないか?
そんな気持ちを抱えて仕事をしていた。
帰りの電車に揺られながら、私は彼の居るあの家に帰りたくなかった。帰ればまた、ケンカになるんじゃないか、そう思いながら目を閉じた。
そして、目を開けると見知らぬ駅に到着していた。
周囲を確認して、異様だと判断して電車を降りた。電車の行き先には回送と書かれていた。ここが何なのか確認して対策をとらなければと思い、駅なのだから駅員が居ると判断してそれを探した。
その時はまだ晶子も穂も志乃も居ない頃だった。その頃に居たメンバーは平岸昭美と発寒翔太、そして真駒内志津香。志津香は私が来て割とすぐに電車が来て無事に帰ってしまったから、あまり思い出は無いが、黄昏駅の情報を持っているだけ全てを教えてくれた彼女には感謝している。
問題は発寒翔太。こいつのことを思い出すと、今でも腹が立って仕方がない。翔太は、あの円山望の被害者だ。ある日から翔太の単独行動が多くなり、不審に思って監視していたところ、円山と密会しているのが判明した。だから私と昭美は、翔太を止めようとした。
「お前、帰りたくないのか?このままじゃ廃人街道まっしぐらだぞ?」
「そうだよ、翔ちゃん。記憶削り過ぎると帰ってから困るのは君なんだよ?」
私達の言葉に、翔太はふてくされてそっぽ向くばかりだった。
「うるせーな。いいじゃねえか、別に。お前らに迷惑かけてねーだろ。俺みたいなのは、こーでもしねーと女は誰も相手にしてくんねーんだよ。現実だって同じだ」
翔太は現実でも同じように女に貢いでいるらしく、そのせいで借金を重ねているそうだ。
「このままお前が廃人になっちまったら迷惑掛けられることになるだろうが」
先の事なんて何一つ考えてやしない、この男は。
「迷惑かけるかけないの問題じゃないよ。仲間だから心配してるんでしょ。私、翔ちゃんがおかしくなって駅長呼ぶの、絶対嫌だからね」
「へえ、仲間……、仲間ね。ならさぁ、哀れな俺に無償で身体提供してくれよ。出来るだろ?仲間なんだからさ。あ、俺、昭美よりも朱里の方が好みなんだ」
言いながら翔太はヘラヘラしながらこちらに近づいてきた。
ああ、コイツもうダメだ。そう思って、肩を掴まれたところで即、駅長を呼んだ。事実上の絶縁宣言だった。
その後の翔太は見かけるたびに目がおかしくなっていた。そしてある日、連行されていった。
翔太と決別してから暫くは昭美と二人だけだった。そんな時に異例の人物に出会った。
名前は麻生誠。42歳のオッサンで、1993年から来たのだという。バブル崩壊後にリストラに遭い妻子に逃げられて一度黄昏駅に来て、そして再び戻ってきたのだそうだ。
「なあ、なんで戻って来ちまったんだ、あんた?」
「現実には何も無いからさ。仕事も家庭も金も家も、何一つ無い」
「それじゃあ前の時は何で帰ったんだ?」
「ここに来てそんなに経たない内に電車が来たからだ。それに、その頃はまだここに対する恐怖があったしな。でもな、現実に帰ってからここがどれだけ現実よりマシか思い知らされたんだよ。よく考えてみろ。確かにここは怖い所だ。だが、ルールさえ守れば何のことはない。ここでは何かをしなきゃならないわけじゃないし、する必要も無い。へーこら頭を下げて必死に再就職先を探す必要も無いし、金も要らない。早く働いて金を寄越せとしか言わない親や元妻子も居ない。俺にはもうこんな場所しか残ってないんだ」
ああ、こりゃ人生詰んじゃった奴か。
「じゃあ、アンタもうずっとここに居る気なんだ?」
「ああ、もう帰らないよ」
「あそ。ところでさ、参考までに聞きたいんだけど、ここの記憶って現実戻っても覚えてるもんなの?戻ってきた時ってどんな感じだった?」
「売店で消去でもしない限りは覚えてる。普通に居眠りをしていて起きた、そんな感じだ。帰りの電車に乗って椅子に座ったら眠くなって寝てしまって、起きたら元の電車に戻っていた。恐らくそういう風にできているんだろう」
なるほど。ここでの思い出も売店で代償として払えるのか。これはちょっと参考になったな。
「ここで忘れ物とかしても、現実世界ではちゃんと戻ってくるのか?」
「いいや、戻ってこない。前回帰る時にここで買った靴下を気付かずにそのまま履いていたんだが、ホームで慌てて脱ぐ羽目になってな……。結局そのまま戻ってきたわけだが、やはり靴下は履いていなかった。良くも悪くも、それでここに居たことが夢ではないと証明されたわけだ」
確かに、普通に考えれば、ここに来る前は居眠りしていたわけで、それで何の問題もなく目が覚めただけなら長い夢でもみてたんだろうで片付けられなくもない。こんな突飛な場所が実在するなんて、体験者でなければ信じるわけがないし、たとえ誰かに話しても『夢をみていたんでしょう』と言われるか変人扱いされるかのどちらかだ。
オカルト話でもここの噂が広まらないのはそういった理由からなのかもしれない。
「未来の話って、具体的にどの程度までOKか知ってる?」
「俺が知っている限りでは、自分の生年月日や自分が何時何処から来たのか、乗る電車について、あとは簡単な自分の身の上話。それだけだ」
「乗る電車って、具体的には?」
「何時何分の何線の何処行きの電車に何駅から乗ったとか、それ位なら話しても問題無い」
「それはすげえな。うまくいけば現実で誰かに会えたりするわけか」
「それは可能だろうな」
未来の話のルールはかなりザルなようだ。けれど、確実にそれを知ったら予定された未来が狂うレベルの物はアウトになるのだろう。
例えば、災害がいつ起こるとか、大事件が起こるとか……。
「ここで誰か知ってる奴に会った事はある?」
「無い。ただ、ここでは未来の話のルールがある。そのせいで何らかの記憶操作が行われている可能性は否定できない」
「なるほどねぇ」
「質問はそれだけか?」
「いや、最後にルール4の駅の外について聞きたい。駅の外がどんな所なのか、本当に出口があるのか」
「それについては俺もよく知らん。ただ、変な噂なら聞いた」
「噂?」
「駅員に捕まった連中は駅の外へ放り出されて死んだら駅員の仲間入りする、そんな噂だ。確証は無いが、頷ける」
「噂の発端は?」
「どうも駅員の手の中に見知ったのがあったのを見たという奴が居たんだそうだ。特徴的なホクロがあって気付いたとか」
「ま、ここならそんなことがあってもおかしかないな」
「ついでに教えてやろう。麻薬のみならずここの酒やタバコが何故危険なのか」
「常習性があって、記憶をどんどん消費するからじゃないのか?」
「それはただの一因に過ぎない。あれはここの特別製で、成分は現実の物とは違うのではないかという結論が出た」
「成分分析したのか?」
わざわざ記憶を消費してまでそんなことをするチャレンジャーが居るとは思わなかった。
「そこまで正確なものじゃない。が、わざわざ売店で簡易だが器具を調達して実験してた。酒以外の成分が含まれているという結果が出た。それ以外の何が含まれてるのかまでは特定出来なかったが、恐らくは人の脳を壊す何か、だ」
「どっちにしろヤバイ物に変わりは無いってことか」
「なあ、そんなに色々気になるのなら出口を探してみないか?どうせ暫く電車は来ないんだろう」
「マジか?」
「どうせなら何かしていた方が気が紛れるだろう」
まあ、こんな感じで出口探しを始めることになった。どーせ見つからねえだろうとタカをくくっていた。暇だったし。
けれど、オッサンがうっかり探し当てた隠し扉を見つけてしまった。あっという間にオッサンは駅員に外へ引き摺りだされていってしまった。ドアは引き戸や内開きじゃなく外開き。手が出ただけだったが、それでも『出た』という判定が付くのだとその時知った。
一瞬だけ見えた外は、まるで異世界。世界が崩壊したらあんなふうになるんだろうなって感じの場所だった。枯れた木と、ひび割れた大地が広がっていた。
今思い返してみると、あの不気味な空の色は、黄昏色と呼べるものだったように思う。この駅の名前の由来は、あの空の色なのかもしれない。
あんな場所でどうやって死ぬのか、時間の流れはあるのか、生き残っている人間が居るのか、それは外に出た人間でなければわからない。
けれど、一つだけわかったことがある。それは、ここはオッサンが言う程現実よりマシな場所では決してないのだということ。
一度ルールを侵せばあの恐ろしい場所へと放り出されて、死んでも出られない。駅員という名の死霊として未来永劫この駅に縛られる。それはここに居る限り、永遠に付きまとう恐怖。時間が止まったままのこの場所で、ルールを守ってさえいればいいとはいっても、ここでは死ぬことなくただ生きるだけで他に何も無い。例え誰かと仲良くなったとしても、マトモな人間は皆帰っていき、オカシイ人間は酒やタバコに手を出して自我を失っていくだけ。常に自分だけが取り残されていく。そんな寂しいだけの場所で生きていくことが、そんなにマシなこととは思えない。少なくとも現実に戻れば何らかの救いがあるように思う。救いのある無しに関係なくマトモに死ぬことだけは出来る。
帰ろう。現実がどんなものだったとしても。私は、絶対にあんな姿にはならない。
その後晶子たちが来た。
正直、明るい晶子が来てくれてホッとした。出口を見つけて恐怖を身近に感じてテンションが上がらない時だったから特に。
穂は穏やかで、あまり前に出てくるタイプではないけれど、いつも優しい笑顔を浮かべていてくれて癒された。
志乃の話を聞いて、つい年甲斐も無くムカついて『やり返せ』『ケンカの仕方なら教えてやる』なんて言って、実際そうした。志乃も最初は戸惑ってはいたが、素直に特訓に取り組んで次第に自信をつけていったようだった。最初は暗い奴だなんて思っていたけれど、萎縮していただけで実際はそうでもなかった。
そんな志乃から、まさかあんなアドバイスを貰えるとは思わなかった。
「朱里さんはずっとご家族の前では泣かなかったんですか?」
「泣いてる場合じゃなかったからな。葬式やら何やらで忙しくて……。それに、皆が気落ちして腐ってる時に私までメソメソしてたら共倒れになると思ったんだ。それでそのまま今の今まできちまって、結局悲しみそびれたんだ」
「旦那様は朱里さんを心配しているんじゃないでしょうか?」
「違うよ。悲しまない私を責めてるんだ」
「そうでしょうか?御自分達が真っ先に悲しみに暮れてしまって、葬儀の事からなにもかもを朱里さんに任せっきりにしてしまった。大変な思いをして産んだ子供を亡くして一番辛い思いをしているはずの朱里さんに悲しむ時間をあげられなかったことを後悔しているんだと思います。だから、遅くなってしまったけれども、悲しみ悼む時間を作ってあげたかったのではないでしょうか?」
衝撃だった。今までそんな風に考えたことはなかった。
「朱里さん、旦那様は貴女を責めるような方でしたか?涙を見せずに気丈に葬儀を執り行う貴女を見て、子供の死を悲しまない冷血な女だと穿ったような目で見るような方でしたか?幼い頃から貴女を見てきて、貴女がどんな方なのかを知った上で結婚までした方が、貴女を理不尽な理由で責めたりするんですか?」
「違う。そんな奴じゃない!あいつはそんなクズじゃない。優しいんだ。……本当に、アホが付く位、優しいんだ」
そうだ。思い返してみれば、夫の言葉は責めるものではなかった。
『朱里、もうそんなに頑張らないでいいんだよ』
夫はそう言っていたじゃないか。なのに私は意固地になって、責められていると思い込んでいた。
「そう思います。もう強がるのはやめて、旦那様に甘えていいんですよ。彼にはもうその準備ができているんですから」
「……そうだな。帰って、ちゃんと謝って、馬鹿みたいにわんわん泣くことにするよ。……志乃、ありがとな」
「はい」
絶対に帰ると決意してはいたが、それでも帰ることにためらいを感じていた。そのためらいを志乃がぶっ壊してくれた。
あの子が死んでからずっと暗闇の中をずっと無理矢理進むように生きてきた。その暗闇が、ようやく晴れた気がした。
この黄昏駅に恐怖しか感じていなかったが、この時私は感じた。
ここは怖いだけの、ただの一歩でも間違うと未来永劫地獄の場所なだけだと思っていたけれど、本当はそうじゃないのかもしれない、と。
その後に琴似が来たんだ。
あいつ、最初はもやしっ子のヘタレだと思っていたが、鍛えたらすぐに皆を守れる男に成長してくれた。
薄々私が皆より先に帰ることになるのだろうと感じていた。だから、率先して仲間を守れる奴がいてくれたらと思っていた。
琴似以外にその役を任せられる奴は居ないと思ったんだ。
晶子なら、と考えたこともあったけれど、接してみて気付いた。晶子は強がっているけれど、かなりメンタルは脆い、と。志乃も穂も、まだ幼い。駅長を呼んで連行させる責任を負わせるのは酷だ。だからといって、琴似一人に汚れ役の後任という重責を負わせてしまっていいってことは無い。
あいつには悪いことをしたと、申し訳なく思っている。あいつだって、たかだか16年しか生きていない、普通の子供なのだ。どうしても誰かがやらなきゃいけない必要悪とはいえ、殺人に等しい行為に心を痛めないはずは無い。
でも、琴似は言ってくれた。
『僕、朱里さんが今までくれた言葉、忘れません』
これを聞いて、ああこいつは大丈夫だ、って思えた。琴似が来てくれて、琴似を選んで本当に良かったと安心した。
目を開けると、久々に見る人の多さにギョッとした。
そうだ、帰ってきたんだ。
安堵と共に、少し寂しい気持ちが湧く。さっきまで一緒だった彼らには、多分もう会えないから……。
彼らの来た時代からは更に未来の今、彼らが私を覚えていて連絡を取ってくれるとは思えないし、こちらから連絡を取る術も無い。
車内アナウンスで懐かしい自分の降りるべき駅の名前を聞いて席を立つ。
さあ、帰って夫と話そう。そして、志乃に言われたように、思いっきり泣こう。
その後、夫とも和解し幸せを取り戻した頃、ふと思い出した。
そうだ。どうして忘れていたんだろう?私も、あの男も。
円山望にたぶらかされておかしくなって連行されていった被害者の、元は仲間だった彼を、私は知っていた。
発寒翔太
彼は、大学で同じ学部の同学年の学生で、サークルも一緒だった。黄昏駅では確か、24歳と言っていた。大学を卒業した後だ。接点は多かったものの、翔太から告白されて断ったこともあって、卒業以降は全く連絡を取っていない。他の仲が良かった連中もそれを知っているからか、彼の近況を聞くことはなかった。
思い返せば黄昏駅に居た時、駅長が顔をガン見して『カワリナイカ』と聞かれていたのは、翔太が居た時だけだ。
それじゃあアレは、『カワリナイカ』とは、『思い出してないだろうな?』という意味だったのか?
思い出したら居ても立ってもいられず、翔太と私の共通の知り合いにメールを出した。返事は意外にもすぐに返ってきた。
『久しぶり!急にどうしたの?あ、それより、翔太だけどね、……言いニクイんだけど、亡くなったんだよ。4年位前だったかな?心臓発作だって。電車に乗ってて急に。私同じ職場だからお葬式も行ったんだけど……』
ここまで読んで、それ以降の文面を見ていられなかった。
やっぱり本当だったんだ。心のどこかで、あそこで死んでも問題無くて元に戻れるんじゃないかと思っていた。
待てよ……?琴似が来る前まで、駅長は穂の顔をガン見したりはしなかった。琴似が来てからだ。双方にチェックを入れていたということは、穂も既に琴似にどこかで会っていたことになる。それに志乃。志乃は婆さんが消えてからは駅長にチェックを受けていない。志乃と婆さんにも何らかの接点があったということか。まさか、血縁者?もしそうだったら、あいつ……。
それから暫くして、決定的なメールが届いた。
メールの送り主は彼女だった。
彼女は私の母の友人だった。二人は学生時代の親友で、父と母がくっつくきっかけを作ったのは彼女だったのだそうだ。なんでも、彼女が当時付き合っていた彼氏の親友が父だったという、割とよくある話だった。
彼女は母から私の連絡先を聞いてメールを寄越したと文面に綴られている。
メールには私が黄昏駅から戻った後に何があったのかが詳細に書かれていた。
読んで、全てが繋がった。そして、もう会えない人達を想い、悼んだ。
私はこれから先、皆が繋いでくれた今を全力で生きよう。




