#5 ズルなんて許されなかった。
徳島県徳島市、八雲町二丁目に建つ三階建てマンションの三階、三○三号室が私の家であり依頼を請け負う事務所でもある。
午前七時三十分
私は何時もの動作でベッドを降りた。寝巻きにしているシャツを脱ぎ選択籠に放り込む。クローゼットの中から取り出した丈の短い半袖のシャツを着、ネクタイを緩く締める。下には黒いズボンを穿き、太めのベルトでピッタリと締める。
髪を姿見の前で自分の姿を確認しながら髪を梳かして頭の上でポニーテールにする。首元が一気に涼しくなった。
此処までは昨日までと同じだが、昨日迄と違うのは此処からだ。
「起きろ、藤野!」
白い布団を引っペがす。小さな身体を猫のように丸めて眠っていた黒髪の少女は眠たそうに「むえ?」と変な声を出しながら私を見た。
「むえ、じゃない!今何時だと思ってるんだ、さっさと起きないと朝飯抜きだぞ!」
腹から一喝すると、暫くはむにゃむにゃと何か文句を垂れていたがやがて気怠そうに身体を起こした。寝巻き代わりに私の古着である男物の黒いシャツを着ているので、床に立つとワンピースを着ているようだ。私は少女に洗面所の場所と、其処で着替えて顔を洗う事を教えた。彼女が洗面所に去ってから一人、ベッドに腰掛けた。
「何なんだ、あいつ……」
自然と溜息混じりの独り言が漏れる。
藤野ろす。
突然現れ、私を嵌めてちゃっかりこの家に住み着く事にしたらしい女。
一体何処の誰なのか。何者なのか。
私はあの女の事は何一つ知らない。それなのに成り行きで家に住ませる約束をしてしまったのだから、自分で自分に呆れる。
「っ……と、こんな事してる場合じゃないや」
私は枕元の机に置いていた黒い表紙の手帳を手に取った。寝室を出て仕事用の資料室兼応接室に入り、其処にある扉からまた台所兼リビングへと入る。
丁度洗面所から出てきた藤野と目が合った。
「おはよう、蒼ちゃん!」
朝から元気のいい挨拶だ。明るい笑顔は子供っぽく見える。
「嗚呼、おはよう」
私は冷蔵庫から栄養ゼリーのパックを取り出した。だが、其処で藤野に何を食べさせるべきかという問題に直面した。
「藤野、お前何食べるの?」
我ながら変な質問だと思う。これでは藤野が未知の生物みたいじゃないか。否、ほぼ未知の生物に近いか。
「んー、何でも良いよ?あ、でもヨーグリーナがあったらそれが良いなぁ」
ヨーグリーナ?
「何それ?」
「え、蒼ちゃん知らないの!?ヨーグルトの味がする天然水だよ!とっても美味しいんだよ!?」
ヨーグルト味の天然水、か。飲んだことは無い。今度コンビニに行った時にでも探してみよう。
「悪いね、無いよ。それにお前の話聞いてるとヨーグリーナって飲み物じゃない。私は食べ物の事言ってんだよ。……特に希望が無いならこれになるけど」
私は少し考えて、冷蔵庫に買い置いていた梅干しのおにぎりと紙パックの緑茶を放って藤野に寄越した。
「?食べていいの?」
「寧ろ食べな、じゃなきゃ力出ないよ」
藤野はおにぎりと私を交互に見詰めた後、「ありがとう!」と笑っておにぎりの包装を剥がし始めた。
藤野が問題なくおにぎりを頬張るのを見てから、私も栄養ゼリーのパックの蓋を開いて口を咥える。
パックを握り込むと、冷えたゼリーが喉を滑ってゆく心地よい感覚に少しほっとした。
ゼリーを飲みながら手帳を開く。
「なになに?何見てるの?」
今日の予定が書き込まれている頁を開いて確認していると、藤野が横から覗き込んできた。眼鏡の奥の黄色と青の瞳が興味深そうに輝いている。
「嗚呼、今日の依頼の内容とスケジュールだよ」
今日の依頼は警察からの物だ。
内容は"連続放火事件の調査"。
「へぇー、ここ一週間で火事が五件、かあ。放火なの?」
私は頷いた。
「火元が全て、火の気の無い寝室や子供部屋だったそうだ。出火当時も、辺りに発火しそうな物は無かったらしい」
其処まで喋って、ふと思い出した。
「……お前、そんな事聞いてどうするの」
「え?一緒に行く」
さらりと吐かれた言葉に、一瞬思考が固まる。
「……念の為に訊くけど、何で?」
「だって、蒼ちゃんと一緒にいたいもん!それに面白そう!」
悪びれもなく返されて更に困惑する。
何を言っているんだ、こいつ。
「駄目だ。現場は何があるか解らない。もしかしたら放火犯と取っ組み合いになるなんて事もあるかもしれないんだ。素人を連れて行けるかっての」
現に、私は過去に何度か警察に協力した依頼で犯人と一戦交えた事がある。
依頼の現場では何が起こるか解らない。まして、こんな危険を孕んだ仕事に成り行きで家に住ませる事になった素性も知れない女を連れては行けない。
「ええー!?蒼ちゃんのケチ!」
「ケチで結構!お前は留守番。いいね?」
「嫌だ!」
「言う事聞かないと追い出すぞ!」
「約束と違う!」
「この家では私がルールだ!従えないなら追い出す権利が私にはある」
「むむ、そんなのずるーい!同居人にも楽しみを分けてよ!」
こんな調子で身も蓋も無い、実りの無い議論という名の言い争いを、食事を終えても続ける事、云十分。
気が付けば、依頼人である警察と会う約束の時間が迫って来ていた。
午前八時十五分。
約束の時間は八時三十五分だ。目的地までは自転車を飛ばして十分はかかる。常に五分前行動を心掛けている私からしてみれば、二十分には家を出たい所だ。
藤野は未だ行きたい行きたいとごねている。これ以上、こいつの我侭に付き合ってはいられない。
「解った。……ジャンケンで決めよう」
拗ねて頬を膨らませる藤野に、私は最終手段を投じる事にした。
「ジャンケン……?」
「そう。私が勝ったらお前は家で留守番、お前が勝ったら仕事に連れて行ってやる」
勿論、考え無しに言っている訳ではない。勝算があって言っているのだ。
後出しをするのだ。相手がグー、チョキ、パーのどれを出すかを決めた瞬間、自分の手の形を変える。言葉面では簡単に思えるが、本当にコンマの数秒で相手の手を見抜く瞬時の判断力と瞬発力が必要になるので、実際はかなり難しい。
私はこれが出来るようになるまで三年かかった。だが、その技を身につけてからジャンケンで負けた事はない。
「……良いよ、絶対に勝ってやるんだから」
藤野は膨れっ面で手を出した。
「私が勝ったら連れて行ってね、約束だからね!」
「ハイハイ、解ってるよ。私は約束は守るからね」
そう。約束は守る。
勝つのは私だ。
「最初はグー」
「ジャンケン……」
刹那、藤野がパーを出す準備をするのが見えた。
瞬間、チョキを作る。
そしてーー
「ーーポン!」
出されたのは私のチョキとーーー藤野のグー。
「嘘ッ………!?」
嘘だ。
私の後出しは完璧だった筈。ちゃんと藤野がパーを出そうとするのは見えたのに……。
「やったあああ!私の勝ちだね!約束通り連れて行ってね、蒼ちゃん!」
ガッツポーズをとった藤野がにっこりと満面の笑みを浮かべる。
「……まさか」
こいつ、私が後出しする事を読んで、その上で更に後出しをしたのか?
だとしたら、かなりの判断力と瞬発力を兼ね備えている事になる。
だが藤野は、ただひたすらニコニコと笑って私を見るばかりだ。真意は読めない。
「うふふふふ、約束は守るんだよねぇ?蒼ちゃん?」
態とらしく問いかけて来る顔にムカつく。
そうこうしている内に、もう時計の針は八時二十分を指していた。
「拙い、早く行かないと!藤野、さっさと用意しな、出るよ!」
「え、待ってよ蒼ちゃん!一緒に行っても良いんだよね!?」
「ああもう、良いから、良いからさっさと準備する!」
仕方が無い。負けた私が悪い。藤野に向けた言葉も半分自棄糞だった。
連れて行くにしても、大人しくさせておけば良いだろう。流石の藤野も仕事の邪魔をする程非常識ではあるまい。
私は鞄に手帳とナイフ、そしてゴム弾銃を詰め込んで家を飛び出した。