#2 入水って水に入る事じゃない。
川に飛び込んだ人間を助ける苦労は知っている。だが、流れていたその女が思っていたよりも小柄だったおかげで難無く岸に引き上げる事ができた。
肩で息をしつつ、大の字になって仰向けに気を失っている女の顔を覗き込む。するとその途端に、女の瞳がぱっちりと見開かれた。
女の黄色と薄い青色の瞳が蒼を捉える。目が合った瞬間、額に割れるような衝撃が走り、思わず蹲ってしまう。
ーーこいつっ……頭突きしやがった……!?
チカチカと点滅を繰り返す視界と痛む額を押さえ悶絶する蒼の様子などお構い無しに、まるで自分と蒼の頭がぶつかった事など無かったかのように女は底抜けの明るい笑顔を見せた。
「おっ?おおお?君が助けてくれたの?いやあ、別に助けなくて良かったんだけどねー、でもまあありがとう!」
「お前なんでピンピンしてんだよ、石頭かって………て、え?」
水を含んだペンギンのフードを躊躇なく被り、ぴしりと敬礼しながらまくし立てた女に蒼は呆れ半分で言葉を返すが、相手の言葉の中の違和感に気付いて眉を顰めた。
「え?だってほらほら、入水ってあるでしょ?ちょっと気分転換に川に飛び込んでみようって思ったのよ。誰にも迷惑かけないからいいかなー…………って、どこ行くのよお!?待ってよーー!?」
『入水』という単語を聴いた瞬間、蒼は脱いだ上着の存在も忘れ女に背を向けて勢い良く逃げ出した。背中に女の叫び声が投げられるのが分かったが、構いはしない。
ーー待て、あいつ今『入水』って言ったよね!?入水って自殺だよね!?
つまり、あの女は自殺志願者だと言うことになる。
小柄な背格好を見る限り、年齢は小学生か中学生だと推測できる。川に飛び込むことを「気分転換」と言っている辺り、入水という言葉の真意を知らないのかもしれない。知らずに使っているのかもしれない。
それでも、蒼の研ぎ澄まされた感覚は確かに蒼の脳裏に語りかけた。
『この女はヤバい』と。
理由など解らない。だが、幾度の危機を潜り抜けてきた蒼は、自分の直感と危機察知能力に疑問を持ちはしない。
関わってはいけない。未だ頭突きの余韻を残した脳は休むことなく警鐘を鳴らし、少しでも女から遠ざかろうと蒼の足を走らせる。
「勘弁してよ……ほんとに!」
日が沈み始めている。緋色に染まっていた空は徐々に昏く透明な青藍にその色を塗り替え、日光の残滓は地平線の彼方に身を隠しつつある。
今まさに夜の帳に包まれようとしている川岸を全力で疾走する。
そうして危機感に煽られて、蒼は一日を終えるーー筈だった。