-88- 都合
朝が明けていた。寝室を出た高桑は、この日に限り、無性に腹が減っていた。いつも朝は全と言っていいほど食欲が出ず、少しの野菜とミルクセーキで済ますのが常だった。それがどうしたことか、這い回りたいほど腹が減るではないか。こうなっては、さすがに何か食べないと動きが取れない。高桑はキッチンにある冷蔵庫へと、ひた走りに急いでいた。冷蔵庫には幸い、昨日、買っておいた食パンが一斤あった。高桑はトーストにすることなく引き千切ると、生で口へと詰め込んでいた。2枚ほどを機械のように内臓へ収納すると人心地がつき、高桑の空腹感は、ほんの少し遠退いた。とはいえ、その感覚は、完全に空腹感が満たされたというものではなかった。それでも仕方なく、高桑は勤務する国税庁査察部へと家を出た。
勤務中も高桑の空腹感が消えることはなかった。デスクに座りながら、高桑は、はて? 昨日と今日の違いは…と考えた。だが、思い当たるような違いはなかった。いつものように昨日も起き、少しの野菜とミルクセーキを飲むと家を出たのである。
「高桑君、どうしたんだ? なんか、今日はおかしいぞ…」
高桑の勤務態度の変調を察知した部長の麻尾が心配そうに声をかけた。
「いや、別に…。どうも…」
高桑は半ば笑って暈した。高桑はその後も必死で我慢し、昼食休憩を迎えた。
「あら? 高桑さん、珍しいわね。そんなに…」
食堂の賄い婦、絹川が訝しげに訊ねた。高桑は食券を、いつもの倍、買っていた。
「査察ですか? ははは…まあ」
高桑は笑って、軽く流した。
ようやく、勤務を終えて家に着いたとき、高桑の空腹感は嘘のように消えていた。それどころか、逆に食欲が全然、湧かなくなっていた。高桑は、なんなんだ、この変化は? …と思った。必然的に夕飯は抜き、早めに眠ることにした。そしてその夜、高桑は妙な夢を見た。
『そりゃ、私だって都合がありますよ…』
高桑は胃腸に囁かれた。
『ほう、そうなんですか?』
『ははは…当然ですよ。あなただって都合がいいとき、悪いときはあるでしょうが…』
高桑は、なるほど…と得心したところで目が覚めた。早暁の明るさが寝室を覆っていた。妙なもので、腹具合はいつもの状態に戻っている。空腹でもなく、食欲がなくもない・・そんな状態だった。高桑は、見た夢を思い出し、身体の都合なんだ…と思った。
すべてが都合で変化するということは、よくある。
完




