-80- 流される
誰もいない一人でいるとき、よし! こうしよう…と強く決めたことが、別の考えの群衆の中にいると、勢いに押され、群衆に流されることが、よくある。
弓祭町に住む梅川は天気がいいのに気をよくしたのか、ブラッと出ることにした。のんびり釣り竿片手に家を出ると、寒さも緩み、肌を撫でる早春の風が心地よい。
「あらっ! 梅川さん。どちらへお出かけです?」
町の路地を曲がったところで、ばったり出会った知り合いの甘酒が、梅川に声をかけた。
「えっ?! いやぁ~なに。これといって決めちゃいないんですがね。天気がいいんで、この前、忙しく出られなかった釣りでもやろうと思いまして…」
「そうでしたか…」
「そういう甘酒さんは?」
「いや、なに。ははは…これから、そこの桃畑でご近所の皆さんと一杯飲みを…」
「なるほど! 桃畑も満開ですからね。いい見頃だっ!」
「そうなんですよ! よかったら梅川さんも…。あっ、そうか。これから釣りでしたね」
「はあ。まあ、必ず! というもんでもないんですがね…。それじゃ!」
二人が軽く会釈をし、左右に別れて歩き出したときである。梅川の進む方角から、ぞろぞろと、近所の男達が酒や料理を手にして歩いてきた。細い道だったから、当然、行き違いざまに双方は出食わして止まることになる。
「やあ! 梅川さん。どうです! これからご一緒に一杯!」
「いやぁ~、私は何も持ってきてませんから…」
近所の男の一人に声をかけられ、梅川は返したが、どういう訳か梅川の口から、釣りの言葉は出なかった。近所の男達に少し流されかけたのだった。
「ははは…いいんですよ。三人分ばかり余計に手料理と酒はありますからな」
そこへ先ほど別れた甘酒が引き返してきた。前後を近所の男達に囲まれ、いつのまにか梅川は流された。
小一時間後、飲めや唄えですっかり赤ら顔に出来上がった男達の姿が桃林にあった。むろんその中には、流された梅川の姿もあった。
人の世の柵の中では、確かに群衆に流されることが、よくある。
完




