-5- ああ…お金がない
谷底は今朝も愚痴っていた。
「ああ…お金がない、今朝もない…」
ないのは当然で、昨日から・・いや、よく考えれば何年も前から谷底には収入らしき金の巡りがなかったのである。まあ、谷底に限らず、多くの誰もが一度は口にしないまでも思う、よくある感情ではある。ただ、谷底の場合はその思いが病的で尋常ではなかった。田舎で暮らす祖父から送ってもらった一万円札で買い物をしたときでも、店頭で「ああ…お金がない! と呟いたことがあった。
「ええっ? ? …手に握ってらっしゃるじゃないですか」
「ああ! そうでした。…でも私、お金がないんです」
「ははは…そら、あなたに限らず、皆さん、ない方もお有りと思いますよ」
店の主は一笑に付した。それはそうだな…と、そのときは谷底にも思えたから、頷いて金を支払い、おつりと品物を手に帰宅した。その後、数日は、崩した一万円札のおつりがあったから、谷底にとっては至福のときで、資産家にでもなった気分で暮らせたのである。
「やあ! こんにちは!」
そんな谷底が散歩で道を歩いていると、偶然、小犬を連れて対向から歩いてくる斜め向かいの豪邸に住む上山に出会った。谷底の顔に自然と笑みが零れ、快活な挨拶が口に出ていた。
「ああ、どうも…」
上山も快活に挨拶され悪い気はしなかったから、笑顔で返した。二人は擦れ違い、少しずつ二人の距離は離れていった。そのとき、上山はふと、立ち止まり、振り返って谷底を見た。
「谷底さん、何かいいことでもあったのか? いいねぇ…。私なんか、明日(あしたまでに、1,600万めどがつかないと不渡り出しちまうんだが…。1,500万は回収できたが、あと100万がな…」
谷底は数千円のおつりが懐にあるから、ニコニコと裕福ないい気分で歩く。上山は、まだ100万の用立てが残るから、陰鬱な重苦しい気分で歩く。よくあるお金に対する思いの差だ。
完




