おかえり、ビーチェ
暴れ狂うビーチェに対して、俺はまず彼女の動きを封じることに専念した。
(――縛り上げろ――)
『銀の呪縛!!』
鬼蔦の葉を模した銀の首飾りから細長い銀の蔓が無数に投げ放たれ、真っ黒なビーチェに絡みつく。
だが、ビーチェの体を縛り上げるはずだった銀の蔓は、まるで霞に縄をかけるかの如くすり抜けてしまった。煙のように霧散したビーチェの影は少し離れた位置に集合して、再び少女の影を形作る。
(……実体がないのか? それとも幻影か? だとすれば、物理的な攻撃は無意味か?)
一瞬の逡巡を突くように、俺の脇腹へと強烈な衝撃波が炸裂する。青白い光が閃き、また一つ俺の防衛術式を刻んだ魔蔵結晶が砕け散った。
真正面から戦っていたはずなのに死角からの一撃。完璧な不意討ちだった。
(幻影か!? 見えている影は偽物で、実体は姿を隠して近づいてきたのか? だが、俺の探知術式では捉えられていないぞ……!!)
先程から俺は『天の慧眼』の術式で、怪しい魔導因子の動きは見逃さないようにしている。ところが把握できているのは幾度も座標位置を飛び飛びに移動する、特定できない煙のような影だけだ。
そして、その影もまた完全に無視できるものではなかった。煙の尾を引く小さくて黒い何かが、四方八方から俺を追尾してきて至近距離まで来ると途端に青白い光と衝撃波を伴う爆発を起こした。
(……幻惑の呪術も混じっているが、あくまで本体はあの『黒』だ。ビーチェを模った影……)
何をやっても捉えられないというなら、幻影で俺を惑わす必要はないはず。だとすれば、何かあるはずだ。あの『黒』を捉える方法が。
(――見透かせ――)
『猫の暗視眼!!』
猫目石の魔蔵結晶を瞬時に発動して、目の前の『黒』を見据える。どこまで目を凝らしてみても一切の光の反射を許さない『黒』。ただひたすらに真っ黒な影がそこにはあるだけだ。これはあまり意味がなかった。それでも、何一つとして見逃さないように術式そのものは継続する。
(――搔き乱せ――)
『因子撹乱!!』
緑藍晶石の魔蔵結晶は空間にある魔導因子の流れを搔き乱す。しかし、黒い靄がほんのわずかに揺れ動いただけで状況に変化はない。弱い幻想種くらいなら魔導因子の渦を乱されることで消滅することもあるのだが、『黒』には全く影響がないように見える。思った以上に安定した存在であるようだ。
(――囲め――)
『晶洞結界!!』
瑪瑙の魔蔵結晶を全力で術式稼働させ、『黒』を広い範囲から包み込むように封じ込める。球状に形成された瑪瑙が『黒』を完全に囲って、その体積を急速に縮めていく。逃げ出す隙間などないように思えた瑪瑙の檻を、『黒』はまるで漏れ出す水のように透過してくる。
「この程度じゃ、笊だってのか!?」
刹那、ごく小さな黒い点とでも表現すべき濃い『黒』が、瑪瑙の檻を突き抜けて外に飛び出してきたのを『天の慧眼』と『猫の暗視眼』の両目が捉えた。だが、それも一瞬で辺りの『黒』と混ざり合って居場所がわからなくなる。『黒』が複数本の煙の腕を伸ばし、それらが俺の体へとあらゆる方向から突き刺さった。
防衛術式と『黒』の衝撃波がせめぎ合い、立て続けに防衛用魔蔵結晶が砕けて割れた。『黒』の腕の幾本かが俺の体へと直接衝撃波を叩き込んでくる。
骨に響くような痛みが全身を襲った。
「がふっ……!? ぅうっ――!! くそがぁっ!!」
飛びそうになる意識を怒りの罵倒で強引に引き戻し、水晶の魔蔵結晶を強く握りしめて、治癒の術式を即座に発動させる。
(――痛みを取り去れ――)
『活力の霊水!!』
本来なら五回程度は使い回しができる回復用の魔蔵結晶を、無理やり全力稼働させて最大効力で治癒を行った。先ほどの攻撃で罅が入ったのだろう骨が修復され、破壊された筋肉組織も治癒して痛みが引いていく。代わりに水晶の魔蔵結晶は細かい砂となって崩れ去る。
『黒』による怒涛の攻撃で、装備していた防衛術式は全て破壊されてしまっていた。ほぼ回避不能で一発一発が骨を砕くほどの威力である。
『黒』は捉えどころなく巧みに攻撃をかわし、こちらの攻撃はまるで当たらないが、あちらの攻撃は一方的に当たるという理不尽な状況。何かしら闇の呪術の効力なのだろう。
わずか一瞬だけ捉えることができた敵の核とも言うべき本体、小さな黒い点のようだが、明らかにそこから強い呪詛の波動を感じた。おそらくはそこが、この呪術の起点にして唯一の弱点だろう。しかし、この小さい的を狙うには何とかして『黒』の全体を足止めしないといけない。自由を縛る術式を何度も、何種類も仕掛けているが、ことごとくがすり抜けられてしまっている。
「真っ向勝負が無駄となれば、あらゆる手を尽くすまで!!」
何が通用するのか、考えている暇はない。思いつく限り、持ちうる全ての手段を使うしかないのだ。
(――現世を歪めよ――)
『遊色世界!!』
めったに使うことのない蛋白石の魔蔵結晶を取り出し、周囲空間を俺に有利な異界へと作り変える。これは半ば禁呪ともいえる代物だ。異界法則を現世へ引き込み、時空をモザイク状に細かく分割し、俺に向かってくるあらゆる攻撃を細断して散らす術式だ。おかげで視界はありとあらゆる色に分割されて、ぐちゃぐちゃになってまともに見られたものではない。『黒』からの攻撃も途中で分断されて俺の元まで届くことはない。
逆に俺がやることは単純明快。細切れになった『黒』を一つ一つ探し出して、そこへ目掛けて術式を仕掛ければいいだけだ。数は多いが的はわかりやすい。『黒』の核たる点を捉えるまで、ありったけの封印術式を叩き込む!
(――永久の休息を与えよ――)
『青き群晶!!』
天青石の魔蔵結晶が幾つもの『黒』を小さく青い結晶中に封じ込めて収縮する。
『竜血樹液!!』
琥珀の魔蔵結晶が魔力のこもった樹液を浴びせかけ、複数の『黒』を呑み込む。
『晶結封呪!!』
緑藍晶石の魔蔵結晶が空間中に散らばる『黒』を、幻想種も封じる水晶の結界で幾つも封じ込める。
――それでも、『黒』の活動は停止しなかった。いまだに核となる点は捉えきれてない。そればかりか、封印したはずの『黒』は結晶からじわじわと漏れ出してしまっている。
「効かないか……」
あきらめずにこれまでと違う封印術式を発動する。
(――溺れろ――)
『閉鎖水球!!』
水入り瑪瑙の魔蔵結晶が、魔力を伴った水の球に『黒』の一部を閉じ込める。けれど、数秒としないうちに『黒』が水球の外へと滲みだしてくる。
「これも通用せず……」
とうとう『遊色世界』の効果が切れて、現出していた異界が崩壊し、現世へと引き戻される。もっとも、現世といってもここは異界の狭間。半ば異界と化した空間だ。『遊色世界』の影響を残して、所々に空間が捻れたような歪みを残している。
(……これが異界現出を禁呪とする理由、ってわけか。現世への残留影響が大きい……)
この歪みがこの場にどれほどの影響を及ぼすかわからない。何も起こらないかもしれないし、あるいは取り返しのつかない事態を引き起こすかもしれない。だから怖いのだ、異界現出という禁呪は。これ以上、この不安定な場で異界現出の術式は使うべきではないだろう。他の手であの『黒』を、ビーチェを捕まえるしかない。
だが、足を止めた後はどうする?
どうやってビーチェを鎮めればいいのか。
祓霊浄火は使えない。おそらくあそこまで幻想種との同化が進んでしまっては、祓霊浄火の炎でビーチェの命まで燃やし尽くしてしまう。
答えの出ないまま戦いは激化していく。
防衛術式を失ったまま戦い続けるのはあまりにも危険だ。続く手を打たねばならない。
──やるしかないか。
俺は外套を脱いで右腕に巻き付けると、左手で紅玉の魔蔵結晶を握りしめ、呪術を発動する。
(――置き換えろ――)
『鮮血紅化!!』
皮膚表面へ血液が滲み出すように、ルビーの六角板結晶が右腕以外の全身を覆う。本来は全身を隙なく硬化させる術式だが、それをすると細かい呪術が扱えなくなるので、右腕一本だけはそのまま残した。そしてさらに、金剛石の魔蔵結晶を左手の甲に押し当てながら呪詛を重ね掛けする。
『金剛黒化!!』
禍々しい黒紫色の八面体結晶が、紅い結晶板の上に群晶を形成する。
呪詛が強いので先に『鮮血紅化』で皮膚を保護し、その上に『金剛黒化』を被せた形だ。ルビーの結晶板が間に挟まることで制御の応答性はやや鈍くなる。しかし、皮膚に一ヶ月は癒着してしまう『金剛黒化』を、『鮮血紅化』の上に被覆することにより、短期間で安全に剥離できるようにしている。使い勝手はこれまでより抜群に良くなったと言えるだろう。
残された右腕も生身のままというわけにはいかないので、赤鉄鉱の魔蔵結晶で『鉄砂の鎧』をまとわせる。寄り集まった砂鉄に包まれる右腕には、魔蔵結晶を収めてある外套も一緒に埋め込んだ。『金剛黒化』の術式で体を覆ってしまうと、懐から魔蔵結晶を取り出すことができなくなるので先に外套を脱いでおいたのだ。これで、右腕を介して通常通り術式の起動も行える。
魔蔵結晶の消費が馬鹿みたいに多くなっているが、今この時に必要な力を迷いなく出せるのなら構わない。ビーチェを取り戻すためならば、この程度の代償は惜しくない。
「さあ、仕切り直しだ。ぶん殴ってでも元に戻してやるからな……ビーチェ!!」
金剛黒化の呪法で漲る魔力を存分に放出して、強化された封印術式を行使する。
『――檻を成せ――硬質群晶――』
言葉がそのまま呪詛となり、口から紫色をした光の粒が噴き出した。前方に出現した黄玉の結晶群が大波の如く『黒』に押し寄せ、その半分ほどを呑み込んで結晶中に封じ込めていく。先ほどまでなら容易に抜け出されていたところだが――。
『――結び直せ――粒界再結晶――』
黒紫色の結晶が怪しく輝き、紫紺の光が黄玉の結晶群へと降り注ぐ。光を吸収した結晶群はどろりと飴のように蕩け、すぐにまた固まって美しく透明度の高い結晶を再形成する。最初に作り出されたときは細かい結晶の集合体であったものが、一度溶けて融合し単体の結晶へと再結晶化したのだ。透明度を増した黄玉の結晶群は魔力の檻としても効果を発揮し、滲みだして逃げ出そうとする『黒』を完全に捉えて離さない。
だがそれでもまだ核となる部分は捉えきれていないようだ。少女の姿をした影が走り寄ってきて、無数の黒い腕で青白い閃光と衝撃波を伴う掌打を連続で叩き込んでくる。黒紫色の結晶が衝撃を受ける度に禍々しい光を発して衝撃波を相殺した。
どこから撃ち込まれてくるかわからない『黒』の攻撃も、この重厚にして堅牢な金剛黒化の結晶体には一切の損傷を与えることができない。もはや攻撃を避けるまでもなかった。
『――永久の休息を与えよ――青の群晶――結び直せ――粒界再結晶――』
間髪入れずに封印術式を連続発動し、徐々に『黒』の体を削り取るように封印していく。時折、幻影を身代わりにして逃れてはいるが、広範囲を結晶で囲い込んで圧縮していく封印術式によって、確実に『黒』を成す体は小さくなっていた。
『黒』からの抵抗がより一層激しくなる最中、少女の影が四方八方に分散して高く跳び上がる。幻影で本体の位置をごまかしながら、頭上より襲い来る『黒』に一瞬の隙を俺は見出した。
『――解き明かせ――幻影解呪――!!』
呪術的に視界を乱す『黒』の幻影を消し去り、核である黒い点を探す。影は八つから四つへと減ったが、残りはそのまま襲い掛かってくる。半分が幻影で、残りは実体があるのだろう。
そして、飛びかかってきた黒い四つの影とは別に、小さな黒い影が一つ距離を取るように後退したのを俺は見逃さなかった。あれが核に違いない。
「地の精よ!!」
周囲の地面から、にょっきりと生え出した地の精達が一斉に小さな黒い影へと飛び掛かり、まとわりついた。その間も俺に向かってきた四つの黒い影は実体を持って殴りかかってきていたが、その全ての攻撃を俺は避けることなく受けきった。青白い閃光と衝撃波が止むことのない嵐となって襲い掛かってくるが、俺は決して目を閉じることなく、『黒』の核たる小さな点を捕捉し続けた。俺と感覚を共有した地の精達が決して逃がすまいと数の力でもって追い回す。
ついに核を抱えた黒い影は地の精達によって捕まり、動きを封じられた。千載一遇の機会。しかし、動きを封じた後どうすれば正解なのか、俺はまだ決断しきれていなかった。それでも今、この瞬間で決定的な手を打たねばならない。長時間、『黒』と化したビーチェを捕え続けることはできない。なにより既に、ビーチェが人としての自我を保てる限界は過ぎている。
(――これでいいのか? 俺の判断は間違っていないのか? 俺にできることはもう――)
俺にできることはもう、これだけしかない。
それだけは確かな結論として俺は即座に動いた。
目の前に無防備な姿をさらす黒い少女の影、その呪術を構成する中心点を目掛けて、渾身の一撃を貫き通す。
『――その呪法の核たる点を打ち砕け!! 金剛黒拳――!!』
金剛黒化を刹那の瞬間だけ威力強化する。純粋に最高強度を求めた拳が黒い人影の腹部を強かに打ち据えた。魔力を伴った衝撃波が肉と骨を貫き臓腑にまで達して、闇の呪術を構成する中心を砕き散らした。
影から、か細い声が聞こえてきた。
身に打ち当てた腕を伝い、言葉の振動が直に伝わってくる。
「……クレス」
その略称で自分を呼ぶ者は元々、レリィに略称を許すまで、この世に一人しかいなかった。
影を包んでいた闇が解け、『黒』が薄まって素顔が明らかになる。
「ビーチェ……」
血を吐きながら倒れこむビーチェを胸の内に受け止める。
(――痛みを取り去れ――)
『癒しの箱庭……』
今回の旅路において、必要になるかもしれないと新しく作りあげた庭園水晶の魔蔵結晶。瀕死の重傷を負ったレリィを完全に癒した実績もある治癒術式を使ってやるが、傷が深いのかビーチェはかなり苦しそうだ。
幻想種と同化して暴れ狂う彼女を鎮めるには、こうするよりほかなかった。浄化の炎で焼くにしろ、魔導因子の構成を破壊するにしろ、ビーチェに憑依した幻想種を祓うには体への負担が大きい。その影響を最小限に収めて呪詛の核を破壊したのだが、それでも小さな少女にとっては致命傷だった。
ビーチェの体から急速に失われていく熱。視点の定まらない金色の瞳。
そんな状態でも、今すべきことが何かは心の片隅で理解できていた。
こんな現状になっている理由も、自分が犯した過ちも、全て遠く置き去りにしてビーチェとの『再会』を優先すべきなのだ。
ビーチェを膝の上に仰向けで横たえると、瞬きもせずに金色の瞳で見つめてきた。
「……クレス」
もう一度、弱々しくも少女の口から発せられた名前。その耳慣れた響きは、ここ最近に聞いた声とは違うものだった。懐かしく、そしてもう二度と聞くことがないと思っていた。
「ビーチェ……」
向けるべき相手のいなかった名前を、ようやく言うべき相手に対して口にすることができた。
長い時間離れ離れになっていた。
断ち切ろうとして、結局捨て切れなかった想い。再び会いたいと願い、諦めずに繋いできた想い。そして、いざ再会を前にして感じる、裏切ってしまった罪と相対する恐怖。けれど、実際に感じたのは――。
「……私、帰ってきた。やっと、クレスの所に――」
懐に潜り込むように抱きついてくるビーチェ。
不思議と、時間による想いの風化は感じなかった。こうして出会ってみれば、つい昨日まで一緒に居たかのような錯覚さえ覚える。
「ああ……。よく……、よく戻ってきた……」
「…………」
ビーチェが無言で手を伸ばしてくる。
どう反応すればよいかわからず、その手を取って握りしめ、恐る恐る不器用に少女の髪を撫でてやる。別れた時から変わっていない、相変わらずのぼさぼさ頭だ。
「置いていったこと、恨んでいるか……?」
首を振るビーチェ。
「繋がっていたから。ずっと、クレスが探しているの、わかっていたから」
繋がりを断ち切って、忘れてしまおうかとさえ思っていた。再会することが恐ろしくもあった。己を苛む呪いのように、黒猫の陣は枷となっていた。だが、こうして再会を果たしてみればどうだろう。
――そうだ、そうだった。
何故、忘れてしまったのだろうか。この純粋で直向な少女のことを。
どうして彼女を悪夢として見てしまったのか。
恨まれているなどと、そんなことあるはずもなかった。ここまで何の疑いもなく、自分を慕って待っていたのだ、この娘は。
今まで引きずってきた、鉛の塊を括りつけられたかのような重苦しい感情は、完全に消えてなくなっていた。
なんのことはない、自分もまたビーチェに会いたかったのだ。どうにもできない絶望感が強く、自分の想いさえまともにわからなくなっていただけだ。
「今まで迎えにいけなくて、すまなかった」
「食べ物、ずっと用意してくれて、ありがとう」
「ろくに手紙も送らず、悪かった」
「はぐれて、連絡もできなくて、ごめんなさい」
初めから、答えなどわかりきっていたのだ。
「……おかえり、ビーチェ」
「ただいま、クレス……」
クレストフ・フォン・ベルヌウェレが求める真の幸福は、ただ一人の少女と共にあった。






