あなたを待っていた
標石の針が一方向をぴたりと指し示した瞬間、ようやく手繰り寄せたビーチェへの糸口を逃すまいと俺は全速力で走り出した。
ここは既に異界の狭間だ。迂闊な行動は厳禁だったが、ここまで来て慎重に振る舞ってはいられなかった。とにもかくにもビーチェと合流することが最優先だ。例え異界の狭間で迷い果てたとしても、後のことはムンディや風来がどうにかしてくれる。その信頼の元、俺はただひたすらビーチェの元へ辿り着くことだけに集中していた。
「待って! 早い、早い! クレスってば、冷静になってよ!」
「あーん!! 置いてかないで~。クレスお兄さ~ん!」
「ダメだわね! あれはもう、聞こえてないわ!」
「いや! クレストフ君は大丈夫だ。僕たちがバラバラになる方がまずい!」
「たわわわっ!? こんなヤバいところで、はぐれたくないのですぅ~!!」
近づいている。その確信がある。
標石を持つ手に伝わってくる針の揺れが、段々と固くなってきている。もう迷わず一点の座標を指しているのだ。ビーチェの持つ番号座標。その固有波動を確実に捉えていた。
長く長く、どこまでも続く水晶の小路。以前に通ったときはこんなに長かっただろうか?
前は疲労困憊の状態でただひたすら無意識のままに足を進めていたから、どれくらいの時間この小路を歩き続けていたのか覚えていない。ここから宝石の丘への道は、思っていた以上に長い道のりだったのかもしれない。
それとも俺の気が逸っているから、もどかしく焦ってしまうのだろうか。そもそも、今進んでいる道は宝石の丘への道から外れているのではないか。
そんな単純なことも判断がつかないくらい、俺は無心に走り続けていた。
仕方がないだろう。我ながら無様だとは思う。
それでも目前に追い求めた幸福が見えているというなら、それがいつまた消え失せるかわからない状況なら、誰だって必死になって掴もうとする。
洞窟の壁に生えた美しい結晶が視界の端を幾つも過ぎっていく。普段なら目移りしてしまいそうなほど美しい結晶群だったが、今は全く気にならない。そんなものは今の俺にとって無価値だと理解しているからだ。
──宝石よりも価値あるもの。俺はそれを知ってしまったのだ。
昔の俺なら金と宝石があれば、それで心も満たされていた。他の幸福の形を知らず、本当にそれで満足できたのである。だが、今は――。今、俺が求めているものは――。
洞窟の壁がやや広がりを見せて、大きな一本道がずっと先まで見通せるようになった。
その先に、標石の指し示す先に、人影が一つ見えた。
「ビーチェ──!?」
人影に駆け寄ろうとして、俺は足を止めた。
その人影は明らかに大人のシルエットをしていた。
硬質な白磁のごとき質感の鎧を身に纏い、雑に格子を削り出したような真白い石の面頬で顔を隠している。後頭部までしっかりと包まれた、防御の徹底している兜だ。
繊維結晶化した自然銀と金糸で要所が括られ、白の鎧には大粒で透明度の高い宝石が色彩豊かに鏤められている。左右非対称で大きさもまちまちな宝石の象嵌だが、ごく自然で洗練された配置となっている。
純白の鎧を着た、宝石の騎士。
格子の入った石の面頬、その隙間から覗くのは銀色の瞳。怪しげな光を湛える瞳と目が合えば、何か無性に焦燥感を覚える。力は弱いが――魔眼の類、と見るべきだろう。咄嗟に視線を下に逸らしたが、その結果として騎士が腰に帯びた剣に目を惹きつけられる。
寒々しい霊気を漏らす、刀剣が二振り。その刀剣の意匠には見覚えがあった。
霊剣・霧雨と寒風。それらは俺が、ビーチェと生き別れになる直前に彼女へ託した二本の剣だ。
改めて冷静に、目の前の人物を観察する。
「……なぜ、お前がその剣を持っている?」
標石は宝石の騎士を指し示してはいない。さらにその先へと針を向けていた。ビーチェはもっと先にいるのだろう。だとすればこいつは、風来の才媛が探知した四つある存在のうち、ジェムとジュエリを除いた二つの存在。その内の、ビーチェではないもう一つの存在か。
「この剣は、預かり物だ」
ガサガサとした雑音混じりの声が、石の面頬から発せられる。体格や外見、声音からは男か女かもわからない。あるいは人であるかさえ不明だ。
「……クレストフ・フォン・ベルヌウェレ、あなたが来ることはわかっていた。この手紙で」
宝石の騎士が懐から一通の手紙を取り出して掲げる。それもまた俺には見覚えがあるものだった。他でもない俺がビーチェに対して送還術で送った手紙である。完全に一方通行の手紙だったが、この異界の狭間まで届いていたのだ。だが、それを目の前の宝石の騎士が持っているのはどういうことなのか。
「お前は誰だ? どうしてそれをお前が持っている? それは、ビーチェに向けて送った手紙のはずだ」
「ビーチェは確かに手紙を受け取った。けれども、彼女にはもう読むことはできなかった。結果として、私が預かることになった」
宝石の騎士から発せられた『ビーチェ』の名前に俺は複雑な想いを抱く。こいつはビーチェの知り合いなのか。ビーチェはやはりこの先にいるのか。
しかし、それよりも宝石の騎士の言葉で気になった部分がある。
「読むことが、できなかっただと……?」
怪我でもして動けなくなっているのか。何にしてもここで悠長に謎の騎士と話しているよりは、先にいるであろうビーチェを見つけ出すのが良さそうだ。
「俺はビーチェの元へ行く。ここを通らせてもらうぞ」
「……この先に、ビーチェはいる。彼女にとって、あなただけが救いになるだろう」
意外なほど簡単に宝石の騎士は道を空けた。魔窟に巣くう魔獣の類だとしたら戦闘になるかと思ったのだが、どうもこいつは雰囲気が違う。知能は高く、情緒も安定している。これまでに遭遇した亡者とも様子が異なっていた。
気にはなったが今はビーチェの方が気がかりだ。俺は宝石の騎士の素性については保留して先を急ぐことにした。宝石の騎士の傍を通り抜けていくとき、ふと悲しげな視線を向けられたように感じたが、俺はその視線を振り切ってビーチェの元へと急いだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆
クレストフに少し遅れて、レリィ達が宝石の騎士の元へ辿り着いた。一本道のど真ん中に立つ宝石の騎士を警戒してレリィ達は立ち止まったが、道の先にクレストフの背中が見えて再び彼を追おうとする。
その前に、宝石の騎士が立ち塞がった。
「……ここ、通らせてほしいんだけど?」
「ここから先、あの人以外は通せない」
レリィの問いにも、取り付く島もないといった様子でクレストフを追わせまいとする宝石の騎士。
「特に、貴女はだめだ」
宝石の騎士から放たれる敵意が、強引に通り抜けようかと考えたレリィの足を踏み止まらせる。
「貴女はおそらく、『天敵』だろうから」
何に対する敵なのか。宝石の騎士は詳しく語るつもりはないようだった。
ただ、一切の含みを持たない純粋なる敵意だけがそこにあった。
「話し合いは無理ってことかな? 早くクレスを追いたいんだけど……」
「――貴女はなんだ? あの人のなんだ?」
「……?」
レリィの呟きに宝石の騎士が反応した。あの人というのはクレストフのことだろうが、レリィとの関係性について興味を示したようだ。
「あたしはクレスの専属騎士。レリィ・フスカ!! クレスを守るのがあたしのやるべきことだから。そこを通してもらうよ!」
腰を落として真鉄杖を構えるレリィに、宝石の騎士は微動だにしないまま再び問いかける。
「貴女はクレストフ・フォン・ベルヌウェレの騎士である、と言うのだな?」
「そうだよ!」
そこで初めて、宝石の騎士が一歩踏み出した。右足を前に半身の構えを取って、銀色の魔眼でレリィを鋭く射貫く。
「ならばその腕、見せてもらおうか。あの人の騎士に相応しいかどうか」
黒い靄と群青色の光が入り混じった、禍々しい闘気が立ち昇る。並みの騎士には発することのできない、いや、人間には出しようもない異質な闘気である。
「うっ……!? なに、この気配……気持ち悪い……。これまでの階層主なんかよりも、よっぽど強烈な……」
「どうやら先ほどまで本当の実力を押し隠していたようだね。僕らは見事に分断されたわけだ、クレストフ君と」
「ちょっと待ってぇ……。私、覚えがあるわよぉ、この気配。運河の都カナリスで……」
以前に立ち寄った運河の都カナリスで出会った、魔剣に支配された騎士セドリックと似たような雰囲気ではある。だが、闘気の禍々しさはセドリックの比ではなく、明らかに『馴染んでいる』ように見えた。しかも、宝石の騎士から放たれているのは闘気だけではない。到底、人間には発しようもないほどの濃密な魔力の波動が放たれているのだ。アカデメイアで魔人化したナタニアをも超える魔力の強度であった。
「驚くことではないだろう」
そして宝石の騎士が腰に帯びた二本の霊剣を抜き放つ。構えた剣は、肺腑の奥まで沁み渡るように静謐な霊気を漂わせる霊剣・霧雨。更にもう一振り、皮膚を裂くかと思わせる凍てついた霊気を放つ寒風。
「他でもない私が、この魔窟の主なのだから」






