身分証明書
「ねぇ、私って、どこにあるのかな」
唐突に、目の前の彼女はそんなことを言いだした。
「……大丈夫? 病院にでも行く?」
「べ、別にそんなんじゃないよ。ただ、何か変だなぁ、って思って」
「何が?」
「う~ん、何て言えばいいんだろう。われおもう、ゆえにわれあり、ってあるでしょ。あれって確か、全部を否定していって、残った最後が自我だった。っていう話だったと思うんだけどさ」
そうね、と相槌を打つ。時折、彼女はこんな風に何やら小難しいことを考えて、俺に対して色々と話したりする。
「昔のすご~く頭のいい人が必死になって考えて、それでようやく自分という存在を証明したわけでしょ。なのにさ、例えば免許証だったり学生証だったり、いわゆる“身分”を証明するものを提示すれば、相手は簡単に私という存在を認めるわけ」
ここでも相槌を打つ。なるべく、彼女が話しているときは聞き役に徹するというのが自分ルールなのだ。
「でもそれじゃあ、私はどこにあるの? 考えている私? それとも、この薄っぺらい紙の中?」
「それはちょっと話がずれてるんじゃないかなぁ」
「分かってるけど、分かってるけどさ。自分が自分を証明するのはこんなにも面倒くさいのに、相手が私を証明するのには、こんなに簡単なんだ、って思ったら、ちょっと理不尽じゃない?」
うんうん、と頷く。俺なりの解釈だと、要するにこんな薄っぺらい紙切れ一枚で私を証明しようなんざ100年早いわ、といったところなのだろうか。
「えっと、目の前の“私”じゃなくて、自分が認識している“私”じゃなくて、紙の中の“私”を信じてるのが気にくわないって事でいいんだよね」
「そう! それそれ! 確かに便利だし、実際それが無くなったら色々と苦労するだろうけど、目の前のものを信じようとかって思わないのかな。自分を自分足らしめてるその自我で認識してもいいんじゃない? って私は思うんだけど」
「そうだなぁ……じゃあ、俺が身分証明書になってあげるよ」
「……なにそれ?」
「だから、俺が身分証明書になってあげるって。俺の自我で認識して、“私”の存在証明をしてあげるってこと」
俺の返事を聞いてから、ぽかーんとした表情をしていたが、しばらくして突然笑い出した。
「な、なにそれ? フフッ、本気で言ってるの?」
「本気本気超本気」
「じゃあ、もしもボケちゃったらどうするのよ」
「それって、俺がボケるまで一緒にいてくれるってこと? その時はじゃあ、別に証明してくれる人がもう新しくできてるはずだから、平気でしょ」
「そもそも、孝一が認識している私が間違っているかもしれないよ?」
「それはそれで、俺が認識した結果なんだからしょうがない。われおもう、ゆえにかれあり。どうよ」
「ひどく手前勝手な考え方ね」
「われおもう、ゆえにわれありも大概だと思うけどな」
そこまで俺の答えを聞くと、いまだに笑っていたのだが、ひとしきり笑いおえたのか、ん~と一つ伸びをした。
「はぁ。ほんと、孝一に言った私がバカだった」
「そりゃどうも」
「まあ、ありがとね。話聞いてくれて」
「慣れてますから」
「なに? 慣れてないと聞けないってこと?」
一転、ムっとした表情へと変わる。
「滅相もございません。慣れるくらいまで話を聞けて、彼氏冥利に尽きるなぁ、と言ったまでです」
「じゃあ、そういうことにしておいてあげよう」
はは~ありがたきしあわせ~、なんて馬鹿みたいな返事を返して、今度は二人して笑った。