第五幕 其の二
其の二
ここは、海の底のようだ。
ジュリエットは、そう思う。
暗くて冷たく重たいものが、身体にまとわりつき自由を奪った。
ふと、遥か彼方、上方で光が見えることに気がつく。
ジュリエットは、その光に意識を集中する。
すると、重たい水の中で彼女の身体は、動き始めた。
ジュリエットは身を捩り、光に向かって昇ってゆく。
水面に向かって泳いで行く魚の動きを、イメージしてみる。
彼女の身体は、加速していった。
気がつくと、回りは単なる闇ではなく、藍色に染まりつつあることに気がつく。
速度を増して行くので、彼女の回りに渦が巻き起こってゆくようだ。
突然、彼女は水面に出たかと思うと、目覚めていた。
ジュリエットは自ら毒を飲んだ霊廟で、目を開く。
彼女は、自分が恋人の死体の腕に、抱かれていることに気がついた。
ジュリエットは、大きく息を吸って吐く。
あたりには、色がない。
灰色の、世界だった。
ただ、恋人の流した血だけが、その灰色の世界で赤い。
ジュリエットが毒をあおいだ時に着ていた白いドレスに、花弁を散らしたように赤い色がついている。
それが、この世界の唯一の色だ。
ジュリエットは、自分が目覚めていないように思う。
こころが、動いていない。
当然襲いかかるであろう哀しみも、絶望も、まだやってこなかった。
これは、夢の世界だと、ジュリエットは感じる。
しかし、多分それは自分の夢ではなく、死の世界へと旅だった恋人、ロミオの夢の中にいるような気がした。
ジュリエットは、ロミオの口許に頬をよせる。
美しい恋人の唇から、吐息が漏れることは無かった。
ジュリエットは、ロミオの唇に自分の重ねる。
薔薇の花弁のような唇は、まだ完全に温もりを失っていない。
しかし、それは冷たかった。
明らかに死者の、それである。
突然、こころに痛みが訪れた。
まるで、いきなり胸の奥を、短刀で貫かれたようである。
ジュリエットは、耐えきれず叫んでいた。
「ロミオ。ロミオ、ロミオ、ロミオ。ロミオ!」
彼女の瞳から、真珠のような涙がぼろぼろと零れ落ちる。
それは、ジュリエットの意思には関わりなく、彼女の胸の底奥深いところから止めようもなく沸き上がってくる熱い固まりがひきおこすのだ。
彼女は、叫ぶ。
「ああ、ロミオ、ロミオ、ロミオ、ロミオ!」
ジュリエットは、ロミオの死体に口づけをする。
その唇に、閉ざされた瞳に、まだ温もりをのこす頬に。
渇いたひとが泉から水を貪るように、何度も何度も口づけを繰り返す。
そして、叫ぶ。
「ロミオ、わたし判っていたの、そう判っていたのよ、はじめから」
ジュリエットはロミオの頬を、唇を、滴る涙で濡らしてゆく。
ロミオの死体もまた、泣いているように見えた。
「あなたの瞳の奥に、死があるのを。あなたが逃れようもなく、死に魅入られているのを。そして」
ジュリエットは、確かめるようにロミオの頭を、頬を、首を撫で回す。
「ロミオ、あなたもまたどこかあなた自身も知らないような深いところで、死を魅入っていたことを。ああ、わたしは知っていた。わたしの恋敵は宝石で飾られた美女ではなく、黒い翼の死の天使だって。けれど」
ジュリエットは、もう一度口づけをする。
まるで彼女の激情をロミオに注ぎ込もうとしているかのような、熱く深い口づけだった。
そして、再び顔を上げる。
「わたしが、そこへゆく。もしあなたが死の天使に抱かれていれば、あなたを奪い返してやるわ。わたしたちの愛を」
ジュリエットは、優しくロミオの頬を撫でた。
「愛を永遠にするために」
彼女は、ロミオが死してなおその手に握っている拳銃を、手にする。
ロミオが握りしめた手は、そのままにして。
ジュリエットは、その弾倉に最後の一発の弾が残っているのを確かめると、顔を歪めた。
「ああ、ロミオ。あなたは死んでも優しいのね。わたしの為に、最後の弾を残してくれるなんて」
ジュリエットは、ロミオの隣に再び身を横たえた。
ロミオの腕を、空に向かってさし出す。
ジュリエットは、天井に弾痕があるのを知っていた。
なぜか彼女は、その弾痕が赤く輝いているように見える。
色を失った恋人の夢の世界で、唯一残っている赤が。
そこにあるように思え、それはきっとロミオの恐れた夜の終わりを告げる明けの明星であると思えたのだ。
ジュリエットは、真っ直ぐロミオの腕をその赤い星に向かって捧げ。
目を、閉じる。
そこには満天の星空が広がり、そのあまりの美しさに吐息をもらした。
降るような、星々。
白銀の花が、黒いビロードの幕に撒き散らされたような。
その時、奇跡がおきた。
死後硬直によって、筋肉の収縮がおきたのか、死んだはずのロミオの指が引き金をひいて。
この世の終わりを告げる大天使のラッパがごとき銃声が、灰色の世界を貫いた。
竜の吐息のように燃え盛る銃弾は、正確に暗い天井で赤く輝いていた星を砕くと、跳ね返りジュリエットの胸へ突き刺さる。
ジュリエットは、焔でできた剣で、心臓を貫かれたようだと思った。
全身を吹き飛ばすような衝撃に襲われ、彼女は一瞬意識を失い。
そして、目を開いた。
ジュリエットは、息を飲む。
そこは、白かった。
世界を雪が覆い尽くしたとでもいうかのように、一面が純白の世界である。
ジュリエットは、自分が身に付けているドレスに付いた血の赤も、消えていることに気がついた。
全てが、白く汚れなく、恐怖も不安も苦しみも、なぜか消え去っている。
傍らには、ロミオが横たわっていた。
眠っているように、瞳を閉じている。
彼女と同じように、純白の服を身に付けており、彼女と同じように血の後は消えていた。
ジュリエットは、ぼんやりと思う。
ここは、時間が結晶化した、永遠の世界なんだと。
水晶のように時間が凍り付いた世界に、わたしたちとわたしたちの愛は、閉じ込められたのだろう。
ジュリエットは、脈絡もなくそんなことを思う。
彼女は、ロミオを見つめる。
きっと、もうすぐ彼は起き上がり、彼女を抱き締め口づけて、こう言ってくれるに違いない。
愛してるって。
白い、全てが白いその、全てが凍り付いた世界の中で。
ジュリエットは、ロミオの手を握り、待っていた。
永遠に。