天使の種1◇囚人◇蒼月の梨夜〜蒼い月が生まれた理由〜
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その邸宅は光織り成す丘の上にあった。リルーラの丘にも似た自然の美に恵まれた地である。美しい草原を眼下に映す、緑豊かな森を従えた緩やかな丘の上に、白亜に輝く屋敷。
一見する限りは、リルーラの丘と同様の清浄で明るい景色である。
燦々と昼間の月光を浴びて、健全で美しい自然に囲まれた、その場所に相応しい主が、帰宅する。
明るい空の澄みきった深い青の髪。キラキラと煌めき色を変える碧玉の眸。
人間の身には過ぎた美貌を持つ、明るく無邪気な笑みを見せる少年の姿。
至高の女神の愛し子。
蒼月の梨夜。
残酷な神の遣いも、安息の地を持つのか。平穏な景色に溶け込み、少年の澄んだ眸が、珍しいくらい柔らかな感情を宿していた。
しかし。
少年が屋敷に入り、真っ直ぐに向かった部屋は、この平和な景色も明るい光も拒絶する。
昏く、沈んだ別世界だった。
「ただいま。」
それは、梨夜が帰宅した折りには欠かさない行動だ。
この部屋を確認するまで。
梨夜の耳には何も聴こえず、梨夜の眸は何も映さない。
屋敷に仕える者達も、それを知る故に、梨夜に声を掛ける事もない。ただ、自らの心に従って、主の無事の帰還を言祝ぐ様に、深く頭を下げるのみだった。
無論、梨夜の視界に入りはしても、梨夜が意識する事は無かった。
「………。」
檻の中で、美しいイキモノが微かに頷いた。
おかえり。と告げられた気がして、梨夜の眼差しが和む。
イキモノは黒く艶やかな髪と翼を有している。滑らかな白磁の肌は造りものようで、冷たく美しい顔貌も同様だ。ただしその美貌の中でも最たる美しさを誇る、紫紺を帯びた黒曜の双眸だけが、淫らに人を誘う魅了の能力と生命の輝きを示した。
その能力は、この種族の性だ。
艶々と濡れた闇の翼と同様に、黒き闇に輝く髪と同じく、光の反射と感情で紫紺に金にと煌めきを変じる眸は人を誘惑して止まない。
地球の人間たちとは別階層に棲まう、悪魔の一柱である。
地球の神話では、天使と悪魔は相争い対立するものらしい。
しかし、確かに対立しないでは無いが、その神話で語られる言葉が、地球の人間が抱く天使と悪魔のイメージが、梨夜の失笑を誘う。
悪魔が巣食う階層とは違うが、やはり地球の別階層に棲まいする「天使」は、寧ろ人間が語る「悪魔」の姿に近いだろう。
明るい髪の色。美しい姿。純白の翼。しかし気性は概して好戦的で残虐非道。
嗜虐を好み、血を啜り、気弱な悪魔を切り裂き弄ぶ事を至上の歓びとする種族である。
――僕と同じ。
エリジュアスでの天使は、神の遣い。神の代行者。
梨夜は蒼月の二つ名を持つ、断罪の天使として知らぬ者が居ない程に名を轟かせていた。
至高神の寵愛厚き神司にして、夜闇こそが似合うと囁かれる程の無道を見せる。美しい断罪の天使は、確かに地球の天使に似ていた。
悪魔に執着してやまぬところ迄も。
☆☆☆
比奈瀬・ウィドマーク・梨夜。
エリジュアスの名門。リー14家の遠戚にして、女神リア・リルーラが定めた地球の守護の役目を担う、ウィドマーク家の長子として生を受けた。
まだ只人であった時には、地球で任に当たる父親の仕事を学ぶ為に、双子の妹と共に地球に住まいしていた。
当時の名は利夜。夜の闇に隠れた秘密も見抜き賢く立ち回れる様に、と名付けられた。姉の那利香はどんな秘密も嗅ぎ付け賢く利用出来る様に。
割と打算的な名前だが、比奈瀬・ウィドマークの血をひくからには、賢く立ち回るのは非常に大切な事だった。
そして、ウィドマークの血筋は大概その期待通りに育つのが常だった。
当時の利夜は、それでも平凡な人間だったのだろう。
化け物じみた能力も、その堅く固い意志のチカラも。
まだ生まれてはいなかった。
守護者の仕事は他種族との調停や、道案内である。地球は妙な磁力を持ち、たまに他の世界に向かうつもりの存在が迷い込む。
地球は女神の結界で守られる故に、勝手な跳躍は許されないし、物理的にも出来るものでは無い。彼らの帰還や実際の目的地への案内を司るのは、守護者の役目のひとつだった。
そして地球種族は、普通の人間やその末裔は基本的に異世界との交流を持たないが、それ以外の種族は大概エリジュアスや他の世界とのパイプを持っていた。
彼らとの交渉事や揉め事などの調停の役目を担うのも、ウィドマーク家の大切な仕事のひとつである。
人間以外の地球種族と云えば、代表的には四種族を数える。実際には更に数種を数えるが、特に交際が深く、またウィドマークが気遣いを要するのが四種族となる。
地球の別階層。天界に棲まう天使族。魔界に棲まう悪魔族。
一部は魔界と天界に、殆どの一族は人間と同じ地球の地上に暮らす、長命者の聖野一族。
そして、異界から移り住むドール達。
これが主要な四種族である。
次点で多いのは冥界関係者だが、これは一概に地球種族とも云えない。とは云え、エリジュアスの民とて死にいたれば冥界に赴く為、ある意味関わるのは一番厄介な相手となる。
特に、冥界の「シナズ」の関係者が含まれれば、神々の関係者にもなる訳で、非常に気を遣う対象だった。
『冥界関係者は見て見ぬ振りをしろ。』
これはウィドマーク家の家訓である。
その『シナズ』に、梨夜は関わってしまった。
シナズとは死な不。文字通り死なないと云う意味だが、単なる不死者とはまた違う。
死者となって、蘇生を果たす事から、『甦り』とも呼ばれる存在。
特徴は先ず一度死んで冥界に赴く事。
そして、死んだ筈の元の身体か、新しく用意された肉体に魂魄が甦る事。
それは冥界にて、死した当人納得の上で決められるらしい。
但し、選択肢がある場合も少ないそうで、大概は『未来』の押し付けに他ならないとも噂される。
特殊な死者は大概が九尾一族と呼ばれる妖狐の管轄だが、特にシナズの死者の管理は『永久』が直接任うと云う。
トワは冥界の持ち主にして支配者である。冥王の片腕とも、冥王自身の分体とも囁かれる、冥界の神だ。
冥界の事象については、その冥王を別にすれば、創世の神々さえトワの意を慮らざるを得ないと云われている。まさしく絶対者だった。
シナズの魂魄は確かに『人間』であるが、元の身体ではなく新しく用意された肉体は、厳密には『人間』では無い。
いや。肉体自体は甦る魂魄に相応しく、優秀な『人間』としての器だが。
シナズが宿るまで、仮に納められた『たましい』は違う。
天使の種が、それの役目を果たした。
そう。
天界の天使である。
ではシナズが甦るまで、その『人間』が残虐で非道な『性質』かと云えばそれも違う。
種の内はまだ意識も淡く、意志も無きに等しい人形と同じだった。
そして、天使の種は堕天の悪魔を生む種でもある。
悪魔の種は悪魔の種で存在する。しかし、天使と悪魔の種核は、元々は同種のものだ。
宝石に例えるならば、同じ石が青くなればサファイア。赤いならルビーと呼ばれるように。
種の内から、天使と悪魔のそれは区別された。
しかし。
源が同じだからか、成長の途中で変質を来し、天使が悪魔に変わる事もある。
皮肉な事に、天使から悪魔に変じたモノは、最初から悪魔に生まれたモノたちよりも遥かに高い能力を持ち、天使たちさえも圧倒する事が少なく無かった。
そして、人形として使われた種核は、特に堕天に変化する確率が高かったのだ。
淡い意志。淡く消えそうな善良な魂。天使の種。
しかし、人間の肉体に宿ると、悪魔の魅了のチカラを無意識に振り撒く魂である。
人形は無邪気に笑い、周囲に愛されて生きる。
いつか甦る『シナズ』に肉体を明け渡し、ただ世界に還る日も知らず。無邪気に平和に暮らすのだ。
本来なら。
と云うべきだろう。
当の人形が無邪気でも、魅了の術に嵌まる相手次第で、それは『倖いに満ちた生』から『悪夢』に姿を変える。
そして、その『悪夢』が長ければ長い程、深ければ深い程に、『悪夢』は『人形』をも狂わせる。
チカラに目覚める前の天使が、揺り籠から出る事は先ず有り得ない。何故ならば、覚醒した天使の好戦的な性質も、根っからの残虐さも、その時点では欠片さえも持ち得ないからだ。
弱いのは器では無く、内面だと云っても良い。
そして。
人形とは、つまりは覚醒前の天使の事だった。
別世界から到来したドールよりも人間らしく、素直で無邪気で優しく愛らしい。
それが天使の種。覚醒前の天使。人形である。
人形の内から揺りかごを出て、事もあろうに人間の汚濁に満ちた波動を浴び続け、彼らは先ず、覚醒の可能性を否定された存在でもある。
人形のままならば、シナズに肉体を明け渡した時点で、トワの元に下り、世界に還元される。
トワの元に辿りつく事すら叶わず、世界の空気に融けて消える。
それが人形の確定された未来だ。
だが。『悪夢』に溺れ、狂った人形は違う。人形で在る事を忘れ、更なる強烈な魅了のチカラを振り撒いて、人間を狂わせ、自らも狂い。
堕天の悪魔に姿を変える。
そして、そうなった悪魔は、トワの案内で魔界か冥界に棲む事になるのだ。
本来なら。
そう。
本来ならば。
その堕天の悪魔に。
利夜が出逢った。
利夜は一目で魂を奪われた。
そして。
全てを懸けて祈りを捧げた。
女神リア・リルーラの視線が、利夜の姿を捉えたのは、その時だった。
言葉にするなら簡単だが。
実際に『ぶれない』願いを人間が持つ事は先ず滅多に無い。
例えば大切な身内を殺されて、復讐に生きる男が存在するとしよう。
意志の強さで肉体を鍛え、精神も更に鍛え、技量も能力も万全、復讐を惑う事なく実行したとしよう。相手の姿に怯まず、命を奪う事実に怯えず、実行を果たしたとしても。
その男の何処かに、復讐に対する疑念の『欠片』が存在する。
本人が『実行』する限りには、疑念も戸惑いも否定も。
それより強い願いで押し隠し、押し潰せる。
だが。
神は『疑念』の種すら許さない。
全き願いしか叶えない。
完璧で完全で唯一の希望。揺るがぬ意思と意志。
魂そのものが、全て、欠片たりとも否定の無い願い。
その強い精神しか、聴こえない……と云う問題もある。
そして。
冥界が絡む事象とは云え、本来シナズは女神の依頼でも有り、冥界の上界……夜闇の神界を管理する冥王は、リア・リルーラを信奉する。
況してや、悪魔は一応、本来は地球の魔界に属するモノで有り、地球は女神リルーラの直轄である。
故に。
悪魔は利夜に手渡された。
悪魔の意志など、誰も憚る事は無かった。
そして、利夜は女神の神司となり、守護者の道から外れた。
同時に利夜の名が梨夜と改められたのは、女神の気紛れである。
セリカの国で梨を食していた時に、利夜の『祈り《こえ》』がリルーラに聴こえたのだと云う。
寧ろ。
その願いも祈りも梨夜の性質も、どちらかと云うならば、月神が応えるより夜闇の神々が好む類いのモノではあった。
しかし、梨夜は生まれ乍らに月神に仕える家系であり、無意識が祈るなら、やはり月神に対する願いとなる。
故に。
その願いを『面白い』と夜闇のセルスト神が感じた時には、既に女神の手の内だった。
夜闇の使者となる道と、女神の神司として歩む道程が、分岐点として存在していた。
本人も無自覚の内に。
後年、蒼い月の異名をとる梨夜は、運命の別れ道をそうして通り過ぎた。
☆☆☆
檻の中で、悪魔は顔を上げた。
生活する上で必要なものも不要なモノも、全て与えられる。
退屈を覚えれば娯楽を供され、梨夜に仕える使用人だか信者だかたちは、梨夜同様に悪魔を大切な主として遇した。
逃亡を許さない以外は。
たまに。
冥界のトワが様子を見に来る。
それ以外は、特に訪ね来るモノもいない、寂しい生活なのかも知れない。
が。悪魔は寂しいと云う感情もよく理解はしなかったから、そこに問題は無かった。
人間として生きた記憶は希薄だったし、堕天の悪魔と呼ばれても、仲間の悪魔を『妹』しか知らない。
トワに連れられて、数度訪れはしたが、その『妹』に対する執着も無い。
誰かに執着されて、それを煩わしく感じていた記憶が微かにある。
だが、それと似ているような、全く違うような、そんな感情を見せる梨夜の事は嫌いでは無かった。
トワは、そんな悪魔の状態に、多少の安堵を見せた。
自分が追いやったかも知れない『状況』が、最悪では無くて良かったと云った。
些少なりとも責任を感じるらしい。
とは云え、『最悪』な状況なら『助け』るかと云えば、それも『否』だと云う。
そのチカラはある。
トワのチカラは堕天の己より、女神の神司である梨夜より、ずっとずっと強いと判る。
何故か封印を施し、チカラの強さを隠してはいるが、秘密を見抜く『悪魔』のチカラはそれを知る。
多分。
至高の女神のチカラをもってさえ、簡単に滅する事は出来ないだろう。
――だから、冥界は手出し無用の『トワ』の世界なのだろうか。
そんな風に、悪魔は納得した。
あらゆる意味で、それは倖いだったと云わざるを得ない。
悪魔が梨夜を嫌悪しなかった事が………だ。
喩え悪魔が梨夜を憎んでも。
喩え梨夜を厭い遠ざけようとしても。
哭き叫び逃亡を願っても。
梨夜はそれを叶えなかっただろう。
揺らがぬ精神とは、そう云う事だ。
相手の気持ちを尊重するのが愛ならば、梨夜が希んだのはそんなモノでは無かった。
もしかしたら愛しているのかも知れないが、それは通常の精神を持つモノには理解し難い歪な形をしているだろう。
神が愛でるから歪むのか、歪んでいるから愛でるのか。
梨夜をまともだと呼ぶモノなど、喩え同輩の神司にさえ居はしない。
人ならば考えずに居れない。
嫌われたら……いやだ。
苦しめたら……可哀想だ。
悲嘆に暮れる姿を見たら………動揺するかも知れない。
その戸惑いこそが願いを歪め、真っ直ぐな堅固な希みに至らない原因になる。
動揺しない振り。同情しない振り。後悔しない振り。
演じる事は出来ても、真実心の底から揺らぐ事なく希み願うなど、普通は無理と決まっているのだ。
人間は、揺らぐ生き物なのだから。
そういう意味では。
梨夜は既に人では無い。
希った時点で、人の枠を外れた。
何より『そんな』願いをする毅い『精神』が、既に人たらしめる『弱さ』と『揺らぎ』を捨て去った。
実際に女神の神司は、神の末端に名を列ねる存在でもあるから人間で無いのは単なる事実でもある。
それは、梨夜のチカラを解放し、更に神司として女神のチカラを受け入れ。
梨夜は神司として生まれ変わったその日から、最強の名を欲しいままにした。
むろん。神司として……ではあるのだが。
下手をしたら下位どころか、中位の神も凌ぐチカラは、何処か悍ましいくらいの嫌悪を呼ぶモノだった。
故に。
梨夜は最上位の神たる創世の三柱や、その神司の誕生に関わった冥王やトワを例外として、大抵の神々に目を背けられた。
同輩である筈の大概の神司も、殆ど例外なく梨夜を厭い嫌悪した。
蒼月の梨夜は、それを全く気にしなかった。
そんな梨夜ではあったが、悪魔が自分を嫌わなかった事は嬉しいと感じた。
嫌われても気にもしなかっただろうが、嫌われなかったのは存外に嬉しかった。
好かれたら、なお嬉しいのでは無いかと考えた。
「好きになる可能性はあるかな?」
悪魔は頷いた。
嫌いでも好きでも無い相手である。
嫌いになるかも知れないし、好きになるかも知れない。また、どちらでも無いかも知れない。
可能性だけなら、どれも有り得る話だった。
そんな当たり前の返答に、梨夜は嬉しそうに、無邪気な笑顔を見せた。
「その顔は、好き。」
その笑顔はキレイだと思う。だから悪魔は正直に告げた。
だから、梨夜は更に嬉しそうに笑った。
「どうしたら好きになると思う?」
その対象に告げる質問では無かったが、梨夜に常識は通じない。悪魔もまた生まれたばかりで、知識と知性は有れど体験が伴わない子供だった。
質問に疑念を抱きもせず、首を傾げて、悪魔は真面目に考えた。
「優しくされたら、好きになる………かも知れない。」
では試してみよう。
と。
そういう事になった。
そして、永い時が流れる。
梨夜も悪魔も、短気では無かったからか、思い至らなかっただけか、特に期限は設けられなかった。
それにしても永い月日、年月が過ぎゆき。
いつしかそれは日常になっていた。
神々にさえ、短いとは云えぬ時間を。
只人ならば、永遠とも云える時間を。
悪魔は梨夜の屋敷の一室に、囚われたまま過ごし。
梨夜は悪魔の好意を、楽しみに待ち続ける。
歪みが無いとは云えないが、不思議な事に美しい関係に見える。
そんな二人だった。
☆☆☆
「ただいま。」
気配は既に感じていた。
この惑星に、梨夜が帰還した瞬間から、悪魔は気付いている。
だから、来訪に驚きは無い。
トワとは違い、直接檻の中に顕れる事を梨夜はしない。
容易い事ではある。悪魔も気にはしないだろう。それでもどんなに心が急いても、先ずは屋敷の外から入ってくるのが梨夜だった。
多分、人間だった頃の習慣なのだろうと悪魔は思っている。
人間の常識では、イキナリ目の前に出現するのは『失礼』な事なのだと、悪魔はトワから教わった。
嬉しそうに、自分を見る眸と笑顔がキレイで嬉しい。
悪魔は微かに頷く事で、梨夜の帰宅を祝う。
そうすると、梨夜の眼差しが更に弛み、優しく甘い空気を纏った。
それも、嬉しい。と悪魔は思う。
梨夜は律儀に。
「良い?」
と入室の許可を求める。
檻の中を、悪魔の自室と認めるが故だった。
変な常識……と悪魔は考えつつも、頷く。
それもいつもの事だ。
許可を得ると、梨夜は嬉しそうに笑う。そんなものは無視する権利を持ち、そうする必要も無いのに、悪魔から迎え入れられるのが嬉しいのだと梨夜は云う。
変なの……と。また悪魔は思いはしたが、何故か擽ったい様な気持ちになったのを覚えている。
それを相談した時には、トワから微妙な視線を向けられた。
そっと。
壊れ物でも扱う様に、梨夜は悪魔に触れる。
頬に触れる手のひらが気持ち良くて、悪魔は頬を擦り寄せた。
何となく、それでも足らない気がして、目の前に立つ少年に手を延ばした。
梨夜は微かに身動ぎ、驚いた表情をする。その表情は滅多に見れない。でも、その表情も嫌いじゃない。
悪魔は微かに笑う。嬉しそうに、黒い眸が紫紺に染まる。
梨夜もまた、嬉しそうに笑う。
呼び掛けられて、答えの代わりに、悪魔は引き寄せた細い腰を、しがみつくように抱き締めた。
そんな僅かな触れ合いで、梨夜が喜ぶのが判る。
人肌の温もりに安心する。それが他の相手でも構わないのか、それとも梨夜限定なのかは知らない。悪魔は梨夜以外の温もりを知らないから比べようが無かった。
梨夜も温もりを欲しかったのかと思えば、悪魔は自らの見当違いには気付かぬまま喜んだ。
そっと。
腰に回した腕を解かれ、悪魔は不満そうに梨夜を見上げた。
少しだけ苦しそうな、熱の篭る眸が、悪魔を見下ろしていた。
その眸は嬉しい。と悪魔は思い、また微かに笑う。
手を引かれて、素直に悪魔は立ち上がった。
梨夜が帰宅を果たした日は大抵そうするように、檻の中に設えた寝室で過ごした。
☆☆☆
翼を収めれば、白い磁器の肌が晒される。肌に映える漆黒の髪を、梨夜は宝物に触れるように撫ぜた。
黒髪はサラサラと艶やかで、本当は長く伸ばして欲しいと梨夜は思うが、悪魔が不満そうにするから諦めている。梨夜がそんな風に譲る相手など、そうは居ないが、多分悪魔はそんな事にも気付いていないだろう。
そっと抱き締めれば素直に応じる。いつも、優しく触れたいと思うのに、堕天の悪魔も悪魔故の誘惑を眸に宿し、梨夜の心に嗜虐の衝動を呼び起こす。
鳴かせて、哭かせて、許しを乞う姿を欲して、嗜虐の心を揺さぶられる。
それで嫌われたなら、もはや仕方ないかな、等と考えるが、今のところ嫌われる気配は無くて、だからやはり梨夜は努力を忘れない。
優しく抱き締め、甘く囁き、我慢の限界まで。
触れる手を拒否されないように、求めてくれる手が、怯えて引かれない様に。
愛を告げて、梨夜は自らの暴れる心を引き止める。
己を見つめる眸が嬉しくて、今にも引き裂きたくて堪らない気持ちと、もっと優しく甘やかせてやりたい気持ちが交差する。
それでも堕天の悪魔の存在そのものが梨夜を煽り、紫紺の眸が理性を試した。狂気にも似た執着が、愛に似た何かを容易く駆逐しそうになる。
痛みを与え、責め苛んで、泣かせたくて堪らなくなる。ただ愛しくて優しくして、寄り添うように眠るだけで何故いけないのだろうか。
永い年月を共に過ごしても、梨夜の想いが色褪せる事は無かった。冷める事なく強く深まるばかりで、もしも悪魔が梨夜を嫌悪していたならば、それは地獄でしか無い状況だっただろう。
トワが安堵を示したのは、あながち大袈裟な話でも無かったのだ。
最悪の状況は、ほんの僅かな差異でソコに存在したのだから。
堕天の悪魔は、ただの悪魔とは違い本来魔界の支配者だ。その悪魔が当たり前のように梨夜に抱き付く。
そんな事に、泣きたくなる程の歓喜を、梨夜は覚える。
「好き?」
訊ねれば、悪魔は素直に頷く。梨夜の理性が負けた時。彼の眼差しは、優しさと甘さで誤魔化す事を忘れ、残虐な光を宿す。
嗜虐に満ちた眼差しは悪魔を少し怯えさせるが、その眸が確かに自分を求めるのは悪くないと思っている。
そんな眸をした梨夜は、いつもなら退いてくれるところで、退いてはくれない。
悪魔が泣いても、許してと告げても、助けてとすがっても、梨夜は熱の篭る眼差しでうっとりと悪魔を見つめるだけだった。
「どうして?」
そんな風に、梨夜は云う。優しくさえ見える笑みで、残酷な程の暴力をふるう。
悪魔がそんな梨夜を嫌いでは無いと、梨夜も気付いているからだろう。
それでも。
目覚めたらいつも、優しい手が髪を撫でる。
労る様に抱き上げて、必要では無いが楽しみではある食事を手ずから与えてくれる。
悪魔はその時間が好きだった。
口にした事は無いが。
もしかしたら。
梨夜が相手だから、嬉しいのかも知れない。と、いつしか思っていた。
「ごめんね?苦しかった?」
優しく、そうっと抱き寄せる腕が嬉しいと悪魔は思う。
「僕を嫌いになった?」
いつもと同じ質問を、囁く声に首を振る。
悪魔が否定を示せば、梨夜は困った様な嬉しそうでもある様な、複雑な笑みを浮かべる。
そんな笑みも嫌いでは無いと、悪魔は思っている。
☆☆☆