矛盾する神〜緋耀は永久であり冥王は永久に非ず〜
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当たり前だが、生まれた赤子は人間の枠に収まる存在では有り得なかった。
ソレの誕生を、地球と世界が拒否しなかったのは、僥倖と云えただろう。主に、地球に住まう存在にとって。
この世界はリア・リルーラの魔法に覆われ、神々を寄せ付けない。力有る存在を拒否し、鍵を持つモノしか受け入れない。
そう。
もう少し、神々にとってはほんの少し。その赤子が生まれた『時』が、もう少し過去の時点だったならば。
創世の女神リルーラと、時軸を支配する冥王の対立が観測されたやも知れない。
もちろん。『時』の神でもある永久がそんな時代に流れる愚を犯す筈も無かった。
冥王本体ならばともかく、永久ではリルーラに滅殺されるだけでもある。
当たり前では有るが、冥界で如何に最強を誇ろうと、永久では創世の神と並び立つ事は敵わない。トワは冥王の一部では有るが冥王には成れない。
もちろん、それは『チカラ』の問題に過ぎず、記憶を取り戻したトワが冥王なのは間違いない。
永久で在ることに飽いて、妖狐の長の立場にも飽きた。盗賊として遊んだ妖狐の記憶をトワは持つ。
当然、冥王で在ることを『ヤメテ』みた『実験的なお遊び』である『記憶の封印』を為す以前は、確かに矛盾する事なく永久は、トワで在る前に冥王だった。
だが。現在のトワは、記憶を封じる前は冥王だった存在……と呼ぶ方が納得出来る命に成った。時軸の神であるが故に、同時に存在するトワと冥王は、眠りと共に意識を移し、その道筋は二本では無く、二柱の内では歪みなく一本の道程である。
だが、一柱の神である冥王が、冥界に受肉してトワを演じた頃とは明らかに違う。一柱であった頃は、永久は冥王で冥王は永久だった。立場を語るならイコールでは結ばれなくとも、代行者が立たない限りはイコールの存在だったのだ。
が。
冥王たる永久が冥王で在る記憶を封じた。あの日から千年を超える年月。その日々が、歪みを呼んだ。
そう。
永久は冥王の記憶を封じる前は、冥王だった記憶が有る。だから冥王は自分だと意識する。それは当たり前の話でしかない。
だが、トワが自由に生きる姿を『実験』の『結果』として『観察』し、『ソレ』が己である事を知りつつも『実感』はしなかったのが冥王だ。冥王には、その『実験』が『破綻』する迄、永久は観察対象では有っても、自信では無かったのだから。
故に、逆説的では有るが、トワは冥王だが、冥王はトワでは無い……とも云える。
無限廻廊の如く、創世の神が巡らせる世界は、リルーラとセルストのみが総ての記憶を有する。
同じく創世の神で在るシエンがその始まりを記憶しないのに、冥王がソレを知る矛盾の理由は冥王の存在意義にある。
夜闇の神々が否定する名称。
冥王の隠し名のひとつ。
代行者たる『黄泉』の名がそれだった。
総ての神話から抹消された神。神々の階級に属さぬ神。様々な伝承に語られ神として敬われ乍ら、神々が認め神殿に与えた神話の中に冥王が存在する事は無い。
それでも祀る人々が存在し、人々が語る『神話』が有る。それは神殿の許可を得ない伝承や民話に過ぎない。様々な物語は、嘘では無いが真実でも無い。
普通ならば存在が詠われる筈の無い神が、何故か人口に膾炙する。
それすらも、冥王の特殊性のひとつである。
冥王は総ての『時』総ての『場所』に存在する。
それはセルストがリルーラの『誕生』の後に、リルーラより『誕生』させられた須臾の間に『存在』しなかった事を鑑みるならば、リルーラ以外で唯一の存在と喚ばれるに相応しい神でもあった。
そして。
また矛盾が『そこ』に『ある』。
冥王はセルストが生んだ神でもあるからだ。
元来夜闇の神は矛盾を内包する。優しく慰撫を与え、恐怖と惑乱を与える。
誠実と信頼。裏切りと疑惑。唆し騙り、血を捧げさせたかと思えば、真摯な愛を推奨する。
矛盾に満ちた冥王は、存在そのものが夜闇らしいとも云えた。
夜闇の神として次席に坐し乍ら、実際に冥王の『存外』の総てを『知る』モノは存在しない。
それは、セルストですら例外では無かった。
故に夜闇の神々は囁く。
冥王こそが、至高では無いのかと。
千年の『遊戯』の後に、その囁きはより強くなり、ついには月神たちさえも捲き込んだ。
この『世界』が、冥王の『遊戯』では無いと、『誰』に保証出来るだろう?
☆☆☆
クスクスとセルストが嗤う。愉しそうに揺らぐ闇に冥王が困惑していた。
『お前がその気になったら、リアさえも抹消されるらしいぞ?』
私など、ついでに滅ぼされるオマケだな……と、話の内容とは裏腹に随分と愉快そうなセルストが忍び笑う。
様々な『時』で、繰り返す『世界』で、確かに冥王最強説は囁かれ続けた。
しかし。
「リア・リルーラまで戯けた噂の種にするとは……。」
不遜もここに極まれり。初めての展開に僅かな不快を眼差しに乗せ、冥王がセルストの闇に自らの蠱惑の毒を吐き出した。
闇に熔ける蠱惑が、冥王のそれと混じりあい、夜闇の神界にドロリと流れ出した。
冥王の怒りを感じとり、世界が震えて神々も身を竦めた。
蠱惑に惹かれ、怒りに怯え、強烈なまでの冥王の『チカラ』に魅了される。
封じられた『チカラ』の欠片は、本来の姿に想いを馳せさせ、侮りを呼び寄せるどころか、却って神々の畏敬を強めるだけだった。
対してセルストは、珍しく神界に滞在する気配を神々に与え、それが上機嫌と知らしめるだけで歓喜を誘った。常日頃は夜闇に連なる神々の敬愛など知らぬ気に、夜闇界どころか自らの神殿にさえ寄り付かない最高神である。
セルストと冥王。二柱の蠱惑が毒を撒き、しかし夜闇界にては、月光を融かした聖水に等しい効果を与える。
月光酒と同様に酩酊をよび、チカラを与え、夜闇の最高神と至高神に対する敬愛と畏怖を高めた。
二柱を傍にみる闇大神たちは尚更だった。
夜闇の最高神セルスト。ナンバー2と呼ばれつつも、最強説が根強く囁かれる冥王。
二柱が向き合う姿は、周囲に緊張を与えた。
冥王が不機嫌である事もだが、セルストの滅多にない上機嫌さえも、緊張を高める材料でしか無かった。
その緊張を破ったのは……………思いもかけぬ『人物』だった。
☆☆☆
闇に浮かぶ小さな泉の中で、月神たちが囁きあっている。煌めく月の光が、泉より伝わり、その存外が確かに月神で在ると教えた。
なのに、と冥王は思う。
――交わす会話がコレか。
泉を見下ろす眼差しは冷ややかで、侮蔑に満ちていた。
冥王はリルーラを敬愛する。
別の云い方をするならば、リルーラだけを敬愛する。
セルストを敬愛しないかと問われたなら、迷う事なく頷く冥王である。
そんな恐ろしい事を訊く莫迦が存在したならば……だが。
とは云え、セルストを最高神として認めない訳でも無かった。
冥王が従うに足る存在だった。
単に気に入らないだけである。
リルーラと恋をした神。
これが理由だった。理由としては充分だろう。
故に、冥王は主月神も嫌いである。
そんな冥王であるから、もちろん今回の噂は不快だった。
至高の神はリルーラしか存在しない。
そんな自明の理を、事もあろうに月神が覆す発言をする。
しかも冥王自身が代わりの至高と語られ、自らの存在すら邪魔と感じた冥王であった。
冥王は自身が女神に膝を折る事を知っている。セルストに敵わない己を知っている。
シエンにも、敗けない迄も勝てばしないと知っている。
冥王は自らの『チカラ』を知悉する。
しかし。
「この『世界』が、冥王の『遊戯』では無いと、『誰』に保証出来るだろう?」
月神の言葉を否定する術は、冥王にも無かった。
理由は図らずも月神が告げた。
もしも蘇芳と呼ばれた盗賊に、次の質問が向けられたならどうだったろう?
「あなたが冥王だろう?」
蘇芳は当然否定する。有り得ない事だと一蹴する。
「あなたが永久だろう?」
これも否定する。しかし、これには疑念が入る。蘇芳は僅か乍らにも、自らの記憶の齟齬を感じないでは無かったからだ。
疑いも無く否定出来るのは、冥王である『事実』だけだっただろう。
「妖狐の長、斎だろう?」
蘇芳が「嘘」と「自覚」して否定するのは、三番目の問いだけである。
とは云え、神は「嘘」を口にしない故に、喩え神である自覚が無くとも、その「虚偽」は「嘘」には成らない曖昧な答えではあるだろう。
永久の名を否定するのも、記憶が無い限りは「嘘」でも無い。疑いは疑いでしか無いからだ。
妖狐一族の長として、永久の仕事をするのは、蘇芳にとっては当然の知識だった。
僅かな疑念は、一族以外に永久の仕事を扶助する存在が無く、自らがその第一の存在だからに他ならない。
故に、冥王の名前など出されても、何故そんな疑問が浮かぶ余地が有るのかさえ理解し得ないだろう。
欠片も疑わず、一蹴される「質問」でしかない。
そんな事を信じる輩は、莫迦げた妄想を持っているとしか思わないだろう。
夜闇の神界。冥界の上界から、その世界の主が『何故』好き好んで『下界』で『自分』になるのか。
妄想以外の何物でも無いだろう。
しかし。
実際は単なる事実である。
故に。
冥王が否定しても意味は無い。
冥王自身が、いや、冥王の分身たる永久が、実証してしまったからだ。
莫迦げた妄想を否定しても、その妄想を口にした月神たちでさえ妄想と考えていても、僅かな疑念は残る。
その疑いは、残滓となって世界に流れた。
神々の中に。
世界に。
時空に。
それは。
リルーラやセルスト、シエン。三柱の創世の神さえも例外では無かった。
☆☆☆
水鏡を見下ろす冥王が、不意に顔を上げた。
セルストも僅かに反応する。
二柱を注視する闇大神たちが、上位神二柱の反応に顔を見合せたり、周囲に視線を走らせたのは一瞬だ。
すぐに二柱に眼差しは集中し、命令を待つ真摯な顔付きを見せた。
だが。
警戒すべき事は無いと二柱は既に理解していた。
近付く気配は、ある意味で二柱の身近な存在だった。
冥王にとっては自分自身でもある。
そこに。
小さな少女が顕れた。
幼女と呼んで差し支え無いだろう。
腰迄の黒髪は漆黒。肌の色は柔らかい印象を与える白さで、煌めく夜闇の眸を持つ。三歳の幼女は、歳に似合わない蠱惑と魅了のチカラを放ち、周囲を圧倒した。
正確には、二柱以外を。と付け加えるべきだろうか。
二柱と、少し距離をとった夜闇の大神たち。
その中間にあたる空間に突如顕れた幼女。
そこに存在する神々は、幼女が『何者』かを即座に理解した。
夜闇のセルストが爆笑し、幼女が暴れたのは。
その直後の事である。
人間に生まれた永久は、自らのチカラが受肉した身体を破壊する過程を眺めた。それはひとつの未来である。
永久は自らが得た人間の器に術を凝らした。
赤児の姿でさえ周囲を惑わし、人々の運命を歪め乍ら、トワは慎重に厳重に封印を施した。
それでも保ちそうに無い身体を、護ろうとするなら。
本来の自分のチカラが必要だった。
そして、トワは時を待つ。神界に立てるチカラを赤子の身体に植え付ける。
三年の時を過ごし、作り替えた脆い身体が崩れ落ちる前に。
自らの気配を目指して、やっと辿り着いた。
トワは冥王だが。もはや完全な冥王自身でも無い。
冥王がリルーラ以外を愛する事は、世界の終焉にも有り得ないと云える。
それを突き崩したトワは、既に冥王とは似て非なる存在だった。
弱い存在であり続けた所為か。
他者を愛した故か。
愛した相手の愛を得た故にか。
トワは変質していた。
それでも。
冥王はトワでは有り得ないが、トワは未だに冥王でもあったのだ。
取り敢えず。
爆笑されても顔色ひとつ変えない冥王を前に。
セルストを攻撃して、一時的にでも退散させる程度のチカラは有していた。
「あまり暴れると壊れるぞ?」
「煩い!」
怒る幼女を、冥王は呆れた様子で、しかし興味深く見つめた。
これが、自身であると知ってはいても。
実感は薄かった。
幼女は冥王の冷静な眼差しさえ気に障るらしく、しかし自らに攻撃をする愚は犯さなかった為、被害は主に神殿と闇大神が被った。
器の崩壊に対する危惧を忘れ、幼女が暴れ続ける間。
セルストの哄笑が響き、やむことは無かった。
それは闇に流れ、甘い毒を撒き散らし、夜闇の隆盛を招く。
人の世に堕ちれば、堕落と争いを呼びかねない濃密な歓喜が世界に満ちた。
最高神の内面の機微は、夜闇の神々の最大の関心事である。
セルストの毒を神界から漏らさぬ様に、冥王が闇に指示を流したものの、それに働くモノよりも、セルストに釣られて人界に堕ちるモノの方が多かった。
それはセルスト自身では無かったが、セルストの気配を濃密に含んだ毒餌である。
闇が世界に流れ、人の世に影響を与える。
それを見る冥王の紅の眸には、特に何の感慨も浮かばなかった。
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