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〜 妖狐 〜後編

☆☆☆


 己を見下ろす、冷ややかな、黒い眸を妖狐は観察する。

 美しいが感情のない眸だ。石のように冷たい夜の眸。

 相手も自分を観察しているのだろうか?そう考えた。

 見下ろす眸にキツネは尋ねる。


「殺さないのか?」


「殺される事すら、お前にはどうでも良さそうだな。」


 低い声にぞくり、とした。

 酷薄な響きをしてさえ……いや、だからこそだろうか?奇妙に、官能を刺激する声だとキツネは思った。

 キツネ自身の甘い低音とは、これまた対極の声でもある。


 低い声が残酷に響く……、そこまでは同じ表現だが、キツネのソレはどんなに冷ややかでも、何処か甘やかで…睦言を連想せずにいられない。

 対して男の声は、残酷な痛みを連想させ、甘さなど欠片もない。ソレなのに、なお艶気に溢れ、聴くモノは妙な居心地の悪さに身じろぐのだ。

 無機質と呼べる程に硬質な癖に、欲情を誘う声だった。


「どうでもいい…と迄は云わないさ。」


 キツネは苦笑して、柔らかく否定したが、ある意味で図星な言葉でもあった。

 自分の内心を云い当てたモノなど、今まで居なかった。だからキツネは不思議そうに男を視つめた。


 自らの死を間近に感じないでも無いだろう今、そんな風に見上げてくる紅い眸。

 その眼差しを男は不快と断じた。


 ただ。

 執着を知らぬだけだと、気付けば良かったのだ。

 稀に惹き付けられ、夢中になるのも、子供が気に入った玩具に夢中になるようなものだ。


 なまじ、才知に溢れるが故に、周囲は気付かない。


 彼に子供みたいなトコロがあると、好ましく受け止めるなら、ソレをほんの少し訂正するだけで良かったのだ。


「彼は子供のまま大人になった」


 気付けば、キツネの事など容易く読めるが、誰一人として、気付かなかった。

 もしも気付いたなら、彼の人望は無かったろうか?

 ソレでも、彼は周囲を魅了しただろうか?


 その『不思議な魅力』故に?


 だとしても。

 男には関係のない事だった。


「で………どうする?」


 他人事のように、銀の妖狐が尋ねる。

 男の言葉から、殺されても何とも思わぬキツネなら、殺す気を失くした……と、その意図を理解した故だった。


「察しは良いんだな?」


 キツネの言葉に、男は失くしかけた興味を取り戻した様だった。


 ソレナラバ、キョウイクシダイデ、ドウトデモナル。


 男の考えが、キツネに読めなかったのは、キツネの倖いだろうか?

 不倖、だったろうか?

 救いなど、最早、男の気まぐれに頼るしかないと、キツネは理解できるだろうか?


 男は尋いた。


「それでも……殺そう。と、云ったらどうする?」


「ソレも、良いさ。」


 確認に過ぎぬと覚りつつ、だが実際にそうなったとしても、やはりキツネは同じように応えたろう。


――この俺が……敗けるのか?


 そう感じた時、後に続いた感慨を、そのまま口にした。


――それも、良いだろう。


 生まれて初めての事態に、キツネは迷う事なく思った。


 常と同じ様に。


 常と同じ言葉で。


「それも、また一興。」


 自らの命さえ、放り投げて傍観してみせた。


 それを、カッコイイ…とざわめいたのは女達ばかりでもなく、男ならば潔い姿だと心酔するモノも増やした。

 当たり前だが。

 今、狐の目の前にいる男には、何ら感銘を与えない。


 寧ろ。


 逆だ。


 キツネは知らず、口元に僅かな笑みさえのせて、目にかかる銀の髪を、我慢出来ずに払いのけた。

 傷みを堪えつつ上げた腕は、砂に落ちる前に捕えられた。


「何…?」


 訝り視線を上げれば、男が傍らに片膝をついていた。


 その手には長剣。


 キツネは眸を開けているのも億劫で、ほぅと吐息して瞼を閉じた。


――そうか…。


 キツネは思う。


――……死ぬのか。


 特に足掻く事もなく、するりと納得したが。

 心の静寂は、長くは保てなかった。


「やはり…下らん男か。」


 侮蔑にみちた、低い声が宣告する。



☆☆☆


 キツネがナニモノであるかを考えたなら、不思議と不審を感じるだろう。しかし、下界と上界では物事の有り様が違う。

 その立場に在ってこそ、その世界に在ってこそ、それは当然と受け止められる叡知とすら化すのだ。


「殺す価値など無い。」


 故に、冥界に在って、単なる妖狐として生きるならば。

 男が受けた印象も強ち間違いでは無かった。


 男はキツネの正体を知らず、キツネが妖狐の長としてどう務めたかも知らない。郷を出奔して、盗賊として暮らし乍らも、その務めを完全に放棄した訳でも無かった。

 それを知るならば、その元の姿を知らぬままでも、かなり印象は変わっただろう。


 キツネは『ただの』キツネとして生きる現在でさえ、冥界の重要な役目を担っていた。


 だが、男は知らず。

 故に、キツネは侮蔑の対象にしか成らなかった。

 嘲りも揶揄も、常ならばキツネが浮かべていたものだったのに、逆転した立場が生まれた。


 サラリと零れる漆黒の髪。バンダナだけ残して、美しく冷酷な貌を陽に曝して、男は嗤った。

 抵抗を赦さず、暴力と辱しめを与え、キツネとしてでさえ、初めての憎悪と屈辱を感じさせたのだ。



 キツネはその紅い眸に絶望さえ浮かべた。


 一方的な闘いを常とは逆の立場で体験し、その痛みに哀願さえして見せた。


 男は剣を地面から垂直に構え。

 躊躇なく、下ろした。


「――――!!!」


 声にならぬ悲鳴。


 苦痛。


 血の匂い。


 そして、キツネの脇腹を突き刺した剣を手にしたまま、男は更なる暴力を奮った。


 自らの悲鳴以外、何も聴こえないと思われたキツネの耳に、その時確かに届いた声があった。


 途切れ途切れに、聴こえた声。

 自分の悲鳴がノイズとなって完全には届かなかったが


「せめ……たの…ま……いはしてく…よ。」


 タノシマセル?


 誰を?


 お前を?


『せめて私を愉しませるくらいはしてくれよ。』


 恐らくは、こう紡がれたろう台詞は、キツネの内に憎悪の火を点した。

 ある意味、男の思い通りになった訳だが、そんな事は知る由も無いキツネである。


 いつか、とキツネは思う。

 何としてでも……この男………


「ころ……す…っ!!」


 遊戯にも似た殺伐では無く、初めて心から殺意を覚えた。


 己が放つ悲鳴。

 苦鳴。


 痛み。


 尋常でない程の苦痛。


 このままでは死んでしまう。

 いや、一思いに殺してくれるなら、いっそどんなにか楽だろう。


 切れ長の眸には泪さえ浮かび、時折、頬を伝い落ちた。


 そして、殺すと叫んだ口で、いっそ殺してくれと乞うた。


 自分が泣いている事も、キツネは気付かなかった。

 唯、苦しくて、辛くて、怨めしくて、キツネの紅い眸が泪を流した。


「助……け……」


 自分を傷付ける当の相手に助けを求め、キツネはその剣が己を殺してくれる事を切に願った。


 最早、男への殺意などどうでもいい。

 この状態から逃れる為なら何でもしただろう。

 きっと今なら、この男が差し出した手にも縋る。


 何でもするから、何でも。

 どうか。

 だから。


 一瞬。

 その願いが叶うのかとキツネは思った。


 その時、男の左手に握られた剣がスッと向きを変えた。


「――――――!」


 その光は左上から斜めに突きおろされた。


 心臓を僅かに避けて、右の脇腹に突き抜けて出る。


「――く…あ…………ぐぅっ…く!!」


 咳込んで血を流す。


 咽からも。


 腕にも、足にも、

 胸や腹筋、口の中からも、


 血を流さない箇所はないくらいに。


 男の黒い衣も、濡れきって血を滴らせていた。


 着衣のまま、キツネを凌辱して、ソレは玩具と見做した『人間ヒト』にする行為に、ひどく似ていた。


「っぐ…ふ」


 咳込む。


 血を吐いて、なのに突き上げられ、躯の中に剣を通したまま、こんなにも傷だらけで………なのに、何故?


 キツネは、思う。


 なぜ――?


 躯の中で、血に濡れても脂を受け付けず、決して切れ味を鈍らせないその剣が、内から切り裂いてくるのが判る。


 それは切り裂かれているキツネだけでなく、傍目からも判別できる。


 躯の内も外も血に塗れたキツネは、力無く呟いた。



「な……ぜ………」



 キツネは途方にくれた子供のような、ガラスの如き眸を見せた。



 す……っと、男が剣の柄に手を添えた。


 微かな光と共に、剣は消えて、どぶり……っと、血が溢れ出す。


 血が、甘く噎せるように香る。


「ぐっ……ぅ…」


 何故。


 何度めの、それは問いだったろう。


 キツネは思う。


 なぜ。

 こんなになって。

 なぜ。

 こんなに苦しいのに。

 なぜ。

 未だ死ねない。


 それは純粋な疑問だった。


☆☆☆


 森と、砂漠の境界で、男は、そっと腕に抱いたキツネを下ろした。


 境界は河。

 忘却の水を湛えた河。


 人間の世界に通じる扉のひとつ。


 人間がレテと呼ぶ河。 澄み切った河清の水は人間の記憶を奪う忘却の河だ。


 力無い妖も稀に物忘れにかかるが、今のキツネならどうだろう?


 人間世界に通じる河に、男はキツネを沈める。


 キツネは意識を手放したまま、河の流れに沈み…消えた。


☆☆☆


 忘却の川を流され、妖狐の身体から傷が消えた。先ずは光がまとわりついて、闇が慕う様にその肢体を包もうとした。


 冥界を脱した瞬間に妖狐の姿が歪み、煌めく程の漆黒の闇が広がる。


 矛盾した存在が其処に在る。


 輝く闇。輝き耀く深紅の闇が煌めき、歪む時空を更に歪める。

 冥界はすべての時軸に通じる。

 その結界を超え、妖狐が『ナニか』に変化した。時軸を超え軸を時を空間を歪め、その『ナニか』が目覚めた。



 目覚めたのは、神の記憶に他ならなかった。


 神は自覚する。自らが冥王の欠片で在ると。冥界に下る日に、妖狐の身体に生まれた事を。


 神は冥界で気楽な生を生きる為に、先ず冥王としての記憶を封じた。冥王には気楽でも、永久トワの立場は冥界にとっては至高に近い。妖狐の気質は更に封印を求め、自らの封印を知らぬまま、冥界の支配者たる力と記憶を封じた。そして最後には、たかだか妖狐の長の位さえも重苦しい枷と感じ、出奔し盗賊と成った。

 流石に一族の長たる己迄は封じず、時に勤めを果たしたのは不倖中の倖いか。

 しかし、そう感じたのは一瞬である。冥王としても存在し続けた自らの記憶も混在し、問題が起きる前に、ソチラの自分が封印を解く手筈は当然整えて有った。


 先ほど迄の小さな妖狐の思考に慣れた『蘇芳』だった存在が、冥王の思考に潰されそうになる。

 しかし『永久トワ』としての記憶も溶け合い、何とか持ち直した。トワも冥王の一部でしか無い筈では有るが、永きを夢に生きた自分とずっと冥王で有り続けた自分は、まだ完全には溶け合わなかった。


 現在いま此の時にも、冥王は上界に在る。その冥王は永久トワの思考に面白そうに眸を煌めかせた。


 永久トワは完全に解けた記憶の封印と、解けつつ有るちからの封印を思う。

 このまま冥界に戻るには、冥王の力が宿る妖狐に成りかねなかった。それは最早永久ですら無いだろう。実際に、冥界に初めて下り立った頃は、永久の気配だけで妖怪がバタバタと死んだ。永い時をかけ、冥界に馴染み、永久は永久に成ったのである。

 まあ、自分で自分を封印もしたが。ソレはソレ、コレはコレである。


 一度人間に受肉して、それを媒体に『以前』の妖狐の姿を創るべきだろう。

 冥王と永久が互いに頷き、永久はレテの流れに身を任せた。



 永久と云えど神に違いは無い故にか。

 結局は冥王で在るからか。

 流石に人間として存在するのは無理が有り、器を保つ手配の為に、人間の姿で早々に上界に渡る羽目になったのは。

 ご愛嬌、と云う程度の事件ではあったのかも知れない。



 但しソレは。


 夜闇神が爆笑しなかったならば………と云う注釈付きでは有るのだが。



☆☆☆


 男はそっと、ずっと巻いたままのバンダナの上から、額を押さえた。


 額には、キツネの眸と同じ色の、深紅に輝く宝石が埋まっている。


 これを見たなら、

 キツネは男を王子と知っただろうか?


 それとも、気付かないままだったろうか?


 呪を用いて、普段は心と力を封じている。

 このバンダナが呪いを編み込んだ髪紐だったと、キツネは全く気付かなかった。


 チカラを封じた男は、少年の姿を採る。

 穏やかで優し気な空気さえ醸す。


 どんな残虐にも非道にも心を揺らさず冷静を保つ為の『呪』であるから、寧ろ残酷な貌も平気で見せる今よりも、ずっと冷酷な真似も平気でする。


 キツネの事も、下層の地獄に堕とすつもりだったのだが。いや、実際にはそこ迄はしないでも、本気で最下層に堕としたいと思っていたのだが。


 感情に流される今の自分は、キツネの未来に期待してしまったと、男は自覚していた。


――子供なら、いつか、大人になるかも知れない。


 そんな期待を抱いてしまった。



 抑圧を解かれた時は慎重にしないと、暴走に近い行為をしかねない。


 その組み紐の呪いを、そうとは知らず、解いたのはキツネだ。


――多少の仕置きは、自業自得だろう?


 男は、スッキリとした笑みを見せた。


 少年の姿で政務を行う、胡散臭い人形の笑みが輝きを知らぬ月ならば、比べて明るい優しさを湛えた陽の光のような笑顔だった。


 『向こう』を統べる王も『こちら』を統治する王子も、その真の姿を知るモノは少ない。


 無論、その治世は永久トワの黙認あったればこそだ。


 更に、冥界の支配者たる永久トワの真実ともなれば、その治世を代行する王子たちも知らなかった。



 もし知るならば、キツネがレテに流される等と云う暴挙はあり得なかったろうし、男はあんな台詞を口には出来なかっただろう。



 この時の事実は将来……男にとって、黒歴史として心の奥底に刻まれる事になる。


 その台詞の数々を想起する事は、永久にとっては然したる問題は無い。

 男にとっては、この時の己を抹消したい程の、強い衝動を喚起する出来事になったのだ。


 相手が問題にしないが故に、より情けない気持ちに駆られる事になるのも………仕方ない事なのだろう。


☆☆☆





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