〜 妖狐 〜前編
☆☆☆
その建物は、森の外れに存在した。
その『世界』の外れ……と云い代えても良いが、砂漠の向こうには更に特殊な『世界』が拡がるから、一概には云えないだろう。
実際『ソコ』の役割を考えたなら、軽視など出来るものではない。
だが、だからこそ、何故そんな外れに?と疑問視する声もある。
特殊な『向こう』と『こちら』の世界。
いつしか『ソコ』は、境界線の役割をしていた。
海は中立。
街や森迄は『こちら』。
砂漠は中立。
砂漠を越えたら『向こう』。
ソコは。
洋館。
の範疇であろうか。
それとも。
城。
と呼ぶべきだろうか?
特殊な、役割を持つ。
特殊な、立場の御方が住まう場所。
この『世界』は『冥界』。
その建物は、冥界の『法律機関』。
無法を極める妖も少なくは無いが、確かに、冥界にも法が有った。
冥界の法は今も昔も変わらない。
強いモノが正しい。
強いモノが法律だ。
だから。
強いモノが、健全な世界を目指したなら、やはりソレは正しい法律なのだ。
当たり前だが、敵は盛り沢山。
従うモノ達ですら、カレの命令だから従うだけで、法の意味も意義も、理解の外だった。
人間の世界ならば、何代も掛ける程の変化。
代を経るうちに、当初の目的など、揺らぎ歪む程の時を。
永く永く生きるモノ達の世界で、特に永いイノチを持っていたカレだから。
カレはカレのまま、ソレを遂行した。
カレが『向こう』に行き、カレのムスコがカレに賛同して、『ソコ』…の役目を受け継いだ頃には。
カレが、カレの『法律』を作った時には信じられない程に、平和な『世界』になっていた。
むろん。
血を好む性質のモノは多い。
平和を愛する、カレみたいな『奇妙』な妖も増えてはいるが……、生来の性そのままに、血と騒乱を好むモノもまだ多い。
強いモノ程。
自らの血を大切にする。
自分の快楽を優先する。
カレに。
でなければカレのムスコに。
勝つモノが在ったならば、『ソレ』は当然の権利。
と、云う事に……なる。
故に、当たり前の様に、カレは命を狙われる。
ムスコも、命を狙われる。
カレもムスコも、敗けた事は無かった。
だから、『正義』であり『法律』である。
そんな存在で在り続けた。
いつしかカレは『王』と呼ばれていた。
いつしかムスコは『王子』と呼ばれていた。
妖の世界である冥界も、人間が死して到着する冥界も、いつしか二人が統治していた。
カレがカレなりの正義で始めた『現在』の『世界』。
それは『平和』な『法律のある世界』『財と命を守る世界』ではあるが、所詮チカラが正義…なのが『1番の法』である冥界だった。
その『法律』は、人間の眼からみるなら「おおざっぱ」で「ちゃちい」。
だが。
冥界では寧ろ細かい決まり事など邪魔なだけだった。
カレとムスコ。
王と王子の存在が総て、とも云えるが。
ソコを突っ込んでも意味は無い。
ソレを問題点とするなら、そもそも、この『法律』自体が意味のないものになるからだ。
『平和な世界』も今の『正義』も。
王と王子が、統治する気をなくしたら、あっという間に霧散する。
砂上の楼閣でしかない。
たまたま。
二人は飽きっぽさとは無縁だった。
だから。
瓦解する事なく『世界』は続き。
砂上の楼閣は、
いつしか堅固な城になる。
だが、『現在』の『世界』の有り様も。
この『世界』の『持ち主』が、沈黙するが故に赦された事象でしか無い。
伝説のように語られる、冥界の支配者。
カレとムスコの永いイノチも、真の支配者の前では然したるモノでは無いだろう。
永久。
その『名』は単なる『事実』に過ぎないと云う。
退屈に倦む、冥界の『神』。
だが、トワは沈黙し続け。
代行者さえ姿を顕さない。
カレは祈り、喚び続け、諦める代わりに。
自ら成したのだ。
己を信じ、周囲を黙らせ押し退けた。
そして、女神さえ黙認して。
それでも尚。
冥界の主は、姿どころか言葉さえ『王』に届けなかった。
支配者と成り、上界に坐す夜闇の神に『上奏』して。
統治し、たまに上界の指示を仰ぎ、日々の『報告』を為して。
いつしか、ソレは日常となり。
当たり前となり。
いつの間にか。
ずっと続くのかと、思っていたのかも知れない。
永久が還って来るならば、現在は一瞬で翻る。
その覚悟を。
王と王子は忘れていた。
その日、白い影が逃亡して、黒い影が追った。
ソレが、沈黙する『支配者』を『世界』に呼び戻す事になるだなどと。
気付くモノは不在だった。
☆☆☆
朗朗と澄んだ声を響かせ、硝子の様な眸をした少年が、判決を下した。
「妖狐凍斎、通り名を蘇芳。冥界に於ける禁忌を悉く破り、剰へ《あまつさえ》繰り返した、その罪状。死に拠って購うべし。これより四度の転生の度、赤児のまま命を絶ち、それを永らえる事、罷り成らん。最初の刑は第十条の法に則る事とする。」
月の名を真名に持つには、神々の承認が必要だ。
それは、許可を得る為でさえ無い。
その『名』の『重さ』に、耐えられる『器』で有るかの『確認』の為だ。
故に、奏上が為されなくとも、罰則は無い。
力が不足するならば、その『者』の『魂魄』が壊れるだけの話だった。
しかし、神々に対して礼儀を守らぬモノが居る筈も無く、その『慣習』は守られる。
つまり、キツネは神々に関わりを持ったモノ、と云う事になる。
王子宮では、月名を頂くモノの処分は、裁可の前に『報告』を上げる事になっている。
だから。
王子は、造り物のような綺麗な顔に、澄んだ笑みを浮かべたまま。
激しく動揺した。
硝子のような眸が妖狐を見つめ。
狼狽えたのは、しかし一瞬だ。
王子は一片の曇りも持たぬ微笑を浮かべたまま。
宣告した。
「刑の執行は明朝。藍の時より始める。」
報告は義務では無く、礼儀に他ならなかったから、事後報告の無礼を陳謝するだけの事だ。
そう考えたのは、通常ならば間違いでは無かった。
相手が、『その』妖狐でさえなければ。
問題になる筈も無かったのだ。
☆☆☆
砂久弥が書類を片手に固まった。
月の化身の如き、玲瓏とした美貌の青年が、微かに張り詰めた緊張を漂わせる。
「どうした?」
「………この、妖狐ですが。」
砂久弥の硬質な声が、珍しく感情を伝えた。
それは、緊張とか、焦りとか……もしかしたら狼狽とさえ呼べるモノだ。
手に持った書類は、上界に提出されたばかりの、妖狐の判決に関する報告書だった。
王子はソノ意味を図り、息を呑んだ。
「まさか、お気に入りなのか?」
それならば、まだマシだった……と砂久弥は苦く告げた。
しかし、上界は報告を受けても、特に何も云って来なかった。
「どういう事だ?」
砂久弥はソレこそが、異常な事態だと云う。
心の中で騒ぐ声を抑え、少年の姿を持つ王子が冷静に問うた。
「あの妖狐に何があるんだ?」
「本当に解らなかったのか?その妖狐の名は……あなたも知っている筈だ。」
そう云われても、思い当たるモノは何も無い。
困惑と苛立ちと不安が、王子の中で揺れた。
思わせ振りな発言で、何も解答を寄越さない砂久弥を、王子は静かな眼差しで見つめた。
もう一人の王子が、内側で焦れていたが、少年の姿でも情動に乱されない王子は冷静さを失う事は無い。
もとより、砂久弥は名ばかりの側近でしか無かった。
他者の目が有る時は、敬語さえ使って王子に対する砂久弥だが、本来はそれさえも必要では無い。
砂久弥は女神リルーラの側近なのだから。
冥界が属する神界は夜闇系列だ。故に月神系列の砂久弥とは、明確な上下関係などは無い。だが実質的に、王子の方が格下なのは確かだろう。
かろうじて、砂久弥と比肩する立場のモノが、冥界に在るとするなら。
伝説と化した、或る存在しかいない。
故に、王子の立場では側近とは謂え強く命じる事も出来ず、質問の答えを待つ事しか出来ないのだ。
「何者なんだ?」
王子の問いに、砂久弥は答えず沈思した。
王子宮からの『報告書』や『上奏文』は、冥王の手元に届く。
今回のソレも、勿論届いた筈だった。
だが、冥界に何の指示も、指導も無い。
冥王が拒否するならば、女神さえ介入すべきでは無い。
それが、冥界という『世界』だ。
砂久弥が女神に遣わされて、王子の側近などと云う立場に在る事が出来るのも、冥王が黙認する故だった。
その冥王が沈黙する事を、砂久弥が口にすべきでは無かった。
しかし、放置を命じられた訳でも無い。
砂久弥は女神の神司だから、冥王と謂えど命ずる事は出来ない。
そしてまた、此処が冥界で有る限り、創世の女神と謂えど冥王の意思を無視出来ない。
例えば今、冥王が砂久弥に忘却を「依頼」するなら、砂久弥は女神に「報告」も出来ない。
また、既に冥王が何かしら王子宮に命じたなら、黙って見ているしかない。
どちらも、今のところ為されていないから。
砂久弥は急いで報告する事にした。
そして、女神の『詞』《コトバ》を砂久弥は伝える。
女神の意思は、王と王子に、妖狐の『字』を教える事だった。
「トワ様だ。」
そんな莫迦な………と。
内と外で、王子が力なく呟いた。
その存在こそが冥界で唯一、砂久弥に比肩しうる存在だった。
もしかしたら、砂久弥よりも上の立場かも知れない。
「よく、あの方の真名を口にして平気だったな。」
「………。」
呆れた声に、王子は言葉も無かった。
☆☆☆
キツネは嗤った。
喉をそらせ、笑声を上げた。
銀の髪をなびかせて、白い妖狐が砂漠を翔けていた。
女と云う女を虜にする、その甘い低音は、笑声だけで蠱惑に満ちて麗しい。
聴くモノが居ないのが残念な程に――。
返り血に濡れる美しい妖狐は、楽しげに翔けた。
まるで風の様に。
『王子』の宮殿。つまりは、冥界での『法律機関』たる宮から、逃亡して来たのだ。
王子宮を血の海にした盗賊なぞ、自分が初めてでは無かろうか?
白銀の妖狐は、流してきた血の香りと、殺戮と、そして余人の為し得ぬその行いに。
非常に満足していた。
それ故に、今日の笑声はいつもより甘い。
ある意味、彼は酔い痴れていたのだ。
その罪業に――。
いけないと云われた事を、進んでやりたがる様な、稚気に富んだところがあった。
残虐非道なる事、右に出るモノなしと云われた彼が、非常に沢山の部下を従えるのは、その童子にも似た無邪気さにも依るところが多い。
無邪気……等と言葉で表すには、部下達も、彼の冷徹にして非道なる行いに目隠しをされて気付けなかったが、『不思議な魅力』で、彼は男女を問わず慕われた。
男として、盗賊の長として。
強くて、綺麗で、みんな彼に夢中だった。
ちらり……と。
陰が動く。
砂漠を翔ける、美しいケモノは、それに気付かない。
常の彼ならば気付いただろう。
狩人の存在に。
今日の彼は気付かない。
『王子』でさえ、倒してきた。
追っ手は明日。
早くても明日の夜。
そんな事を考えた彼は、誰も思いもよらない事だろうが、ひどく甘ちゃんな部分を持ち合わせていた、と云う事になるだろう。
今初めて、油断したのかも知れない。
狡猾で知られる、彼らしくはない。
だが、そんな事はどうでも良いのだ。
事実はひとつ。
彼は気付かなかった。
気配を消して、近付きつつある、その存在に。
今日の彼は気付かなかった。
『今日』が、何より大事なのに。
笑声は悲鳴に取って代わった。
白銀の、きっと誰より美しい妖狐。
翔ける姿が空中で静止して………次の瞬間。
音をたてて墜ちた。
砂にうずくまり悶え乍ら、それでも彼は敗けるとは思ってなかった。
今は、ちょっと、油断しただけ。
もう次はないのだ…と。
同じ言葉が、自分にも向けられていたと、彼は気付いただろうか。
そして。
次は無かった。
確かに。
次は無かったのだ。
立ち上がっては倒された。
跳び上がっては落とされた。
向かっていっては跳ね返され。
そして。
そう。そして、絶大を誇るその妖気さえ、自らの身に、返って来たのだ。
跳ね返った?
反射した?
確かに敵に向かって投じた妖気が、自分自身を襲った。
何故――?
それはきっと、キツネに倒された幾多の妖たちも同じ思いだったろう。
どうして――?
この俺が………敗けるのか――?
痛みに跳ね上がる躯を持て余しつつも、キツネは砂上でゆっくりと寝返りを打つように仰向けになった。
ヒュン――ッ!
風をきる音。
悲鳴。
海老のように跳ねた躯から、黒いムチは消えていた。
痛々しい痕が残る。白い肌に走る紅は、けれど美しさを損なうものでは無かった。
引き裂かれた衣。
砂上にひろがる、銀の髪。
そして、その血を流しつつも美しい貌。
弱々しく横たわる……と、そう表現するには艶冶にすぎる姿。
そして、絵姿のように、美しい。
ホゥ……
食いしばった唇をとき、キツネは息を吐いた。
苦痛を堪え、けれど表情には表わさぬようにする。
プライドだけは高い妖狐は、そっと、その眸を開いた。
傍らに立つ、すらりとした長身に、すぐに気付いた。
砂漠の民のように、肌を隠した衣装は、キツネのそれとは対局をなす。
卵色ともクリーム色ともつかぬ、芥子を薄めたような衣は、ざっくりと肌を隠す、マントのようなものだ。
覗く腕や、首もとに見えるのは、肌にピタリとした黒い衣。
足元も同様だ。
上衣と同色に編んだ太い紐が、靴に繋がっていたが、その下には、やはり黒い布。
フードから覗いた前髪も黒。
無造作に巻かれた、マントと同色のバンダナが額を隠し、マントから繋がった布が、眸をのこして貌を覆う。
美貌。
かけただけと知れるフードが、闘いの最中にも落ちなかった事など、その貌を目にした途端、疑問ごと消えた。
とは云え。
感銘を受けたと云う訳でも無い。
己が歯もたたぬ強さを持つ相手が、自分と同じような背格好と、覗く目元だけでソレと知れる美貌の持ち主だと云う事実に、何だか笑いを誘われたのだ。
キツネも。
その姿形で、ギャップに騙されるのか、妙なチョッカイをかけてくる相手に事欠かない。
勿論。
騙された莫迦には、莫迦なりの末路が待っていた。
☆☆☆