◇冥王◇〜甘美な苦痛〜
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月の女神が微笑んでいた。
淡い笑みは僅か乍ら困惑を含む。
冥王を視る時、彼女は大抵の場合その笑みを見せる。
冥王は苦笑する。
女神を困らせるのは本意では無かった。
『私は不倖な訳では有りませんよ。』
その言葉に、女神は眸の中で更に感情を深める。憐れみ……に、その感情は似ている。
美しい月の煌めきを女神の眸に見出だして、冥王は自らの言葉を裏切らぬ、いや寧ろ倖せに満ちた笑みを閃かせた。
口元に浮かぶ笑みの淡さは女神と同様だが、その眼差しは蕩けて甘い。
冥王の声も、眼差しも、常の艶と蠱惑の振り撒いていたが、女神には些かの影響も与えなかった。
そっと、零れた女神の吐息は、官能ではなく哀切が混ざる。
『トワは、解き放たれました。』
『ええ。』
『セルストも。』
『はい。』
冥王は嬉しそうに頷いた。
女神は冥王を視つめ、言葉を紡いだ。
『セルストは、私から隠れました。そなたは……足掻こうとさえしない。』
それを、疑問に感じたのは、いつの『世界』だっただろう。
女神は永く繰り返す様々な『世界』を想い、眸を瞬かせた。キラキラと星が流れ出て、宇宙に融けた。
漆黒の闇…セルスト神は、いつの世も足掻いていた。何かを変えようと、常に模索しているかの様だった。
しかし、改変は女神が望まぬ限りは起こりようもない。
女神はそれを教えなかった。
だがセルストは気付き、女神の視界から隠れるように、界の狭間に引き籠もった。
『そなたは、最初から変わらない。』
その理由を、最初は『記憶』しない故だと思っていた。
しかし、冥王はすべてを知り、なお変わらないと知った。
女神は、それこそ『すべて』を知る筈の己が、理解し得ない『謎』を見上げた。
リア・リルーラにも、操れない相手は存在する。その『すべて』を『視』ようとしても、果たせない相手はいる。それはリルーラと同様に創世の神と呼ばれる、最高神二柱である。
それでもリルーラは『チカラ』を行使する迄もなく、『彼ら』を『知らない』などと云う事はない。
リルーラは理解し合う人々が存在する様に、愛し合う人々が存在する様に、セルストやシ・エンを愛し知る事が出来た。
しかし、神の叡智も女神の本能も超えたところに、唯一存在するのが冥王だった。
冥王は何も望まない。何ひとつ欲しがらない。女神が冥界を与えた時も、その分体が僅かに拗ねたのみで、冥王本体は小揺るぎもしなかった。
女神が遠ざけようとすれば、抗う事なく距離をおき、手を延べればその手を取る。
まるで、人間に向ける神の愛の様に………。
唯一、リア・リルーラ以前に存在した神。
然れど、リルーラが生みし神より生まれた神。
リルーラと同様に至高と喚ばれ、なのに最弱を装う神。
故にこそ、リルーラの眼差しには憐れみと共に困惑が混在する。
『トワが………解放されたなら、そなたも解放される余地がある。』
『アレは既に、私ではありませんよ。』
解っていて、問わずにいられない。
リルーラの詞に、当たり前の返答がなされ、そっと伏せられた女神の眸から、キラキラと星が流れ落ちた。
困惑と哀しみと歓び。
女神は、『独り』で無い事を『歓喜』する『己』を自覚する。
神でさえ、孤独は……『唯一』であるという『孤独』は寂しいものだ。
それを『自覚』させる存在は、リルーラには冥王しかいない。
『そなたには……誰もいない。』
『貴女がいます。』
だがリルーラはそっと首を振る。
否定を示す仕種に、冥王は柔らく微笑むのみだ。
『私の選択は変わりません。』
『ええ。』
『私はそなたを……あなたを撰ばない。』
『ええ。』
リルーラは間違えない。リルーラは変わらない。リルーラは新しい世界を望まない。
冥王はただ、そんなリルーラを愛し続けるだけだった。
『トワを、もう一度……生む気は無いですか?』
『トワが増えるだけなのに?』
リルーラが本当に望むのならば、それを冥王は為すだけだ。
しかし、その愚を侵すリルーラでも無く、即座に撤回は為された。
『いいえ。ええ、そう……せんない事を云いました。』
永久。冥王から分かたれた唯一の存在。冥王の可能性のひとつで在りながら、決して冥王では有り得ない神の一柱。
リルーラ以外に情を示し、誰かを愛する『可能性』を見せた存在。
だが。
既にそれは冥王では無い。
もはやまったく違う神に成った存在。
故に、リルーラはトワならば理解出来る。
アレが、もと冥王だと考えさえしなければ、寧ろ『娯楽』のひとつとして『優秀』な存在だと思う程に………。
『それでも、アレはそなたの可能性のひとつ。』
『可能性は未来ではありませんよ。』
さらりと、返された言葉に、女神は吐息する。
寂しいと云う女神の感情が、宇宙に流れて……人間の世界に堕ちて融けた。
この吐息を感じた人間は、狂おしい愛に出逢い倖福と不倖に哭くだろう。
冥王はその吐息すら愛しげに視つめ、しかしそれが『成す』結果には見向きもしなかった。
『私にはシ・エンがいます。』
『私には貴女がいますよ。』
リルーラの孤独は、シ・エンが癒す。そして、冥王の存在が、リルーラの救いになる。
ならば冥王の救いは『何』があるのか。
しかし、冥王は当たり前のように倖せそうにリルーラを視つめるだけだった。
『そういう意味ではありません。』
『同じですよ。』
冥王が唯一と定めた女神。
唯一礼儀正しく接する相手。
唯一見惚れ、唯一愛し、唯一執着し、唯一従う。
『貴女が存在するから、この世界に意味が生まれた。』
冥王にとって、それが唯一にして十全なのだ。
☆☆☆
例えば、リルーラがセルストと恋をした。
例えば、リルーラがシ・エンと出逢い。
例えば、リルーラが愛し子と呼ぶ人間に手を延べる。
それは苦痛。
それは悲痛。
それは、冥王に狂おしい程の『何か』を感じさせる。
しかし。
冥王は何をするでも無い。
リルーラが誰かを視つめる。
何かを眺める。
リルーラはすべてを愛する。
冥王はそのすべてを嫌悪する。
もちろん。
だからといって何もしない。
冥王はリルーラが愛するモノを、護る事はあれど壊す事は無い。
ただ。
心に苦痛を感じて。
リルーラに与えられた甘露を嘗めとるだけだった。
リルーラはすべてを愛するように冥王も愛する。
リルーラはシ・エンを愛するようには冥王を愛さない。
リルーラは冥王を心配する。
だから?
冥王には何も変わらない。
冥王はリルーラが己を『愛さない』苦痛ですら『愛する』。
その苦しみを、哀しみを、与えたのがリルーラならば、それを愛するだけだった。
それは、なんと甘美な苦痛だろうか?
冥王が、リルーラを愛するが故に、この『世界』は何事も無く繰り返されるのだ。
リルーラの『無関心』『同情』『仲間意識』『畏怖』ときには『嫌悪』さえ。
冥王にしてみれば、すべては等価なのである。
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