◇妖狐蘇芳02◇子供たちは人間不信
☆☆☆
――怖い怖い怖い怖い怖い
キアは身体の震えが止まらなかった。
歯の根が合わずカチカチと耳障りな音を立てた。それを防ごうと自らの手を噛んだのは、目の前に立つ存在に不快を与えない為だ。
恐怖に震えても、生存本能が正常な思考能力で訴える。
――怖い。この人に不快を与えてはダメ。怖い。この人に邪魔だと思われたら死ぬ。怖い。この人の気紛れで私達は死ぬ。怖い。お願い。気紛れで良いから。怖い。私達を殺さないで。
幼い日。
キアは全身全霊を込めて祈った。
☆☆☆
祈りは届き、彼はタキとキアを殺さなかった。
それどころか、兄妹が必要とする知識を与えてくれた。
小屋に結界を張り、悪意有る存在が近付く恐怖から救った。
森の植物の知識を与え、食料の確保を容易にさせた。
生活の術を、兄妹は学んだ。
「何故よくして下さるのですか?」
タキがある日訊ねた。
敬語を始めとした礼儀作法も、兄妹に与えられた教育のひとつだった。
彼自身は面倒だったらしく、自ら教えはしなかった。兄妹に与えられたのは、彼と同族と覚しき同じ色彩を持つ教師たちだ。
「一応決まりだからな。」
答えを期待した訳では無いが、彼はサラリと応じた。
気紛れかと思っていた兄妹は、少し驚いた。
子供が霊現界で暮らす事を選択した場合、ある程度の保護を与える『決まり』だと彼は告げた。 本来なら王子宮で与えるべきだが、まだ法律機関として歴史が浅い彼らは、それを知らないと云う。
「あの……王子宮は法律を作ったと伺いましたが、知らないと云うのは?」
霊界の歴史も学びつつある兄妹は、最初に霊界に来て出会ったお兄さんが『王子』だと現在は知っている。
王と王子が現在の霊界の『法』を作ったと教えられたのに、その『法』を知らないとは理屈に合わない気がした。
「永久の法だ。トワが決めた法と王子の法なら、トワのそれが優先される。」
永久はこの冥界の持ち主だと云う。
この世界は王子宮の法律以前に、永久の気紛れに左右される。
強いモノが正しい。
強いモノが正義。
弱肉強食の世界をヨシとした永久は、しかし裏腹に最たる弱者で有る子供の為に抜け道を用意していた。
だから、兄妹は弱者たる存在から抜け出す機会を得たのだ。
その『決まり』を王子は知らず、盗賊である彼が知る矛盾に兄妹は不審を感じたが、せっかくのチャンスにしがみつくしか無かった。
そして、がむしゃらに知識や力を手にする内に、彼がどんな存在かを知る事になった。
はっきりと告げられた訳では無い。朧気な想像に近い。
だが。
冥界古参の妖狐たちが、旧家の名を背負い子供達を守り育ててくれた。
その妖狐たちの全てが、下にも措かぬ扱いで彼に対応する。
彼も又、妖狐である。
そして、妖狐一族の長は出奔中だと聞いたなら。
彼の素性も知れようと云うものだろう。
彼ら……妖狐たちは、王子を新参者と呼ぶ。
冥界の正しい掟を守り、支配し、その責務を負うのは、妖狐一族だとの自負が有る。
ただ、長が不在の現在。
ちょっとばかり、王子宮に押されているのは仕方ない状況だった。
その不在の長が、彼なのだろう。
兄妹は明言されずとも、いつしかそれを理解した。
☆☆☆
小屋は少し増築された。兄妹が初めて来た時は、小さな台所と出入り口に面した6畳程度の空間が有るだけだった。
そこに個室が4つ追加された。
外観は変わらないまま、部屋が増えた事に兄妹は驚いたが、人界の常識は冥界で通じない事くらいは理解した。
小屋自体より広い個室を見て、ちょっと渇いた笑いが洩れたのは仕方ないだろう。
兄妹の部屋と教師たちが来た時に学ぶ為の部屋。
残った一部屋は『彼』の部屋だ。
とは云え、彼が此処に暮らす訳では無い。
気紛れに顔を出して、たまに泊まる彼を知り、妖狐たちが用意しただけだった。
教師たちは妖狐の郷に兄妹を連れて行きたがったが、それは彼が子供達の様子を見に来る事に期待するからだろう。
「華焔さま!華焔さま自らいらっしゃるなんて、珍しいですね。」
扉が開いた気配に、兄妹は自室から出る。そこに警戒心は無い。小屋には結界が張られて、兄妹に危害を加える相手は入れないからだ。
それでも自室の扉の隙間から、窺う様に顔を覗かせてから出て行くキアと、カラリと開いてさっさと迎え出るタキの行動の差は、そのまま性格の差と云うべきだろう。
「そろそろ蘇芳が来る頃かと思ったからな。暫く世話になっても良いか?」
「勿論です。何のお構いも出来ませんが、精一杯お世話させて戴きます。」
歓迎の意を表し駆け寄って来た子供に、華焔は笑って手を伸ばした。
一瞬びくりと体を固まらせた事に、気付かない振りで頭を撫ぜる。
生前は大人たちに暴力を奮われるばかりだったと、子供たちの生い立ちを華焔は知っている。
人間の弱さと醜さは、時として妖怪よりタチが悪いものだった。
「いらっしゃいませ。」
妹のキアは未だに大人の傍に寄る事も出来ない。かろうじて、タキの背に隠れれば距離を縮めても不安を抑制出来る。
霊現界に住んで三年半。
霊現界の大人たちに隔意を持たれて三年。
その三年は、蘇芳との出逢いが始まりだった。
妖狐以外に、兄妹が気を許す存在が居なくなった年月でもある。
霊現界の人間にとって、後ろ楯を得た兄妹は、もはや慈善の対象では無く、妬み嫉みの対象になっていた。
小さな、兄でさえ未だ10才にも満たない子供に、大人たちは嫉妬して排斥しようとしたのだ。
子供たちの人間不信は、霊現界で更に強固なものとなった。
☆☆☆
ありふれた話なのかも知れない。
親に虐待される子供は、珍しい存在では無いのかも知れない。
そうは思っても、私たち以外にそんな子供を見た事は無かった。
施設に行く迄は。
私はいつも泣いていた。
兄は私を安心させようとして、いつも笑おうとしていた。
でも、兄の笑顔はいつも引き攣ったものでしか無い。無理して、頑張って、私を安心させようとして、笑う。
「大丈夫だ。」
この日も、兄は笑って云った。
全然大丈夫には見えなかった。
兄の腕からは血がダラダラと流れていた。
今日こそ死ぬのかも知れない。そう思った。
私は泣き乍ら兄の腕をハンカチで縛った。
「泣くなよキア。」
「ごめんなさい。ごめんなさいお兄ちゃん。」
「謝んなよキア。」
困った様に、兄は笑う。私を庇って、兄が私の分も深い傷を負うのは、いつもの事だ。謝罪も感謝も兄は拒む。
私は、ただ泣く事しか出来ない。
私が産まれる迄は、兄の傷は少なかっただろうか?下手に口をきかなければ良かったのだろうか?
いや、目付きが気持ち悪い……と云われて殴られたのが最初だから、喋らくても同じか。
私は子供らしく無いのだそうだ。
気持ち悪い子供なのだと大人たちは云う。
兄はそんな事は無いと云うが、否定するのは兄だけだから、私はやはり気持ちが悪い子供なのだろう。
そう告げると困った笑みが返った。
「大人たちは賢しい子供は嫌いなんだ。だから、僕らは嫌われる。」
兄は、けれど子供らしく振る舞う事も出来る。私は出来なかった。その差は大きい。
だから兄の方が賢い筈だが、兄は私の方が頭が良いと云う。
知識を得れば、いつか大人たちは私に敵わなくなると、そう兄は云う。
本当に?
もう殴られなくなるのかな?
そうなったら、お兄ちゃんは引き攣る笑顔を無理に浮かべなくて良くなるのかな?
そうなれば良いな。
いつか、本当にそんな日が来れば嬉しい。
私は泣かない兄の代わりに泣き乍ら、いつもそう思っていた。
この日も、兄は私を宥める様に云った。
「大丈夫だよ。いつか、大人になれば、楽になれる。お前は頭が良いから、きっと偉い人になれるよ。」
「偉い人になったら、もう殴られ無い?蹴られ無い?お兄ちゃんも、こんな風に……怪我しなくて済むの?」
「うん。きっとね。」
なら、私は偉い人にならないといけない。
兄に守られるばかりでは無く、守れる様に成りたい。
私は守られるばかりで、兄に迷惑ばかりかけている。
私がそれを謝ると、兄はいつも云った。
「偉くなったら守って貰うから。」
だから、今は守られてれば良いと云う。私は、慰めでしか無い未来に希望を繋ぐ。
頭が良すぎるなんて云われても、それが救いにならない事くらい本当は知っていた。
所詮は子供にしては、……でしか無いソレ。そして、学ぶ機会を与えてくれる筈の両親は、私たちの敵だった。
それを知っているのに、私は兄の言葉に縋る。
「いつか守ってあげる。お兄ちゃんを私が守れる様になるから。」
だから見捨てないで。だから傍に居て。だから死なないで。
お願いだから。
私に未来を下さい。
私はずっと、毎日、祈る事しか出来なかった。
☆☆☆
目覚めたキアは飛び起きる様に体を起こし、清潔な室内を見回して深い息を吐いた。
施設に行く切っ掛けになった、兄の怪我を思い出して身震いする。
あの日死んでいたとしても、此処に来る事になっただけだろうけれど、それは何の慰めにもならない。
あの日の恐怖以上に、現在のキアは恐怖している。
兄を喪う経験は、一度だけで充分だった。
あの日、兄はキアを庇って母親に切りつけられた。
救急車で運ばれて、3日も目覚めなかった。
見知らぬ大人たちが訪れて、兄妹は施設に預けられる事が決まった。
キアは両親と離れられる事に歓喜したが、その喜びはほんの数日しか続かなかった。
施設の大人たちも、兄妹を虐待したからだ。
そして、キアは自分たち以外にも、親に虐げられた子供たちが沢山いると知り。そこから救い出された筈の施設で、更に虐待される子供たちの仲間入りを果たした。
そこでの虐待でも、兄はやはり妹を守り、その所為でキアは兄を喪ったのだ。
一日と置かず後を追うことになったが、その一日がキアに与えた絶望と憎悪は深い。
――大人は、嫌い。
人間の大人はキアの憎しみと恐怖の対象でしかない。
妖怪も怖いが、人間の大人に対する憎しみは覚えない。
多分、妖怪は人間と違って、良い人のフリをしないからだとキアは思う。
特に、助けてくれた彼は、偽善とは無縁だった。
「弱いままなら死ぬ。好きに選べば良い。」
強くなる機会を兄妹に与えてくれた彼は、しかし強くなれ……とは云わない。
選択肢を与え、教師を与え、けれど学ぶ機会を活用するか否かは、兄妹に選ばせた。
初めて、キアは大人を信頼した。
多分、それは兄のタキも同じだとキアは思う。
その信頼の延長に、彼と同じ色彩を持つ、妖狐の一族が存在する。
「お早うございます。華焔さま。」
自室を出たら華焔が立っていた。
信頼する蘇芳の親族である華焔に、キアにしてはかなり近い距離で挨拶をする。
正直、狭い室内で兄を介さず言葉を交わすのは辛い。
ビクビクと震えるキアに、華焔は気付かないフリをしてくれる。
「タキなら食料を採りに出掛けた。」
無意識に泳ぐ視線が兄を探すキアに、苦笑して華焔が告げた。
タキが不在のまま傍に居るのは、キアにとって拷問に等しいと知る華焔は、勉強部屋であり教師役の宿泊施設でもある部屋にすぐに消えてくれた。
朝食が済んだら来る様に告げたからには、華焔は一緒に食べる気が無いのだろう。
キアは何年経っても臆病な自分に落ち込んだ。
――どんだけヘタレなの私……
情けなくて泣きそうになる。
――そして、どんだけ泣き虫なの私……
「ただいま………キア?どうした?」
タキは心配そうに声をかけたが、周章てた様子は無い。結界がある上に華焔が滞在する現在、妹に危険がある筈が無いと知悉しているからだ。
「お兄ちゃん。私ヘタレなの。」
「……大丈夫だよ。ヘタレでも。」
下手な慰めでしか無かった。
寧ろその言葉で、本格的に泣きそうになったキアである。
しかし、兄妹を眺める妖狐の存在に気付き、キアの涙はすぐに引っ込んだ。
「蘇芳さま!」
兄以外でキアの笑顔を引き出せる、唯一の存在。久しぶりに訪れた恩人?の姿がそこに在った。
「蘇芳?」
すぐさま勉強部屋の扉が開き、華焔が飛び出して来た。
朝食が済んだら来る様に、と再度告げられた台詞は、先程とは違い邪魔者を排除する台詞に聴こえたキアである。
「お兄ちゃん。華焔さまって、蘇芳さま関わると大人げないね。」
「………キア。それは思っても口に出したらダメな事だよ。」
☆☆☆




