初めての友達
おそらく、産まれた時から、私は「笑わない子供」だった。
無表情を貫き通す子供は「こわい」と言われ、忌み嫌われていた。
私は、自分から話しかけることもなく、もちろん他人を怖がらせるでもなく、
ただひっそりと息をしているつもりだった。
一つ年下の妹は、私と違って上手に笑える。
母さんも父さんも、そんな妹を愛していた。
露骨に私を避けるようなことはしなかったが、必然的に私との会話は盛り上がらず、妹と笑いの花を咲かせることが多かった。
団欒はいつも妹が中心で、感受性の豊かな母さんと妹は同じドラマや映画を見て泣いていた。
私には、それを見る意味すら分からなかった。
高校に入って、初めての友達ができた。
きっかけは美術の授業だった。高校の選択授業で美術を選んだのは、書道と音楽に比べて一番マシだったからだ。
特別絵を書くことが好きだというわけではない。ただ、勉強にはもう疲れていた。
息抜きに落書きをする。いつの間にかノートや教科書のすみは落書きだらけになった。
優美香は私の絵を気に入ってくれた。
授業中に描いた絵を大袈裟に褒め、ノートの落書きまで見せる仲になった。
その日、優美香はいつも以上にもじもじしていた。
「もしよかったら、私、小説書いてるんだけど」
優美香は少し恥ずかしそうに言う。
「その、小説の主人公の絵を書いてほしいの」
優美香の小さな口が遠慮がちに言葉を放つ。赤ちゃんみたいな大きく潤んだ瞳が私を上目づかいで見る。
男だったらいちころだろうな、と私は思う。優美香の容姿は整っている。
「いいよ、あんなのでよければ」私は言った。
「よかったぁ」優美香は大きな目を線にまで細めて笑った。
あんなの、というのは、以前、夏目漱石の小説の登場人物を描いたことがあった。
私はKと呼ばれている少年が特に好きで、小説の登場人物を描いたのはこれが初めてだった。
それを見せた時、優美香は小動物のように愛らしい笑顔をした。「素敵」と。
他のキャラクターも描いてと頼まれ、その小説に出てきた人物をほとんど描いた。
全て私の頭の中の容姿にすぎず、想像であり理想の姿だったのだが、優美香はそれをえらく気に入ってくれた。あまりに喜んでくれるものだから、いくつかをプレゼントした。
描いてみたいと思った。
優美香の想像する世界に出てくる人物を。
優美香と話しているうちに、似ているところをいくつか発見した。
それは、例えば周囲の顔色を気にするところであったり、そのくせ流行には鈍いところであったり。
しかし私達には致命的な違いがある、と私は感じていた。
私には笑顔を作れない。
優美香のように、人に安らぎを与えるような笑顔を、私は持っていない。
帰り道、「おねいちゃん」と後ろから呼びかける声があった。妹だ。
振り返ると妹は手を振ってから、私の方に走ってきた。
頬を赤らめて、息を整えながら悪戯っぽく笑う。「へへ、追いついた」
心臓がずきんと揺れた。妹の顔、特に笑っている顔を見るといつもこうなる。
胸が痛いのだ。可愛いく笑う妹が時々堪らなく憎くなる。
私は平静を装う。「今帰り?」声が震えてないか不安だった。
「あ、うん。そうだ。山岸くん!はやく!」
妹の視線の先には男の子がいた。「紹介するね、山岸くん、今付き合って1カ月なんだ」
妹は頬を赤らめたまま幸せそうに笑った。
そこに邪気はない。それでも、胸の痛みが増したのは確かだ。
おねえちゃんは無愛想だから友達がいないんだよ。昔、妹がそんなことを言った。
今は空から声が聞こえる。
おねいちゃんは笑わないから彼氏もできないんだよ。
私は足早に帰った。
胸の痛みが消えるまでベッドで横になった。
大丈夫、慣れてる。慣れてるよ。こんなの、いつものこと。
気持ちが落ち着いてから机に向かった。夕食は抜いた。食べられないわけではないが、食べたいとも思わなかった。
机に座って宿題をした。それが終わってから優美香の書いた小説を手に取る。
ノートにそれは書かれていて、ぱらぱらとめくる限りそれほど長い文章は書かれていない。
私は深呼吸をして、それを読み始めた。
一人の、悪魔の話だった。
悪魔は少年だった。人間の女の子に恋をするけれど、自分は悪魔だからそばに寄ったら彼女を不幸にしてしまう。
自分が天使だったら、どれだけよかっただろうか。少年は自分の性を恨み、嘆いた。
とても悲しい物語だった。
私は悪魔の少年を描いた。気が小さく優しそうな、憂いを帯びた顔、色、姿、形、目、視線。
水をイメージした。少年は水を纏っている。それは涙なのかもしれない。
私はイメージした少年の絵を何枚も描いた。
次の日、優美香にそれを見せると彼女はとても喜んでくれた。
「何かお礼しなくちゃ」後ろに明るい花が見えるような、満面の笑み。目はまんまるとしてきらきら光っていた。
「ううん、喜んでもらえて嬉しい」私は素直に喜んだ。
自分の書いた絵で、こんなに素敵な笑顔を見られる。
それは誇らしい気持ちだった。
すると、優美香はじっとこちらを見てきた。
「ん?なに?」
丸くしていた目を細めて、にっこり笑う。
「笑顔、初めて見た。かわいい」
驚いた。笑ってる?私が?
面白い、楽しい、といくら思っても顔だけはどうしても笑わなかった私が。
帰ってから、私は鏡の前で笑ってみた。
でもそれは瞼の重い仏像のような顔で、とても笑っているとは言い難いものだった。
優美香は何度か「あ、笑ってる」と教えてくれた。
それは決まって、優美香に自分の描いた絵を見せた時だった。
その時だけ私は笑うことができた。
確かに顔の一部が、どうしてもいつもは動かない一部が、
その時だけ柔らかくなるような、感触もあった。
優美香は高校3年生になる春、転校した。
別れ際にこう言った。
「いつまでも絵を書くって、約束して」
私は頷いた。小指を絡ませて、強く誓いをした。
あれから10年経った今も、私が笑顔を作れるのは決まった一時だけ。
「自分の描いた絵で相手の笑顔を見た時」その時だけ、私の顔は緩くなった。
優美香は私に笑顔を作る力をくれた。忘れられない初めての友達。
彼氏が、ちょっと恥ずかしかったけど、笑った時の私の顔を鏡で見せてくれたことがあった。
それは、悪くない笑顔だった。
この作品はフィクションです。
最後までお読みいただきありがとうございます。