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異世界ゼウス ~チート能力を授けられなくても元々全知全能です~

作者: dngdng
掲載日:2026/05/28

 オリンポスの頂は、常に雲の上にある。


 白大理石の柱が天を貫くように並び、その間から見下ろせば世界の果てまでが一望できた。神殿の外壁には神話の場面が金細工で刻まれている。床は磨き抜かれた石が鏡のように神々の姿を映し、天井からは見えない光源が柔らかく降り注いでいた。


 その中央に、長方形の巨大なテーブルが据えられている。十二の椅子が並び、それぞれの席に神々が思い思いの様子で陣取っていた。


 その瞬間、テーブルの中心、何もなかった空間に、亀裂が走る。暗い裂け目は広がり、縁に沿って紫黒の炎が揺れ始め、やがてそれは、門を形成した。


 床に寝転がっていたディオニュソスが跳ね起きた。葡萄の蔓を無造作に巻きつけ、衣が半分ずり落ちたままの格好で、目を輝かせて門へと駆け寄る。


「おお!これは!人間が神々に助けを求めた時に現れる門ではないか!」


 金色の鎧をまとったアテナが、兜の下から一瞥をくれた。脚を組み直しただけで、椅子から動こうとしない。


「そんなことは皆知ってる。誰に説明してるんだ」


 テーブルに頬を預けたアフロディテが、とろけた目を門へ向ける。ピンクがかった艶やかな髪が石の上に広がり、白い肌がぼんやりと光を帯びていた。


「でも久しぶりじゃない~?門が現れるなんて、人間が自分で何でもできるようになってから随分経つし」


 デメテルが立ち上がった。葉と雪を象った飾りが揺れる。


「そうね。人間が自分達で何でもできると思い上がってから、随分経つわね」


 声に、わずかに怒りが混じっていた。


 緑の髪をなびかせたアルテミスが、串に刺した肉を齧りながら門を一瞥した。大きな矢筒が背中で揺れている。


「ところでさ~この門、誰が入るの?」


 アテナが立ち上がり、門へ数歩近づく。炎の揺れを静かに観察するその目が、細くなった。


「本来ならば助けを求める神の前に現れるはずだ。戦の助けを求めるならば私か、アレスの前に。海ならポセイドン叔父様の前に。嵐ならば……ゼウスお父様の前に」


 視線が、テーブルのど真ん中へ落ちた。


 門は、誰の席でもない場所に立っていた。十二の椅子のどれにも等しく近く、どれにも等しく遠い。紫黒の炎が、全員を等しく照らしていた。


「誰でもいいということだろう!ならば!俺が!」


 赤い鎧をまとったアレスが椅子を蹴って立ち上がった。


「そうではない」


 アテナの声が、静かに割り込んだ。


「知らないのだろう。我々神々の名を……」


 デメテルが眉をひそめた。肩の雪飾りが、かすかに揺れる。


「無礼ですよアテナ。我々神々の名を知らない者がいると? もしそうならば、その門に入る価値はない。門の向こうにいる人間も、助ける価値はありませんよ」


「それも違います、デメテル様」


 アテナが門へ歩み寄り、炎の縁に静かに手を触れた。紫黒の光が、金の鎧に滲む。


「この門は――別世界に繋がっています」


 その瞬間。神殿のさらに奥、重厚な扉の向こうから、引きずる音がした。


 ヘラが歩いてきた。片手に縄を握り、その先には――縛られたゼウスがいた。


 縄で縛られたゼウスを見て、ディオニュソスは口元を袖で覆い、笑いを我慢している。アルテミスは串を持ったまま口の端を吊り上げニヤニヤし、アフロディテはテーブルに頬杖をついてにっこりと微笑んだ。


 アテナは、困惑したまま立ち尽くしていた。

「ヘ……ヘラ様、それは……」


「これから極刑に処す所よ」

 ヘラは歩みを止めることなく、平然と言った。


「助けてくれ~!ほんのちょっと浮気しただけじゃよ~!」

 縄の中からゼウスが叫ぶ。白髪と白ひげが乱れ、がっしりした体躯がみっともなく床を引きずられていた。


「縄はヘファイストスに作ってもらったわ」


 視線が飛ぶ。ヘファイストスはゆっくりと顔をそらし、青銅の篭手で顔を覆った。


「き……極刑!?それはあまりにも……」


 アテナが一歩踏み出した瞬間、ヘラが振り向いた。にっこりと笑ったまま、顔をぐっと近づけてくる。金の瞳が、真っすぐにアテナを捉えた。


「一人二人なら見逃したわ……でもね」


 声は穏やかなままだった。


「もう百を超えたのよ」


 アテナは黙った。


 ヘラの視線が、すっと横へ流れた。テーブルの中心で揺れる、紫黒の炎。歪んだ門が、ヘラの目に映る。


「あら?これはなにかしら?」


「こ……これは人々が神に助けを求めた時に現れる門ですが……しかしこの門は――」


 アテナが言い終わる前に、ヘラは門へ歩み寄っていた。指先が炎の縁をなぞる。


「別世界に繋がってるわね」


 知恵の神アテナでさえ触れるまで気づかなかったものを、ヘラは一目で見抜いていた。


「ちょうどいいわね」


 ヘラは振り返った。縄を握る手に、力が込もる。


 門が開いた。暗い裂け目の向こうに、見知らぬ世界の気配が滲み出た。


 そしてヘラは、躊躇なくゼウスを放り投げた。


「ま、待て――ッ!」


 白髪が闇に消えていく。重厚な神の叫びが、遠ざかり――やがて、静かになった。


 ゼウスが投げ入れられてすぐに門は、音もなく閉じた。


 テーブルの中心に、何事もなかったかのような空白だけが残った。


「ヘ……ヘラ様!な……なんてことを!」

 

 アテナが声を荒げた。


「異世界ですよ!何があるか何もわからないのに!帰ってこれるかどうかすら!」


 神々の視線が集まった。あの沈着冷静なアテナが、取り乱している。ディオニュソスが目を丸くし、アルテミスが串を持ったまま口を半開きにした。


「意外だわ、アテナ」


 ヘラは振り返った。穏やかな笑みは、まだ顔に張りついたままだ。


「貴方は彼の絶対的な信奉者だと思っていたけど」


「も……もちろんです。ゆえにゼウスお父様が心配で――」


「彼が異世界でやられてしまうと?」


 ヘラが一歩、近づく。


「彼が異世界で迷ってしまうと?帰ってこられないと?」


 アテナは生唾を飲んで黙った


「彼が異世界で――」


 ヘラはニッコリ微笑み、アテナに言った。


「傷一つでもつけて帰ってきたら、笑ってやるわ」



◇◇◇



 気づいた時には、落ちていた。


 縄が体に食い込んだまま、見知らぬ空を背に、ゼウスは落下していた。


 まずい、とは思わなかった。思考より先に手が動く。縄を掴み、引きちぎろうとした――びくともしない。


「ヘファイストスめ、頑丈な縄を作りおって」


 風が耳をつんざく。空は高く、まだ地面は遠い。


「しかし……全知全能たるわしを縛り続けられる縄など――」


 歯を食いしばった。全身に力を籠める、腕に、胸に、腹に血管が浮き上がるほど力を込めた瞬間、縄が悲鳴を上げた。


 縄が千切れると同時に地面に着地した。


 ゼウスは両足で大地を踏み抜いた。轟音が草原を揺らし、衝撃が同心円状に広がる。土が爆ぜ、草が吹き飛び、地面が抉れ、深いクレーターを刻んだ。


 静寂が、戻ってくる。


 土煙の中、ゼウスはゆっくりと顔を上げた。


 見渡す限りの草原が、風にそよいでいた。遠くに森の影、その向こうにぽつぽつと家の輪郭が見える。石造りの壁、茅葺きの屋根――どこか懐かしいような、しかし微妙に違う空気が漂っていた。


「元居た世界とあまり変わらぬように見えるが……異世界か」


 ゼウスは顎を撫でた。それから、胸を張った。


「しかし全く問題はない!なぜなら!わしは!全知!全能!だからじゃ!」


 両腕を広げ、片足を前に踏み出し、草原に向かってポーズを決めた。


 風だけが、通り過ぎた。


 草がそよぐ。鳥が鳴く。誰も何も言わない。


 ゼウスはゆっくりとポーズを解いた。


「ふむ……あの門を通った先には神々に助けを求めた人間がいるはずだが――」


 その時、草を踏む足音がした。


 赤かった。それが最初の印象だった。腰まで届く赤い髪が、風を受けてゆるやかに揺れている。白い肌に、警戒と戸惑いが入り混じった表情。森から姿を現したその女性は、クレーターを見て、それからゼウスを見て、足を止めた。


「あ……あの、こっちで凄い爆発音がしたような……」


 ゼウスは目を細めた。それから、さっと駆け寄った。白髪を風になびかせ、その手をそっと取る。


「おや、美しいお嬢さん……貴方が私を呼んだのですかな?わしが来たからにはもう安心ですぞ、さぁ貴方の悩みを――」


 女性の視線が、すっと下へ落ちた。


 ゼウスの視線も、つられて下へ落ちた。


 縄をちぎる時に全身へ叩き込んだ力は、縄だけを断ち切らなかったらしい。全身、何一つ残っていなかった。


「きゃーーーー!」


 手が振り払われた。赤い髪が翻り、足音が遠ざかっていく。


「あっ」


 ゼウスは手を伸ばしたまま、草原に一人残された。



◇◇◇



 石造りの壁に暖炉、太い梁が天井を渡る小さな家だった。乾いた草と土の匂いがした。


 ゼウスは椅子に腰を下ろし、腰に布を巻きつけていた。がっしりした体躯に白髪、白ひげ――どう見ても只者ではないが、腰布一枚では威厳が半減していた。


「いや~すみませんな、爆発で服がはじけ飛んでしもうて」


「そ……そうでしたか。爆発のど真ん中にいたのですか?よく助かりましたね」


 父親のアルノーが湯気の立つカップをゼウスの前に置いた。無骨な手つきだったが、丁寧だった。


 娘のイレーネはお盆を顔の前に掲げたまま、その隙間からゼウスを見ていた。赤い髪が、お盆の縁から垂れている。


「まぁわしは全知全能じゃからな」


 ゼウスはお茶をすすった。


 アルノーはお茶を注ぎながら、ちらりとゼウスを見た。それから、もう一度見た。今度は、少し長く。目が合うと視線を外したが、背筋がわずかに伸びていた。。


 アルノーが両手を机に叩きつけた。


「あ……あの!その筋骨隆々で爆発をものともしない体!そのヒゲ!あふれ出る威厳!只物ではないとお見受けします!」


「うむ」


――やはり異世界の人間といえど、わしの威厳は隠せぬらしい。全知全能の神の格というものは、腰布一枚でも滲み出るものじゃ


「近くのオーガを討伐してほしいんです!」


「オーガ?」


 ゼウスは首を傾げた。ギガスの類か?――しかしその名には覚えがない。


「それは何じゃ?」


 アルノーがぎょっとした。


「オーガを知らないんですか?もしかして冒険者じゃ……ない?戦えたりとかって……?」


「はっはっは!」


 ゼウスは笑った。腹の底から出た笑いに、カップが小さく揺れた。アルノーの顔に向かって身を乗り出し、目を見て言う。


「わしに倒せぬものなどおらぬ。そのオーガとやらも、わしに傷一つつけることもできぬだろう」


 イレーネがアルノーの袖を掴んで立ち上がった。そのまま父親を引きずるように、奥の部屋へ消えていく。


――わしに聞かれたくないような会話をするようだが、神の耳に壁など障害にもならぬ。


 ゼウスは茶をすすりながら、二人の声に耳を傾けていた。


「ちょっとお父さん何言ってるの!オーガは一体だけでもB級が複数か、A級以上の冒険者が必要なのに!」


「見てわからないのかイレーネ!彼はきっとS級だ!彼ならオーガキングも倒せる!」


「S級の冒険者は皆有名でしょ!あんな人いないわ!A級でも名が知られてたら私が知ってるはずよ!毎日冒険者名簿を読んでるんだから!もうオーガを刺激するのはやめて!」


「あの人なら倒せる!俺にはわかる!それに今倒さないと――」


 その時。


 地面が、鳴った。


 最初は遠く、低く、腹の底に響く振動だった。一歩。また一歩。踏みしめるたびに揺れが大きくなり、カップの中の茶が小さく波紋を描く。窓の外の木々が揺れ、棚の食器がかたかたと鳴り始めた。それは足音だった。ただし、人間のものではない。大地そのものを踏み潰すような、重く、鈍く、止まる気配のない足音が——複数、こちらへ向かっていた。


 アルノーが部屋の奥から出てきた。顔から血の気が引き、手が小刻みに震えている。


「き……来た……やつらだ」


 奥の部屋は、静かだった。息を殺しているのがわかった。床板のきしむ音もなく、イレーネはそこから動けずにいるようだった。


 ゼウスは窓へ歩み寄った。


 6体、緑がかった灰色の肌、人間の倍以上はある巨躯が、村の真ん中で足を止めていた。一歩踏み出すたびに地面が沈むような、そういう重さだった。


――5mほどかの、しかしギガス族よりも遥かに小さいのう。


 先頭の一体が、低く唸るような声を上げた。


「出てこい」


 村の奥から、老いた男が現れた。村長だろう。その後ろに、複数の女が続く。オーガの前に立った村長が、何か言葉を交わしている。声は聞こえなかったが、体が縮こまっていた。


 やがて村長がこちらへ向き直り、オーガ達と共に歩き始めた。足音が、近づいてくる。


 奥の部屋で、床板が鳴った。


 イレーネが立ち上がったのがわかった。一瞬の間があった。イレーネが振り返り、言った。


「じゃ、行ってくるね!」


 笑顔だったが、涙をこらえているように見えた。


 アルノーの手が伸びた。届かなかった。玄関の扉が開き、赤い髪が外の光に溶けていく。


 窓越しに、イレーネが見えた。震える足で、それでも真っすぐにオーガの前へ歩いていく。


 先頭の一体がイレーネを一瞥し、無造作に腕を伸ばした。大きな手が、細い肩を掴む。イレーネは振り払おうとしなかった。


 アルノーは深く息を吸った。それから、ゼウスに向き直った。


「オーガ達は人を襲います……でも、こんな……村に出向いて人を集めるようなことはしない」


 声が、震えていた。


「オーガキングの指示でやっているのだろうと皆は言います。オーガに手を出せばオーガキングが来る……だから手を出すなと」


 アルノーが床に額をつけた。肩が揺れていた。


「オーガキングを倒してくれとは言いません……あのオーガ達だけでも倒してください。イレーネを連れて村を出ます。きっとオーガキングが復讐に来るでしょう……村の人には悪いけど……きっと一生恨まれるけど……イレーネだけでも助けたいんです」


 ゼウスはアルノーを見下ろした。


「わしを見ろ」


 アルノーが顔を上げた。


 そして、固まった。


 光があった。神々しい後光がゼウスを射し、まともに見ることもできないほどだった。アルノーは目を細め、唇が震える。


「心から救いを求めるお前ならば、わしが何者かわかるだろう」


 アルノーの口が、かすかに動いた。


「神……」


「そうじゃ」


 ゼウスは立ち上がり、扉へ向かった。蹴破るように開け放ち、外の空気を胸いっぱいに吸い込む。


「ではオーガとオーガキングとやらを――倒しに行ってやろうかの」



◇◇◇



 村の女達が、オーガに追い立てられるように歩いていた。


 その背中に、ゼウスは声をかけた。


「またんか」


 オーガ達が振り返った。


 そこにいたのは、腰布一枚の人間だった。白く長い縮れた髪と髭、鎧も武器も持たぬ筋骨隆々な体。しかし――足が、止まった。オーガ達の本能が、何かを告げていた。


 イレーネが目を見開いた。


「何者だ。お前、強いな。敵か?」


 先頭の一体が低く唸り、棍棒を構えた。他の個体も続く。


「ほう、わしの強さが一目でわかるか」


 ゼウスは一歩も動かなかった。


「だがバカそうな喋り方じゃの、キュクロプスと同程度の知能か」


「バカ?」


 オーガの目が、細くなった。


「バカだと?知ってるぞ……それは……人間がオーガを見下す時の言葉!」


 棍棒が、天高く振り上がった。


 そして――全力で振り下ろされた。


「おじさん!」


 イレーネの叫びが、空気を裂いた。


 砂煙が上がった。土が爆ぜ、周囲の草が吹き飛ぶ。女達が悲鳴を上げて顔を背けた。


「バカ、木っ端みじんだ、バカはお前だった」


 煙が、晴れていく。


 棍棒が真っ二つに割れていた。


 ゼウスは、そこに立っていた。無傷で。表情一つ変えず、ただそこに立っていた。


「どの程度のものか……食らってやったが」


 ゼウスは割れた棍棒を一瞥し、興味を失ったように視線を外した。


「やはりギガス族の足元にも及ばんな」


 人差し指を、静かに突き出した。


 指先で、空気が弾けた。パリッと、ごく小さく、近くにいる村の女達に巻き込まぬよう最低限最小限の力で出した雷


 嵐を呼び、山を砕く雷神の力の、ほんの欠片。


 それでも――――オーガ達は塵と化した。


 棍棒だけが、空中に静止するように遅れて落ちた。


 静寂が戻った。


 イレーネが、呆然と立ち尽くしていた。


 ゼウスは両手を広げ、待っていた。


 歓声と共に己に抱きつく女性達を……


 いつまでたっても、そんなことは起きなかった。


 女性達は茫然と立ち尽くしていた。あまりにも一瞬の出来事だった。目の前でオーガ達が消えたかのような終わり方に、本当に倒されたのか確信が持てないようだった。


 ゼウスは両手を下ろした。


「もう安全じゃ!オーガは倒された!」


 もう一度、両手を広げた。


「さぁ!さぁ!さぁ!さぁ!」


 抱擁より先に、罵声が飛んできた。


「何てことしたんだ!何をしたかわかってるのか!オーガキングが復讐に来るぞ!」


 気づけば村の人々が家から出てきていた。男が叫んでいた。顔が青ざめている。


「心配するでない、オーガキングも倒してやろう」


「オーガキングの強さを知らないんだろう!昔オーガをものともしない冒険者がいたが、オーガキングには歯が立たなかった!」


「復讐に来るぞ」


「皆殺しにされる」


 口々に声が上がった。恐怖が、波のように広がっていく。


「彼ならオーガキングも倒せる!」


 一つの声が、波を割った。


 アルノーだった。震えながら、しかし真っすぐに立っていた。


「わからないのかこの人の強さが!オーガキングどころじゃない!この人相手にはどんな魔物だろうと相手にならない!竜でも魔王でも!なぜならこの人は――」


「言葉では伝わらぬ」


 ゼウスはアルノーを静かに制し、村人達の方へ向き直った。


「オーガキングの元へ案内してくれる者はおらぬか?」


 アルノーが声を上げようとした、その時。


「ありがとう、おじさん!」


 イレーネだった。目に涙が浮かんでいた。それでも、笑おうとしていた。


「オーガを倒してくれてありがとう!でもオーガキングと戦わなくても大丈夫だから!」


 イレーネが村人達へ向き直った。涙声だった。


「みんな逃げよう!オーガが近くにいる村にずっと住んでる方がおかしかったんだよ!みんなで逃げよう!」


 村人達が顔を見合わせた。戸惑いが、広場に満ちた。


 ゼウスはイレーネの肩に、そっと手を置いた。


「信じろ。わしがオーガキングを倒す」


 それから、村人達を見渡した。


「逃げる必要はない。わしがオーガキングを倒す」


 静かな声だった。深く、大地の底から響くような声だった。


 イレーネが顔を上げた。村人達も、ゼウスを見た。


 光があった。神々しい後光がゼウスを射し、まともに見ることもできなかった。



 地面が鳴った。


 先ほどとは、比べものにならなかった。


 一歩ごとに大地が悲鳴を上げる。家々の壁がきしみ、窓が激しく揺れ、石畳の隙間から砂埃が舞い上がった。遠くの木々が根ごと揺さぶられるように揺れ、空気そのものが震えていた。それは足音ではなかった。災害だった。


 神々しい光が、かき消えた。


 イレーネが我に返った。村人達も、弾かれたように顔を上げる。


「き……来た!?」


「なんで!?早すぎる!」


「まだオーガがやられたの伝わってないはず!」


 広場が混乱に包まれた。駆け出す者、腰を抜かす者、子を抱えて叫ぶ者。


 イレーネは首を振り、ゼウスを見た。


 光はもう、なかった。腰布一枚の老人が、ただそこに立っているだけだった。


「逃げ――」


 叫ぼうとして、止まった。


――もし、本当に、倒してくれるのなら……


 イレーネはゼウスから目を離せなかった。


 地平の向こうから、それが現れた。20mを超える巨躯。一歩踏み出すたびに地面が沈み、その影だけで広場の半分が暗くなった。オーガとは違う。次元が、違った。


 ゼウスは顎に手を当て、細めた目でそれを見上げた。


「ふーむ、20mぐらいかのう」


――ギガス族の最小サイズぐらいはあるのう。


「はっはっは!」


 大声で笑いながら、人差し指を静かに突き出した。


「私は――」


 オーガキングが何かを言おうとした、その瞬間。


 パリッと、小さく空気が弾けた。


 最低限最小限の力、だがオーガを一瞬で消し炭にした力が――オーガキングに当たる。



 だがオーガキングは消し炭にならなかった。



「耐えたか!やるのう!ではもう少しだけ出力を上げて――」


 指先に力を込めかけて、ゼウスは止まった。


 20mを超える巨躯が傾き、ゆっくりと、倒れる。地面に叩きつけられた瞬間、轟音が炸裂した。衝撃波が同心円状に広がり、周囲の草がなぎ倒され、砂埃と土煙が空高く舞い上がる。村の窓という窓が一斉に軋み、屋根の瓦が数枚滑り落ちた。村人達が衝撃でよろめき、イレーネが思わず腕で顔を覆った。


 土煙が、ゆっくりと晴れていく。


 消し炭にはならなかった。


 だが、命は絶えていた。


 最初は静寂だった。誰もが呆然と、倒れたオーガキングと腰布一枚の老人を交互に見ていた。それが一人の叫びをきっかけに、堰を切ったように広がっていく。抱き合う者、泣き崩れる者、空に向かって拳を突き上げる者。子供が走り回り、老人が膝をついて顔を覆った。長い間この村を縛り続けた恐怖が、今この瞬間に溶けていくようだった。


「さぁもう安全じゃろう!女性達よ、わしの胸に——」


 言い終わる前に、何かがゼウスに飛びついた。


 赤い髪だった。イレーネがゼウスの胸に顔を埋め、絞り出すように言った。


「ありがとう……」


 ゼウスが腕を回そうとした、その瞬間。


「神よ!」


「神様!」


「貴方に光を見たわ!」


 村人達が叫びだした。イレーネがゼウスから離れ、濡れた目のまま言った。


「私も見た!」


「俺が最初に見たんだ!」


 アルノーが人込みを掻き分けて叫ぶ。


「俺が最初に気付いたんだぞ――!」


 広場は収拾がつかなくなっていた。ゼウスの周りに人が集まり、手を伸ばす者、跪く者、名を呼び続ける者。称える声が重なり合い、波のように村全体へ広がっていく。


 ゼウスはその喧騒から、そっと距離を置いた。


 足の向くまま森の中を歩き、ある場所でゼウスは足を止めた。


 門が開いていた。だがあの禍々しい門ではない。白く輝く絢爛豪華な門――オリュンポス山の神殿へ帰るにふさわしい門が、静かにそこに立っていた。


――うーむ、早すぎるかもしれんのう。ヘラの怒りがまだ収まっておらんかもしれん。


 門に入るか入るまいか、ゼウスがうろうろしていると、いつの間にか周りに村の人々が集まっていた。


「帰ってしまわれるのですね」


「帰らないで……」


「神よ、これからも我々を――」


 口々に声が上がり、人だかりが揉み合う。その中から、思わず足を踏み出した者がいた。


 イレーネだった。気づけばゼウスの目の前に出てしまい、一瞬気まずそうに視線を泳がせる。それでも意を決したように、両手に持っていたものを差し出した。蔓と花で編まれた冠だった。


「あっ……あの……これ」


 ゼウスは微笑んで受け取った。そのまま、自らの頭に載せる。


「これは神に相応しい冠じゃ」


 堰が切れたように村人達が我先にと様々なものを差し出してくる。


「家で作ったビールです!」


「今朝取れた魚です!取れたてです!」


「家で栽培してる野菜です!新鮮ですよ!」


 ゼウスは差し出されるものを次々と口にした。神々の食べ物であるアンブロシアやネクタルには遠く及ばぬはずだった。しかしゼウスは、最大級の賛辞を贈った。


「今まで食した中で最も美味しいのう!」


 やがて、静かに手を止めた。


「では皆の者、達者でな」


 振り返らなかった。見送る村人達の声を背に受けながら、ゼウスはオリュンポス山の神殿へ続く門をくぐった。



◇◇◇



 神殿には誰もいなかった。


 宴の痕跡だけが残り、しんと静まり返っている。ゼウスは少しほっとしながら、自らの屋敷へ向かった。


 扉を開けた。



 目の前に、ヘラがいた。



 ゼウスは動揺を押し殺し、努めて平静に言った。


「う……うむ……帰ったぞ……」


 ヘラは微笑んだ。ゆっくりとゼウスに近づき――



 顔面を殴った。



「早すぎるわっ!」



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