8話 永井月月
私からの精一杯のことばを受けて、いつも通り飄々としたぶっきらぼうな背中のままで、彼は「そっか、よかった。」ってだけ呟いた。ちょっとだけ安心したような声色だった。
彼の背中を叩く、トン……トン……という振動だけが私たちを包み、ゆっくりとした沈黙が訪れる。沈黙はゆっくりと流れている筈なのに、時計の針がいつもより少し早く進んでいる気がした。今が幸せな時間だからそう感じるのか、彼と密着している緊張からなのか、結局最後までわからなかったけど。
数えてなかったけど、100回も行かないくらいかな?背中を叩く力も緩んで、私と世界の境目があいまいになってきたあたりで、彼が静かに寝息を立てているのに気付いた。自分が寝てしまわないように気を取り直して、体勢を変えて彼の顔を上からのぞき込む。透き通った瞳は薄く閉じられているのに、なんだか私を射抜いてくるみたいで、目を逸らせなくなってしまう。
息をするのも忘れてたみたいで、苦しくなって我に返った。深いため息と同時に、私の気持ちが形を取って溢れる。
「……すきだなぁ。」
相手がここにいるのに口に出しちゃった自分に驚いて、慌てて彼を確認する。よかったまだ寝てる……たぶん。本当に寝てるのか不安で、ちょん、と彼の頬に触れてみる。くすぐったかったのかちょっと眉を寄せて呻いたけど、またすぐ寝息を立て始める。これはちょっとやそっとのことじゃ起きないかもしれない。
普段隙を見せない彼が今、私の膝の上ですやすや寝息を立て続けている。ただ疲れているだけなのか、それだけ気を許してくれているのか。どっちにしても、なんだかちょっと勝てた気がして嬉しい。そんなことを考えている間も、さっき口に出した「すき」が、私の中でどんどん大きくなっていく。
一度ことばにした気持ちは、簡単には消えてくれなくて、一番言いたかったことばが続けて湧き出してきた。彼が起きそうにないのを言い訳に、私はその気持ちを口に出すことにした。
「——ねぇ、私たちって、どういう関係なの?」
あの時、彼が作ってくれたご飯と一緒に飲み込んだことば、聞きたくても聞けなかったことば。負けっぱなしだけど、ぬるま湯のようで心地よいこの関係が終わってしまう気がして、投げかけられなかったことば。
でも、もし彼がこのことばを聞いたとして、私はなんて答えてほしいんだろう。友達?恋人?何が正解なんだろうか。
仮にこの関係を彼が明確に定義してくれたって、今の関係はすぐに変わっていくわけじゃないとは思う。それでもことばが出てきてしまうのは、私にとって彼がそうであるように、彼にとって私が特別な存在であってほしいなっていう、私の勝手な希望なのかもしれない。
彼が「特別だ。」とか「お前だけだ。」とか、そんなことばを少しだけでも言ってくれたら、それだけで私は天に昇っていくんだろーなあ……。そうしたら少しは関係が変わっちゃうのかな、良い方に変わるのかな、良くない方に変わるのかな。なんかいやだなぁ。
思考がぐるぐると同じところを何周かしてしまったので、私はそれ以上そのことについて考えるのをやめて部屋を見回した。まだ白いままの部屋。今日買ってきた日用品で、私の色に少しずつ染められていくだろう部屋。
「この調子で模様替えしていけば、更新までに間に合うかな……?」
でも同時に、もしかしたら本当は私の色なんて最初からどうでもよかったのかもな、なんて思う。だって彼が来るたびに、彼のことばが、料理が、残り香が、少しずつこの部屋を彼の色に染めてくれているような気がして、それがたまらなく嬉しかったから。本当は部屋ごと彼の色に染まっていきたかったんだな、私。
だから今日彼の部屋に行けるのはとっても楽しみだったし、彼の色を、例えば小さな置物なんかでも、冗談めかして譲ってもらえないかなー、とか期待したりしてた。こんなことになってしまって、願いは叶わなかったけど、むしろまた彼がこの部屋に来てくれたんだから、こっちの方が良かったのかもしれない。いつの間にか彼への思いが強まり続けていることに気付かされて、なんか口が勝手に動いてた。
「……また負けた。」
彼が寝てるのにそんな風に言っちゃったのが自分でもおかしくて、ふふっ、て肩を震わせて笑ってしまう。その振動が伝わったのか、彼は眉を寄せて窮屈そうに寝返りを打つ。彼の寝顔を正面から見下ろす形になった。私は再び目が逸らせない。でも、今度は呼吸を忘れないように、ゆっくりと気を付けながら、彼の顔をじっと見つめる。
彼の寝顔を、逃がさないように、忘れないように、焼き付けるようにじっと見つめる。彼が、少し微笑んだような気がした。瞬間、あたたかい匂いが私の鼻腔をくすぐる。彼と私と世界の境目がまたあいまいになって、溶けていきそうになる。溶けてしまえばきっとこの幸せな時間が終わってしまうから、少しでも抗いたくて、彼の頭を軽く撫でてもう一度だけ告げた。
「すきだよ。」
頬を刺す夕日が厳しくて、私は目を覚ます。何時間くらい経ったのかわからないけど、部屋が朱色で満たされているのだけはわかった。まだぼんやりとしている世界をはっきりさせるために何度か目を擦った後で、膝の上にいる彼が私を見つめていることに気付く。恥ずかしくてとっさに言葉が出てしまう。
「ちょっとぉ……何見てるのよ。」
「悪い悪い、ちょっとだけ、な。」
いつもと違って皮肉も足さずにそう言うと、彼はソファに座り直して私の方を向く。何も言ってこない。ちょっと気まずい沈黙が流れて、我慢できなくなって何か言わなきゃ、って思ってたら、真面目な顔した彼がポツリと、でもはっきりと私に告げる。
「……伝えたいことが、ある。」
窓から入る夕日は朱から紅に変わり、彼と私を染め上げていた。




