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9話 浅葱ハル

「……伝えたいことが、ある」


 軽さのカケラもない声音。

 真剣そのものの眼差しと、膝の上で力を籠めて組まれた手。彼が纏う気配に、なぜか退路を塞がれたような気がして、思わず身が硬くなる。


 同時に、ひとつの仮説が、脳裏に生まれる。

 それは途端にどうしようもない羞恥を育て、胸の中が熱を帯び、掻き回されていく。


「聞こえ、てた……?」


 喉からぽろりと言葉が漏れる。

 独白のようなあの告白が、もし、彼に届いていたのだとしたら。


 いや、そんなはず、ない。

 あの時の彼は、確実に瞼を閉じて寝息を立てていた。

 首を細かく横に振る。挙動不審である自覚はある。が、気にしていられない。


「なんの話だ?」


 彼が訝しげにこちらを見た。その視線には、未だに真剣味が宿っている。

 彼の眼力から逃れようとして視線を彷徨わせると、目の前の机に置かれた卓上鏡が、目に入った。

 そこに反射していたのは、私の紅く紅く紅い、頬。


「なあ、真っ赤だぞ」

「ななななななにが」

「ほっぺた」

「あああ、なんだか暑くて」

「むしろ寒くないか?」

「もう、ちょっと黙って」

「落ち着けよ、なあ」


 彼の両手が、私の両肩を掴んだ。

 痛くはないけど、少しだけ強い力。


 男の子の力で、私の体は彼の正面へ向けられる。


 寒いというのは本当らしい。服越しにでも分かるくらい、彼の手先は冷えていた。


 おそるおそる、下から彼を見上げる。

 彼の切れ長の瞳が、目の前にある。

 


 ――逃げられない。


 悟ると、沈黙が場を支配した。


 彼が、一度短く息を吐く。

 そしてすぐに、今度は深く吸いこむ音が聞こえた。




「好きだ」


 たった三文字。

 彼の言の葉が、沁みいっていく。

 耳から、肌から、瞳から、身体の中心に向かって、熱が侵食していく。


 そうして心臓を侵されて初めて、どうやら連携しているらしい脳が、沸騰した。



 爆発的に、思考が塗りつぶされていく。

 それでも、落ち着けと、生き残っている脳の片隅が叫んだ。


 感覚をどこかに集中させて、冷静を保とうと試みる。

 でもそれは、結論から言えば失敗だった。



 目の前には、全てが紅く染まりきった彼の顔が。

 鼓膜を震わせ続けているのは、彼の声の名残。

 仄かに香る、彼と飲んだ出涸らしの茶葉の匂い。

 肩に触れたままの、彼の大きな手。



 ――だめだ。どこに逃げても、彼がいる。



「ひぇっ」

「……その反応は、ひどくないか」


 勝手に喉から漏れた音に、彼が苦笑いを漏らした。


 そこではじめて、気がついた。

 彼の頬が、夕陽のせいにはしきれないくらい、林檎のように紅い。

 苦笑いがぎこちなく、手がわずかに、震えている。




 彼だって、余裕がない。


 その気付きが、私にわずかばかりの冷静さを取り戻させてくれる。


 ――もしかして。


 あの日、私の部屋で澄まし顔で夕飯を作ってくれた時。自室へ来るかと誘ってくれた時、そして二人で、雑貨を選んだ時も。


 本当の本当の本当は、彼も心臓を高鳴らせ、勇気を振り絞っていたのだとしたら。


 そう思うと、胸を席巻していた羞恥心が、端へ避けていく。代わりに沸き起こるのは、愛しさと、暴力的なまでの、悪戯心。


 彼を、じっと見た。

 たじろぐ彼の瞳に映る私は、丸い瞳をしている。夕陽のせいか、顔だけでなく瞳まで紅く見える。まるで、うさぎだ。


 可愛らしくて、ひょうきんで、気ままで、寂しがりやの、小悪魔。



 私の肩に触れたままの彼の右手。

 その手の甲に、右の手のひらを重ねた。


 驚いたのか、彼の右手が固まった。

 そのまま彼の指の間に、指先を滑り込ませる。


 今度は私が、逃がさない。



 普段なら絶対にしない大胆な行動に、恥ずかしさは拭えない。けれど、なぜか爽快だ。



 彼は空いている左手で、素早く彼自身の口元を覆った。そして私から、視線を逸らす。



 分かってる。君はいま、もっともっと紅くなった頬を隠してる。


 私をきっと、可愛いと思ってる。



「……ねぇ、私の勝ち?」


 私は口の端を緩めて、笑う。

 うさぎになった気分で、小首を傾げた。


 ビルで会って、消えてしまった野うさぎ。

 あの子はきっと、恋の成就を運んできてくれたはずだから。



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